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愛は行く水のごとし

愛は行く水のごとし

By:  幽雲Completed
Language: Japanese
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デザインコンテスト前夜、夫は私のデザイン原稿を持ち出し、特許出願してくれた。 激戦の中、私の作品が勝ち抜いて優勝した。 授賞式で、私は娘と一緒に手作りした受賞作のネックレスを身につけてステージに上がった。 すると、七歳の娘が突然ステージに駆け上がり、叫んだ。「ママ、どうして陽子おばさんのネックレスを盗んじゃったの? そんなの、泥棒だよ! 恥ずかしいよ……ママ、早く降りて帰ろうよ……」

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Chapter 1

第1話

デザインコンテスト前夜、夫・高瀬蓮(たかせ れん)は私・星野香織(ほしの かおり)のデザイン原稿を持ち出し、特許出願してくれた。

激戦の中、私の作品が勝ち抜いて優勝した。

授賞式で、私は娘・莉々香(りりか)と一緒に手作りした受賞作のネックレスを身につけてステージに上がった。

すると、七歳の娘が突然ステージに駆け上がり、叫んだ。「ママ、どうして陽子おばさんのネックレスを盗んじゃったの? そんなの、泥棒だよ!

恥ずかしいよ……ママ、早く降りて帰ろうよ……」

一瞬、全身の血が逆流するような衝撃が走り、頭の中が真っ白になった。

私は目の前の、自分が大切に育ててきた娘をただ見つめるしかなかった。

カメラのシャッター音が激しく降り注ぎ、今の私の表情は、さぞや見苦しいものだろう。

「そこまでして、ママを壊さなければいけないの?」

デザイナーにとって、盗作以上の汚点はない。

なのに、今私を非難しているのは、なんと実の娘だ。

このネックレスは、私が娘の目の前で丹念に磨き上げて、一緒に完成させたものだ。

それなのに、授賞式の前に遠野陽子(とおの ようこ)と少し話しただけで、どうしてこんな嘘をついて自分の母を陥れようとするのか?

授与人を担当する先輩は批判的なまなざしを向けてきた。夢にまで見たトロフィーが眼前に輝いている中、私は無理に笑顔を浮かべ、「先輩、ありがとうございます」と感謝を述べた。

すると、先輩はそれまでの穏やかな笑顔を一瞬で引き、さらりと手を引きさがるようにして避けた。

手にしたはずの栄光は虚無に変わり、鋭い絶望が血管を逆流して全身を氷結させ、微かな震えだけが唇に残った。

「ママなんて大嫌い!泥棒!そんな人、私のママじゃない!」

莉々香が突然私を押しのけ、床に座り込んで大声で泣き叫んだ。

「先生は嘘ついちゃダメだって教えてくれたよ!ママは悪い人なんだもん!」

もう立っている力も尽き、私は地面に崩れ落ちた。

一筋の涙が頬を伝い、終わりだ。すべてが終わってしまった。

シャッター音が私の惨めさをこれみよがしに記録していく。私は莉々香を見つめながら、「これは……莉々香とママが一緒に作ったものでしょ?忘れてしまったの?」と声を絞り出すように問いかけた。

莉々香は何かに刺激されたように小さな肩を震わせた。

「ううう……ママ、もう嘘つかないで!

ごめんね、ママ……ママと一緒になって陽子おばさんを傷つけること、できないよ」と床に伏して泣きじゃくった。

そのプリンセスドレスは、私が今朝、莉々香のために選んで着せてあげたものだ。それが今、私をこれ以上なく滑稽に映している。

「なぜ嘘をつくの!」 私は体裁も忘れ、莉々香の肩を掴んで激しく揺さぶった。「なぜなの!?」

先輩はパニックに陥り、莉々香を守ろうとしたが、不意に手に取ったトロフィーを私の頭に叩きつけた。その瞬間、めまいが襲い、頭の中にこだまが響き、目の前の光景はぼやけてよく見えなくなった。

「血が出てる!」

額に触れた指先に、冷たい粘り気があった。血だ。

娘は先輩の胸でぎょっとした様子で、生涯慈愛に満ちてきた先輩が、珍しくも私を睨み付けた。「香織、嘘をついてはいけません!

子供でさえ分かることを、大人のあなたが理解できないとは!」

先輩の認可を得るためにこれまで努力してきた。彼女は私にとって母親のような存在だったのに、すべては娘によって壊されてしまった。

気を失う直前、夫が怒りを浮かべた顔でステージに上がってくるのが見えた。その背後には、彼の忘れられない人、陽子が立っている。

なぜ蓮は私の夫なのに、私を信じてくれないのか。

なぜ莉々香は私の娘なのに、陽子のために嘘をつくのか。

彼らの非難が耳に入らなくなるとともに、心の内に残るわずかな感情も消えた。

蓮、莉々香……二人のことは、もういらない。
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第1話
デザインコンテスト前夜、夫・高瀬蓮(たかせ れん)は私・星野香織(ほしの かおり)のデザイン原稿を持ち出し、特許出願してくれた。激戦の中、私の作品が勝ち抜いて優勝した。授賞式で、私は娘・莉々香(りりか)と一緒に手作りした受賞作のネックレスを身につけてステージに上がった。すると、七歳の娘が突然ステージに駆け上がり、叫んだ。「ママ、どうして陽子おばさんのネックレスを盗んじゃったの? そんなの、泥棒だよ!恥ずかしいよ……ママ、早く降りて帰ろうよ……」一瞬、全身の血が逆流するような衝撃が走り、頭の中が真っ白になった。私は目の前の、自分が大切に育ててきた娘をただ見つめるしかなかった。カメラのシャッター音が激しく降り注ぎ、今の私の表情は、さぞや見苦しいものだろう。「そこまでして、ママを壊さなければいけないの?」 デザイナーにとって、盗作以上の汚点はない。なのに、今私を非難しているのは、なんと実の娘だ。このネックレスは、私が娘の目の前で丹念に磨き上げて、一緒に完成させたものだ。それなのに、授賞式の前に遠野陽子(とおの ようこ)と少し話しただけで、どうしてこんな嘘をついて自分の母を陥れようとするのか?授与人を担当する先輩は批判的なまなざしを向けてきた。夢にまで見たトロフィーが眼前に輝いている中、私は無理に笑顔を浮かべ、「先輩、ありがとうございます」と感謝を述べた。すると、先輩はそれまでの穏やかな笑顔を一瞬で引き、さらりと手を引きさがるようにして避けた。手にしたはずの栄光は虚無に変わり、鋭い絶望が血管を逆流して全身を氷結させ、微かな震えだけが唇に残った。「ママなんて大嫌い!泥棒!そんな人、私のママじゃない!」 莉々香が突然私を押しのけ、床に座り込んで大声で泣き叫んだ。「先生は嘘ついちゃダメだって教えてくれたよ!ママは悪い人なんだもん!」もう立っている力も尽き、私は地面に崩れ落ちた。一筋の涙が頬を伝い、終わりだ。すべてが終わってしまった。 シャッター音が私の惨めさをこれみよがしに記録していく。私は莉々香を見つめながら、「これは……莉々香とママが一緒に作ったものでしょ?忘れてしまったの?」と声を絞り出すように問いかけた。莉々香は何かに刺激されたように小さな肩を震わせた。「ううう……ママ、もう嘘つか
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第2話
病院で目を覚ますと、誰も傍にはいなかった。医者は眉をひそめて告げた。「星野香織さん、妊娠です。ご主人様に何度もお電話しましたが、どうしても繋がらないんです。現在、切迫流産の危険性があります。至急、ご家族の方に来ていただき、手術のご同意書にサインをいただかないと……」お腹に手を当て、苦い涙が頬を伝っている。なぜ今、この子が訪れたのか……「先生、この子は……」ドアが「ガチャン」と音を立てて開き、蓮が莉々香を連れて入ってきた。その眉をひそめた険しい表情から、心底不機嫌な気持ちが溢れ出ている。私の青ざめた顔を見て、ほんの一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐ口を開いた。「今回はお前が悪い。陽子に謝れ。俺が間に入って、訴えは取り下げさせるから」医者は空気を読んで退室した。私はこの流産しそうな子供のことで思い悩んでいるのに、彼と話す気も起きなかった。私の無反応に、蓮は声を荒げた。「香織!悪いことしたら謝る。子供だって分かる道理だ」 蓮はメガネを押し上げ、冷たい目を一瞬光らせると、こめかみを揉みながら声を潜めて言った。「やっぱり田舎者は根性が違うな」 「何だって?蓮……あなたほど卑劣な男がいない!」私は怒りで下腹部が痙攣し、冷や汗が頬を伝った。 そう、私は田舎者だ。だがこの田舎者なしでは、蓮はあの山奥で骨も拾えなかった。あの日、パラグライダーで遭難し足を骨折した彼を発見した。背負って運び、数十キロ歩いて薬を買いに行ったのはこの私だ。「蓮」私は複雑な思いで彼を見つめている。「あなたの約束、覚えてる?『いつも信じる。どんな時も味方だ』って」 「いい加減にしろ!」彼は怒気を含んで遮った。娘の手を振りほどくと、二歩で病床に近づき、手を伸ばして私の顎を強く掴んだ。痛みに思わず声を漏らした。すると、蓮は火でも触れたかのように手を離し、その反動で私はベッドに倒れ込んだ。下腹部の痛みはさらに強まり、私は思わず体を丸めた。 「随分と芝居が上手くなったな」彼は確信している――自分はほんの少し触れただけだ。なのに、こんな大げさな様子、いったい誰に見せているつもりなんだ、とでも言いたげに。「香織、お前は元々そんなに弱くないくせに」 私は唇を噛んで黙り込んだ。強いからって、これほどまでに踏みにじられていいものなのだろうか?
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第3話
「莉々香、あなたなのね」問いかけるまでもなく、心の中では答えが見えてきた。下腹部に痛みが走り、この子供を失うのではないかという不安がよぎった。「こわい……」 莉々香は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。「ママがこわい! ママなんて嫌い!パパ、陽子おばさんが待ってるよ。早く行こう」蓮はすぐに娘を抱き上げ、私を睨みつけて言った。「莉々香を怖がらせるな!本当にお前の作品なら、陽子が特許を取れるわけがないだろ」今日の授賞式では、このネックレスをつけ、才能のあるわが娘を褒め称えるつもりだった。それなのに今、私の心に残るのはただ一つの疑問――なぜ娘は他の女のために私を裏切るのか。「莉々香、ママはどう教えてきたか、覚えてる?」 ベッドから起き上がると、腹部に鋭い痛みが走り、息をのんだ。それでも必死に堪えて、娘の前にしゃがみ込んだ。涙で濡れた娘の顔を見て、胸が痛んだ――きっと騙されているだけだ。幼い彼女に悪意なんてあるはずがない。「莉々香、パパに本当のことを話して。このネックレス、ママと一緒に作ったんだよね?」 私は目を大きく見開き、哀願するように娘を見つめている。「莉々香!どうして黙っているの!」娘は私を押しのけ、鋭い声をあげて蓮にしがみついた。「こんなママ嫌い!」 「うっ!」尾てい骨を強く打ちつけられ、激痛が走った。すぐに手術が必要だとわかった。もう構っている場合じゃない。蓮の腕を掴み、「蓮、流産する!早く医者を呼んで!」と必死に叫んだ。「早く!」私の焦りは夫にはまったく伝わらなかった。それどころか、彼は不快そうに眉をひそめて言い放った。「香織、芝居癖がまた始まったな。デザイナーなんて辞めて、女優にでもなれ」そう言うと、片手で娘を抱き上げ、その背中を軽くたたいた。「大丈夫、パパがここにいる」 そして、鋭い視線を私に向け、「香織、本当にがっかりした」と、冷ややかに言い放った。「陽子は莉々香のことを思って、大目に見てやっているんだ。その好意を踏みにじるな」 下半身から血がにじみ始めたが、赤いドレスだから目立たない。「蓮、血が……本当よ、信じて」 彼は私の手を振り払い、「もう、何を信じろって言うんだ!母親として、少しは子供の手本を見せろ!」腹を立てた蓮は、私が必死に手を伸ばすのも無視し、
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第4話
「陽子おばさん、一緒に帰ろう」 陽子! 痛みも忘れ、私は猛スピードで彼らの前に走り出た。「待ちなさい!」 止まった瞬間、腹痛が急激に走った。私は眉をひそめ、お腹に手を当てた。「陽子、ネックレスの特許を持ってるって聞いたけど、私に見せる勇気があるの?」私は拳を握りしめ、背筋を伸ばし、陽子の前で弱みを見せたくない。「まだでたらめを言う気か」蓮が陽子の前に立ちはだかった。「今更言い訳して何の意味がある?陽子が自分のキャリアを賭けてまで、お前を陥れると思うのか。自分が卑しいからって、他人までそのように考えるな!」 壁に寄りかかり、私は唇に浮かんだ苦笑を噛みしめた。私が卑しい?陽子は可憐で完璧で、私は卑しい?蓮と莉々香の敵意に満ちた視線もかまわず、私は陽子をまっすぐに見据えて言い放った。「それ、今すぐ私に見せてみなさい」「もういい!」蓮が冷たく一喝した。その眉間に刻まれた焦燥感はもはや形を持ち、次の瞬間には私を切り裂きそうだ。 心が、ぽっかりと空洞のようになって冷え切った。そして、どっと疲労が押し寄せてきた。娘はこの女のために私を罠にかけ、夫はこの女のために私を責め立てるなんて。陽子は軽く笑った。その声は澄み切った小川のせせらぎのようだ。「蓮さん、香織さんは起きたばかりなんですから、そんなに厳しくしないでください」彼女は仕方なさそうな表情を浮かべ、私の反応は予想通りだと言わんばかりに、スマホをさっと取り出して画面をスライドさせ、私に差し出した。私は疑いながらもそれを受け取ると、画面の冷たい光が私の顔を照らした。【作品:魅惑の恋、作者:遠野陽子。日付……】昨日だった!私がそれほど確信を持っていたのは、このネックレスが昨日完成したばかりで、私がステージに上がる24時間前でさえ、まだ未完成だったからだ。今になってようやくわかった。昨日の昼、蓮が私を食事に誘い、莉々香が急に腹痛を起こして、二人きりにさせたのだ。 目の前が真っ暗になりかけた。全てが仕組まれたものだとは。「蓮……なぜ、そんなことを……」 私は声をあげて泣き叫んだ。「なぜよ!私の夢が一流のデザイナーになることだって、あなたは知ってるでしょ!この女のために、私をここまで追い詰めるつもり?」 怒りのあまり、私はスマホ
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第5話
蓮が一歩下がった。「明日、また様子を見に来る。お前も一旦落ち着け」 三人は慌ただしく去って行った。私は、何かが自分の体から少しずつ失われていくのを感じた。たまたま通りかかった医師が私を発見したが、もう遅すぎた。小さな命が私の体から消えていく。そして、蓮への愛も、それと共に静かに消えていった。莉々香のことは思うと胸が痛むが、もう私とは関わりのないことだ。彼らに心を捧げるのは、ここで終わりにした。翌朝、私は疲れ切った体を引きずって家に戻った。 案の定、誰もいなかった。私は黙って血で濡れたドレスを脱ぎ、付けていたネックレスをリビングのテーブルに置いた。 切ない思いで涙がこぼれそうになり、天井を見上げてこらえた。田舎で育った女は、血を流しても涙は流さない。 あの日、蓮の家族が彼を迎えに来た時、私にも一緒に来ないかと誘ってくれた。私は蓮の瞳を見つめ、覚悟を決めて田舎を出ることを選んだ。 高校時代から大学を卒業してデザイナーになるまで、ずっと高瀬家に面倒を見てもらっていた縁で、私たちの結婚はごく自然な成り行きだった。結婚して三年目、ようやく莉々香を授かった。いくつもの困難を乗り越えて、やっと娘を産んだあの日、世界中の幸せが私のものになったと思っていた。それなのに、陽子が現れてから、すべてが変わってしまった。あんなに「ママ」と甘えてくれた娘が、いつからか「陽子おばさん」と陽子にべったりするようになった。私を愛してくれた夫でさえ、陽子からの一本の電話で、私たちの記念日をないがしろにするようになった。今頃、彼らはまだ陽子のそばにいるのだろう。私は自嘲気味に笑い、荷物をまとめて故郷に帰る準備を始めた。父と母が待っている。新幹線に乗る直前に、蓮から電話がかかってきた。「どこにいる?」 彼の声には疲れがにじんでいる。「陽子はもう責任を問わないことに同意してくれた。そして、お前が仮病を使ったことも、今は大目に見てやる」傷つくかと思っていたが、今の私の心は驚くほど静かだ。列車がゆっくりと動き出し、窓の外の街並みが速いテンポで流れていく。「蓮、もうあなたはいらない」電話の向こうで、息づかいが一瞬止まった。そして、怒りを押さえた声が返ってきた。「香織、もう大人だろ。そんな子供じみた真似はよせ」 蓮はがらんとした病室
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第6話
蓮は理由のわからない不安に襲われ、胸が締めつけられるような、重苦しい痛みを感じた。ベンチに腰かけた若い妊婦が、慈しむようにお腹を撫でており、横では夫がせっせと扇子であおいでいる。 その姿に、蓮は香織が莉々香を産んだ日のことを思い出した。あの時は本当に怖かった。何度も寺社に詣でてようやく授かった莉々香だが、香織はその出産で難産に遭い、生死の境を彷徨うほどの危険な状態に陥った。あの日以来、子供は莉々香一人で十分だと決めている。 携帯が鳴った。蓮はアシスタントからの連絡かと思い、すぐに応答した。「確認したか?」 向こうからは娘の甘い声が響いた。「パパ、家に着いたよ。パパとママはいつ帰ってくるの?」 言いようのない失望が胸をよぎった。それでも平静を装って答えた。「もうすぐだ。シッターさんと遊んで待っててね」 電話を切り、蓮はタバコに火をつけた。久しぶりのニコチンの味に、少しだけ落ち着いた。「なぜこんなことに……」 彼は、自分がどうしてこんなに苛立っているのか、よくわからない。ただ、香織が今回は本当に怒っていることだけは感じ取れた。ふと、彼は眉をひそめた。金縁メガネの奥の深い瞳が、一瞬曇ったように見えた。「ここでの喫煙は困ります!」男の問い詰める声で、蓮はようやく我に返った。すると、さっきの妊婦が夫の背後に立ち、彼の煙を避けようとしているのが目に入った。「悪かった」タバコを長らく控えていたせいか、蓮の声はかすれている。「来ているのに気づかなくて」男は不快そうに言い返した。「私たちが来ようと来まいと、ここで吸うのはありえないですよ!」 興奮して標識を指さしながら、「ここは産科病棟です!中は妊婦さんばかりなんですよ!ここで吸うなんて、常識はありますか」次の瞬間、蓮は男の襟首をつかむと、鋭い目つきでじっと睨みつけながら問いかけた。 「この中は……みんな妊婦なのか?」 男はその眼光に圧倒され、思わず唾を飲み込んだ。妊婦は恐怖でお腹を押さえ、鋭い悲鳴をあげた。蓮は手を離し、茫然と呟いた。「ありえない……絶対にありえない!」 もしこれが本当なら、昨日、香織は……男はすぐに妊婦を守るように立ち、医師は物音を聞きつけて駆け寄った。まず妊婦を落ち着かせると、蓮を見た。その目には非難の色が満ちてい
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第7話
蓮は車を飛ばして家へ急いだ。すべてが夢で、香織がまだ家で待っていてくれていると願うしかなかった。目尻を赤くしてハンドルを握りしめながら、「香織、償わせてくれ」と繰り返した。 もし香織の妊娠を知っていたら、絶対に彼女を一人で病院に置き去りにはしなかった。 家に近づいた時、アシスタントから電話がかかってきた。「社長、奥様はまだ見つかっておりません……ですが、陽子様の件、まずご報告すべきかと……」蓮はイライラして冷たい声で言った。「いつからそんなに回りくどくなった。はっきり言え」「その……陽子様が優先処理をお願いしていた特許の図面なのですが、どうやら……本当に奥様がお付けになっていたもののようです……」アシスタントも昨日の出来事を目撃しており、香織の作品数が限られている一方、陽子は蓮の資金力のバックアップで、週に一つのペースで特許を取得していた。そのため、彼も昨日は先入観で香織が正しいと思い込んでしまったのだ。「……わかった」 蓮は意外にも激怒することなく、その瞳が次第に冷静さを取り戻していった。 彼は彼女を誤解していた。必ず償う。必ず許してもらう。何しろ、香織はそれほどまでに自分を愛していたのだから。自宅に着くと、莉々香が跳ねるように駆け寄ってきた。「パパ、おかえり!」 そして、陽子の手を握り、嬉しそうに言った。「パパ見て、陽子おばさん、きれい?」 蓮が顔を上げた瞬間、視界に飛び込んだのは、照れくさそうに立っている陽子の首にある、香織のネックレスだ。 「外せ。誰が着けることを許した」蓮の鋭い声に陽子は凍りつき、莉々香はぷんぷんしながら「パパ、こわいよ」と訴えた。「パパなんかもう嫌い。陽子おばさんだけが好きなの」 莉々香は陽子の懐に飛びついた。陽子は蓮に申し訳なさそうに微笑み、「子供の言うことに気をつかわないで」と言った。蓮は自分が娘を甘やかしすぎたと痛感し、莉々香をぐいと引き離して問い詰めた。「莉々香、パパの質問に答えなさい。このネックレスは、誰が作ったものなのか、本当に知らないのか?」 莉々香はこれほど厳しい父親を見たことがなく、ただ茫然と彼を見つめるしかなかった。陽子がすぐに取り成そうとした。「蓮さん、ほら、莉々香ちゃんが怖がっていますよ」 陽子が甘えた目つきで蓮を見つめた。
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第8話
蓮の唇が青白く変わった。もともと色白の肌がさらに際立ち、どこか虚弱に見えた。 「すべて……俺が悪かったんだ」陽子は、何かが変わってしまいそう予感がした。そっと声をかけた。「蓮さん、大丈夫ですか? そんな顔して……」 蓮はゆっきりと目を開け、メガネを外して彼女を見つめた。その眼差しは意外なほど静かだ。 「どうして香織を陥れようなんてしたの?」陽子は一瞬固まったが、すぐに頭を上げて言い訳を始めた。「だ、だって……私、特許も取ったんですし、法律的には私のものなんですよ。それに香織さんのためを思って……」蓮は彼女たちの言葉に思わず嗤いを漏らすと、次の瞬間、怒りが爆発し、ガラスのショーケースを拳で強く殴りつけた。「きゃっ!」二人とも顔色を失うほど驚いた。「何するのよ!」 「出て行け!」 蓮は二人を指でさしながら、「二人とも、出て行け!」と怒鳴った。莉々香は泣きしゃくりながら、蓮にすがりついた。「パパ……ゲッ……私、いい子にするから……追い出さないで」陽子は蓮にいつも大切にされてきた身で、こんな扱いを受けるのは初めてだ。「私たちに当たっても仕方ないでしょ?香織だってあなたのせいで流産したんだから……」 言ってはいけないことを言ってしまったと気づき、彼女は慌てて口を押さえた。蓮が暗い眼差しでじっと陽子を見つめ、歯を食いしばるようにして言った。 「そうか……最初から知ってたんだな?俺を騙して、楽しんでいたのか?」口にしてしまった以上、陽子は全てを打ち明けることにした。「そう、私、知ってたわ。だってあんた、ずっと前から私のこと欲しかったんでしょ?」 彼女は蓮の腕を掴むと、照れくさそうに笑みを浮かべて言った。「香織がいなくなった今、私たちやっと一緒になれるじゃない。それに、男の子が欲しいって言ってたじゃない?香織には産めなくても……私なら産んであげられるのよ」莉々香は二人を驚いた顔で見つめた。「男の子?パパ、私一人でいいって約束したじゃん!」そして、地面に座り込み、大声で泣き叫んだ。「ママ!ママに会いたい!」蓮は陽子を押しのけ、険しい表情で言い放った。「俺は香織のことを一度でも嫌だなんて思ったことはない。彼女は俺の妻で、最愛の女だ。お前に何がわかる。香織のことをとやかく言うな!俺には、莉
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第9話
一樹はしばらく黙り込んでから、ぽつりと言った。「とにかく……君が悪いわけじゃないってことは分かってる」彼は手を伸ばして私の手を握り、真剣な眼差しで言った。「かおりん、君の性格は分かってる。よほど辛い思いをしたのでなければ、実家には帰ってこないんだろ?ずっと……君が振り返って僕を見てくれるのを待ってたんだ」彼のあまりに真剣な表情に、私は鼻の奥がつんとした。もし蓮に出会わず、高瀬家の援助も受けなければ、きっと一樹と結婚していただろう。しかし、私はこれまでにあまりにも多くの荷を負ってきた。もうこの実直な男を巻き込みたくはない。「ごめんなさい……一樹の気持ちに応えることはできない」彼はうつむいた。「いいよ。いつかきっと、僕の本心を分かってもらえるから」「何をしている!」冷たい男声が響いた。私が訝しげに顔を上げると、山の風景にそぐわない、怒気を帯びた男が立っている。蓮だ。その横には莉々香。山道を歩いたせいか、顔色が青白く、小さな体がよりいっそう弱々しく見えた。「ママ、ママ、やっと見つけたよ」娘は泣きながら私に向かって走ってきたが、私が反応するよりも早く、一樹が警戒して一歩前に出た。「誰だ?かおりんに何の用?」「かおりん?」蓮はその呼び名を噛みしめるように繰り返し、嘲笑った。「さすが田舎者だな。香織という美しい名前を、お前たちはそんな幼稚な呼び方にする」それを聞いて、私はぱっと顔色を変えた。「随分と偉そうね、蓮。あんたがそんなに田舎者を馬鹿にしてるのに、よくもまあ来やがったね」蓮ははっと我に返り、慌てて言い訳した。「いや、香織、そういう意味じゃ……」彼には、相手を貶めるのが癖になっている。内心では私のことを彼らとは違うと思っているのだろうが、反射的に私まで巻き込んで罵ってしまった。男の瞳は暗く、声にはわずかな震えが混じっている。「香織……ずっと会いたかった」 「うん、ママ、すごく寂しかったよ」莉々香は一樹の脇をすり抜けた。「ママ、どうしてこんなところに来たの?」私はさりげなく娘を避けた。今は抱きしめるわけにはいかない。「ここはお祖父さんとお祖母さんの家よ」娘の顔に困惑の色が浮かんだ。その表情を見て、突然悲しみに襲われた。莉々香は自分の祖父母に会ったことすらないのだ。あれほど長い間、ただ意
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第10話
蓮はもともと気性が激しい人で、それが高瀬家を支えてきた原動力でもある。彼は嘲るように言った。「どけ。海浜市で二度と仕事ができなくしてやるぞ」一樹は微動だにせず、しっかり首を振った。「たとえこの先ずっと農業で生計を立てることになっても、かおりんを再び辛い思いをさせない」ドアの内側で、私は背中を扉に預けている。胸が熱くなるのを感じた。結婚して月日が経つにつれ、特に子供が生まれてからは、二人の仲はだんだん冷めていった。その間、陽子が何度も仲を引き裂こうとしたが、蓮は私の味方になってくれなかった。それでも、子供のため、愛ゆえに、私はただ耐え続けてきた。今、これほど素直で熱い想いを聞けるとは。なぜか胸の奥が温かく、熱くなっていくのを感じた。「香織がお前と一緒に農業なんかすると思うか」蓮は言い続けた。「香織は高瀬家の夫人だ。海浜市の上流階級の夫人として生きていくのだ」「上流階級の夫人って、愛人のネックレスを盗まなきゃいけない夫人のこと?」一樹の一言が、蓮を完全に打ちのめした。「違う!」彼はあわてて叫んだ。「香織、誤解していたと分かっている」 莉々香の手を引っ張った。「早くママに謝れ」莉々香は泣いた。「ママ、ごめんなさい……嘘ついたのが悪かった」私は突然、自分の子育てが間違っていたと痛感した。莉々香はもうこんなに大きいのに、何を言っていいかまだわかっていない。私の育て方が悪く、子供をだめにしてしまったようだ。「帰って」 …… その後、蓮は陽子が特許を不正入手した事実を通報し、その資格を取り消させた。蓮の会社も不正操作で多額の罰金を科せられた。業界から締め出された陽子に代わり、授賞側は私への再授与に同意した。しかし私は既にそんなことには無関心だ。ただ、時間がこれほどまでに人を変える恐ろしいものかと痛感するばかりだ。昔、私の背中に寄りかかっていた少年は立派な大人に成長したが、あの純真な少年はすっかり計算高い商人と化した。かつての優しさは跡形もなく、今では私を田舎者と嘲笑うのだ。……結局、蓮と一緒に戻らなかった。彼が突然倒れたからだ。若い頃に山で経験したトラウマから、彼は山林に強い恐怖心を抱えている。今回は気合だけで登ってきたようなもので、あれだけ話すのが精一杯だった。莉々香は恐怖で叫んだ。「マ
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