Home / 恋愛 / 社長、見合い相手は私ではありませんが / 11話. 自分の名前で、伺います

Share

11話. 自分の名前で、伺います

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-08 22:16:24

家族への紹介の日の朝、千尋はワンピースを着たまま、床に座りかけた。

落としたイヤリングの留め具を探そうとして、鏡に映った自分を見て止まった。三時間きれいでいるためには、三十分でつらくなってはいけないと言った人間が、出掛ける前から、膝を折ろうとしていた。

ノックがした。

「まだ、支度中ですか」

「はい。とても小さな問題が、起きています」

「入ってもいいですか」

「はい」

ドアが開いた。蓮は片耳だけが光っている千尋を見て、状況を察した。何も聞かず、低くかがんで、化粧台の下を探した。

「落としたのは、これですか」

手のひらに、小さな金属片が載っていた。

「そうです。ありがとうございます」

千尋は受け取って、耳の後ろへ手を回した。緊張した指が、何度も空振りした。蓮は手を上げかけ、止めた。

「手伝いましょうか」

千尋は鏡の中の彼を見た。返事を待つ目が、見えた。

「はい。気をつけてください」

彼が横へ近づいた。イヤリングが動かないよう、千尋が前を押さえた。蓮は後ろに留め具をはめた。指先が一瞬、耳の縁に触れた。思ったより、落ち着いて終わったのに、千尋の息だけが少し浅くなった。

「できました」

千尋が顔を動かすと、真珠が小さく揺れた。

「会社でこんなことをしたら、大変ですよね」

「会社でイヤリングの修理を、頼む予定なんですか」

緊張した顔が崩れた。千尋は笑いながら、バッグを持った。

部屋を出る前、蓮は鏡の前に立つ彼女を、もう一度見た。

「よく似合っています」

「この前も、そうおっしゃいました」

「今日も、そうです」

千尋は答える代わりに、化粧台の照明を消した。暗くなった鏡に映る自分の口元が、笑っていた。

リビングのテーブルには、片桐が確認した予定表が置かれていた。出席者は家族と、長い付き合いの知人が数人。報道関係者も、会社の一般社員も招待されていなかった。写真を撮っても、外部に公開する前には、本人に確認するよう案内していた。

千尋は名簿を最後まで読み、白石敬介の名前で手を止めた。妻と娘も同行すると、書かれていた。

「知っていました」

蓮が言った。

「招待から外すよう頼もうか、とも考えましたが、先に白石さんの意見を聞くべきですね」

千尋は少し、彼を見た。断れる扉が一つ開くだけで、気持ちが焦らなくなった。

「そのまま、来ていただいてください」

「気まずくありませんか」

「気まずいです。でも、これから、ずっと会わずにはいられませんから」

蓮は、彼女が名簿を置くのを待った。

「今日、私の妻として紹介することは、大丈夫ですか」

千尋は冗談で返す言葉を、探さなかった。彼が今日、必要になることについて、真剣に確認しているのだとわかった。

「会社では、まだ準備ができていません。ここに書かれた方々へご挨拶するのは、大丈夫です」

「途中で気が変わったら、言ってください」

「水が欲しい、と言います」

彼が頷いた。二人だけが知る、小さな合図ができた。

千尋は名簿を封筒に入れた。バッグには身分証とハンカチ、携帯電話が入っていた。借金の精算資料は、携帯電話から確認できるようにしていたが、今日は最初から出すつもりはなかった。借金を返した人間として、挨拶する場ではない。

玄関の前で、蓮が手を差し出した。

千尋が見つめると、彼が尋ねた。

「練習してみませんか」

「まだ、集まりは始まっていませんけど」

「先に、許可を求めています」

彼女はバッグを反対の腕に掛け、手を重ねた。蓮は強く握り込まなかった。簡単に抜ける程度の力だった。それが、かえって気になった。

「嫌なら、言ってください」

「こうしてつなげばいいのか、確かめるだけなのに。どうして、面接より緊張するんでしょう」

彼は千尋を見た。

「私も、評価されている気分です」

「社長は、手のつなぎ方だけですよね。私は、全身が対象です」

蓮の笑みが、少し薄くなった。

「誰かが不快な品定めをしたら、やめるよう言います」

千尋は彼の手を、一度軽く握ってから離した。

「まず、私から言ってみます」

「そのあとは?」

「助けてください」

彼は小さく頷いた。千尋はその答えを受け取り、靴を履いた。

* * *

田園調布の邸宅の庭には、咲き始めたばかりの花があった。食事は室内に用意されていたが、人々は庭へ出て、挨拶を交わしていた。聞き慣れない笑い声に、グラスの触れ合う音が交じっていた。

千尋は車を降りる前、携帯電話を確認した。母からのメッセージだった。

足が痛かったら、靴を脱いで。無理して我慢しないでね。

千尋は短く笑って、返事をした。

今日は低い靴を履いているよ。終わったら、電話するね。

蓮が車のドアを開けた。千尋が足を着くと、彼は手を差し出した。玄関で練習した手だった。今度は、ためらわなかった。

泰三はリビングの奥で、客と話していた。千尋を見ると、空いた椅子を示した。

「遠くに立っていないで、入りなさい。風が冷たいですよ」

蓮は手を離し、上着を受け取った。千尋は小さなバッグを握り、会長へ歩み寄った。いくつかの視線がついてきた。彼女を知らない人たちの、自然な好奇心だった。そこへ入る前から、皆が自分を嫌うと決める必要はない。

泰三は近くの親戚に、千尋が来たと知らせた。正式な紹介は、少しあとで一緒にしよう、とお茶を勧められたため、千尋はまず、短い会話から始めることになった。

「会社に勤めているそうですね」

年長の親戚が尋ねた。

「はい。マーケティングの仕事をしています」

「結婚したら、少し休んでもいいのでは?」

「仕事が楽しいので、続けたいと思っています」

千尋は笑顔で答えた。相手は最初、意外そうな顔をしたが、すぐに、どんなものを紹介する仕事か、と尋ねた。食洗機の話になると、千尋はずっと、話しやすくなった。

「うちは二人なのに、洗い物が絶えなくてね」

「それで、小さい製品を探す方が多いんです。ただ、設置場所と接続方式は、先に確認しなければなりません」

「すぐ一台送ってもらおうかと思ったのに、まず相談からなんだね」

千尋も笑った。蓮はそう遠くないところで、別の客と挨拶しながら、一度彼女を見た。千尋が、大丈夫という意味で小さく頷くと、彼も会話に戻った。

しばらくして、玄関のほうの空気が変わった。

白石美佐子の笑い声が、先に聞こえた。敬介が続き、その後ろで沙織がコートを脱いだ。沙織は部屋を見渡し、千尋で視線を止めた。

靴、ワンピース、イヤリング、指輪。

その目が、この前のカフェより、ゆっくり動いた。

千尋は先に、頭を下げた。

「いらっしゃったんですね」

美佐子は周囲の視線を確かめてから、千尋の腕へ手を伸ばした。

「あなた、ここで何をしているの? 来たなら、目上の方々へご挨拶しないと」

千尋は少し身を移し、自分で挨拶した。引きずられるように立ちたくはなかった。

「叔母さん、叔父さん。私、先にご挨拶していました」

沙織が、携帯電話を手に近づいてきた。画面は、もう点いていた。千尋は何を見せようとしているのか、尋ねなかった。沙織の口元に残る笑みには、覚えがあった。頼み事を引き受ける直前、自分へ向けられた表情だった。

リビングの奥で、泰三がグラスを置いた。

「さて、皆そろったから、蓮と一緒に、挨拶を……」

蓮は会話を終え、振り返った。千尋は彼の隣へ行こうと、一歩動いた。

沙織の声が、その間に割り込んだ。

「待ってください」

客たちの視線が、一か所に集まった。沙織は注目されたことを確認し、携帯電話を胸の高さへ上げた。

「この人、本当の白石沙織ではありません」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   34話. 三千という数字

    オフィスのカレンダーに、夏休みの印が増えた。千尋は空席に置かれた扇風機の音を聞き、前のキャンペーンの体験記録を開いた。再始動案へ従来の実績を引用する前に、問い合わせの種類ごとに、顧客の経験を分けようとしていた。颯太が、精算担当者から受け取ったファイルを共有した。星友プランニングの体験完了明細だった。「終了報告書と、一件ずつの一覧が届きました。全部で、三千件だそうです」「ありがとう。まず、設置記録と合わせてみます」千尋はファイルをダウンロードし、読み取り専用の写しを作った。以前、サンプルで見つけた異常が、気になっていた。そのときは、集計基準の違いの可能性もあり、必要な資料を追加で依頼していた。今回は、終了明細の全体が来た。最初の画面は、整っていた。体験完了、三千件。一件につき、一万円。請求額、三千万円。太字の下に、マスキングされた顧客番号と受付番号、完了日が続いた。千尋は顧客番号で並べ替え、スクロールを止めた。同じ番号が、四度あった。何度も製品を使った可能性はある。すぐに異常と記さず、設置番号を確認した。設置番号も、同じだった。完了日だけが違った。一日おきに二行、翌週に二行。千尋は自分の顧客対応画面で、該当の設置案件を開いた。訪問は一度だった。「田中さん、この受付番号は、覚えていますか」彼が椅子を動かし、近づいた。「あ、これは、キャンセル理由の分類で見ました。設置スペースの件です」「それは、別の番号ですよね?」「最後の二桁だけ、違います。同じ顧客が再度申し込んだので、まとめたんです」千尋は二つの画面を並べた。顧客が再度申し込んだ案件と、以前キャンセルした案件が、業者の報告書では、それぞれ体験完了になっていた。颯太は自分のメモを開き、キャンセル記録を見つけた。「受付のキャンセルは、この日です。新しい受付の設置は、一週間あとですね」「では、以前の案件は、完了に入っては駄目ですね」口にしても、千尋はすぐに結論欄へ書かなかった。担当者に確認する一覧へ、二つの受付番号を入れた。確かめるのは、業者の気持ちで

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   33話. 金額ではなく、その時間

    「お金ができたら、怖いものも、一緒になくなると思っていました」千尋は蓮に握られた手を見下ろした。沙織の前では、はっきり話せたのに、家へ帰ると、最初の言葉から喉が詰まった。蓮が少し、手に力を加えた。「でも、今日は、いいバッグを持っているのを、見つかってしまった気がしたんです」「好きなものを、使っているのに」「わかっています。だから、余計に腹が立ちました。自分にも」千尋は笑おうとして、やめた。蓮が水のグラスを近づけた。少し飲むと、話す速さが落ち着いた。「母が手術したときです。病院の費用も怖かったけれど、その次の日のほうが、怖かったんです。回復する間、ご飯をどう作ろう、誰が通院に付き添おう、有休を全部使ったら、どうしよう、と」蓮の表情が静かになった。聞いていると確かめてから、千尋は続けた。「お金さえあれば、すべて解決するという意味ではありません。でも、お金がなければ、解決する方法から減りますよね」彼女は親指で、指の節をこすった。昔、バスの時間を計算したときの癖だった。蓮はその動きを見たが、止めなかった。「仕事のあと、病院へ行くと、夕食の時間が中途半端でした。食べてきたと言うと、母は信じるふりをしました。あとでは、気づいたんです。私がいつも、同じコンビニの袋を持っていたので」「食費を、節約したの?」「最初は。あとは、ただ、ちゃんと食べる時間がなかったんです。どこかへ座ったら、そのまま立ちたくなくなりそうで」蓮は黙って、少し近くに座った。千尋は肩へ寄り掛かり、また姿勢を正した。今日は顔を見て、話したかった。「叔父さんに頼みに行った日、ドアの前で、三度、言葉を練習しました。必要な金額を言うと、大きすぎる気がして、分けて話すべきか、返す方法から話すべきか」あのときは、返事を聞く前から、自分が小さくなる気がした。ありがとうに、申し訳ないが続き、そのあとに、頼み事を断れない時間が続いた。千尋はすべてを吐き出さず、呼吸を整えた。蓮は待った。「だから、あのときの、あなたの提案は、うれしかったんです。お金が必要な理由

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   32話. 譲ったことのない人

    百貨店の生活用品売り場で、千尋は薄い夏掛けを二枚、交互に触った。母は冷房の風に長く当たると寒いと言って、何度も消していた。軽く、洗いやすいほうを選び、レジに並んだ。「白石千尋」聞き慣れた声に振り返ると、沙織が立っていた。新しく買ったらしいサングラスを、頭に載せていた。ショッピングバッグは一つだったが、視線は千尋のバッグと靴の間を、素早く動いた。「沙織姉さん」「こんなところでも会うのね。生活水準が合ってくると、会う場所も変わる?」千尋はスタッフに包装を頼み、沙織を見た。「母の掛け布団を、買いに来たの」「伯母さんの分も、ここで買うの? ずいぶん、楽になったみたいね」沙織の口調は笑っていたが、千尋はその笑いに、合わせなかった。会計を終えて袋を受け取ると、沙織が隣のカフェを指した。「少し、座って。話があるの」「どんな話?」「親戚同士で、少しお茶も飲めないの?」千尋は時間を確かめた。母と会う約束まで、三十分ほどあった。「十五分だけ」沙織は答えず、先に歩いた。千尋はその後ろで、袋の持ち手を握り直した。以前なら、先に母へ、遅れると電話していただろう。今日は、アラームを設定した。カフェに座ると、沙織がメニューを押しやった。「あんたが、おごって。裕福なんだから」「自分のお茶は、自分で払うよ」千尋はスタッフへ、別々の会計を頼んだ。沙織の眉が上がった。けれど周囲に人が多いからか、すぐ、笑顔を作った。「ずいぶん、偉くなったね。昔は、こんな店に入ると、値段から見ていたのに」「今も、見るよ」千尋は水を寄せた。沙織は自分のバッグを椅子に置き、千尋のバッグの紐を、指で示した。「これ、いくら?」千尋はバッグを、自分へ寄せた。「どうして?」「ただ、あんたが、こんな物を持つ日も来るんだと思って。あの家では、カードも好きに使えるの?」「私の生活費を、姉さんに話す理由は、ないと思う」

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   31話. 会長のトマト

    田園調布の邸宅での夏の食事は、日が傾いて、ようやく終わった。親戚が数人、玄関で挨拶する間、千尋は食卓に残ったグラスを見た。氷が溶け、コースターの外へ水が流れていた。無意識にナプキンを折って拭くと、泰三が呼んだ。「それは、置いておきなさい。二人は、もう一杯、お茶でも飲んでいくといい」千尋は折ったナプキンを置いた。蓮が隣で待っていた。一人の親戚が笑って言った。「次の集まりでは、千尋が料理を一つ、決めてみたら。もう、家の奥様としての役割も、覚えないとね」千尋は笑みを失わず、答えた。「日付を先に教えていただければ、できるか確認して、お返事します。週末に、現場の予定が入ることもあるので」「会社の仕事は、まだ、そんなに忙しいの?」「担当の仕事が、まだ、たくさん残っています」加える説明が浮かんだが、千尋はそこで止めた。蓮も、代わりに説明しなかった。玄関が閉まってから、彼が手の甲で彼女の腕に軽く触れた。「ちゃんと、言えたね」千尋は小さく笑った。ときには、長く理解させようとしなくても、よかった。泰三は応接室ではなく、小さなテラスに座っていた。脇に鉢植えがいくつか並び、低い茎にトマトが実っていた。あと数日、熟す必要のありそうな緑の実の中で、赤い一つが目を引いた。「ご自分で、育てているんですか」千尋が尋ねると、泰三が顎を上げた。「水は、私がやる」隣でお茶を置いたスタッフが、静かに笑って下がった。蓮は椅子に座りながら言った。「水をやりすぎて、一度、植え替えたそうですね」「療養中の老人について、そんなことまで報告するらしいな」「ご自分で電話して、聞いたでしょう。なぜ葉が黄色くなるのか、と」千尋はカップで口を隠した。泰三が彼女へ皿を寄せた。大きさの違うミニトマトが、入っていた。「笑わずに、食べてみなさい」千尋は一つ取って食べた。皮が弾け、少し酸味が広がった。「おいしいです」泰三の顔が緩みかけたところで、千尋が加えた。

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   30話. 魚は、知っている

    「社長の手に、魚がいる」月曜日の朝、颯太の声に、皆が顔を上げた。千尋はアイスコーヒーを口へ運んだまま止まった。社内のニュース欄に、神戸の協力会社を訪問した写真が載っていた。最初は、蓮がセンターの代表と握手する写真だった。写真の下のコメントは、業務の成果より先に、絆創膏へ反応した。『かわいいものがお好きなんですね』『ご自分で選んだのかな』。颯太は画面を拡大し、笑った。「これ、僕が持っているのと同じです。うちの姪が、いつも貼ってるもの」結衣が体を向けた。「千尋も、それを貼っていたよね。出張から帰った日」千尋はコーヒーを置いた。ストローの先で、氷がからりと鳴った。「センターでもらったの」「あそこは、絆創膏まで宣伝用に配ってた?」「違うよ。救急箱にあったもの。作業員の方の子供が好きなので、買っておいたんだって」事実だった。ただ、蓮の指へ誰が貼ったかは、その事実に含めなかった。結衣は頬杖をつき、社長の写真をまた見た。「よかった。社長が魚柄を指定して選んだなら、今日の会議は、集中できないところだった」通りかかった高橋が、画面を見て笑った。「センターの救急箱は、充実してたね。僕も、波を貼ったよ」手首の内側を見せた。絆創膏はもう取っていたが、長方形の跡が薄く残っていた。千尋は危うく、安堵のため息を、声にしそうになった。颯太が、社長の写真の横に高橋の手を並べた。「おそろいですね。今回の出張の福利厚生は、絆創膏でしたか」「福利厚生はなくて、作業台の角は鋭かったよ」大野がコーヒーを持ち、会議室から出た。「絆創膏の品評会が終わったら、写真の後ろのバナーも見て。文言が、まだ前のものだよね」写真の奥には、『簡単設置』という文言があった。千尋はすぐ、広報担当者へメッセージを送った。写真自体が悪いわけではない。けれど、新しい案内を適用しに行った現場で、従来の曖昧な文言が、いちばん大きく見えた。「修正した案内ページのリンクを、写真の説明に付けるそうです。現場のバナ

  • 社長、見合い相手は私ではありませんが   29話. 朝は、白石主任

    七時二十分、千尋は自分の客室から、出張用のバッグを持って出た。鏡を三度見たが、人に気づかれるほど、変わったところはなかった。エレベーターで高橋と会った。紙コップを二つ持っていた。「朝食は?」「まだです」「これ、豆乳のシリアルドリンク。朝食を取る時間は、なさそうだから」千尋は礼を言い、コップを受け取った。表情がおかしくないか、様子をうかがったが、高橋は携帯電話の設置写真だけを見ていた。「昨日、作業員の方が送ってくれたんだけど、見て。この家は、接続部分がまったく見えない」仕事の話になると、千尋の肩は自然に、いつもの位置に戻った。コップをバッグのサイドポケットへ入れ、写真を拡大した。「写真で判断できない家は、電話相談へ進む経路が必要ですね。写真を上げないと、次の画面へ行けない仕様は、外しましょう」「それだと、電話が増えるよ」「訪問のキャンセルが減るか、あわせて見る必要があります」ホテルを出るとき、携帯電話が震えた。蓮だった。『ちゃんと、下へ行けた?』千尋は高橋が車を探す間、答えた。『はい。高橋係長と移動します。』送ると、会社のメッセージと変わらなかった。もう一行書こうとしたところで、高橋がドアを開けた。千尋は携帯電話をしまい、乗った。センターの小さな会議室には、昨日会った作業員二人と、問い合わせ担当者が待っていた。千尋は新しい案内用紙を配った。一人の作業員が首をかしげた。「見込み費用と書いたら、また、正確にはいくらか、と聞かれそうですが」「正確な費用がわからない場合は、理由を書きました。追加の確認に同意するか、キャンセルするかも、先に選べるようにします」問い合わせ担当者が、実際の問い合わせを一件読んだ。レンタル料だけを見て申し込み、設置費用を理由にキャンセルした顧客だった。千尋は、その顧客が新画面を見ると仮定し、最初からボタンを押した。途中で手が止まった。案内を読んでも、キャンセルのボタンではなく、次へ、というボタンしかなかった。「言葉

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status