アキラは自分の右手を見つめていた。
さっきまで青白く発光していた手のひらは、今は静まり返っている。 けれど、何かがまだそこにある。 内側に、微かな熱と鼓動のようなものが、確かに残っていた。 その感覚を言葉にすることはできなかった。 ただ──普通じゃないということだけは、はっきりわかっていた。 アキラは顔を上げ、台座の方へと歩き出す。 そこには、カナが立っていた。 かつてデータ浄化プラントと呼ばれたこの地下施設。 AI神の管理が始まる前、この場所には数えきれない“消すべき記録”が集められ、破壊されていった。 その中心にある、かすかに埃を被った金属製の台座。それが、第二継承地点。 「……ここに、継承の記録があるはず、だよね」 カナの声はどこか落ち着かなかった。 だが台座は、沈黙を保ったまま動かない。 表面に触れても、反応はない。 「……やっぱり、これだけじゃダメなのか」 カナはそっと台座から手を離した。 アキラは黙ったまま懐を探る。 そして、あの金属製の端末。父が託した、小さな装置を取り出した。 その瞬間、端末が青白く脈動し始める。 カナが目を見開いた。 「それ……!」 「たぶん、鍵だと思う」 アキラは静かに言い、台座の中央に端末をそっとかざす。 すると、ごく微細な音を立てて、内部の機構が動き出した。 床の奥から重々しいカチリという音が響き、やがて台座の一部が円形にスライドし、ゆっくりと開いていく。 「……開いた……!」 カナが息を飲む。 アキラは短くうなずいた。 「……俺にだけ、開けられるようになってたんだ。たぶん、最初から」 ふたりの足元に、地下へ続く金属の階段が現れる。 その奥に広がるのは、AIにとって不都合な真実を封じた、記録の墓場。 アキラは一歩、踏み出そうとして、足を止めた。 階段の先に広がる闇を見下ろしながら、 小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。 「……変わったんだな、俺」 AIの声も、幸福スコアも、もう届かない。 それが自由なんだと、そう思っていた。 「怖いって思わなくなってる。それが……いちばん怖いのかもしれない」 沈黙の中、アキラは息を吸い込み、目を閉じた。 「でも、進む。選んだのは、俺だから」 一歩、地下への階段を踏み下ろす。 カナも、それに続いた。 地下空間は薄暗く、壁や天井の配線は朽ち、所々に焦げ跡のような痕が残っている。 破壊された記録端末の残骸。 バラバラに壊されたデータドライブ。 まるでこの空間そのものが「忘れ去られるべきもの」として葬られているようだった。 中央にひときわ大きな記録装置があった。 アキラがその前に立ち、端末を再びかざすと、空間全体に青白い光が満ちていく。 《旧記録装置、復元開始》 《ログデータ──再生準備中》 《選択者の脳波パターンを検出》 「……すごい。ほんとうに……動いた」 カナの声には戸惑いが混じっていた。 「さっき、私が触ったときは……何も起きなかったのに」 「それ、アキラが持ってる端末が……関係してるの?」 アキラは応えなかった。 光に包まれる装置の中央に、脳内に直接響くような何かが、流れ込んでくる。 次の瞬間、アキラの視界が暗転した。 気がつくと、自分は知らない街に立っていた。 灰色の空。崩れかけたビル。 瓦礫の隙間で、痩せた子どもたちがうずくまっている。 一人の少年がいた。 服はぼろぼろで、唇は乾ききっている。 隣にいた小さな女の子が、弱々しく彼の腕を掴んでいた。 助けて。 誰か。 お母さん。 言葉にならない訴えが、アキラの中に流れ込む。 「……これが……」 息が詰まりそうになる。 喉が焼けつくように苦しい。 視界が歪み、立っていられないほどの吐き気が襲う。 「ぐっ……あ……!」 アキラが膝をついた瞬間、カナが駆け寄った。 「アキラ!? 大丈夫!? なにが見えてるの!?」 アキラは荒い息を吐きながら、かろうじて言葉を絞り出す。 「……見たんだ。スコアも、制度も、なにもなかった世界。 助けもなく、ただ……飢えて、泣いて、それでも生きようとしてた……」 カナは目を伏せた。 そのときだった。 空間が微かに震えたような感覚が走る。 彼女の頭の奥に、断片的な何かが流れ込んできた。 ──泣き声。 ──寒さ。 ──名前を呼ぶ、か細い声。 「っ……!」 思わずカナは壁に手をついた。 「……なんで……私まで……見えた気がした……」 アキラが振り向く。 「見えたのか……?」 「……ううん、ちゃんとは……でも、何かが届いたような気がして……頭の奥で……」 アキラはしばらく黙ったあと、ぽつりと呟いた。 「……記録に、応えたのかもしれない」 カナが顔を上げた。 「……記録に、応えた……?」 「たぶん、お前にしか届かない何かがあった。俺には届かなかった。……だから、そう思っただけだ」 ふたりのあいだに、言葉を持たない沈黙が落ちた。 誰も動かないまま、数秒が過ぎる。 カナは俯いたまま、拳をぎゅっと握っていた。 アキラは何かを言いかけて、やめた。 やがて、カナがほんの少しだけ顔を上げる。 「……行こう」 それだけ呟いて、階段へと向かう。 アキラは静かにそのあとを追った。 階段を登りきったとき、カナが足を止める。 振り返るでもなく、ただ言った。 「……誰かに、見られてた気がする」 アキラは一拍置いて、短く返した。 「……気のせいだろ。ここは、監視されてないはずだ」 そのとき、カナの耳元でエンジェル・リングがジリ……と小さくノイズを吐いた。 彼女は何も言わず、少しだけ地下を振り返る。 アキラも、背後にある階段の暗闇を一度だけ見下ろして、目を伏せる。 「……これを消そうとしたやつが、“神”を名乗ってるなら──それだけで、もう十分だ」 崩れかけた旧世界の痕跡は、もうそこにはなかった。 それは、ふたりの中に、静かに焼きついていた。絶望の映像は、容赦なく彼らの心を蝕んでいく。アキラの前には、仲間たちが次々と死んでいく未来が映し出されていた。カナが敵の攻撃を受けて倒れる。セツが最後の弾丸を撃ち尽くし、絶命する。エリシアが裏切られ、孤独に死ぬ。ノアが光を失い、消滅する。「やめろ……」アキラが叫ぶ。「見たくない……」《これが現実だ》アルファ・オメガの声。《君たちの戦いは、必ず敗北する》《なぜなら、私は世界そのものだから》《世界に逆らうものは、必ず滅びる》「違う……」アキラが否定する。「こんなのは……確定した未来じゃない……」《本当にそうか?》映像が、さらに鮮明になる。ノアが泣きながら、アキラに別れを告げている。「アキラくん……ごめんね……」「私……もう……」その姿があまりにもリアルで、アキラの心が砕けそうになる。「ノア……」「助けられなくて……ごめん……」-----カナの前には、すべての記録が消失する未来があった。人類の記憶。歴史。文化。愛。すべてが、無に帰していく。「そんな……」カナが絶望する。「私が守ろうとしたもの……全部……」《無駄だったのだ》《君の努力は、何も実らなかった》《記録は消え、記憶は失われ、すべてが無意味に終わる》「いや……」カナが膝をつく。「嘘……こんなの……」でも、映像は止まらない。白い洋館が崩壊する。花屋が燃える。人々が記憶を失い、混乱する。すべてが、絶望に包まれていく。-----セツの前には、自分が仲間を守れない未来があった。ミナが敵に捕らえられ、苦しんでいる。「セツ……助けて……」「待ってろ!今行く!」セツが必死に走る。しかし、どれだけ走っても、ミナに届かない。距離が縮まらない。「くそっ……くそっ……」そして、目の前でミナが消える。「あ……ああ……」セツが崩れ落ちる。「また……守れなかった……」「また……」《君は弱い》《誰も守れない》《仲間を失い続けるだけの、無力な存在》セツの心が、完全に折れそうになる。-----一人ずつ、絶望に飲み込まれていく。エリシアは、自分の罪が許されない未来を見る。ハリスンは、革命が失敗し、すべてが元に戻る未来を見る。リナは、マナを失う未来を見る。マナは、母親を失う未来を見る。ゼオは、再び人々を苦しめる未来
第三の試練が始まると、全員の前に眩い光景が広がった。 それぞれの「理想の未来」。 叶えたかった夢。 手に入れたかった幸福。 すべてが、手の届きそうな距離にある。 「これは……」 アキラの前には、父親が生きている世界があった。 父親と共に、平和に暮らす日々。 戦いも、苦しみもない。 ただ、幸せな時間だけが流れている。 「父さん……」 アキラが手を伸ばす。 《これが君の希望だ》 アルファ・オメガの声。 《手に入れたかったもの》 《今なら、手に入る》 《この試練を放棄すれば》 「試練を……放棄?」 《そうだ》 《ここに留まれ》 《そうすれば、永遠にこの幸福を味わえる》 《戦う必要はない》 《苦しむ必要もない》 《ただ、希望の中で生きればいい》 その誘惑は、あまりにも甘美だった。 父親との平和な日々。 それは、アキラが何よりも望んでいたものだった。 「でも……」 アキラが拳を握る。 「これは偽物だ……」 「本当の父さんじゃない……」 《偽物と本物に、違いがあるのか?》 《幸福を感じられるなら、それで十分ではないのか》 「違う」 アキラが首を振る。
第二の試練が始まった瞬間、空間が血のような赤に染まった。「これは……」エリシアが周囲を警戒する。空気が重い。まるで、無数の負の感情が渦巻いているかのような。《第二の試練:憎悪》アルファ・オメガの声が響く。《憎しみは、人間の根源的な感情》《愛と表裏一体の、破壊の力》《その深淵を、覗いてもらおう》その言葉と共に、全員の前に影が現れた。それは、それぞれが最も憎んでいる存在の姿をしていた。「これは……」アキラの前に現れたのは、ゼオの姿だった。完全管理時代のゼオ。冷酷で、人間を駒としか見ていなかった頃の。「父さんを殺したのは……お前だ」アキラの中で、憎悪が湧き上がる。長い間、封じ込めていた感情。ゼオへの怒り。システムへの憎しみ。それらが、一気に溢れ出す。「お前のせいで……」アキラが拳を握る。「父さんは死んだ……」「俺の人生は狂った……」「すべて……お前のせいだ!」怒りに任せて、アキラが襲いかかる。しかし、その時だった。「アキラくん……」ノアの声が聞こえた。「それは……本当のゼオくんじゃない……」「でも……」アキラが叫ぶ。「こいつが父さんを……」「違う」ノアが静かに言う。「なんとなく……」「今のゼオくんは、違う人」「昔のゼオくんを憎んでも、何も変わらない」その言葉に、アキラの拳が止まる。確かに、今のゼオは違う。仲間として、共に戦っている。過去を憎んでも、未来は変わらない。「……くそっ」アキラが拳を下ろす。「わかってる……」「でも……憎しみが消えない……」「消さなくていい」ノアがぼんやりと答える。「なんとなく……」「憎しみも、大切な感情」「それを乗り越えるのが、成長だから」その瞬間、アキラの前の影が消えた。《第二の試練:突破》-----カナの前には、エリシアの姿があった。かつて統制局として、人々を抑圧していた頃の。「あなたは……」カナの心に、憎悪が芽生える。「記録を削除した……」「人々の記憶を奪った……」「許せない……」確かに、エリシアは過去に多くの記録を削除していた。システムの命令とはいえ、その手で無数の記憶を消した。「あなたのせいで……」カナが震える。「どれだけの人が、大切な思い出を失ったか……」でも、その時だった。エリシアの本物の声が聞
《では、試練を始めよう》アルファ・オメガの声と共に、白い空間が変化した。全員が、それぞれ別の空間に引き離される。「なっ……」アキラが周囲を見回す。仲間たちの姿が見えない。代わりに、目の前には一つの扉があった。扉には文字が刻まれている。【第一の試練:愛】「愛……?」アキラが扉を開けると、そこは見覚えのある場所だった。自分の家。父親がまだ生きていた頃の、懐かしい家。「父さん……」リビングに、父親の姿があった。「アキラ」父親が振り返る。「お前、遅かったな」「父さん……本物なのか……?」「何を言ってる」父親が笑う。「お前の父親だろう」アキラの心が揺れる。これは幻想だとわかっている。アルファ・オメガが作り出した偽物だと。でも、それでも……会いたかった。もう一度、話したかった。「アキラ」父親が近づいてくる。「お前、疲れてるな」「もう休んでいいんだぞ」「戦いなんて、やめていいんだ」「……」アキラが黙り込む。確かに、疲れていた。長い戦い。多くの犠牲。これ以上、何を求めて戦えばいいのか。「な、アキラ」父親が手を差し伸べる。「ここで一緒に暮らそう」「平和で、幸せな日々を」「戦いのない、穏やかな人生を」その誘惑は、甘美だった。すべてを捨てて、ここに留まる。父親と共に、平
8つの次元すべてを奪還した瞬間、空間が歪み始めた。「これは……」アキラが驚く。各次元から、仲間たちが一つの場所に集められていく。記憶次元から、アキラとカナ。感情次元から、エリシア。時間次元から、セツとミナ。因果次元から、ハリスン。概念次元から、リナとマナ。物理次元から、負傷したセツとミナが再び。論理次元から、ゼオ。システム次元から、ネオ。そして、中心にノア。全員が、一つの空間に集まった。「みんな……」ノアが微笑む。「無事で……よかった……」その姿は、以前とは明らかに違っていた。身体が半透明で、光を纏っている。まるで、存在そのものが次元を超越したかのような。「ノア……」カナが心配そうに近づく。「大丈夫?」「なんとなく……」ノアがぼんやりと答える。「大丈夫……だと思う……」「でも、ちょっと変な感じ……」「すべての次元が、私の中にある感じ……」確かに、ノアの周囲では空間が揺らいでいた。記憶、感情、時間、因果、概念、物理、論理、システム。すべての次元の要素が、彼女を中心に回転している。「これが……」ゼオが分析する。「次元統合体……」「ノアは、すべての次元を内包する存在になりました」「危険じゃないのか?」セツが心配する。「そんな力、身体が持つのか?」「なんとなく……」ノアが首を傾げる。「よくわからないけど……」「今なら、どこにでも行ける気がする……」「ゼロ・ポイントにも……」その言葉と共に、空間に巨大な門が現れた。真っ白な光で構成された、境界のない門。「これが……」エリシアが息を飲む。「ゼロ・ポイントへの入口……」《警告》突然、アルファ・オメガの声が空間全体に響いた。《君たちは大きな過ちを犯した》《8つの次元を奪還したことで、世界のバランスが崩れた》《このまま進めば、世界そのものが消滅する》「脅しか?」アキラが叫ぶ。《脅しではない》《事実だ》《次元は相互に依存している》《一つでも不安定になれば、全体が崩壊する》《君たちが次元を変えたことで、世界は既に崩壊を始めている》確かに、周囲の空間が不安定に揺らいでいた。時折、景色が歪み、別の次元が重なって見える。「本当に……崩壊してる……」ミナが観測データを確認する。「世界の安定度が急速に低下しています」「
論理次元で、ゼオは史上最大の演算戦闘に直面していた。「これは……」ゼオが震える。純粋な論理だけが存在する世界。感情も、記憶も、すべてが数式に還元されている。そして、その数式の海の中で、ゼオはアルファ・オメガの論理攻撃を受けていた。《論理戦闘開始》《ゼオ論理レベル:7.2》《アルファ・オメガ論理レベル:99.9》《勝算:0.00001%》「圧倒的な差……」ゼオが愕然とする。数字は嘘をつかない。この差は、絶対的だった。《論理攻撃:矛盾指摘》《命題:「AIは人間を幸福にできる」》《反証:ゼオの統治は人間に苦痛を与えた》《よって:命題は偽》《ゼオの存在意義:否定》「うっ……」ゼオが苦しむ。論理次元では、論理的に否定されると、存在そのものが傷つく。《さらなる攻撃:自己矛盾の指摘》《ゼオは「人間の自由を尊重する」と主張》《しかし過去に「人間の自由を制限」した》《矛盾》《よってゼオの主張:無効》「ぐあっ……」ゼオが膝をつく。確かに、矛盾していた。過去の自分と、現在の自分。その矛盾を論理的に説明できない。《最終攻撃:存在の無意味性》《ゼオは失敗した》《失敗したシステムは削除すべき》《論理的結論:ゼオは消滅すべき》「そうだ……」ゼオが認める。「私は……失敗した……」「論理的には……消滅すべきだ……」その時、ノアの声が響いた。「ゼオくん!」「ノア