LOGIN祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。 私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあまり、泣き声すら出せなかった。その場にいた家族たちの視線が、私の後ろに立っていた黒崎蓮(くろさき れん)へと一斉に向けた。 蓮はため息をつくと、そっと私の頬の涙を拭うい、そのまま私の手を引いて病室の外へ出た。 けれど、ドアを閉めた途端、彼の表情は一気に冷たくなった。 「俺たち、もう七年も付き合ってるだろ。分かってるはずだ。俺は誰かに強いられるのが一番嫌いなんだ。 結婚は俺たち二人の問題だ。ほかの誰かの考えに左右されるべきじゃない」 彼は宥めるように、私の髪を優しく撫でた。 「結婚の話は会社が上場して状況が落ち着いてからにしよう。 今夜も会議があるんだ。とりあえずお前の家族にはうまく対応しておいてくれ。仕事が終わったら、何かプレゼントを持って帰るから」 私が言い返す間もなく、彼はそのまま女性の秘書と一緒に立ち去ってしまった。 エレベーターの扉が閉まる直前、秘書が背伸びをして彼のネクタイを整えるのが見えた。それはまるでいつものことであるかのように、あまりにも自然な仕草だった。 そして彼も、それを避ける様子さえなかった。 私は涙を拭いて病室に戻ると、笑顔を作って祖母の手を握った。 「おばあちゃん、安心して。私、三日後に結婚するよ。 結婚式の日には、絶対に見ててくださいね」
View More悠真は私が忙しい時には何も言わずに家のことをきちんと整えてくれたし、困ったことがあればいつも一緒に向き合って解決してくれた。私の好みも何もかも覚えていて、いつだって私のことを一番に考えてくれた。祖母の体調も日に日に回復し、それほど経たないうちに無事退院することができた。祖母はいつも私と悠真の手を引き、満面の笑みを浮かべて「今がこれまでの人生で一番幸せな時だよ」と繰り返した。一方、香月のその後の様子については、昔の同僚から偶然耳にすることになった。彼女に対する名誉毀損の訴えには最終的に判決が下され、裁判所は蓮の請求をすべて認め、公開謝罪と、多額の賠償金および訴訟費用の支払いを命じたのだ。その賠償額は決して小さくなく、香月にはそれだけの蓄えもほとんどなかった。実刑を免れるため、彼女は両親から残された家を売り払い、さらに親族や知人にまで金を借りて、ようやく賠償金を工面したらしい。すべて支払い終えた時には、ほとんど無一文同然になっていた。再就職して食いつなごうとしたものの、前科とこれまでのスキャンダルはすでに広く知れ渡っており、どの会社も彼女を雇おうとはしなかった。たとえバイトをしようとしても、すぐに周囲に気づかれ、陰口を叩かれ、白い目で見られる。結局、行き場を失った彼女は、故郷の小さな町へ戻るしかなかった。その後、実家の親戚たちも「罪を犯して家の恥だ」と彼女を疎み、長くは置いてくれなかったという。そしていつしか、彼女の姿を見た者はいなくなり、消息も途絶えた。だが、蓮の没落は、香月以上にひどいものだった。私と悠真が結婚してからというもの、彼は完全に会社経営への意欲を失ってしまった。香月のスキャンダルの余波で会社への悪評はなかなか収まらず、投資家は次々に資金を引き上げ、内定していた大型プロジェクトも立て続けにキャンセルした。それに加えて、彼自身が低迷し、何日も会社に顔を出さないことが続き、社員たちの士気は落ち、プロジェクトの進行もめちゃくちゃになっていった。そうして会社は、ほどなくして資金繰りに行き詰まるようになった。半年も経たないうちに、彼はとうとう会社を手放さざるを得なくなった。しかも売却額は、かつての企業価値を大きく下回るものだったが、それでもどうにか借金を返済するのが精一杯だった。会社を売ったあと、蓮
「俺たちが一緒に起業した頃、狭くて古いマンションで暮らして、毎日カップ麺ばかり食べてた日々を忘れたのか?初めてお前の誕生日を祝った時、お前は泣きながら、ずっと一緒にいようって言ったじゃないか!俺が悪かった。あの女に騙されてたんだ。お前にあんな冷たい態度を取るべきじゃなかった。もう一度だけチャンスをくれ。やり直そう、なあ……頼む……!」その声には絶望と諦めきれない執着が滲んでいた。彼は何度も何度も私の名前を呼び、ずっと忘れていたはずの過去を、縋るように繰り返していた。騒ぎを聞きつけた父が立ち上がり、外へ出ていった。「いい加減にしろ!遥はお前と七年も付き合って、その間どれだけ苦労して、どれだけ傷ついてきたと思ってるんだ!お前はあの子に安心できる暮らしも与えられなかったし、気持ちを大切にしたことも一度もない!今になって、他にちゃんと大事にしてくれる人が現れたからって、何の立場で邪魔をしに来る!今さら後悔したって遅いんだ。こんなところで見苦しい真似はやめなさい。さっさと帰れ!」扉の向こうの騒ぎはやがて少しずつ静まっていった。残ったのは、蓮の荒い息遣いだけだった。私は深く息を吸い、静かに立ち上がった。悠真が私手を差し伸べ、私はそっとその腕に自分の手を添え、肩を並べて披露宴会場へと向かった。宴会場の扉がゆっくりと開き、厳かな結婚行進曲が流れ始めた。参列者たちは一斉に立ち上がって、私たちへ視線を向けた。顔を上げると、隣にいる悠真の優しい眼差しと目が合った。大丈夫、俺がついている――そう語りかけてくるような温かい眼差しだった。私は背筋を伸ばし、まっすぐに赤いバージンロードを踏みしめ、一歩、また一歩とステージへ向かって歩いていた。これまでの痛みも、終わりの見えない待ち続けた日々も、この瞬間をもってすべて終わるったのだ。私たちがステージの中央に立つと、司会者の声が響き、式の開始が告げられた。悠真は指輪を手に取り、私の手を優しく包み込んだ。その時、会場の脇の扉が突然乱暴に突き破られ、蓮がひどく乱れた姿で飛び込んできた。警備員の制止を振り切ったのだろう。髪は乱れ、シャツは汗でぐっしょり濡れ、狂ったようにステージへ向かって走ってきた。「やめろ!遥、そいつと結婚するな!」警備員たちがすぐに追いつき、彼を取り押さえて、そ
彼女はさらに長文の投稿まで載せ、自分と蓮がずっと前から恋人同士だったかのように匂わせた。それどころか、自分は彼のために多くを尽くしてきたのに、今になって冷たく捨てられたのだと、被害者めいた言い方までしていた。その内容はネット上で瞬く間に拡散され、あっという間にトレンド入りした。もともと蓮の会社は上場準備の最中だっただけに、こんなスキャンダルが突然持ち上がれば影響は大きい。株価の見通しにも陰りが出て、投資家たちが次々と状況説明を求めて押しかけてきた。それを見た蓮は、怒りをさらに募らせた。彼はすぐさま法務部へ対応を命じた。「ただちに内容証明を送れ。香月を悪質な名誉毀損で訴える。公開謝罪と、虚偽の投稿の全面削除を徹底させろ」電話を切ったあと、彼は会社の公式アカウントから声明を発表した。【ネット上で拡散されている親密そうに見える写真は、悪意ある盗撮および切り取りによるものです。私と神崎香月は上司と部下の関係にすぎず、業務の範囲を超える交流は一切ありません。虚偽の情報を流布した行為については、すでに法的手続きを開始しており、断固として責任を追及します】同時に、蓮の弁護士チームは、例の写真の元動画も公開した。その結果、一見親密に見えた写真は、どれも意図的に切り取られたものであり、実際の状況は香月の説明とはまったく異なることが明らかになった。声明が出ると、世論は少しずつ逆転し始めた。【この女、勝手に上司に惚れられてるって思い込んでただけじゃないの?】【でもこの黒崎社長も問題ありそう。彼女がいるのに、女性の秘書と距離感おかしくない?】【どっちもろくでもないでしょ】さらに、弁護士が香月を調べていく中で、思いがけない別の証拠まで見つかった。まずは削除されていた彼女のパソコン内のファイルを復元し、いくつかの防犯カメラの映像を確認したところ、彼女が何度も私から蓮へ送った業務報告や私的なメッセージを勝手に削除していたことが判明したのだ。そのせいで蓮は私が仕事でミスをしたのだと思い込み、さらには私が彼に対して冷淡な態度を取っていると誤解していた。それだけではなく、香月は私の企画書を競合相手に漏らし、そして匿名で私が業務上のミスをしたと通報までしていた。そのうえ裏では私の友人たちにまで連絡を取り、私が蓮の財産目当てで近づいて
「信じてくれ。俺はもうあいつの本性を見抜いた。今朝一番であいつはクビにしたし、もう二度と俺たちの前に現れることはない。会社の上場だって止めてもいい。今すぐ手配する。計画なんて全部後回しでいい。俺は何だって捨てられる。だから頼む、その結婚式を中止してくれ。あの男とは結婚しないでくれ!」蓮は一歩、また一歩と私に近づいてきた。祖母は髪を梳く手を止めると、厳しい口調で彼に言った。「あなたがやり直したいと思ったからって、相手がいつまでもその場で待っていてくれるわけじゃないんだよ。遥はあなたのせいで、もう十分すぎるほどつらい思いをしてきたの。これ以上あの子を困らせるのはやめてちょうだい」蓮は祖母のほうを向き、焦ったように言った。「おばあさん、俺が悪かったことはわかっています。これからは絶対に遥を大切にします。彼女に一番いい暮らしをさせます。どうか、彼女を説得してください」「説得することなんて何もないわ。私は、あなたからの『一番いい暮らし』なんて望んでいない」私はようやく顔を上げ、蓮の目を真っ向から見据えた。「前にも言ったはずよ。私たちはもう終わったの。私が欲しかったのは、あなたのその場しのぎの妥協でも、その遅すぎる埋め合わせでもない。私が欲しかったのは、この七年間のあいだ、あなたがちゃんと私を心にかけてくれること、それにつらい思いをした時に、私の気持ちを気にしてくれることだった。でも、あなたは一度だってそれをくれなかったわ。あなたの目にあったのは、自分の仕事とプライドだけで、私が何を望んでいるか、何を感じているかなんて気にも留めなかった。今になって謝りに来て、全部捨ててもいいなんて言われても、もう何もかも遅いのよ」自分でも驚くほど、私の声は穏やかだった。怒りはもう、ひとかけらも残っていなかった。本当に心が冷え切ってしまえば、その相手のことで感情が揺れることすらなくなるのだ。蓮の顔は真っ青になり、さらに取り乱した様子で言った。「まだ遅くない!お前が結婚式をやめてくれさえすれば、俺たちはまたやり直せる。俺は全力で埋め合わせをする!お前が欲しいものは何でもやる。お前のためなら、俺は何だって捨てられるから!」彼がさらに近づこうとしたその時、悠真が私たちの間に割って入った。「黒崎さん、ここは病室です。それ