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3.

Author: 酔夫人
last update Last Updated: 2025-12-12 13:55:31

玲子さんからもらった小切手は早々に換金した。

花嶺家の資産管理は父も玲子さんも面倒臭がって私に丸投げしていたから、二人の口座にどのくらいのお金があるかは把握している。

私が要求したのは、あの夜に玲子さんが来ていた服と身につけていた宝飾品をあわせた額。

玲子さんは『このくらい』という気持ちで小切手にサインしたのだろうが、『このくらい』を捻出するのに私がどれだけ苦労したのかを知らない。

今この瞬間に自分の銀行口座の残高を見て悲鳴をあげているかもしれないと思うと少しだけ溜飲が下がる思いだ。

その資金でウィークリーマンションを借りた。

母の生家である西園寺家には、心配させたくないし、騒がれたくもなかったから自分から連絡をした。あの夜のことは話していないし、話したくもないから、「家を出て働くことにした」とだけ伝えた。

祖父母も、母の弟で現当主の叔父も、あの家で私が受けている扱いを薄々察していたから、「分かった」とすぐに受け入れて、あとは何も言わないでくれた。

祖父は西園寺家で暮せばいいと言ってくれたが、母の妹である明子叔母とその息子の明広兄さんがまだ西園寺家で暮らしていると聞いて、「自立したいから」と曖昧な答えで祖父の申し出を拒否した。

自立の当てもあった。

私は友人の華乃に頼み、華乃が代表を務めている会社『コンシェルジュ・ド・ハウス』に家政婦として登録してもらった。

『花嶺桔梗』は都内のお嬢様学校に通い、都内の短大を卒業したあとは遊び惚けているということになっているが真っ赤な嘘である。

実際は桜子がその高校に通いたがっていて資金が足りないという理由で県立高校に進学し、大学に行きたかったら自分の金で行けと言われて母の遺産と奨学金で地方の国立大学に進学し、卒業後は年中無休で家族の世話に追われていた。

いや、年中無休で家族の世話をしていたのは中学生のときからだったわ。

華乃とは同じ大学の同じ学部で、学生専用アパートの隣同士。利害が一致して後半の二年間はルームシェアをしていた。

母一人子一人で育った華乃は、母親が家事と育児に苦労してきたのを見て育ったため、大学在学中に下準備をし、卒業早々に『コンシェルジュ・ド・ハウス』を立ち上げた。アイデアを提供したことと、西園寺家経由で上流社会の顧客を紹介してきたことから、『嶺桔梗』が副社長とはなっている。

会社にいった私を華乃は歓迎してくれて、ペーパー副社長がようやく実体化すると喜んでいたが、花嶺桔梗の名前を捨てたい私は新入社員として家政婦として登録してほしいと頼んだ。

中学生の頃から家事をやっていたから、家事にはちょっと自信があった。

私は家族にとって無料で使える家政婦だったけれど、今ではそれできちんと給与がもらえている。家を追い出されたことも悪くなかったと、最近ようやく思えたその矢先にこれだ。

「妊娠……」

子どもなんて考えてもいなかった。

望んだ子でもない。暴行されて、その結果、この腹に根づいてしまっただけの子ども。

でも、だから、堕ろす?

それは命を奪うこと……正直、怖い。

でも、育てられる?

……結局は、それだ。

今の私には、子どもを育てる余裕なんてない。

 *

 

「おはよう」

朝食の準備をしていると、和美様がリビングの扉を開けて入ってきた。

菊乃井和美さん。

私が家政婦をしている菊乃井邸の主人。

七十半ばで、家政婦を希望する理由は最近体調を崩されたからだと聞いているけれど、いつも背筋がすっと伸びていて気品があり、きびきびと動き回る元気な方だ。いまも起きたばかりなのにキリッとなさっている。

「美香さん、コーヒーをいただける?」

私は東国美香と名乗り、住み込みで働いている。

せっかく偽名を名乗るのだから奇をてらった派手なものにすればいいと華乃は残念がったが、きらきらネームは遠慮したい。

和美様が椅子に座ったところで、コーヒーの準備を始める。

イギリス人のお父様を持つハーフの和美さん、十年ほど前に亡くなった旦那様の影響で紅茶党からコーヒー党になったらしい。

「いい匂いね」

コーヒーの匂いが和美様の元まで届いたのか、和美様が表情を緩める。

ギャップ萌えという言葉が正しいのか分からないけれど、お顔立ちもあって普段の和美様は厳かな貴婦人に見えるが、こうしてふわりと笑われるとその柔らかい表情にグッときてしまう。

「お祖母様、おはようございます!」

キッチンに戻ろうとしたところで、和美様のお孫様である朋美様がリビングに入ってきた。朝のランニングからお戻りになってシャワーを浴びたのだろう、まだ髪に湿り気がある。

「おはよう、朋美。しっかり髪を乾かしなさい、風邪を引きますよ」

「はーい。 美香さん、おはよう」

和美様の身だしなみに対するお小言は朋美様にとっては日常茶飯事。サラっと流して私を見る。その目に籠った期待に嬉しくなる。

「おはようございます。もうすぐパンが焼けますので、お席でお待ちください」

「やった!」

「今朝は和食をお願いしたことは朋美も知っていたでしょう。合わせなさい、美香さんの手間になるわ」

少し目を吊り上げて朋美様を叱る、私を気遣ってくださる和美様の言葉には心が温かくなるけれど全く問題ない。

朋美様がパンを食べたいと仰ったのは昨夜のことで、花嶺家では朝食を並べたあとに「やっぱりパンがいい」と言われて作り直させられ、さらに準備が遅いと文句を言われたことに比べれば全く問題ない。

「ドラマを見てたらパンが美味しそうで、ランニングついでに買ってくるかなとパン屋を検索していたら、美香さんの作るパンのほうが絶対に美味しいよな~と思って、口の中が美香さんの手作りパン状態になったの」

「気持ちが分からなくもないわ。美香さんのお手製のパンは本当に美味しいもの」

「だよね。美香さんのパンに比べたら他のなんて『ハン』か『バン』よ。何かが足りない、もしくは、何かが余計」

「美味い例えだわ」

朋美様の言葉に和美様は口元を微かに緩めてお笑いになった。

「余計な手間というならばお祖母様もじゃない」

「なにが?」

「アイロン掛けされた新聞! こんなの美香さんがくるまで見たことなかった」

「こうすると読むときにインクが手につかないし、紙が渇いてパリッとした質感になるの。イギリスでは当たり前のことよ、と言いたいけれど昔の話ね。私が最後に見たのもお祖父様のお屋敷でだったわ」

「お祖母さまのお祖父様って、何時代の話よ。美香さん、面倒じゃない? 私、朝からアイロン掛けとか絶対に嫌なんだけど」

「いいえ、全く」

きっかけは雨の日に配達された新聞が湿気ているのが気になって、西園寺のお祖父様が映画の影響でか執事にそうしてもらっていたことを思い出してアイロンがけをしただけ。それを和美様が喜んでくださって、いまも続いている、それだけの話。

「それに今朝は蓮司様のシャツも一緒にアイロンを掛けたので」

私の言葉に和美様と朋美様は同時に眉間に皺を寄せた。

和美様と元気で溌剌とした朋美様は雰囲気がまるで違うのだけど、こういうときの表情はとてもよく似ていらっしゃる。

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