Войти父は婚約破棄に際して慰謝料を払うと言ったが、柾さんは慰謝料を拒否し、代わりに桜子との婚約を願い出た。
柾さんは由緒ある
錦野家と花嶺家は以前から付き合いがあり、私と柾さんの婚約は錦野家のほうから打診されたもの。それを受けたお祖父様には先見の明があったに違いない。
お祖父様が亡くなって後を継いだ父は当主としての能力がなく、家計はどんどん苦しくなった。お祖母様はお祖父様のあとを追うように亡くなり、傾いていく花嶺家を見なくてすんだのは良かったとお母様が言っていたことを思い出す。いまの花嶺家は錦野家がバックにいるということでなんとか持っているのだ。
おそらくそれを柾さんは知らない。
だから「代わりに桜子を」と願い出て、父はそれを受け入れた。
父は錦野家が家の命綱だと気づいていたのか。
いや、多分だが溺愛する娘の桜子がそれを望んだから受け入れたに過ぎないだろう。
物事はあとで振り返るとこうして分かることもある。
本当に、冷静であることは重要だ。
あの日、玲子さんと桜子のとても満足気な様子だった。
父と柾さんも満足気な様子は同じだったが、あまり覚えていないからもうどうでもよくなっていたのだろう。
私があの日二人から目をそらせなかったのは、ただ怖かったから。
自分たちの願望を叶えるために、あんなことをしでかす二人が本当に怖かったし、いまも怖い。
いままでの稚拙な嫌がらせとはレベルの違う。
罪を犯すという倫理を越えた行為は二人の理性の箍を外した。
そして、一度箍が外れた人間は何でもする。
そのことを私は予感し、怖かったのだと思う。
婚約破棄の後、私は父に謹慎を命じられた。謹慎は、世間体と母の実家である西園寺家の目を気にする父らしい選択である。
あのときどうにかして病院にいき、アフターピルを処方してもらえばこうして妊娠することはなかっただろうが、あのときはそこまで考えられなかった。
あのときのことを努めて考えないようにして、忘れようとしていたのもある。
今となってはタラレバの無駄な考え。
いつまでと言われない謹慎期間だったけれど、すぐに解かれるとは思っていた。
あの三人は、なんでも私にやらせていたから。
無料で使える便利な家政婦だとあの三人は私を笑っていたけど、私がいなければ何もできない三人はすぐに音を上げた。
家事の全てを「そんなこと」と笑っていたのに。
そんなことさえできない、ただ用意されたものを甘受してきただけの三人だった。
結局、すぐに私の日常は以前と変わらないものに戻った。
家族のためにひたすら尽くす。
家計をやりくりし、父の仕事を手伝い、玲子さんの代わりにお付き合いのあるご夫人に手紙を書き、桜子の代わりにお茶会の準備をする。
私はあの夜に感情を失ったのかもしれない。
嫌がらせをされても、叱られても、淡々と目の前のことを片付けていた。
あまりに私が淡々としていたから、後ろめたいことのある玲子さんと桜子は、そんな私が怖くなったのだろう。
あの二人は、私を追い出す計画を立てた。
その夜、花嶺家に不法侵入した男が桜子を襲った。
桜子の悲鳴で家中の者が桜子の部屋に集まり、男はすぐに撮られられた。
捕らえられた男は、私の手引きで花嶺家に侵入したと証言した。
見知らぬ男の馬鹿みたいな証言。
私は当然否定したが、父は婚約者を奪われた私の逆恨みだという玲子さんの言葉を信じて、私をまた謹慎させようとした。
しかし、不便な日々を覚えていた父は謹慎を躊躇した。
そんな父の煮え切らない態度に、玲子さんと桜子は焦れた。
そんな三人を見ながら、私はとにかく怖かった。
次にどんなことがあるのか分からないから。
何をしでかすか分からな、玲子さんと桜子が怖かった。
だから、私は玲子さんと交渉することにした。
あの夜のことを黙って家を出ていく代わりに、私は玲子さんにお金を要求した。
家を出たあと、あの二人は私についてあること、ないことを父に言ったのだろう。
でも、いまはもう関係ない。
私はもう、あの家には関わりたくない。
乃蒼さんと佳孝さんについては、ゲイカップルだと俺は思うことにしている。表向きは『仲のいい友人同士』である。俺たちにそうだと言ったことはないけれど、乃蒼さんたちは俺たちの前では隠していないからゲイカップルなんだろうなと思っている。本当のことを言うなら、もう少し先まで秘密はあると思う。乃蒼さんに。それを母さんは知っているけれど、父さんは知らない。俺と一緒で薄々感じているようだけれど、乃蒼さんも母さんも言わないから気づかない振りをしている。そして、父さんの気づかない振りに乃蒼さんも母さんも気づいている。腹を割って話すという言葉があるが、使いどころを間違えてはいけない。知っておくべきこと、知っておいたほうがいいこと。知らなくてもいいこと、知る必要がないこと。世の中には、そういう線引きがある。子どもじゃないんだ。全部知っている必要はない。乃蒼さんと佳孝さんがゲイカップルであることも、別に知る必要はない。ただ母さんと乃蒼さんの仲の良さに父さんが嫉妬しなければいいってだけの話。俺や妹たちからしてみれば、乃蒼さんと佳孝さんはナターシャの親。父さんと母さんの友だち。それだけで十分な話で、それ以上の根掘り葉掘りは俺たちの関係には必要はない。生まれたときから見てきているから、今さらっているのもある。.乃蒼さんと佳孝さんの関係は、ナターシャたちにとっては触れられてくない話。LGBTQに対する理解が深まったからといって、誰もが受け入れる話でもない。理解があると言っても、これも感情の話。どうしたって少数派だ。「普通じゃない」というレッテルはついてしまう。それは悪いことではない。俺にとって小さいところから当たり前で慣れていたってことなだけの話で、慣れていなかったなら、ナターシャの親ではなければと想像すればキリがない。
俺が思うに、「普通」とは良い悪いではなく、多数派を指す。つまり、「普通ではない」は良い悪いではなく少数派。それなのに、「普通ではない」は良くないことになりやすい。みんなと違う。それが、あたかも罪のように扱われてしまう。·俺に「好き」を隠せと言ったのは、母さんだった。ナターシャの「普通じゃない」から、俺が俺の力で守れるようになるまでは隠すべきだと言われた。母さんの言うことは理解できた。ナターシャに、ナターシャの「普通じゃない」に悪意が向けられた直後だったということも、俺の理解を助けた。問題は、「いつまで」とか、「どの程度」とか、終わりが見えないこと。――蓮司さん絡みで、残念ながら今もあるのよ。跡継ぎとなる俺を産んで、俺を合わせて三人も父さんの子どもを産んでもまだ、母さんを父さんの『妻』と認めない輩がいるらしい。なんでと問えば、父さんが魅力的だとか、母さんの乙女心満載の惚気を聞かさせるから聞かないが、『終わり』がないのは……戸惑い、いや、不安がある。ナターシャを傷つけたくない。傷ついても欲しくない。でも、俺はきっと、これから先の何処かで、ナターシャに傷ついてほしいと言うのだろう。だから、問題はナターシャのそのときの答え。いまはまだ、困るとか、嫌だとか言われる。だから、我慢している。でも、いつなんだろう。その、いつかは、くるのだろうか。ナターシャが、仕方がないなって表情でもいいから、俺の出している手を受け入れてくる日は、くるのだろうか。―― カノンがね。―― ヨッシーがね。……いつかな。いまはまだ、家族が一番のナターシャの『一番』になる日を、俺はずっと夢に見ている。
いつの頃からか、理解していた。桐谷家は、普通の家ではない。それは、中の人の問題や、家の大きさの問題ではない。影響力の大きな、ルールブックのような家。大人たちの会話に『桐谷』がよく出てくることに気づいて、そしてテレビの中、ニュースにも出てくる『桐谷』にも気づいた。テレビで見た人が、この家に来る。最初にそれに気づいたのは、確か小学生の頃だった。リビングのテレビで、ニュース番組が流れていた。画面の中で、政治家が話している。この人を誠司の家で見たなって、思った。桔梗おば様にそれを言ったら、どの人かしらと首を傾げた。つまり、そういう人が幾人も、当たり前のように出入りする家ってこと。経済ニュースに出てくる人。新聞の一面に載る人。文化人と呼ばれる人。そういう人たちが、この家に普通に来る。桐谷家は、そういう家だった。 .経済界で名前を聞かない日はない桐谷グループ。桐谷グループの名前は、ニュースでよく出てくる。企業買収。大型投資。海外展開。「今後の動向」を気にする言葉と一緒に出てくる。日本の中心にいる桐谷家。誠司は、その家の息子。最初は、何も思わなかった。誠司は誠司って感じ。一緒に遊んで、喧嘩して、笑う。それだけだった。でも、だんだん分かるようになる。学校で話題になる人。最近では、ニュースで名前が出ることもある。先生が話題にする。大人たちが敬語を使う。それが、みんなから見た桐谷誠司って人物。遠いとは思わない。でも、同じとは思えない。善悪、ではない。例えるなら、黒とか白とか影響力の強い色。他の人を巻き込む色。それは、意図していなくても。この家の人たちは、いまもみんな、私に優しい。この家の空気は、昔と同じであたたかい。でも、それでも。壁がある。見えない壁。この壁に名前を付けるなら、『社会』だろうか。「みんな言っている」の“みんな”とか、「普通はこう」の“普通”とか。桐谷家は、その大きな主語になる。.私は、この家の人じゃない。歓迎されている客。家族のように扱われる客。身内のような、でも、家族ではない。経済、政治、文化。桐谷家は、社会の中心にある家で、私はその外側にいる。私は窓の外を見る。庭の照明が、木々を照らしている。その光を見つめる。この庭で走り回っていた。あの頃は
「……カノン?」桐谷家の車に乗ってしばらくして、私のスマホが震えた。届いたメッセージはカノンからで、仕事のトラブルで帰りが遅くなるとのこと。今日はヨッシーも遅いはず。「どうしたの?」届いたメッセージのことを話すと、誠司は『なんだ』と笑う。「それならうちで夕飯を食べていきなよ」「そうさせてもらおうかな」私たちにとっては『なんだ』の案件。こんなことは、よくある。カノンとヨッシーがいないときは、昔から桐谷家で面倒をみてもらった。逆に……。「あ、今日は母さんからOKだって」「やった、桔梗おば様のご飯だ」「母さんがいなかったら、この前作ってもらったキーマカレーを作ってもらえたのに」桔梗おば様がいないときは、私は桐谷家でご飯を作る。なんなら【ヘルプ】ってタイトルで誠司と、茉白と、莉乃と、なんだったら蓮司おじ様からもメッセージが来る。この前ヘルプがきたのは、桔梗おば様が作り置きしておいたご飯を朋美おば様がうっかり食べてしまい(蓮司おじ様に言わせると確信犯)、量が足りなくなったらしい。それなら外食をすればいいと思うのだが、ラーメンの味変もできない一族の彼らはファミレスでの注文にさえ慎重になってしまうらしい。「蓮司おじ様と朋美おば様は仲直りしたの?」「母さんが間に入ったから、表面上は……でも、父さんは絶対に根に持っているよ。ほら、食べ物の恨みは深いし」「桐谷家はなおさらだよね」桐谷家は、料理下手の呪いにかかった一族。桐谷家の血がを持つ者は、ラーメンの味変もできないくらい料理が下手だという。どうやれば、何をすれば、そこまで料理下手になれるか知りたくなるくらい、桐谷家は料理の神様に見捨てられている。それでいて……。「父さん、食い意地が張っているから」「誠司も相当だから。茉白と莉乃がつまみ食いしたとき、ガチギレしたじゃん。大人げないって思ったよ」「俺、まだ未成年だから」「ああ言えば、こういう」桐谷家は食のルールがかなり厳しい。きっちり等分に分ける。年齢、性別の忖度はなし。小学三年生でまだ体の小さい莉乃と、食い盛りの高校三年生の誠司に同じ量が配給されるのだ。.「足元気をつけて」「うん」勝手知ったる桐谷家だけど、広い庭は、夜になると違う色を纏う。昼間は、整えられた緑と白い石がくっきり見える庭。でも夜になると、庭の照
夜の庭は、夕方の庭とは違う色をしている。石川先生の家からは、桐谷家の車に乗って帰る。小さい子どもではないから大丈夫といたら、小さい子どもじゃないからダメだとみんなに言われた。―― ついでだし。みんなが納得する形で、誠司が部活を終えたら私をピックアップしてくれることになった。「ナータ」穏やかな声。誠司だけが呼ぶ私の愛称。顔をあげると、「どうした?」という顔でこちらを見ている誠司。きれいな人だなって思う。蓮司おじ様の男性らしい凛々しさに、桔梗おば様の優しさがミックスされた顔立ちは、武司おじ様が『いいとこどり』という顔立ち。そこに、幼い頃からいろいろ、道と付くものをいろいろやっているからか、立ち姿や雰囲気がきれいだ。同世代の男子よりも大人びている。でも、なんだろう、石川先生はもちろん、蓮司おじ様たちみたいな『大人』ではない。でもそれは、私も一緒。まだ、私も大人の振り。クールぶって、みんなとは違うって線引きをしても、社会的に見れば『子ども』になる。桔梗おば様や、カノンたちからしてみたら、まだ保護対象の子ども。「まだまだ、だな」私の呟きに、誠司は苦笑する。「まだまだ、だね」足りない、何もかもが。私も、誠司も、その足りない何かを埋めようとしている。門についている照明が、私たちを照らす。庭にできた長い影は、ふたつ重なっている。でも、私たちは手も触れていない。つないでいない手は、ゆっくりと揺れている。まるで、誘うようで。でも、掴まれたくないといってもいるようで。「ナータ」影を見るのに満足して、そろそろって思ったタイミングで誠司から声をかけられる。このタイミングを、なぜか誠司は間違えない。物心がつく前から一緒にいたから、物を測るタイミングが同じなのかもねと誠司は言う。
春の光は、やけに透明だった。校舎の窓に当たった光が、教室の床に四角く落ちている。その光を見るのが、好き。黒板では教師が何か説明しているけれど、意識が、向かない。机の上に置いたシャープペンシルの影。その影の輪郭が、窓から差し込む光で微妙に揺れる。(今日の光は、少し青い)そんなことを考えていた。光には色がある。午前中の光は白く、昼に近づくと少し黄色くなる。そして今日の光は、なぜかほんの少しだけ青かった。空の色が、反射しているのかもしれない。指先を光の中に入れてみる。白い指が、ほんのり青く染まる。きれい。その瞬間。「花岡」先生の声がした。「聞いてるか」教室の空気が、わずかに動いた。顔を上げる。「すみません聞いてません」正直に答えた。教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。先生は少し困った顔をして、ため息をついた。「……次からは聞いてくれ」怒るほどでもない。そういう生徒だと分かっているからか、それとも最低限の成績をキープしているからか。……どっちでもいい。「はい」返事をして、また窓の外を見た。グラウンドの桜はもうほとんど散っている。地面には薄い桃色の花びらが広がっていて、それが風に流れていく。その色の動きが、きれいだった。 授業が終わると、教室がざわついた。椅子が引かれる音。友達同士の会話。笑い声。机に肘をつき、窓の外を見ながら、耳をそばだてる。それでも、教室のざわめきは、少し遠くに感じる。「ねえ」声がした。振り向くと、同じクラスの女子が三人立っていた。名前は知っている。けれど、初めてのクラスメイト、ほとんど話したことはない。「花岡さんってさ」一人が言った。「ハーフ?」「うん」「ロシア系?」頷く。「へえー」一人が覗き込む。「目、すごい青いよね」「カラーコンタクトじゃないんだ」好意的ではない。女の子たちは少し笑う。悪意があるのか、ないのか。好意がその理由になると、その境界は、いつも曖昧になる。「いいよねー、そういうの」「目立つし」「モデルとかできそう」首を振る。「目立つの、嫌いだから」「えー?」女子たちは顔を見合わせた。「でもさ」一人が言う。「桐谷先輩と仲いいよね」その瞬間。教室の空気が少しだけ変わった。







