LOGIN「嘘だと?」哲也は優希をじっと見つめた。彼女の顔は青白かったが、その表情は頑なで、うろたえる様子もなければ、悔しがる様子もなかった。「哲也、もう奥さんと帰ってあげて!」早紀は口元を覆って泣きながら言った。「もし帰らないなら、わ、私が出て行く......」そう言って早紀は布団をめくってベッドから降りようとした。すると、哲也は慌てて彼女の肩を押さえて言った。「体はまだ弱ってるんだから、無理するな」しかし早紀は顔を上げ、涙に濡れた瞳で訴えた。「でも、私がここにいたら、奥さんが嫌な気持ちになるわ......」「ここは俺の個人資産だ。俺たちは婚前契約を結んでいる。それぞれの資産をどう使おうが、お互いに口出しする権利はないんだ」これを聞いて、早紀は驚いて言った。「あなたたち、どうして......」「哲也!」優希は声を荒げた。「どうしてそんなことまで、彼女に話す必要があるの!?」一方、哲也は優希に冷たい視線を向けた。「あなたが早紀を突きとばすのを、俺はこの目で見たんだ。優希、早紀はあなたと違って、子供のころから苦労してきたし、あなたの身勝手によって俺は彼女に関する記憶を失ったままになった。それで彼女は辛い目に遭ったんだ。俺が彼女を覚えてさえいれば、彼女はあんな酷い目に遭わずに済んだかもしれないだろ」「ええ、私が彼女を押したわ」優希は哲也を見つめた。その瞬間、体の芯から凍えるような寒気を感じた。「でも、私が身勝手だって?哲也、彼女の言うことを何でも信じるわけ?私たちの4年間と、二人の息子たち。それ全部を合わせても、突然現れてあなたの初恋相手だなんて言う女ひとりには敵わないっていうの!?」「この4年間、俺は夫としてあなたに悪いようにはしてこなかったつもりだ。二人の子供が生まれてからも、父親としての責任はちゃんと果たしてきた。何も、やましいことなんてない」「やましいことなんてない......」優希は冷たく笑った。哲也の冷酷な顔を見ていると、今までの自分の頑張りが全てバカみたいに思えてきた。「じゃあ、私からも言わせてもらうわ」優希は堂々と哲也を見据えた。「この女は被害者を装って私を陥れ、私たちの仲を引き裂こうとしているの。これが私の言い分よ」「引き裂く?」哲也の顔が曇った。「優希、早紀はさっきからずっと、あなたを責めないでくれっ
事故の後、自分はしばらく深刻なPTSDに悩まされていた。皐月は自分の専属カウンセラーで、事故から5年間、定期的に彼女の元へ受診に通っていた。だが、皐月は自分に、恋人がいたことを一度も話さなかった。それどころか、この数年間、周りの誰もそのことを自分に教えてくれなかった。哲也は、これはおかしいと感じた。早紀の話が本当かどうかは別として、少なくとも一つだけ確信したことがある。自分の記憶は、確かにおかしい。しかし、皐月は4年前に亡くなっていた。哲也も優希と結婚してからは、カウンセリングを受けに行くことはなくなっていた。そこへ突然、早紀が現れたのだ。だから、彼はもう、何もしないでいるわけにはいかなくなった。哲也は、皐月の元秘書だった高田拓也(たかた たくや)を訪ねた。拓也は皐月から、もし哲也が自分の記憶を疑う日が来たら、彼の治療記録を渡してほしいと託されていた。そこで、哲也は資料を受け取り、答えを知った。彼は本当に記憶を失くし、深く愛し合っていた女性を忘れてしまっていたのだ。彼の記憶喪失は、事故だけが原因ではなかった。自分自身が深刻な精神的問題を抱えていたからだ。彼は無意識に恋人へ強い独占欲を抱いてしまう。さらには、何度も不安に駆られ、自分のネガティブな感情を抑えきれずに恋人を疑ってしまうのだった......そんな最悪の状態が続き、恋愛において、彼は次第に度を越した狂人と化していった。哲也がさらに驚いたのは、こうした自分の過去を、優希がすべて知っていたことだ。いや、正確に言えば、周囲や家族たちは皆知っていた。そして、彼らは優希と結託して、自分を騙していたのだ......それで拓也は言った。「松尾先生は口止めしていましたが......でも、紫藤さんとあなたがこんな形で引き裂かれたのを見て、心が痛んで、やはり本当のことを話すべきだと思いました。奥さんは、どうやら昔からあなたに片思いをしていたようです。あなたが記憶を失って紫藤さんを忘れたと知ると、彼女はすぐに松尾先生の所へ行き、協力を持ち掛けたのです......」それを聞かされた哲也は、これらの情報にすっかり心をかき乱された。だが、彼が頭の中を整理する間もなく、優希と息子が病気だという知らせが届いた。その瞬間、哲也は何もかもどうでもよくなり、すぐに空港へ向
「ちょっと待ってて、薬を持ってくるから」そう言われ、早紀はベッドに横たわりながら哲也を見つめ、か細い声で言った。そして、その血の気のない顔は、とてもか弱く見えた。「哲也、早く奥さんのところへ行ってあげて。私は大丈夫だから。さっきのは、本当に私がうっかり転んだだけなの......」「でも、彼女が君を押すのを見た」哲也は早紀に布団をかけ直し、慣れた手つきでサイドテーブルから薬瓶を取った。そして二錠ほど手のひらに出して渡しながら言った。「まずはこれを飲んで」早紀は錠剤を受け取ると、口の中に入れた。それを見届けると哲也は、水の入ったコップを彼女に手渡した。早紀はコップを受け取ると、顔を上げて一口飲み、錠剤を流し込んだ。薬を飲み終えると、彼女は哲也にコップを返しながら、優しく微笑んだ。「ありがとう」「礼なんていい」哲也はコップを横に置き、ベッド脇の椅子に腰かけた。しばらく黙って早紀を見つめ、低い声で言った。「海辺は風が強くて、腰痛を悪化させるから、先生の言う通り、市内に戻るんだ」「ここを離れたくないの」早紀は悲しげに、名残惜しそうな表情を浮かべた。「ここには私たちの思い出があるもの。哲也、あの砂浜を覚えてる?あそこで一緒に写真を撮ったでしょ。見て、今でも大切に持ってるの......」そう言って、早紀は枕の下からツーショット写真を取り出した。写真の中の二人は海を背にしていた。夕日が空を赤く染め、早紀は哲也の肩に寄り添っている。着ているのは、お揃いの服だった。哲也はその写真を見つめると、またしても強い見覚えがある感覚に襲われた......早紀が語る過去を、彼は思い出すことができない。それでも、彼女の話を聞くたびに、心の奥底から強烈な親近感が湧き上がってくるのだ。もし本当のことじゃないなら、どうして早紀の話にこれほど強烈な懐かしさを感じるのだろう?早紀の話では、二人はかつて深く愛し合った恋人だった。しかし自分は交通事故で頭を強く打ち、記憶を失ってしまったのだという。自分の事故は海外で起きた。その事故が起こる前に、早紀は父親の手の者に捕まり連れ戻されていた。そして無理やり腎臓移植のドナーにさせられたのだ。9年後、海外で初めて早紀に会った時、哲也は彼女のことを全く覚えていなかった。その日、早紀は彼に会うなり、泣きながら
「哲也」優希は哲也を見つめた。「聞いて、彼女は......」「早紀の体が弱いこと、知らないのか?」そう言われ、優希は言葉を失った。哲也は優希を一瞥もせず、早紀の前にしゃがみ込むと、優しい声で尋ねた。「大丈夫か?」一方、早紀は腰の後ろを押さえながら、目を赤くして哲也を見上げた。「大丈夫よ。奥さんのこと、責めないであげて。私が自分で転んだだけだから」それを聞いて、哲也は眉をひそめた。「立てるか?」「どうにか......」早紀はそう言って地面に手をついて立ち上がろうとしたが、何度試しても立てなかった。それを見た哲也はため息をつき、早紀を横に抱き上げた。片や、優希はその光景を見て、自分の世界が少しずつ崩れていくのを感じた......どうして哲也が彼女を抱きしめるの。どうして自分の目の前で、ほかの女を抱きしめられるの。違う、こんなのおかしい。この女は、昔、自分たちを誤解させて別れさせた、張本人なのに。そう思って優希の背筋が凍り、今この瞬間、これは梓が周到に仕組んだ復讐なのだと、はっきりと感じ取ったから。そして優希は哲也の腕の中にいる女を見つめた。女は俯いて、哲也からは見えない角度で、優希に向かって口の端を吊り上げた。その笑みは、ぞっとするほど冷たかった。優希は首を振り、哲也を見た。「そんなのわざとよ。哲也、聞いて......」「早紀は腎臓が一つなくて、もう片方も良くないんだ。優希、何か不満があるなら俺に言ってくれ。でも早紀はあなたとは違うんだ。今後は彼女を困らせないでほしい」その言葉に優希はその場に凍りついた。彼女は呆然と哲也を見つめた。この光景は、9年前にN国で見たものと、どこか似ていた。ただ違っていたのは、今回の哲也は演技をしているわけではないということだ。彼の眼差しには、隠しようのない非難の色が浮かんでいた。哲也は自分の夫なのに。今、他の女を抱きしめながら、妻である自分を責めるような顔で見ている。どんな理由があろうとも、優希には受け入れがたいことだった。「哲也、あなたは私の夫でしょ」優希は哲也の目を見て、こみ上げる怒りと悔しさをこらえ、一語一句噛みしめるように言った。「私の目の前でほかの女を抱いて、私がどう思うか考えたことある?」そう言われると哲也は険しく眉を寄せ
優希は眉をひそめて女を見つめたが、何も答えなかった。「私、ここ......」女は優希の態度を意に介さず、自分の右腰を指さした。「腎臓が一つないの。あの『お偉い』父にあげたから」それを聞いて優希は、はっと息をのんだ。優希の表情を見て、女は満足そうに笑った。「彼は大儲けよね。腎臓を手に入れて10年以上も長く生きられるし、娘まで増えたんだから。今の私は梓じゃなくて、紫藤早紀(しどう さき)よ。父には感謝しろって言われたわ。もし彼に見つけてもらえなければ、私はあの飛行機事故で死んでたはずだからって。だから有り難く思って、一族の政略結婚の道具になれるように、しっかりお嬢様教育を受けさせられたのよ」一方、色々聞いた優希は、女の言葉を整理しようとしていた。しばらくして、彼女は尋ねた。「じゃあ、あなたはずっと紫藤早紀として生きてきたの?」「ええ。もちろん、今まで一度も帰ってきていないわ。帰りたくなかったわけじゃない。私が政略結婚の道具として仕上がるまで、紫藤家が帰国を許さなかったの」そこまで言って、早紀は冷ややかに笑った。「母のお葬式でさえ帰らせてもらえなかった。でも知ってるわよ、あなたがちゃんとお金を出してくれたことは」それを聞いて、優希は落ち着いた声で言った。「それはあなたの義理の父親があまりに冷たいと思っただけよ。あなたのお母さんにもちゃんとした最期を迎えて欲しかったし」「理由はどうあれ、お金を出してくれたことには感謝してる」早紀は少し間を置いて続けた。「私が最近帰ってこられたのも、あの『お偉い』父が、私を政略結婚の道具として認めてくれたからよ」すると、優希は、じっと彼女の様子をうかがった。早紀の話が本当なのか嘘なのか、優希にはすぐには判断できなかった。だからあとで帰ったら、音々に頼んで調べてもらおうと彼女は思った。ただ今、優希が確かめたいのは、このことを哲也がどこまで知っているか、ということだった。「いつ、哲也と連絡を取り始めたの?」「彼が出張に行った時よ」早紀は冷ややかに笑った。「驚いた?新井社長はあなたに嘘をついてたの。出張だなんて言って、本当は海外で私と一緒だったのよ」それを聞いて優希は彼女を睨みつけ、必死に感情を抑えながら言った。「どうしてそんなことをするの?」優希が言い終わるか終わらないかのう
優希は一歩、また一歩と女のほうへ歩み寄った。やがて、彼女はテーブルの前で立ち止まった。目の前にいる、まったく見覚えのない顔を見つめ、彼女の血の気の抜けた顔は、無表情だった。ただ、トレンチコートのポケットに突っ込んだ両手は、固く握りしめられていた。「座らないの?」女は顔を上げて優希を見た。「このお茶、とっても美味しいのよ。新井社長がわざわざ選んで持ってきてくださったの。どう?飲んでみてはいかが?」そう言いながら、彼女は湯気の立つお茶を、優希の目の前のテーブルに置いた。一方優希は視線を落とし、そのお茶を一瞥した。そして、少ししてから、彼女は腰を下ろした。お茶のいい香りが広がる中、優希もそれなりの心得があったので、匂いを嗅ぐだけでそれは極上のお茶であることが分かった。そして女がお茶を淹れる手つきも手馴れたものだった。長い髪はかんざしでまとめられ、モダンなドレスを身にまとったその姿は、彼女のしとやかで知的な雰囲気をいっそう引き立てていた。そして女は白く細い指で湯呑みを持ち上げると、静かにお茶を味わった。一方、優希は彼女の顔を、その目鼻立ちから肌のすみずみまで、じっと見つめた。どこにも面影はなかった。この人は、梓ではない。優希には、目の前の女と梓をどうしても結びつけられなかった。人がいくら変わったとしても、ここまで別人になるなんてあり得ない。でも、その声は梓とそっくりだ。それに電話では、親友でなければ知りえないはずのことを話していた。しばらくして優希は、女が湯呑みを置くのを待ってから口を開いた。「電話で、あなたは梓だと言っていたけど、何か証拠はあるの?」「証拠なんてないわ」女は目を上げて優希を見つめ、不敵に笑った。「信じるか信じないかは、あなた次第よ」「もしあなたが本当に梓なら、どうして今まで帰ってこなかったの?連絡もくれなかったのに、今さらどうして私に連絡してきたの?」女は優希を見つめて言った。「何をそんなに怖がっているの?私が今こうして帰ってきたとしても、あの飛行機事故はただの事故よ。だから安心して。旦那さんが法的な責任を問われることなんてないわ」だが、優希は彼女を見つめて、思考回路がひどく混乱していた。彼女にはどうしても、目の前の見ず知らずの女を梓だとは思えなかったから。しか
綾は話を聞き終えると、落ち着いた様子で何も尋ねなかった。彼女は安人を抱き上げ、頬にキスをした。「安人、お母さんと優希と一緒に何日も過ごせるのよ。嬉しい?」安人は素直に頷いた。「嬉しい」綾は安人の頭を撫でた。「お家で遊びたい?それとも優希と一緒に幼稚園のサマースクールに行く?」「優希ちゃんと一緒がいい」「分かった。じゃあ、明日お母さんがの先生のところに連れて行ってあげる。優希は音楽が好きで音楽教室を選んだんだけど、あなたは何が好き?」安人は少し考えてから言った。「レゴがいい!」「わかった。明日、先生に聞いてみるね」安人は言った。「ありがとう、母さん」「いい子ね
「私の車の中で話しましょう」音々は言った。「個人的なプライバシーに関わることなので、岡崎さんには少し席を外してもらえますか」輝は黙り込んだ。......音々の車は黒のランドローバーだった。綾は助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。ドアが閉まると、音々はエアコンをつけ、温度を調整した。綾は静かに音々を見ていた。服装から車まで、以前の彼女とは全く違っていた。これが音々の本当の姿なんだろう、と綾は思った。音々は綾の視線に気づき、その目には観察と評価の色が見えた。音々は軽く笑い、少し眉を上げた。「あなた、思ったより落ち着いてますが、意外じゃなかったですか?」綾は軽
「家庭内暴力っていうのは一度あると、何度も繰り返されるものなんです。彼にはその後も何度か暴力を振られたから、このままじゃダメだって気づいて、家にこっそりカメラを設置したのです。それで、子供が7ヶ月の時、私は彼に肋骨を折られて病院に運ばれました。その時の診断書と監視カメラの映像のおかげで、やっと解放されたんです」綾は唇を噛み、少し沈黙してから言った。「母親であることは、あなたの強みであるべきで、弱点ではないです」清子は一瞬たじろいだ。「あなたの元夫は子供を隠そうとしています。そして、あなたの言葉から察するに、彼は怒りっぽく、腹いせに子供を傷つける可能性もあります。だから、一刻も早く子
星羅は瞬きしながら、信じられないといった表情をした。「綾、不思議なんだけど、あなた前はあんなに碓氷さんのことが好きだったのに、彼のことを全然理解できないでいたのに、逆に好きじゃなくなった今の方が、以前よりも彼のことが分かるようになったみたいで......」それを聞いて、綾も少し驚いた。暫く沈黙が続くリビングで、湯沸かしポットの沸騰する音だけが響いていた。結局、これ以上この話題が続けられることはなかった。......一方で、南渓館、2階の寝室。点滴を打った後、誠也の状態は安定したが、まだ意識は回復していなかった。丈は医療バッグを片付けてから、寝室から出てきた。