LOGINゴールデンウィークの3日前、俺――唐沢雅人(からさわ まさと)のもとに、労働基準監督署から電話がかかってきた。 「従業員の方から、『休暇中の社員旅行への参加を事実上強制されている』との相談がありまして……」 一瞬、何のことかわからなかったが、SNSで検索してみて、思わず目を疑った。 先月入ったばかりのインターンが投稿した動画が拡散され、地元で話題の動画として上位にまで上がっていたのだ。 【ゴールデンウィークまで社員旅行を強制するブラック社長、社員を何だと思ってるの?】 【「自由参加」って言われても、こんなの断れるわけないでしょ】 コメント欄は何万件もの批判や罵倒で埋まり、俺はすっかり悪者扱いされていた。 けれど実際のところ、うちの社員旅行は昔から費用を全額会社負担にし、仕事は一切なし。旅行中も有給の特別休暇扱いにするなど、かなり手厚い内容にしてきた。 しかも今回は、俺が自腹を切ってモルディブ7日間の豪華旅行まで用意していた。 食事代も宿泊費もすべてこちら持ちで、一人あたり40万円の旅行補助まで付け、勤続年数の長い社員には家族の同伴も認めていた。 それでも、そこまで「自由」が大事だというなら、こちらが用意した有給旅行に無理して付き合ってもらう必要もないだろう。 俺は労基署の担当者に、ひと言だけ返した。 「必要な確認や対応には、すべて協力いたします」 電話を切ると、そのまま全社チャットにメッセージを送った。 【労働基準監督署からの指導を受け、ゴールデンウィークに予定していた社員旅行は中止します。期間中は全員、カレンダーどおりに休んでください】 【また、今回予定していた旅行補助金と社員旅行の予算は、全額を会社資金として留保します】 送信した途端、オフィスのドアの向こうから、誰かが机を思いきり叩く音が響いた。
View More「社長……お願いします。配信で入った分も全部返します。ちゃんと謝ります。だから、これ以上は……」俺はテーブルに置いてあった書類を手に取り、紗季の前で開いた。「これは警察に提出した告訴状の控えだ」次の書類を見せた。「こっちは法務がまとめた損害額の試算だ。今回の件で会社に出た損害は、今後の影響まで含めて6000万円を超えてる」さらに別の書類を取り出した。「それから、裁判所から届いた呼出状だ。いつ出ることになってるか、自分で見ろ」書類を差し出すと、紗季は震える手で受け取った。「みんなのためだって言ってたよな。だったら、なんで嘘までついてこんな騒ぎにした?おかげで俺だけじゃなく、会社のみんなまで散々振り回された」紗季はうつむいたまま何も言えず、手元の書類に涙を落とした。会議室を出る直前、健太はスクリーンを振り返った。配信のコメントはまだ流れ続けていた。【もうこれ自業自得でしょ】【これクビだけじゃ終わらなくない?】【小川さんも騙されてたとはいえ、あの動画出したのは本人だからな】視聴者はもう、紗季が会議室に入ってきたときの4倍まで増えていた。それでも、2人をかばうコメントはほとんど流れてこなかった。2人は警察官に付き添われ、そのまま会議室を出ていった。廊下は静まり返り、靴音だけが遠ざかっていった。紗季が和彦のそばを通りかかったとき、和彦が声をかけた。「次からは、うまい話を簡単に信じるなよ」紗季は顔を上げず、そのまま歩いていった。扉が閉まり、2人の姿が見えなくなると、会議室に張りつめていた空気もようやく緩んだ。俺はその場を離れ、窓際へ向かった。会社の前には白い貸切バスが1台、エンジンをかけたまま待っていた。運転手はドアの横でスマホを見ていた。1階へ下りると、社員たちはもう荷物を持って集まっていた。大きなスーツケースを引く人もいれば、リュック姿の人もいる。久美子はキャリーケースを引きながら、家族に電話で出発を知らせていた。「お前ら、荷物いつ持ってきたんだ?」「先週ですよ」和彦が笑いながらサングラスを差し出した。「みんな行く気満々で待ってたんです。いつでも出られるように準備してましたよ」俺はそのサングラスをかけ、和彦と一緒に外へ出た。外に出ると、昼の日差しがまぶしかった。さ
配信はまだ続いていたが、誰も止めようとはしなかった。後ろの隅では、若手4人が身を寄せ合ったまま、誰も口を開かなかった。俺はもうそちらには目を向けず、中央に座る古参社員たちを見た。久美子と和彦をはじめ、美香や直樹、それに各部署で長く働いてきた社員たちが並んでいた。この3日間、彼らはネットには一度も書き込まず、騒ぎに便乗して俺を責めることもなかった。ただ普段どおり仕事をして、時々久美子に俺の様子を聞いていた。思わず口元が緩んだ。笑ったのは、この3日で初めてだった。「みんな、これで一つ片づいた」美香は目を潤ませ、和彦は鼻をすすって、何でもないふりで顔をそらした。「でも、俺たちの休みはこれからだ」俺はスーツの内ポケットから、さっきとは別の封筒を取り出した。「労基署から確認が入った以上、会社行事としての社員旅行はいったん中止にした。そこはもう決めたことだ。ただ、俺が個人的にみんなを旅行に招くなら話は別だ」封筒から書類を取り出し、テーブルの上に広げた。「旅行の期間は特別休暇にする。行き先も予定どおりモルディブだ。7日間、ビジネスクラスに水上ヴィラ。補助金も予定していた額より16万円増やして俺が出す。家族も一緒でいい。ホテルには昨夜もう一度確認を取ったし、航空券の変更も済んでる」久美子が驚いた顔で俺を見た。「社長……いつの間に、ここまで?」「この3日間、俺が何もしてなかったとでも思ったか?」久美子の目から涙がこぼれた。「ニュージーランドのときも、それ以前の旅行のときも、ずっと一緒に会社を支えてくれたのはみんなだ。せっかく楽しみにしてたんだ。ここで金を惜しむつもりはない」和彦もとうとうこらえきれず、嬉しそうに笑った。「ただし――」俺はみんなを見回した。「今回参加するのは、今回の騒ぎに関わっていなかった社員と、その家族だけだ」そう言って、俺は後ろの数人を一度だけ見た。その言葉が最後の追い打ちになったのか、紗季の表情がまた強張った。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、目の前で喜び合う社員たちを、ただ黙って見つめていた。古参社員たちは次々と席を立ち、あちこちで歓声が上がった。美香も直樹のそばで嬉しそうに声を上げ、和彦はもう妻に電話をかけていて、その大声は会議室の外まで聞こえそうだった。
「俺を追及したいなら、好きにしてください。でも、あの取引の代金はもう入ってきませんよ。俺からの置き土産ってことで」その一言で、会議室が静まり返った。久美子の顔も険しくなり、近くで誰かが息を呑む音まで聞こえた。配信のコメントも、ほんの一瞬だけ途切れた。【こいつ開き直りすぎだろ】【6000万の取引横取りしといて、よくそんなこと言えるな】俺はしばらく健太を見つめたあと、ふっと笑った。健太は一瞬、面食らったような顔をした。「……何がおかしいんですか?」「和彦、最後の資料を出してくれ」和彦がパソコンを操作すると、スクリーンに映ったのは、健太がさっき6000万円を超える取引だと言っていた相手の信用調査資料だった。4月下旬から支払いが滞り、先週には債権者から仮差押えも申し立てられていた。代表ともすでに連絡がつかなくなっていた。さらに別の資料には、姿を消す3日前、会社の口座から大半の資金が動かされていた記録もあった。健太の顔から、さっきまでの余裕が消えた。「もう分かっただろ。仕入先への未払いは14億円以上。それなのに逃げる直前まで、払う気もないままあちこちへ発注して、商品だけ受け取ってた」俺はそのまま続けた。「お前が持ち出した見積データと顧客情報は、2週間前に俺がわざと目につくところへ置いておいた。その資料を青嶺商事に持ち込んで、見返りでももらうつもりだったんだろ?」健太は何も答えなかった。「だが、お前が持っていったのは、もうまともに代金を払える状態じゃない取引先の情報だ。青嶺商事はお前が渡した価格をもとに、その取引先と話をまとめて、商品まで納めた」俺は少し間を置いて、健太を見た。「商品はもう納めてる。でも、代金は入ってこない。青嶺商事がどれだけ損するか分かるか?そのとき、向こうが真っ先に誰のところへ来ると思う?」健太は力が抜けたように椅子へへたり込み、その勢いで椅子が後ろへ滑って壁にぶつかった。「じゃあ……あの資料、最初から偽物だったんですか?」「偽物じゃない。見積もりの数字は全部本物だ」俺はスクリーンに映った資料へ目を向けた。「ただ、その取引先はもう代金を払える状態じゃなかった。それだけだ」会議室では誰も声を出せないままだったが、配信のコメント欄にはすぐに新しい書き込みが流れ始めた。
「社長、私たちは何も知らなかったんです。鈴木さんから、小川さんは会社にひどい扱いを受けてるって聞いて……ただ、助けようと思っただけで――」「助けるって、何をするつもりだった?」「その……ちゃんと会社に対応してもらおうと……」「入社して3か月だったな。会社が契約してるジム、使ったことあるか?」彼は一瞬言葉に詰まってから、「あります」と答えた。「利用料は?」「かかってません」「昼食代も会社持ちだよな?」「……はい」「この前の決算賞与、いくら出た?」彼は黙った。隣にいた女性社員が、小さな声で「……16万円です」と答えた。「入って3か月のお前たちにも、16万円出してる。それでも、小川が会社にひどい扱いを受けてるって話を、そのまま信じたのか?」若手たちは、誰も口を開かなかった。そのとき、紗季が和彦の手を振りほどき、よろめきながら会議テーブルの前まで駆け寄った。「社長、私が悪かったです」その勢いのまま床に膝をつき、鈍い音がした。「社員旅行があんなに豪華だなんて、本当に知らなかったんです。鈴木さんからは、休みの日に何もない山奥まで連れていかれるって聞いてて……配信でもらったお金も、全部返すから……お願いです。もう許してください」コメント欄には、紗季に同情する声も出始めた。【この子も利用されてたんじゃない?もう十分でしょ】だが、それ以上に厳しいコメントが続いた。【いや、デマ流したときは散々好き勝手やってたじゃん】【何も確認せずに動画上げたのは自分でしょ。利用されてたからって、それで済む話じゃないでしょ】和彦がポケットに手を入れたまま歩み寄り、膝をついた紗季を見下ろしたあと、周りの若手たちにも目を向けた。「今さら泣いたって遅いだろ。会社をここまでめちゃくちゃにしといて、さっきまであれだけ堂々としてたじゃないか」和彦は黙って座っていた古参社員たちを見回し、営業部の藤井美香(ふじい みか)に声をかけた。「藤井さん、一昨年のニュージーランドのこと、こいつらに話してやってくださいよ」美香は立ち上がった。目元はまだ赤かったが、声は落ち着いていた。「一昨年の社員旅行はニュージーランドでした。みんなでスカイダイビングもして、一人80万円くらいかかりましたけど、費用は全部会社が出してくれま
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