LOGIN「秦先生がわざわざご連絡くださるのが面倒でしたら、それでも構いません。社長はもう大人ですし、何かあってもあの秘書さんには関係のないことですから」龍太郎からこういう遠回しな探りを入れられるのは、三久にとってもう何度目だったか、数えきれないほどだった。そう言い終えると電話を切る。龍太郎は表情を強張らせ、手元のスマホへ目を落とした。そこへ突然、缶が飛んできて頭に当たる。中に残っていた酒がこぼれ、シャツにぽたぽたと垂れた。苦い顔で由樹のほうを見やる。「何をぶつぶつ言ってるんだ」由樹の顔つきは不機嫌に暗く沈んでいた。「メッセージを送っておけ。俺は元気だとな」こんな真夜中に橋のたもとで海風に吹かれながら座り込み、わざわざ電話で酒まで持って来させておいて、それのどこが元気だというのか。龍太郎はそれを察しながらも突っ込まず、由樹の傍らに腰を下ろした。「そういえば、村上との結婚式、もう一ヶ月ちょっとだろ」由樹は眉根を寄せる。「言われなくてもわかってる」龍太郎は缶を開け、自分の缶を由樹のグラスに軽く合わせた。「礼なんていいって」由樹は答えず、顔を仰け反らせて酒をあおる。透明な雫がひと筋、口の端から伝い落ちた。端正な顎の線をなぞり落ちるその雫がうっすらと濡れた跡を残し、色気をいっそう際立たせている。「なんで急に早坂さんを転職させる気になったんだ」龍太郎が興味深そうに訊く。「あいつが辞めたいと言うんだ。俺に引き止めろとでも?」皮肉めいて、どこか達観したようにも聞こえるその言葉は、今の由樹の様子とはまるで釣り合っていなかった。龍太郎はあえて突っ込まず、ただこう言う。「引き止めたところで、どうにもならなかっただろうな」「酒はここに置いて、帰れ」由樹は追い払うように言った。「ここはお前の家じゃないだろ。俺がどれだけここに座ってようが俺の勝手だ」龍太郎は両脚を岩に投げ出して言い返した。海風で乱れた自分の服を整えながら、由樹の襟元が今にもはだけそうになっているのに目をやる。「少しは自分を大事にしろよ。風邪でも引いたって、心配してくれる奴はいないぞ」由樹は眉を険しくして不快そうに彼を見た。「言っとくけど、村上も深川にはいないんだ。お前が病気になっても、俺がお前の世話をする暇なんてないから
洲人は熱さのあまり飛び上がり、テーブルの周りを二周してからようやくゴミ箱を見つけて口の中のものを吐き出した。だが口の中はもう真っ赤に腫れ上がっていて、舌にはひりひりと火傷したような痛みが残っていた。「き、君、悪魔か!」「あんたの毒舌ほどじゃないわよ」梨々香には、こんなに可愛い蒼汰の父親が、洲人の言うようなろくでなしだなんて到底想像できなかった。洲人は冷たい水を口に含んで、ようやく口の中が少し楽になった。「精子提供って、厳しい審査を通ってるんだからな。身体だけじゃなくて、経歴にも問題がないことが条件なんだぞ」三久が口を挟む。「梨々香が選んだのは、国内でも特に審査の厳しい、きちんとした病院よ。問題なんてあるわけない」「ちょっと言っただけだろ。そんな怒ることかよ」洲人は椅子を引き、梨々香から少し距離を取って座り直した。梨々香はジト目で彼を睨む。「じゃあもしあたしが、将来あんたの嫁になる女が、今どこの男のベッドで寝てるかもわからない、しかも何人の男と寝てきたかもわからないって言ったら、あんたどう思う?」子どもの母親と妻とでは、どうやら重みが違うらしい。洲人ははっとした。将来の妻に過去があっても全然平気だと思っていたはずなのに、いざ子どもの母親の過去が奔放だったと言われると、自分でも意外なほど子どものために受け入れがたい気持ちになる。「じゃあ罰として、今度一杯奢ってよ。そしたら許してあげる」梨々香は彼に向かって顎をしゃくった。「舌を火傷してんだぞ。今、こんな度数の高いものなんか飲んだらしみてしょうがないだろ!」洲人はふんと鼻を鳴らした。「治ったら、ちゃんと埋め合わせしてやるよ」それを聞いて梨々香は笑った。「それならよし。じゃあ今回は許してあげる」二人が騒がしくやり合う横で、三久は黙々と食事を続けていた。鍋の湯気と賑やかな空気のせいもあってか、なぜか胸のうちがざわついて落ち着かない。そのとき、スマホが鳴った。理紗からの電話だった。電話に出るために席を立ち、リビングへ移動する。「理紗」「早坂さん、大変です、社長の様子が変なんです!」理紗の声は強い風の音にかき消されて、言葉の端々が聞き取りづらい。三久はスマホを耳にぎゅっと押し当てて、ようやく言葉を拾えるほどだった。「どん
洲人は手を伸ばして握ろうとしたが、ふと何かを思い出したように、パジャマで両手をごしごしと拭った。「よろしくもなにも、これからは俺が君を守ってやる!」三久はいわば、なし崩し的に洲人の会社へ移籍することになったわけだ。彼女にとってはまったくの予想外の展開だったが、洲人にとっては思いがけない喜びだった。「まず安心して産休を取ってろ。うちの家族には俺から話しておく」神崎家の人間が後になって三久に難癖をつけてくるような事態を、洲人は避けたかった。先手を打って、きちんと説明しておくつもりだった。「わかった。ご飯できたら電話するね」「よし、食材はもう買いに行かなくていいぞ。部下に届けさせるから。俺は君の上司なんだから、ただ飯を食わせてもらうわけにいかねえだろ」洲人は口元を耳まで裂けそうなほど緩ませた。「部屋で待ってろよ!」そう言うと、身を翻して自分の家へと駆け戻っていった。三久が止めようとする間もなかった。仕方なく部屋に戻り、買い物に出ようとしていた青木さんを引き止めた。一時間も経たないうちに食材が届けられたが、予定していたよりもはるかに豪華だった。ちょうどその頃、三久が百栄を退職し、九洲グループに移籍したというニュースが流れ始めていた。事情を知らない人々はただ面白がり、三久はすごいと単純に感心していた。出産を控えた妊娠中の身でありながら、九洲グループに引き抜かれて厚遇されているのだから、よほど仕事の能力が高いに違いない、と。内情を知る者たちは、その裏を読み取っていた。三久のお腹の子は、十中八九、洲人の子に違いないと。有能な人材を引き抜かれた百栄は面目を失い、世間の噂に晒されることになった。だがそれは、摩美にとってはむしろ朗報だった。彼女は由樹に代わって役員たちの追及を一手に引き受け、西戸の古株たちを抑え込んでみせた。「認めざるを得ないな、酒井のお袋、なかなかやり手だぜ」洲人はほろ酔い加減で酒をちびちび飲みながら、湯気の立つ鍋をつつき、上機嫌極まりない様子で言った。「うちのお袋だったら、何かあったら俺を売り飛ばすだけだろうな」三久は食事をしながら、ニュースの動向にも目を配っていた。全体として見れば、百栄への影響は多少あるもののそれほど大きくはなさそうだった。何しろ、彼女のお腹の
「わからないことがあったら、いつでも電話して。真夜中でも構わないから」三久は理紗の肩を軽く叩き、由樹のオフィスへちらりと目をやった。ドアは固く閉ざされていて、まるでふたつの世界が完全に切り離されてしまったかのようだった。「じゃあ、行くわね」理紗は何かを思ったのか、泣き出しそうな顔になった。三久はきっぱりと踵を返した。理紗が涙をこぼして仕事に支障が出ては困る。理紗はビルの下まで見送ろうとした。そのとき、デスクの内線が鳴る。由樹の低く艶のある声が響いた。「入ってくれ」「入ってくれ」「ちょっと来てくれ」「三久、来てくれ」。そういった言葉を、三久はこれまで数え切れないほど聞いてきた。聞き慣れているはずなのに、どこか遠い。そんな感覚に襲われ、エレベーターへ乗り込もうとした足が止まる。「あっ、早坂さん!」理紗は慌てふためいた。見送るべきか、行くべきか。「待っててください、すぐ戻ります!」振り返ると、理紗が慌ただしく由樹のオフィスへ駆け込んでいくのが見えた。ドアが開き、また閉まる。その一瞬、午後の陽光に照らされた男の影が壁に映って見えた。一瞬のことだった。三久は視線を戻すとエレベーターに乗り込み、その場を後にした。退職のことは、梨々香にはまだ伝えていない。家に戻ると、退職合意書を一枚、そのまま梨々香の前に置く。梨々香は蒼汰を抱きしめて愛おしそうに頬ずりしていたが、ふいに目の前に置かれた書類には気にも留めなかった。「何それ?読んで教えてよ」「退職合意書。私と百栄の。ここに、私と由樹のサインが入ってるわ」三久は最後のページを開き、由樹のサインへ目を落とした。「はぁ?」梨々香は蒼汰を下ろすと、書類をひったくって目を通す。声が一気に裏返った。「うっそでしょ!?いつの間の話よ?何がどうしてこんなことに?」梨々香は立ち上がって三久をまじまじと見た。「みくちゃん、大丈夫なの?辛いなら泣いていいのよ」三久は首を横に振った。頭の中は落ち着いていて、意外なほど冷静だった。それでも心のどこかには、まだぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。「何年も続けた仕事だもの。急に辞めるってなったら、多少名残惜しく感じるのも普通でしょ?」梨々香はじっと三久を見つめ、意外にも落ち着いているのを
「え?」理紗は胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。「また何かあったんですか?こんな朝早くに、一体どうしたんです?」三久はビルの前に立ち、上を見上げていた。「終わったら話すから」電話を切ると、彼女はビルへ入っていく。オフィスにはまだ誰もいない。人目につく前に最上階へ向かうため、あえて早く来たのだった。だが思いがけず、由樹はすでに出社していた。ほどなくして、由樹のオフィス。三久は部屋の中央に立っていた。来る前には何をどう話すか頭の中でしっかりと組み立て、何度も練習してきたはずだった。だが実際に由樹を前にすると、ひと言も出てこない。由樹は右側の引き出しを開け、退職合意書を取り出すと彼女のほうへ差し出した。「サインしてくれ」三久は思わず言った。「まだお返事、していませんが」「お前はずっと去りたがっていた。もうここに留まる理由はないだろう」簡潔な言葉が、一語一語、的確に痛いところを突いてくる。「どうした?まさか本当に辞められるとなったら、未練が湧いたとでも言うつもりか」由樹の細長い瞳がわずかに細められ、探るような眼差しが彼女へ向けられる。三久はその書類に目を落とした。穏やかな表情の奥に、複雑な感情がわずかに滲んだ。小さく息を吸い込むと、バッグから一本の黒いボールペンを取り出し、迷わず最後のページを開いてサインした。【早坂三久】。その筆跡は柔らかくも力強く、どこか鋭さを帯びている。最後の一筆を書き終えた瞬間、由樹の視線が引き戻された。「会社の規定では、社内機密が漏洩した場合、お前は徹底的な調査を受け、しかも真っ先に調査対象となる。もしお前が関与していたと判明すれば、会社が被った損失の倍額を賠償してもらうことになる」由樹は淡々とした声で、退職合意書の条項を告げた。三久はペンにキャップをはめ、契約書の脇に置く。「わかりました」「条項は確認しなくていいのか」由樹は最後まで目を通すよう促した。三久は首を横に振る。「社長を信じていますから」由樹は思わず苦笑した。喜んでいいのかそうでないのか、自分でもわからない。「退職手続きは二営業日以内に終わる。その時になったら人事から連絡が行くはずだ」「手続きの流れは承知しております。ご説明には及びません」三久は頷い
それに、もし神崎家までこの子を洲人の子だと思い込んだら、きっと向こうの家族が押しかけてくるに決まっている。酒井家を振り払ったと思ったら、今度は神崎家を迎え入れることになる。一難去ってまた一難だ。そんな危ない橋を次々渡るほど、自分は命知らずではない。どちらの側にも恨まれかねない。「三久、酒井家に対して、この子が酒井の子じゃないって証明するのは、ものすごく難しいだろ。でも、うちの神崎家に対して、この子が俺の子じゃないって証明するのは、簡単なことだ」洲人は真面目な顔で分析してみせる。「うちの親父たちなら、この秘密は絶対に外へは漏らさない。俺が大勢の前で君を引き抜いたのは、酒井の面目を潰したってことだからな。親父は喜びこそすれ、怒りゃしないさ」三久が神崎家に対して、子どもが洲人の子ではないと証明できさえすればいい。神崎家はこの噂を揉み消したりしないだろう。噂のひとつひとつが、酒井家への痛烈な一撃になるのだから。こうした状況は、洲人だけでなく由樹にも見えているはずだった。それでも彼は、三久自身に決めさせることを選んだのだ。三久の胸は張り裂けそうなほど苦しくなり、胸の奥がきゅっと締めつけられるような痛みに襲われ、息をするのも難しかった。「こういう状況じゃ、俺にはこういうやり方で君を守ることしかできない。もし嫌なら断ってくれていい。ただ、よく考えてほしいんだ。断れば、酒井家への説明はますますつかなくなる」洲人はエンジンをかけ、車を家路へと走らせた。由樹が三久を守ろうとしていることに、洲人はもう気づいている。そして三久を守ることは、いつしか自分にとっても本能のようなものになっていた。三久は誰に守られることを選ぶのだろうか。彼女がどちらを選ぶかで、理性と感情のどちらを選ぶのかがわかるのかもしれない。洲人の車を降りると、三久は両腕を抱え込むようにして家へと歩き出す。数歩も行かないうちに、肩に一枚のジャケットがかけられた。車を降りて追いかけてきた洲人が、そっと羽織らせてくれたのだ。「もし俺のこのやり方がまた余計な面倒を君にかけることになったなら、悪かった。皆にはちゃんと自分から説明するつもりだ。でも、本当によく考えてほしい。俺は自分のやり方は間違ってないと思うから」三久はその場に立ち尽くし、どこか焦点の定まらない
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒
深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。【ついにママになりました。男の子で〜す!】一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。「……なんで来たの」三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな
財界の宴会の場で由樹に出くわすたびに、洲人は必ず何かしら突っかかってくる。とはいえ、真正面からぶつかっても由樹には到底歯が立たない。だから彼は代わりに、由樹の周りにいる人間に矛先を向けるのだ。たとえば、三久のような、立場の弱い者に。三久はすぐさま踵を返し、人目につかない裏口から出ようとした。だが、洲人はすでに獲物である三久を見つけていた。周りの取り巻きを強引に押しのけて、足早に追いかけてくる。三久が宴会場を出て、人気のない角の廊下に差し掛かった途端、行く手を阻まれた。「やあ。早坂さんじゃないか。見間違いかと思ったよ」由樹が冷徹で口数が少なく、整った顔立ちに一切の隙が