Mag-log in浩平は、詩乃が突然そんなことを訊いてくるなんて、思ってもみなかった。数秒ほど固まって、やっと事態を飲み込めた。「もしかして、蛍のことで不機嫌なのか?」「先に質問したのは私よ」詩乃は不満そうに言った。「あなたが先に答えて」浩平は唇をきゅっと結んだ。彼はじっと詩乃を見つめた。その眼差しはとても深かった。しばらくして、浩平は静かにため息をついた。「最初は、俺のマネージャーが彼女を見つけてきてくれたんだ。多分俺の新しい映画の脚本を読んで、登場人物の設定を考えて、蛍を推薦してくれたんだろう」「それであなたは彼女の顔を見て、すぐに心を奪われて、翌日には雲城に飛んで会いに行ったってわけね」それを聞いて、浩平は目を丸くした。彼は困った顔で詩乃を見た。「話の流れはそうだけど、あなたの口から出ると、ずいぶんと違った意味のようにも聞こえるな......」詩乃は眉をひそめた。「どこが間違ってるっていうの?あなたが木下さんを気に入ったのは、その立派なお顔のせいでしょ?」「確かに、彼女の顔がきっかけだったよ」浩平は素直に認めた。「蛍のイメージが、新しい映画のヒロインにぴったりだったんだ」「本当にそれだけなの?」詩乃は浩平をじっと見つめた。「お兄さん、あなたの本心が聞きたい」そう言われて、浩平は彼女を見つめ返した。彼も詩乃がこれほどはっきりと感情を乱しているのを感じたのは、初めてのことだったから。それは、何かを探りたくてたまらないが、ハッキリするのが怖いというもどかしさが入り混じったような乱れ方だった。詩乃は子供のころから、家で決められたたくさんのルールに縛られて育ってきた。だから、自分の感情を持つことさえ許されなかった。だから、そんな風にあまりにも素直で、聞き分けよく育てられた彼女は、ずっと自分の意見というものを持つことがなかった。二人の結婚が、たぶん詩乃の人生で初めて、自分で決めたことだったのだろう。でも、結婚しても、この子を産むと決めても、詩乃は相変わらずだった。いつも他人の気持ちを優先してしまい、そして自信を持てないデリケートな性格は変わらなかった。今回のトレンド騒動も、そうだ。ネットニュースで騒がれ始めたとき、浩平が真っ先に考えたのは、トレンドに上がらないように何か手を打つことだった。本当は、きちんと釈
しかし、蛍は話が通じていないのか、あるいは分かっているけど、気に留めようとしない様子だった。彼女は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、さらに言った。「浩平兄さんって、あんなに素敵な人なのに、奥さんが詩乃さんみたいな人だなんて、ちょっと予想外だった。あ、誤解しないでね。詩乃さんが悪いって言ってるわけじゃなくて、ただ浩平さんの隣に立つには、ちょっと地味だなって。それに、仕事の助けにもなれなさそうだし」「木下さん、失礼ですが、旦那様とはお知り合いになって長いのですか?」蛍は一瞬固まったが、花梨を見て、あっけらかんとした様子で首を横に振った。「いや、会ったのは数日前だけど。でも、昔からずっと知ってたんだ。彼の初公開の映画から好きで、私はこれでも浩平兄さんの大ファンなのよ!」そういうことだったのね。「でも、ファンと現実の友人や恋人とは違います。木下さんはまだ若いのに、旦那様の新作映画のヒロインに選ばれるなんて、とても幸運ですよ。だから、このチャンスを大切に、頑張って勉強してください」蛍は笑いながら「分かった」と答えたが、花梨はその空返事から、彼女が自分の忠告をまったく聞き入れていないことを察したのだ。まっ、人にはそれぞれの考えがあるでしょう。自分ってお節介ね。会って半日も経っていない子に、何も一生懸命になることはないと花梨は思った。......一方で、二階の寝室では、浩平がドアを開けて部屋に入ってきた。詩乃はドアに背を向け、横向きに寝転がっていた。ドアが開く音に彼女はびくっとし、慌てて涙を拭うと、目を閉じて寝たふりをした。うまくごまかせたと思ったが、浩平は詩乃が涙を拭う仕草をしっかり見ていた。彼はベッドに歩み寄ると、屈んで手にしたブドウ糖液をサイドテーブルに置いた。「詩乃」男は詩乃のそばに腰を下ろし、その大きな手をそっと彼女の肩に置いた。「起きてるんだろ」すると、固く閉じていた詩乃のまぶたが、ゆっくりと開かれた。浩平は彼女の横顔を見て尋ねた。「泣いてたのか?」「泣いてない」詩乃は食い気味に否定した。「さっき、こっそり涙を拭いてたの、見てたよ」詩乃は唇を噛み、布団を強く握りしめた。「俺が何か悪いことしたかな?教えてくれないか?」浩平は優しい声で、辛抱強く彼女に語りかけた。詩乃にも彼が本当は、自分に
一方で、浩平が階下に降りてきたとき、蛍はちょうど出かけようとしていた。浩平がこんなに早く降りてきたのを見て、彼女はすぐに駆け寄り、「浩平さん、詩乃さんはもう寝た?」と尋ねた。「いや、まだだよ」浩平はキッチンの入り口まで行くと、食器を洗っていた花梨に言った。「とりあえず、経口補水液を用意してもらえないか」花梨はすぐに答えた。「はい、すぐにお持ちします」そして、浩平はくるりと向きを変え、リビングへ向かった。彼はソファに座ると、スマホを取り出してラインを開き、詩乃の産婦人科の医師とのトーク画面にメッセージを打ち込み始めた。蛍は浩平のそばに立ち、彼のスマホを覗き込むと、入力中のメッセージが目に入った。片や、医師に相談のメッセージを送っていた浩平はそれに気が付くことはなかった。ほどなくして、花梨がキッチンから出てきて言った。「旦那様、経口補水液をお持ちしました」その声を聞いて、浩平はスマホを閉じると立ち上がり、花梨の方へ歩み寄った。「ありがとう」浩平は花梨からカップを受け取ると言った。「あとで消化にいい物も作っておいてくれるかな。詩乃の調子が良くなったら、食べたがるかもしれないから」「はい、わかりました」と花梨はうなずいた。それから、浩平は経口補水液を手に、踵を返して二階へと上がっていった。浩平の後ろ姿が階段の踊り場に消えるのを見届けてから、蛍はやっと花梨の方を向いた。彼女はくるりと瞳を動かすと、花梨に歩み寄った。そして、あどけない顔でぱちぱちと瞬きをしながら尋ねた。「花梨さん、浩平さんって、詩乃さんにいつもあんなに優しいの?」花梨は蛍を見つめた。彼女は今日初めて蛍のことを知ったわけではなかった。ネットで写真を見たとき、その美しさに息をのんだほどだ。実は、彼女も例のトレンドも見たのだった。花梨は浩平が監督する作品のファンとまではいかないが好きで、ツイッターもフォローしていたのだ。だから、この件についても、ある程度は事情を知っていた。今日、浩平から蛍が新作映画のヒロインだと聞いても、花梨は特に驚かなかった。これほど美しい顔立ちなら、きっとスクリーンを飾るのにふさわしいだろう。ただ、花梨はこの女の子が少し馴れ馴れしすぎるように感じていた。もっと正確に言えば、浩平に対して、あまりにもべったりしすぎている
「ああ」浩平は短く答えると、そのまま階段を上がっていった。蛍は浩平の後ろ姿を見つめ、その美しい顔にどこか複雑な表情を浮かべた。やがて彼女はスプーンを置き、スマホを取り出した。蛍はラインを開くと、母親とのトーク画面にメッセージを送った。【お母さん、浩平兄さんの奥さんに会ったよ。妊娠してるらしいの】......一方で、部屋に戻った詩乃は、トイレへ駆け込み吐いてしまった。ここに来てから初めてのつわりだった。寝不足のせいか、食べたばかりの朝食を全部戻してしまった。胃はまだ痙攣するように気持ち悪い。便器の前にひざまずき、何度もえずいたが、もう何も出てこない。涙で顔がぐちゃぐちゃになり、肩を小刻みに震わせながら、彼女は心身共に耐えがたい苦痛にさいなまれていた。そして、部屋に入ると、バスルームから聞こえる嘔吐の声にはっとした浩平は慌ててバスルームへ向かった。「詩乃!」その声を聞いて詩乃の背中がこわばったが、反応する間もなく、浩平が隣にしゃがみこみ、大きな手で優しく彼女の背中をさすってあげた。「また吐いたのか?」それから、浩平は詩乃を立たせると洗面台まで連れていき、蛇口をひねってコップに水を汲み、彼女の口元へ運んだ。「まずは口をゆすって」詩乃はもうぐったりしていて、洗面台についた両手もかすかに震えていた。うつむいて水を一口含むと、口をゆすいで吐き出した。数回繰り返すと、胃の不快感はずいぶん和らいだ。詩乃の様子を見て、浩平は彼女を横に抱き上げてバスルームを出た。彼は詩乃をベッドに寝かせると、布団をかけてやった。彼女の青ざめた顔を見て、浩平は眉をひそめた。その深い瞳には、痛ましげな色が浮かんでいた。「まだ気持ち悪いか?」だが、詩乃は首を横に振り、目を閉じた。「疲れたの。眠りたい」激しく吐いたせいで彼女の声はかすれ、目じりには涙が光っていた。浩平は、吐いたせいで自然に出た涙だと思い、指の腹でそっとぬぐってやる。「テントで寝るか?」彼の声は低く、優しかった。だが、詩乃は首を振った。「大丈夫」彼女が本当に辛そうなのを見て、浩平は小さく息をついた。「わかった。下に降りて経口補水液を用意してくるよ。全部吐いただろうから、少し水分を補給しないと、脱水症状がでたら大変だ」詩乃は目を閉じたまま、かす
蛍は、浩平と詩乃の前で立ち止まった。若い彼女は、ふとした表情も笑顔も、まるでフィルターがかかったみたいにキラキラして見えた。その若々しくてハリのある整った顔を間近で見て、詩乃はさらに劣等感を募らせた。彼女はとっさにスカートの裾をぎゅっと握りしめ、全身をこわばらせた。「ちょうどよかった。紹介するよ、こちらは俺の妻だ」浩平は、詩乃の肩をそっと抱き寄せた。「我妻詩乃というんだ」蛍は詩乃に視線を移すと、キュッと口角を上げて、天真爛漫な笑顔を見せた。「あなたが浩平さんの奥さんなんですね。これからは詩乃さんって呼んでもいいですか?」そう聞かれて、詩乃はなんとか平静を装い、蛍にうなずき、微笑んでみせた。「木下さん、こんにちは。いらっしゃるとは知らなくて、なにもおもてなしの準備ができていないんです。ごめんなさいね」「詩乃さん、そんなこと言わないでください。浩平さんが選んでくれなかったら、こんな素敵な場所に来られませんでしたから。お二人に迷惑だと思われないだけで、私はすごく嬉しいんです」蛍は明るい声で、少しおちゃめに言った。その活き活きとした雰囲気は、まさに二十二歳の若者らしく、生命力にあふれていた。浩平は詩乃に視線を向け、落ち着いた声で言った。「詩乃、この子が話していた新しい映画のヒロイン、木下蛍だ。演技の専門教育も受けたことがないし、経験もないから、ちゃんとしたトレーニングが必要なんだ。だからしばらくは、俺たちと一緒にここで過ごすことになるけど、明後日には俺のマネージャーが専門チームを連れてくるから」それを聞いて、詩乃はうなずいた。新しい映画のヒロインのために蛍を連れてきたという理由なら、詩乃もこれ以上何かを問い詰めることはできなかった。ただ、どうしても考えてしまう。浩平がこんなに蛍を大切にしているのは、本当に映画のためだけなのだろうか。......朝食の時間、蛍は浩平にひっきりなしに話しかけていた。この町のことや、映画のこと。まるで世間知らずの子供のように、何にでも興味津々だった。そして浩平も、蛍のどんな質問にも根気よく答えてあげていた。その一方、詩乃は最初から最後まで、うつむいて黙々と食事をしていた。もちろん、詩乃だって浩平と二人きりの時は、こんなに静かなわけじゃないが、蛍みたいに天真爛漫で物怖じしないように
蛍の母親が何をしている人なのかは、誰も知らない。でも、学校の友達の話だと、蛍はいつも身なりがよかったらしい。彼女の母親も知的で綺麗な人で、服装もちゃんとしていて、きっと実力のあるキャリアウーマンなんだろうって。でも、これは全部ネットの情報だから、本当かどうかは分からない。詩乃は、浩平が電話で話していたことを思い出し、多分ネットの噂は本当なんだろうな、と思った。だから、浩平が蛍の母親に頼まれて、わざわざ雲城まで契約の話をしに行ったのだ。それだけ彼女は母親に大切に育てられてきたのだろう。片親ではあったが、蛍は母親から愛情をたくさんもらって育ったんだろう。しかし詩乃は、蛍のすっぴんの写真を見て、なぜか胸がちくりと痛んだ。確かに、すごく綺麗な顔。映画のヒロインだって余裕でこなせそう。でも、一番うらやましいのは、蛍の顔が浩平の初恋の人とそっくりなことだった。そう思いを巡らせて、詩乃はスマホの画面を消した。そして、薄暗い部屋で、彼女は切なげなため息を漏らした。「人を好きになるって、こんなにも気持ちが揺さぶられることなのね......」......その晩詩乃はずっと寝返りを打って寝付けずにいた。そして朝の4時ごろになって、ようやくうとうとし始めた。どれくらい眠っただろう。階下から、かすかに誰かの話し声が聞こえてきた。詩乃は眉をひそめ、なんとか目を開けた。ひどく痛む目をこすりながら、彼女は手探りでスマホを掴んで見ると、時刻は午前9時15分だった。部屋のカーテンは閉め切られていて、部屋の中は薄暗いままだった。詩乃が体を起こしてベッドから降りようとした、その時だった。不意に部屋のドアが開いたのだ。そこにいたのは、黒い服を着てスーツケースを引く浩平だった。目が合って、詩乃は呆然としてしまった。浩平は部屋に入るとドアを閉め、スーツケースを隅に置いてから、彼女の方へ歩み寄った。詩乃は、一歩一歩近づいてくる浩平から目が離せずにいて、胸の鼓動が、どうしようもなく速くなるのだった。片や、浩平は詩乃の前に来ると、その手で彼女の額や頬に触れた。熱がないことを確かめると、ベッドの横にそっと腰を下ろした。そして、詩乃の小さな鼻先を指でつついて、にこりと微笑みながら尋ねた。「今日は随分な寝坊したな?」詩乃は、まつ毛を