LOGIN一方、桜は、きつく握りしめていた拳をゆっくりと開いた。彼女は冷たく鼻で笑うと、その瞳から光が少しずつ消えていき、そして、京子の口調を真似て言った。「いいや。あなたはきっとろくな死に方をしないでしょうね、それがあなたの報いよ」それを聞いて、京子は一瞬言葉を失ったが、すぐにさらに激しく罵り始めたのだっただが桜はもう彼女に構うことなく、くるりと背を向けると、「住所を送って」とだけ言い残してその場を去った。一方、望み通りの結果を得た京子は、ようやく悪態をつくのをやめた。しかし、それでも腹の虫がおさまらず、先月丹精込めて選んだ高級な茶器セットをテーブルからすべてなぎ払った。ガチャンと割れる音は、まるで桜のズタボロの人生を象徴しているかのようだった。……そして夜の帳が下りた頃、桜は適当な嘘をついて寧々を言いくるめると、一人で家を出た。彰人の専属の運転手は、すでに彼女のマンションの前に車を停めて待っていた。桜は車のそばまで歩いて行くと、自分でドアを開けて乗り込んだ。一方、運転手はバックミラー越しに、彼女の普段着とすっぴんの顔を見て、わずかに眉をひそめた。「桜様、会長からはきちんとおめかしするようにと、特に言いつかっておりましたが、そのお姿は……」だが、桜はただ呆れたかのように、淡々と言った。「2年もの間、飼い殺しにされて1円の稼ぎもなかったの。ドレスも化粧品も買えないわ。この服だって、他の人に借りたものなんだから!」そう言われ運転手は言葉に詰まった。桜は冷たく運転手を一瞥した。「行くの、行かないの?行かないなら私はもう家に帰るわよ」そう言われると、運転手も仕方なく口をつぐみ、運転に集中することにした。……10分後、5つ星ホテルに到着すると、運転手は車を停めて、桜を連れて地下駐車場からエレベーターに乗り、まっすぐ8階へと向かった。そして、8階の個室のドアが開くと、運転手は恭しく言った。「会長、桐島社長、桜様がお見えになりました」すると個室で談笑していた二人は、同時にドアの方を振り向いた。運転手は脇へよけると、桜に手で合図した。「桜様、お入りください」一方、桜は冷たい表情のままだったが、ポケットに隠されたきつく握りしめた両手はとっくに汗で湿っていた。彰人はそんな格好で来た桜を見ると、途端に顔色をこわばらせ
そんな言葉、桜はもう耳にタコができるほど聞かされていた。京子からの罵詈雑言を聞くたびに、「また同じこと言ってる。他にレパートリーはないのかしら?」と心の中でツッコむ余裕さえあった。その度に桜は思わず自分はやっぱり、京子と前田彰人(まえだ あきと)の後ろめたい関係から生まれた子なのだと、思ってしまうのだ。だって、京子が狂ったようにわめき散らす中で、別のことを考えられるのだから、自分もあの二人の身勝手で冷酷な血を引いているに違いないだろう。そして、今もそうだ。「桜、あなたは私に借りがある。一生かかっても返しきれないほどのね!」という決まり文句が出た時、桜は次に京子が何かを要求してくるのだと察した。案の定、次の瞬間、桜の耳に飛び込んできたのは、予想通りではあったものの、あまりにも馬鹿げた言葉だった。「お父さんが言ってたわ。あなたが今夜の接待に付き合って、この契約を成立させたら、私を前田家に戻すことも考えてくれるって。桜、これはあなたにとって私に借りを返すチャンスなのよ!」だが、桜はあまりに馬鹿馬鹿しくて、思わず笑い声を漏らしてしまった。そして、彼女はダルそうに顔を上げ、頬を押さえていた手をゆっくりと下ろした。色白の頬には、くっきりと手の跡が赤く残っていて、京子の手加減のなさを物語っているのだった。それに加えて、あまりにも当然といった顔でくだらない要求を言う京子を前に、桜の気持ちはすっかり冷え切ってしまったのだった。そう感じて、桜は冷たい表情で問い返した。「私みたいな干されて借金まみれの、落ち目のタレントに、前田会長の商談を手伝い力なんてあるわけないでしょ。お母さん、どうかしてるんじゃない?」「とぼけないで、桜!正直言わせてもらうわね。今回は桐島社長がお父さんに、あなたを連れてこいって指名したのよ!だから、あなたさえ言う通りにしてくれれば、桐島社長はお父さんとの契約を決めるだけじゃなく、あなたにもこれまでにないほどのいい仕事を回してくれるそうよ。あなた、演劇が好きなんでしょ?桐島社長の言うことをよく聞けば、どんな脚本でも手に入るのよ。それにあなたみたいなのが桐島社長に気に入られただけでも幸運なんだから。まだ若くて価値があるうちに、このチャンスをしっかり掴まないと!」そう言われ、桜の堪忍袋の緒が切れた。京子が何を言うか、
そう思って、加藤は首を横に振ると、くるりと背を向けてキッチンへ入っていった。一方リビングで、桜は京子の前に立つと、ぐっとこらえて声をかけた。「お母さん」その声に応えるかのように、乾いた音が響いた。平手打ちだった。「どの面下げて私をお母さんなんて呼ぶの?!」京子は立ち上がると、桜の顔を思い切りひっぱたいた。それでもまだ足りないのか、今度は力いっぱい突き飛ばした。だが、桜は一歩よろめき、うつむいて打たれた頬を押さえただけだった。彼女はもはや実の母親からの暴力に、もう何も感じなくなっているのだ。いつもこうだった。だからもう、慣れてしまった。京子は、桜の言い分なんて聞く気がなく、どんなに謝っても、懇願しても、決して耳を貸してはくれない。だから桜は、ただ待つしかなかった。京子の気が済んで、疲れて手を止めるのを。ただ、ここ数年で京子の体はすっかり弱っていた。30秒も経たないうちに、彼女は胸を押さえてソファに崩れ落ち、肩で息をし始めた。それでも、桜を睨みつける彼女の目には、変わらぬ憎悪が宿っていた。「桜、あなたは疫病神よ!あなたが圭佑を殺したの!今度は私まで殺す気なのね!どうして、どうしてあの時死んだのがあなたじゃなかったの!」一方、桜は、母親の言葉を感情を殺して聞いていた。そうだ、桜も何度も自分に問いかけた。どうしてあの時、生まれつき体の弱かった双子の弟の春日圭佑(はるひ けいすけ)じゃなくて、自分が生き残ってしまったんだろうって。だが、桜はうつむいたまま、何も言わなかった。泣いて抵抗したこともあった。でも、何も変わらなかった。父親には認知されず、母親には憎まれている。そんな自分の気持ちなんて、誰にも気にしてもらえないのだ。昔はいつも悔しくて泣いていた。でも涙を拭いては、きっと自分に悪いところがあるから、両親も嫌うんだって言い聞かせていた。もっと良い子になれば、きっと二人は自分のことを見てくれる。好きになってくれるはずだって、そう信じていた。そうやって桜は、自分は誰にも負けないってことを証明しようと、必死に頑張った。でも大人になるにつれて、そんな努力がどれだけ滑稽なことだったか、思い知らされた。自分の存在そのものが、両親にとっては間違いだったんだ。二人とも自分を死ぬほど憎んでいるはずなのに、自分を見
それを聞いて、優希は眉をひそめた。「ヤバい商売?それじゃ、春日さんが契約を解除するのは、もっと難しくなりますね」「ええ、だから本当に厄介な裁判なの。契約書の内容だけじゃなくて、桐島のバックについている、得体のしれない勢力もいるから。だから春日さんは、弁護を引き受けてくれるところを見つけられなかったのよ!」「少し考えさせてください」優希は唇を引き結び、志音を見た。「先輩、昔の私だったら、報酬がなくても引き受けたはずですよ。あなたも知っているでしょう?女性が虐げられるのを見過ごせない性格です。でも、今は子供が二人いるから、あの子たちのことも考えないといけません」海外のヤバい商売は、大抵、裏社会の組織が関わっているものだ。そういう連中は命知らずばかり。母親になった今、自分と子供たちを少しでも危険な目に遭わせるわけにはいかないのだ。「あなたの気持ち、分かるわよ」志音は彼女の手をポンと叩いた。「分かるからこそ、こうしてまずあなたに相談したの。春日さんにも、この案件はたぶん引き受けられないと思うって伝えてある」「もう少しだけ考えさせてください。春日さんには、今はとにかく事を荒立てず、じっとしておくように伝えてもらえますか?」「わかった」……一方、桜は法律事務所を出て、ワゴンを売って買い替えた軽自動車で、自宅の方向へ向かった。そしてスマホが鳴ったから、桜は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手でスマホを探し当てた。だが、画面を見て、彼女は一瞬固まった。だが彼女が出たくないのを、相手も分かっているようで、呼び出し音が自然に途切れると、すぐにメッセージが一件届いた。桜が指を滑らせ、うっかりそれを開いてしまった――【今すぐ帰って。帰ってこないなら、今すぐ屋上から飛び降りるから。私が死ねば、あなたも自由になれるでしょ!】キキーッ――その甲高い急ブレーキの音が響き渡るのと同時に、交差点の赤信号の前で軽自動車は止まった。もう少しで前の車に追突するところだった。それはナンバーがゾロ目のマイバッハだった……その瞬間、桜はまだドキドキしている胸を撫でおろした。もしぶつかっていたら、家を売らないと弁償できないだろう。そしてすぐに信号が青になり、前の車は走り出した。桜は視線を前に戻し、そっとアクセルを踏んだ。交差点を
「あなたも聞いたら絶対怒ると思う。春日さんは事務所にハメられたのよ。とんでもない奴隷契約を結ばされてて……来月で契約が切れるから、それを機に引退して実家に帰るつもりだったみたい。でも、マネージャーが辞めさせてくれないんだって。契約書の不利な条項を盾にしてきて……」……30分後、優希はだいたいの事情を把握した。要するに、桜は契約満了で辞めたいけど、事務所が辞めさせてくれない。もし強引に辞めるなら、高額な「育成費」を請求されるってこと。それに、桜はこの2年、事務所にほとんど干されてたみたい。もらえる仕事は雀の涙ほどで、これといった代表作もない。しかも、新人を売り出すためのダシにされてたらしい。それを聞いて、優希は少し考えてから言った。「契約したのは13歳の時なんでしょう?未成年なんだから、責任は保護者にあるはずですよ」「彼女の母親は田舎の人で、学歴もないのよ。ああいう不利な契約書って、わざと難しい言葉で罠にかけてくるじゃない。子供と、そういうのに疎い母親じゃ、カモにされるに決まってるわ!」「契約書を見る限り、円満に解決するには、春日さんもある程度の出費は覚悟しないとですね」優希は真剣な表情で、志音を見つめて言った。「そこは菊地さんの事務所でしょう。もしかしたら、あなたが直接菊地さんに話を通した方が、うまくいくかもしれないんじゃないですか」「やめてよ!」志音は呆れたように言った。「私にそんな力があるわけないじゃないですか。あの男はいま、事務所一押しの新人女優に夢中なんだから。ドタキャンした元婚約者のことなんて、かまってる暇ないわよ」そう言われると、優希は何も言えなかった。確かに、結婚式当日に逃げ出した元婚約者なんていうのは、嫌われて仕方がないはず。「それに、昴が正式に『ステラ・エンターテイメント』を継いだのは5年前だし」志音は付け加えた。「春日さんの契約は、前の社長と交わしたものなの。今の代表取締役で、二番目の大株主でもある桐島金吾という人だよ」「桐島金吾?」優希は眉をひそめた。「彼にそんなに力があるんですか?菊地さんよりも?」「彼はステラ・エンターテイメントの創業者よ。でもその後、経営不振かなにかで株を切り売りしたみたい。昴は他の人からバラバラの株を買い集めて、筆頭株主になった。それでまんまと桐島を追い出して、社長の座
一方、月曜の朝。哲也はまず二人の息子を幼稚園へ送り、それから優希を法律事務所まで車で送った。車内で、優希はシートベルトを外しながら言った。「私、午後に裁判があるから、お迎えには間に合わないかもしれない」「気にしないで。仕事が優先だろ。お迎えは俺が行くから」「うん、じゃあ、行ってくるね」それで優希が車のドアに手をかけると――「待って」そう声を掛けられて優希は動きを止め、振り返って哲也を見た。「どうかした?」哲也は少しぎこちない様子で言った。「ええと、舞台のチケットが二枚手に入ったんだ。前にあなたが好きだって言っていたあの有名な舞踊劇が今週、北城国際大劇場で上演されるらしい、もし時間があったら、と思って……まあ、忙しかったら気にしないでくれ」「二枚?」優希は聞き返した。哲也はチケットを取り出して、彼女に手渡した。「ああ、二枚だ」「ほんと?」優希はチケットを受け取ると、軽く眉を上げて微笑んだ。「ちょうどよかった。古川先輩もこの舞台が好きなのよ。二人で一緒に行けるわ。忙しくてチケット取れなかったから、すっごく助かる!ありがとう!」そう言われ、哲也は一瞬言葉に詰まったが、仕方なさそうに笑った。「お礼なんていいよ。二人で楽しんできて」「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね」優希はチケットをバッグにしまうと、彼に手を振った。「またね」哲也は頷くと、優希が車を降りてビルに入っていくのを見送った。そして、ようやく視線を外し、こめかみを軽く揉んだ。しばらくして、彼は仕方なさげに口の端を上げた。優希がわざととぼけていることには、彼も気づいていた。この半年、あれこれとアプローチしてきたが、優希は全く乗ってこなかった。それで哲也は今になってようやく、かつての優希が、どれほど自分を簡単に受け入れてくれたかを身に染みて感じたのだった。かつて、彼女はあんなにも情熱的で、惜しみない愛情を注いでくれたのに。それなのに、自分はまだ卑下してばかりいたのだった。今になって、自分がどれだけ馬鹿だったのかを思い知らされた。女の子の一番大切で、きらきらした青春を全部自分にくれたのに、自分はそんな彼女の愛情を疑ってばかりいた。だが幸いにも、一度死にかけたことで、目が覚めた。幸い、まだ何もかも手遅れというわけじゃない。これから
「母が呼んでる!」綾は駆け寄ろうとしたが、要が手を伸ばして引き止めた。この時期の古雲町は気候が穏やかで、綾は半袖を着ていた。男の手のひらは温かくて、乾いていた。綾は動きを止め、自分の手首を掴んでいるその手に視線を落とした。指はすらりと長く、関節がはっきりとしていた。要は彼女の視線に気づき、手を離した。「ごめん。少し待ってほしい、と言いたかっただけだ」綾は気にせず、ただ母親のことが心配だった。「母が私を見つけられなくて、不安になっていないか心配なの」「少し様子を見てみよう」と要は言った。「彼女に落ち着く時間を与えないと」綾はすぐに要の意図を理解し、唇を噛み締め
「構いません」綾は淡々と言った。「北城に戻るって決めた時から、誠也と顔を合わせる覚悟はできています」丈は驚いたように彼女を見つめた。「つまり、あなたは碓氷さんと......」「はい、とりあえず離婚訴訟をするつもりです」綾は丈の方を向いた。「あなたもご存知の通り、今の私には強力な後ろ盾がありますから、誠也もそう簡単に立ち向かえないはずです」丈は唇を噛み締め、しばらくして尋ねた。「この4年間ずっと疑問に思っていました。君がそう言うなら、遠慮なく聞かせてもらいますが、君を助けているのは一体誰なんですか?」しかし、それを聞かれた綾はただ微笑んだだけで、何も答えなかった。丈は仕方がな
安人は眉をひそめたが、何も言わず、手に持った子供用箸を見下ろした。箸の持ち方が間違っていたのだ。優希は手を止め、彼に子供用箸の使い方を教えた。「親指はここ、人差し指はここ......そうそう、安人くん、上手だね。じゃあ、私のようにお肉を挟んでみて。挟んで、口を開けて、あーん」優希の根気強く教えたおかげで、安人は子供用箸で牛肉を挟んで口に入れることができた。優希はすぐに箸を置き、両手で拍手した。「安人くん、すごいじゃない!私はこの箸を使うのに何日もかかったのに、安人くんは一発でマスターできた、天才だね!」安人は褒められて恥ずかしがってしまい、顔が赤くなった。そして、照
文子と史也は、綾が北城に帰ると聞き、複雑な気持ちになった。しかし、彼らも心の中では、綾は今度こそ帰らなければならないと分かっていたので、それ以上何も言わなかった。この家は綾が購入したもので、古雲町ではそれほど価値のあるものではないが、綾はこの家を気に入っていたので、そのまま残しておくことにした。全てが落ち着いたら、また古雲町に戻って暮らすかもしれないから。ここは幸福度の高い小さな町で、都会の喧騒よりも、綾はここの方が好きだった。綾は最低限の衣類と日用品だけをまとめたので、荷物はそれほど多くなかった。スーツケースは二つ、綾と優希の分だ。......翌日、誠也が自ら