LOGIN桜の胸がきゅっと締め付けられ、ついにこらえきれなくなった。ゆっくりと目を開けると、その真っ赤になった瞳と不意に安人の漆黒の瞳と、視線がぶつかった。そして、目が合った瞬間、桜の鼻の奥がツンとして、涙が堰を切ったようにあふれ出てきた。「ごめんなさい」彼女の声はかすれて震えていた。本当はそれ以外に何て言えばいいのか、彼女自身も分からなかった。彼女が泣き出すと、安人は胸がえぐられるような痛みを感じた。彼は強張った表情で手を伸ばし、その指先で優しく彼女の涙を拭ってあげた。「怖がらなくていい。俺がいる。もう誰にも君を傷つけさせない」その言葉を聞くと、桜はもう我慢できなかった。彼の胸に飛び込んで、声を上げて泣きじゃくった――……ここにきて、桜はついに、この数日間心に溜め込んできた感情のすべてを吐き出した。安人は彼女をしっかりと抱きしめ、自分の胸の中で思う存分発散させてあげた。人間はもともと感情豊かな生き物だ。感情は解放してあげるべきで、無理に抑え込むのはかえって逆効果になる。もともと桜は、精神的に強い子じゃない。繊細で自分に自信がなく、マイナスの感情をうまく消化できないタイプなのだ。1ヶ月も我慢を続けたことで、もう限界を超えていた。だから、安人は何も言わず、彼女が一度にすべてを吐き出せるようにしてあげた。だが、桜は泣きじゃくった末に、とうとう咳き込み始めてしまった。安人は慌ててテーブルの上の水筒を手に取り、蓋を開けて彼女の口元へ持っていった。「ほら、お水を飲みなさい」桜はしゃくりあげながら、濡れた瞳で彼を見上げた。彼女に見つめられて安人は根気強く宥めて言った。「お水を飲んだら、喉も楽になるから」桜はそれでようやくうなずき、おとなしく水を何口か飲んだ。水で乾燥してかゆかった喉を潤し、咳も次第に止まった。一旦泣き止んだものの、桜の顔にはまだ涙の跡があった。さらに熱のせいで青白かった顔色も赤くなっていた。安人は彼女の涙を拭ってあげると、続けて宥めた。「よし、もう泣くな。まだ熱があるんだから、これ以上泣いてまた熱が上がってきたらどうするんだ」桜はこくりと頷いた。泣き疲れたのか、体中がだるかった。安人は彼女を支え、ゆっくりとベッドに横にならせた。それからまもなく、彼女はまた意識が朦朧として眠りに落ち
安人が病室の前に着くと、ちょうど中から医師と看護師が出てきたところだった。医師は安人に気づくと、軽く会釈した。「碓氷さん」安人も医師に返事をすると、続けて尋ねた。「彼女の容体はどうですか?」医師はありのままに答えた。「肺の炎症は落ち着きました。まだ少し熱はありますが、心配いりません。肺炎はこういう経過をたどるものですよ。炎症を抑える治療をあと1週間ほど続ける必要があります」それを聞いて、安人は淡々と頷いた。体の問題は治療すれば治る。でも、本当に厄介なのは心の問題だ。医師と看護師さんが立ち去ると、安人は夏帆に車椅子を押されて、病室に入った。その時、病室では、寧々が入り口に背を向け、桜の体を起こして解熱剤を飲ませているところだった。薬を飲み終えた桜は、また横になった。意識はあるものの、どこか上の空といった様子だ。寧々はしきりに話しかけていたが、桜の反応は薄かった。目を覚ましてからずっとそうだ。寧々が話しかけても、桜は彼女を見つめ返し、しばらくしてからやっと反応するのだ。それも、かすかに微笑むか、ごく短い言葉を返すだけで、ひたすらぼーっとしたままだった。寧々は、桜さんの精神状態が危ういことに気づいていた。子供の頃のトラウマに、美雨が意図的に再現したシナリオが重なり、何度も絶望的な状況に追い込まれていたのだから、普通で居られるはずがないのだ。むしろ、彼女が今までよく耐えてこられたのが、すごいと思わずにはいられないくらい。それと同時に、寧々は自分を責めていた。友達としても、アシスタントとしても、桜が心身的に受けたダメージにいち早く気づいてあげられなかったから。今回の件で、寧々は改めて痛感していた。桜にとって、安人がどれだけ大切な存在なのかを。だから寧々は安人に電話したとき、桜の今の状態を詳しく話したのだ。その連絡を受け、安人もまた病院へ向かう途中、すでに専門のカウンセラーを手配してくれたようだから、おそらく、次の日の午後には来てもらえるだろう。それまでの間、寧々は安人にすべての望みを託していた。寧々には、安人がそばにいてくれることこそが、どんなカウンセラーよりも効く薬だと思えたからだ。……そう思っていると、車椅子の車輪が床をこすり、かすかな音が聞こえてきた。コップを手に振り返った寧々は、安
「そんなつもりじゃ……」美雨は首を振って、とっさに否定した。「私は何も知りません。ただ監督に頼まれた脚本を、真剣に書いただけです。それに、桜さんに無理強いをしたわけでもありません。彼女が自分から演じたんです。そうよ!彼女は嘘をついてる!わざとああいう演技をして、憐れみで同情を買おうとしてるのよ!」「ふざけないで!」朋花はもう我慢できず、読み終えた資料を美雨の顔に叩きつけた。「石原さん、あんた頭がおかしいんじゃないか!桜さんは芸能人よ!全国にどれだけ男性ファンがいると思ってるの?あんたの元夫が彼女のファンだったってだけで、逆恨みするなんて!離婚されて当然よ!」書類が顔に当たり、美雨は思わず目を閉じた。叩きつけられた顔がヒリヒリと痛んだ。それによって、美雨が必死に保とうとしていた表向きの見栄も崩れてしまったかのようだった。彼女は赤く充血した目をゆっくりと開けた。その視線は朋花に向けられた後、やがて浩平へと移された。この時になって、彼女はようやく状況を理解した。なるほど、浩平も、とっくに安人と桜の関係を知っていたんだ。安人のような男が桜を守っているんだもの。もはや自分にはどうすることもできないだろう。その事実に気づき、美雨は背筋が寒くなって、椅子に崩れ落ちるように座った。もう、終わりだ。完全に、おしまいだ!「美雨さん、桜さんとあなたの元夫には何の接点もなかった。それなのに、中学の同級生だったっていうだけで、彼女を浮気相手みたいに決めつけて!あんたの考え方は歪んでる!」朋花は美雨を睨みつけ、考えれば考えるほど馬鹿らしくなって、怒鳴りつけた。「そもそも桜さんが何をしたっていうの?彼女は有名人なのよ。ファンがいて当たり前じゃない!」「桜さんは無実なんかじゃない!」美雨は突然、感情的になった。そして、顔を上げて朋花に向かって叫んだ。「あの子は生まれつき男を惑わす女なのよ。中学の時からそうだった。どんな男もみんな、あの子に夢中だった!あの子が転校してくる前は、私がみんなの注目を浴びてたのに!でも、あの子が来てから、男たちの目にはあの子しか映らなくなった。私の幼なじみでさえ、桜さんへのラブレターを渡してくれって、私に頼むようになったのよ」そこまで話すと、美雨の表情はだんだんと険しく、憎しみに満ちたものに変わってい
朋花はもともと美雨を疑っていた。でも、安人の今の言葉を聞いて、改めて美雨が最初から桜を陥れようとしていたんだと、ほぼ確信した。ただ、桜を陥れる理由については、きっと安人がもう突き止めているんだろう。そう考えると、朋花はくるりと目を動かし、わざとらしくため息をついた。「桜はどうしてあんなに馬鹿なのよ!いいところを見せたいからって、自分の体で無理するなんて!彼女にもし何かあったら、撮影班全体がどれだけ迷惑するか、考えなかったのかしら!」朋花の言葉を聞くと、美雨はすぐさま同調した。「朋花さん、まあまあ落ち着いてください。桜はすごく努力家の役者なんです。いい映画を作りたい一心で大丈夫だって言ったのかもしれないでしょう。まさかこんな大事になるとは、彼女も思ってなかったはずです」「やっぱり若いからでしょうか!そんな無神経なところがあるって知っていたら、私も全面的に信じるんじゃなかったなぁ……」朋花の言葉を聞き、美雨は一瞬得意げな表情を見せたが、すぐにあきれたような顔に戻った。「撮影が始まる前にも彼女に確認したんです。『本当に大丈夫?』って何度も聞いたんですよ。でも、彼女は大丈夫だって言うし、すごく自信満々だったから、私も信じちゃって。でも今思えば、彼女って昔からそうだったかも。いつも頑張りすぎるんですけど、何でも頑張ればうまくいくってわけじゃないですからね……まぁ、今回の桜のやり方は確かに軽率でしたけど、彼女も悪気があったわけじゃないから……」「そういえば……」突然、安人が美雨の言葉を遮って、漆黒の瞳で彼女を鋭く見つめた。「石原さんと桜は、中学の同級生だったそうだな?」美雨はきょとんとした。少し間を置いてから、ゆっくりと頷く。「はい。桜が中学一年の時、同じクラスで隣の席でした。でも、彼女は一学期だけで転校してしまったんです」「そうか」安人はそう言いながら、彼女を冷たい目で見つめた。「じゃあ、石原さんは桜の地元の人も知っているってことかな?」そう聞かれ、美雨は思わずゾクッとした。彼女は警戒しながら安人を見返して、内心はドキマギしていた!どうして安人は急にそんなことを聞くの?まさか、何か知ってるんじゃ……美雨がそう思っていると、「ちょうどいくつか資料が手元にあって。石原さんなら、見覚えがあるはずじゃないかな」安人がそう
車椅子に座っていても、彼が持つただならぬオーラを隠しきれないでいた。こうして、彼のような重鎮の登場によって、ただでさえ重苦しい会議室の雰囲気が、一瞬にしてさらに険しくなった。一方、美雨は、安人と桜の関係を知らなかった。彼女はこの映画の脚本家だが、浩平と仕事をするのは初めてだ。確かに、浩平は彼女の才能と物語を高く評価したが、プライベートでの接点はこれまでほとんどなかった。そのため、この会議室で、安人が桜のために来たと知らないのは、彼女だけだった。安人は映画のメインスポンサーだ。だから事情を知らない美雨は、彼を見て、誰かの責任を問い詰めにきたのだと無意識に考えた。すると、彼女は俯いて、どうやって全ての責任を桜に押し付けようかと、ひそかに算段を立てていた…………浩平もまた、安人が直接出向いてくるとは思っていなかった。以前の安人は、もっと慎重だったはずだ。桜が交際を公表したがらなかったので、彼はいつも彼女に合わせていた。あの碓氷家の跡取りで、財界のトップに君臨する碓氷グループのトップが、愛のため、名前もない、公にできない恋人であることに甘んじているなんて。それで浩平はあの碓氷家にも、一途で純真な恋愛に溺れるような人間がいるもんだと、プライベートではよく誠也をからかったものだ。それに、桜は今がまさにキャリアの正念場だ。だから、この秘密の関係は2、3年は続くだろうと思っていた。現に、今交際を公にするのは確かに適切ではないからだ。しかし、今日のこの様子では、安人はもう隠すつもりはないようだ。でも昨夜の出来事を思い返せば、浩平には安人の気持ちがすぐに理解できた。桜は、もう少しで命を落とすところだったんだ。安人が顔を出すのを我慢している方が、むしろあり得ないだろう。そう思って、浩平は安人を見つめた。「桜の容態は?」安人は美雨にちらりと目をやり、浩平に向き直った。「まだ危険な状態だ」浩平はきょとんとした。「そんなにひどいのか?」「溺れたことだけが原因じゃない。医者の話では、一番の問題は彼女の心の問題らしい」それを聞いて、浩平はすぐに心理カウンセラーの清美の方を見た。「藤川先生、どういうことですか?桜は問題ないと言っていたじゃないですか?」途端に清美も顔をこわばらせ、慌てて説明した。「この役は役者の心理的
安人が撮影班に戻る道中、ネットではすでに桜が飛び降り自殺を図ったというデマが広まっていた。輝星エンターテイメントもすぐに手を打った。しかし、桜の人気はあまりに高く、いくら事務所が素早く動いても、情報を完全に抑え込むことはできなかった。メディアは注目を集めようと、ここぞとばかりに桜の話題性を利用した。噂はたちまち炎上し、面白がって中には桜のツイッターに、本人からの説明を求めるコメントを残す者までいた。ファンたちはすぐに彼女のために発言をした。しかし、メディアが意図的に話を煽り、桜本人も沈黙を続けたため、事態は悪化する一方だった。わずか半日で、#桜、飛び降り自殺、#桜、生死不明といったデマがトレンドの上位を占めるようになった。道中、安人は綾からの電話を受けた。今回の件は、碓氷家の注目をも惹きつけた。悠翔でさえ、安人に何通もラインを送ってきていた。安人は、桜がすでに危険な状態を脱したことを伝え、家族を安心させた。自分が来たからには、もう桜を傷つけさせないつもりだから。桜を陥れた奴らは、自分がこの手で片付けてやる。昨夜、浩平はすぐに、桜が海に落ちたという情報を絶対に外部に漏らさないよう指示したはずだった。撮影班のスタッフは皆、長年浩平と共に仕事をしてきた仲間だ。だから浩平の指示には、いつも絶対服従だった。つまり、情報を漏らしたのは昨夜の救助に協力してくれた地元の人たちの可能性がある。だが、当時その場にいた地元の人たちは、素朴で正直な人ばかりだ。昨夜、浩平が口止めすると、彼らはすぐに「絶対に誰にも言わない」と約束してくれた。町の人たちは、誰もが映画が無事に完成し、公開されることを心待ちにしている。町の観光を盛り上げる絶好の機会だからだ。だから、彼らはそれを台無しにするような馬鹿な真似はしないだろう。となると、誰が情報を漏らしたのか、その答えはもう明らかだ。安人は窓の外を見つめた。その漆黒な瞳は、氷のように冷たかった。……この時、撮影班の会議室には、浩平と朋花、そして美雨と清美が集まっていた。4人は会議テーブルを囲んで座っており、室内は重苦しい空気に包まれていた。ネットでの炎上は収まらず、映画もクランクインから1ヶ月でこんな事件が起きた。プロデューサーやスポンサーにも、何らかの説明が必要だ。美雨
ほどなくして、音々は、車をグレースヴィラへと入れた。三人が車から降りると、音々のスマホが鳴った。相手は輝からだった。「悠翔が泣いてるぞ!早く帰ってこい!」すると、電話の向こうから、かすかに悠翔の泣き声が聞こえてきた。音々は目を細め、呆れたように言った。「輝、私を呼び戻す口実でまた悠翔を泣かせたでしょ。帰ったらただじゃおかないから!」「だとしても、こいつが悪いんだ!」輝は毒づいた。「毎日、弟、弟ってうるさいんだよ。縁起でもない!」「......まだ一歳にもなってないのよ!弟って言えるだけでもすごいじゃない。これ以上何を望むっていうの?!」「妹って教えたのに、ぜんぜ
「誰もあなたを責めてない」浩平はため息をついた。「いったん手を放してくれ。二階に車のキーを取りに行ってくる」それを聞いて、蛍はゆっくりと手を離すと、心細そうに彼を見つめた。「あなたが病院に送ってくれたら、詩乃さんはどうするの?」「花梨さんがついてるから大丈夫さ」浩平はそう言って部屋を出ると、急いで二階へ向かった。そして二階にあがると、浩平は部屋のドアをあけて入っていった。すると詩乃は体を起こして尋ねた。「彼女はどうだった?」「酷い熱だ。うわ言まで言ってる」浩平は引き出しから車のキーを取り出すと、詩乃を見て言った。「市内の病院に連れて行くから、少し時間がかかるかも。俺のことは
一方で、浩平が階下に降りてきたとき、蛍はちょうど出かけようとしていた。浩平がこんなに早く降りてきたのを見て、彼女はすぐに駆け寄り、「浩平さん、詩乃さんはもう寝た?」と尋ねた。「いや、まだだよ」浩平はキッチンの入り口まで行くと、食器を洗っていた花梨に言った。「とりあえず、経口補水液を用意してもらえないか」花梨はすぐに答えた。「はい、すぐにお持ちします」そして、浩平はくるりと向きを変え、リビングへ向かった。彼はソファに座ると、スマホを取り出してラインを開き、詩乃の産婦人科の医師とのトーク画面にメッセージを打ち込み始めた。蛍は浩平のそばに立ち、彼のスマホを覗き込むと、入力中の
蛍は手で涙を拭いながら首を横に振った。「私は大丈夫です。葛城さん、心配かけちゃってごめんなさい」日和は困ってしまった。こんな非の打ち所がない顔で泣かれると、さすがに衝撃を受けずにはいられなかったのだ。日和はベテランの芸能マネージャーで、これまでどんな絶世の美女も見てきたが、それでも、蛍のような子はまさに百年に一人の逸材だと感じているのだ。「いや、なんで謝るのよ。あなたは監督に直接指名された新作映画のヒロインなのよ?それに、うちのアトリエがこれから全力で売り出していく大事なタレントなんだから。辛い思いなんてさせるわけないじゃない」それを聞くと、蛍は慌てて首を振った。「本当に大丈夫