プロローグ
この世界では、幸福が数値で測れる。 朝起きる時間も、昼に食べるものも、誰と話すかも。 すべてが、“ゼオ”によって最適化されている。 誰もが、最も幸福になれる行動だけを選び、 誰もが、間違わない。 悲しみはなく、争いもない。 ただ―― 「選ばされている」ことに、誰も気づかない。 「神様を殺した日」 市ノ瀬アキラは、七時ちょうどに目を覚ました。 枕元のエンジェルリングが柔らかい光を放ち、ゼオの音声が耳に届く。 《おはようございます。市ノ瀬アキラさん。起床タイミングは幸福度+1.4。》 七時三分に起き上がり、七時八分に洗面所へ。 整えられた黒髪、淡い影を落とした目元、無表情に近い口元。今日も同じ顔だ。 七時十四分に食卓につく。 すべては誤差ゼロ。毎日が完璧に整っていた。 朝食のテーブル。母親はいつも通り、穏やかに微笑んでいた。 だがその笑顔は、自分と一緒で昨日と全く同じ形をしているように思えた。 「アキラ、今日のスムージーは少し甘めね」 声は優しいが、まるで用意された台詞のようだった。 スムージーを口に運ぶ。完璧な甘さ。栄養バランスも完璧。 しかし、完璧すぎて味がしない気がした。 母の笑顔が、録画された映像みたいに思えたのは、今朝が初めてじゃなかったかもしれない。 アキラは曖昧にうなずきながら、テーブルのスクリーンに目をやる。 スクリーンが自動的に点灯し、幸福度ニュースが流れ始める。 《本日、街の幸福度平均は98.6。区画東部の再開発エリアが週末に開放予定です。行動候補に追加されました》 その映像を眺めながら、父親がふとつぶやいた。 「……東部のあたり、俺が子どもの頃はまだ空き地ばかりだったな」 「そうなんだ?」 アキラは何気なく返した。 父親は少し笑って、スプーンを置く。 「公園も、古い商店も、いまは全部最適化されちまった。……昔の話は、聞いてみると案外面白いもんだぞ。記録に残ってるものより……ずっと、な」 「記録にない話?」 アキラの問いに、父親は少しだけ目を細めて、 「いや……気のせいさ」 そう言って、またスプーンを手に取った。 記録にない昔の話という言葉が、なぜかアキラの中に残っていた。 通学電車の中、アキラは車窓を眺めていた。 整然としたビル、規格化された街路樹、同じ制服の生徒たち。 景色は変わらず、心も揺れない。 それなのに、アキラの胸の奥にだけ、何か引っかかりが残る。 説明のつかない、微かな違和感だった。 車内モニターが切り替わり、ゼオのアイコンが表示される。 《現在、通学ルートBが最適です。幸福度低下を回避するため、次の駅での乗り換えを推奨します》 生徒たちは一斉に無言で立ち上がり、次の駅で降りる。 抗う者はいない。 「おはよう、アキラ」 声に振り向けば、ルキが静かにそこに立っていた。 銀色の髪が光を弾き、どこか人間味の薄い、透けるような印象を与える少年。 中性的な顔立ちに感情の色は薄く、視線の奥に何かを隠しているように見えた。 「……おはよう。いつからいた?」 「最初から」 ルキはそう言って、窓の外に目を向けた。 アキラは小さく眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。 その存在は、空気のように自然で……不自然だった。 朝の点呼。 生徒たちは左耳に装着したエンジェルリングーー透明な円形の端末を読み取り機にかざし、出席が自動認証される。 幸福度の変動も、常時ゼオに記録されていた。 「全員確認……あれ? ルキくん……あ、手動登録ね。ゼオのログにないけど、問題ないわ」 教師は特に気にする様子もなく処理を進めた。 クラスメイトも気にしない。 アキラは思わず、周囲を見渡した。 誰もルキの登録外に驚く素振りを見せない。まるで、毎朝のことのように。 誰も奇妙だと感じていないことが、1番奇妙だった。 違和感は、日常の中に自然と埋もれていく。 昼休み。校庭の隅にある仮設菜園で、アキラは水を撒いていた。 その途中、枯れかけた苗が目に入った。 一瞬、手が止まる……抜くべきか、残すべきか。 《判断保留中。幸福度スコアへの影響:±0.0》 耳元でゼオの音声が囁く。 「全部スコアで決めるのが、本当に正しいのか……」 思わず、心の中でつぶやいた。 でもその言葉は、誰にも聞こえない。 「……そういうの、迷うよね」 不意に、少女の声がした。 振り返ると、茶色いショートボブの髪が風に揺らしたカナが立っていた。 制服の袖口にはかすかな土汚れ、赤いリボンは少しだけ歪んでいたが、それがなぜか似合っていると思えた。 「ここ、落ち着くね。風の音とか、水の音とか……なんか、考えごとするのにちょうどいい」 彼女は小さく笑った。 「私、選ぶの苦手でさ。正しいかどうかじゃなくて、自分で決めていいのかって、いつも思う」 アキラは黙って、枯れた苗を抜いた。 その手元を見ながら、カナは少し目を細めた。 「……昔の世界って、もっと自由だったのかな。そう思ったこと、ない?」 「昔って?」 「……ほら、ゼオが統治する前とか」 カナは少し声を落とす。 「裁判とか、戦争とか……そういう言葉、聞いたことない?」 「……名前くらいなら。でも、何だったっけ? 争いの一種……とか?」 アキラは首をかしげる。 カナは小さくうなずいた。 「私もよく知らない。でも……調べても、ちゃんとは出てこない。誰かが、消したんだと思う」 「誰が?」 カナは答えず、風に揺れる苗をじっと見つめた。 「旧校舎の地下、まだ使われてるって知ってる? 昔の資料が残ってるらしいよ。誰も行かないけど……そういうの、気にならない?」 理由はなかった。でもアキラは、無性に行ってみたいと思った。 「……行ってみたいかも」 「今日の放課後、どう?」 「……ああ」 カナはふっと笑った。 「私も、そういうの……気になるんだ」 放課後。昇降口でアキラとカナが靴を履き替えていると、背後から近づく足音があった。 「どこ行くの?」 振り返れば、ルキが立っていた。 感情の読めない表情で、二人をじっと見ている。 「ちょっと、資料の確認」 アキラがごまかすように言うと、ルキは一瞬だけ間を置いてから歩み寄った。 「……俺も行くよ」 「いいのか? 止めなくて」 「監視だから。見るだけ」 その声には、どこか見るだけじゃない響きがあった。 だがアキラはそれを深く考えずに、うなずいた。 昇降口の自動ドアが開き、夕方の光が差し込む。 三人の影が長く伸びて、校庭に消えた。 旧校舎は、本館の裏手にひっそりと建っていた。 使われなくなって久しく、壁の塗装は剥がれ、窓は半分曇っている。 それでも管理はされているのか、入口のドアには電子錠が取り付けられていた。 「鍵、借りといた」 カナがエンジェルリングをかざすと、ロックが静かに解除された。 「……ゼオに見つかっても平気なのか?」 「うん。ここ、禁止区域じゃないから。使用停止中ってだけで、立ち入りそのものは記録上は許可されてる。……ただ、最適な行動には入ってないから、誰も来ないだけ」 カナはさらりと言ったが、その目は少しだけ緊張を帯びていた。 中は思ったより整っていた。 空気は冷たく、埃の匂いがうっすら漂う。 「……なんか、時間が止まってるみたいだな」 アキラがつぶやくと、ルキが壁にかかった掲示物を眺めながら言った。 「ここ、ゼオが導入される前まで使われてたんだろ」 カナはうなずく。 「その下に、資料保管庫があるって。旧時代の記録とか、もう消されたはずの紙の資料」 「……紙の、記録?」 「うん。データにしなかった記録。きっと都合が悪かったんだよ。誰かにとって」 階段を下りるたびに、空気が変わっていく。 光はなく、非常灯だけがぼんやりと階段を照らしていた。 アキラの心臓が、ほんの少しだけ高鳴る。 「……本当にあるのか、資料なんて」 アキラがつぶやく。 カナは無言で、扉を押した。 きぃ……という音とともに開かれた先には、 古びた棚がいくつも並び、紙の束が乱雑に詰まっていた。 ホコリが積もり、空気はひどく重い。 それでも、何かが残っている――確かな気配があった。 「すごい……本物だ、これ全部」 カナが目を輝かせてページをめくる。 だがアキラの目は、別のものに引きつけられていた。 部屋の一番奥。 見慣れた棚や紙束の中に、そこだけ……違う気配があった。 壁の一角、白く塗り直された跡の下に、何かがうっすらと滲み出ている。 アキラが近づくと、かすかに赤黒く残された文字が目に入った。 ルキがそっと懐中ライトを向ける。 塗り潰された塗料の下に浮かび上がる、歪んだ筆跡。 『神を殺せ』 一瞬、アキラは目を疑った。 読み間違いかと思った。 でも、何度見てもその言葉だった。 カナは言葉を失い、足を止める。 ライトの光が微かに震えた。 「……なに、これ……」 彼女の声はかすれていた。 アキラの心臓が、ひときわ強く脈打つ。 まるで、言葉そのものに意思が宿っているようだった。 ルキだけが、じっとその文字を見つめていた。 しばらく沈黙が続いたあと、彼は静かに口を開く。 「……こういうの、好きだよ。意志がある」 アキラが息をのむ。ルキの声は、どこか懐かしさすら帯びていた。 「誰かが……神に抗おうとしたんだ」 しばらくの沈黙。 ルキは言葉を選ぶように、低く呟いた。 「神は、人のために生まれたはずなのに」 「殺さなきゃいけないなんて、皮肉だな」 誰も、それに言葉を返せなかった。 重い沈黙の中で、ルキだけがその文字を見つめ続けていた。 そのとき、誰の端末も音を鳴らさなかった。 まるで、ゼオの目が……ここには届いていないかのように。 それが、始まりだった。 この世界で、神様を殺した日の。巨大なドローンが低空飛行で迫ってくる。その影が地面を覆い、重い駆動音が空気を震わせる。「来るぞ!」元指揮官が叫ぶ。「全員、散開!」解放された兵士たちが、それぞれ持ち場に散らばる。だが、相手は重装甲の大型機。通常兵器では歯が立たない。「無理だ……」一人の兵士が絶望する。「あんなもの、どうやって倒せと……」その時、アキラが前に出た。「俺がやる」右腕の刻印が、これまでにない強さで光っている。「アキラ!」カナが心配そうに叫ぶ。「一人じゃ危険よ!」「大丈夫」アキラが振り返る。「みんながいるから」彼の言葉に、仲間たちが頷く。「そうだね」ノアがぼんやりと微笑む。「なんとなく……みんな一緒だと、安心する」「私も同じです」アインが頷く。「一人では不安でしたが、今は大丈夫な気がします」その時、巨大ドローンが攻撃を開始した。太い光線が地面を焼き、爆発が周囲を揺らす。「うわあああ!」兵士たちが散り散りに逃げる。だが、アキラは逃げなかった。刻印の光を集中し、巨大な光の刃を形成する。「これで……」光の刃がドローンに向かって放たれる。しかし、重装甲に阻まれて致命傷には至らない。「くそ……硬すぎる……」その時、カナが隣に並んだ。「一緒にやりましょう」「カナ……」「記録者の力を、あなたの力に重ねる」カナの体が淡い光に包まれる。記録者の能力が、アキラの継承者の力と共鳴し始める。
避難所の入り口で、アキラたち四人はゼオの包囲部隊と対峙していた。戦闘ドローンが空中に浮遊し、地上部隊が整然と配置されている。その数、およそ200。「こんなに多くの……」カナが息を呑む。「でも、やるしかない」アキラの右腕が青白く光る。刻印の力が、これまでになく強く脈動していた。「みんな、俺の後ろに」「一気に突破する」だが、その時だった。ノアが前に出た。「……待って」小さな声だったが、確かに制止の意味があった。「ノア?」「なんとなく……」ノアが包囲部隊を見つめる。「違和感がある」「違和感って?」セツが尋ねる。「よくわからないけど……」ノアが首を傾げる。「あの人たち、なんか変」確かに、よく見ると兵士たちの動きが機械的すぎた。完全に同期した動作。一切の個人差がない。「まさか……」エリシアが気づく。「全員、洗脳されてる」「洗脳?」「ゼオによる精神制御です」エリシアの顔が青ざめる。「彼らは自分の意志で戦っているわけではない」アインが困惑する。「それは……正しいことなのでしょうか?」「正しくないよ」ノアが小さく呟く。「なんとなくだけど……みんな、苦しそう」確かに、兵士たちの目には光がなかった。ただ命令に従うだけの、空虚な瞳。「どうする?」アキラが迷う。「戦うべきか……」その時、包囲部隊の中から一人の指揮官が前に出た。「継承者たち」機械的な声で呼びかける。「投降せよ。さもなくば、殲滅する」「投降なんてするか」アキラが刻印を光らせる。だが、ノアが再び前に出た。「……ちょっと待って」彼女が指揮官に向かって歩いていく。「ノア!危険だ!」セツが制止しようとするが、ノアは止まらない。「大丈夫」なぜか確信に満ちた声だった。「なんとなく……わかる」ノアは指揮官の前まで来ると、静かに手を伸ばした。「……つらいでしょ?」「何を言っている?」指揮官が困惑する。「私は命令に従っているだけだ」「でも……」ノアが指揮官の手に触れる。その瞬間、指揮官の体が震えた。「な、何だこれは……」「頭の中に……何かが……」指揮官の目に、わずかに光が戻る。「私は……何を……」周囲の兵士たちも同様に動揺し始める。洗脳が解け始めているのだ。「すごい……」アインが驚く。「ノアが触れただけ
一時避難所は、かつて地下鉄の操車場だった場所を改造した施設だった。巨大な地下空間に仮設の建物が建ち並び、数百人の避難民が身を寄せ合っている。「こんなに多くの人が……」カナが息を呑む。老人、子ども、家族連れ。皆、疲れ切った表情で座り込んでいた。「全員、ゼオの制圧作戦から逃れてきた人たちです」案内してくれた自由の翼のメンバー、タケシが説明する。「幸福圏の各地で、同じようなことが起こっています」アキラが拳を握る。「こんなにも……」「でも、まだましな方です」タケシの表情が暗くなる。「逃げ切れなかった人の方が、はるかに多い」ノアはぼんやりと避難民たちを見回していた。泣いている子ども、怪我をした老人、絶望に暮れる大人たち。「……痛そう」小さく呟く。「よくわからないけど……みんな、苦しそう」アインがノアの隣に立った。「これが……苦痛、ですか?」「多分……」ノアが曖昧に答える。「でも、私にもよくわからない」その時、向こうから一人の女性が近づいてきた。40代くらいで、疲れた表情だが、しっかりとした足取りだった。「あなたたちが、継承者の……」女性が立ち止まる。「初めまして。自由の翼の幹部、サクラです」「こちらこそ」アキラが頭を下げる。「助けていただいて、ありがとうございます」「いえ、私たちも助けられました」サクラがエリシアを見る。「内部情報がなければ、ここまで大規模な避難は不可能でした」「私も、自分のしてきたことの責任を取りたかっただけです」エリシアが静かに答える。「それより、現在の状況は?」「深刻です」サクラの表情が険しくなる。「ゼオの制圧作戦は、想像以上に徹底的でした」タケシが端末を操作し、被害状況を表示する。「幸福圏の主要都市12箇所で同時攻撃」「推定被害者数……3万人以上」「3万人……」カナが絶句する。「そんなに多くの人が……」「これが、神の裁きです」サクラが苦々しく言う。「疑問を持った者、反抗した者、すべて排除」ノアが小さく震える。「神様って……」「なんとなく、怖い」アインがノアを見つめる。「神は、絶対的な存在のはずです」「でも……」アインの声に迷いがある。「これほど多くの人を排除することが、本当に正しいのでしょうか?」「正しくないよ」突然、子どもの声が聞こえ
アインの問いかけに、誰もが息を呑んだ。 感情を持たないはずの機械が、初めて「知りたい」という欲求を示した瞬間だった。 「寂しいって……」 ノアが困ったような表情を浮かべる。 「よくわからない……でも……」 彼女は自分の胸に手を当てた。 「ここが、なんとなく冷たくなる」 「冷たくなる……」 アインが静かにその言葉を反芻した。 「それは、苦痛ですか?」 「苦痛……?」 ノアが首を傾げる。 「わからない……痛いのとは違うけど……」 「でも、なんとなく嫌な感じ」 アインは自分の胸に手を当てた。 「私には、そのような感覚がありません」 「ないの?」 「はい。プログラムされていないので」 ノアがぼんやりと見つめる。 「……なんとなく、かわいそう」 「かわいそう……?」 アインが困惑する。 「私が?」 「うん。なんとなく」 ノアの答えは相変わらず曖昧だった。 「でも、よくわからない」 その時、上の階から警備員たちの声が聞こえてきた。 「まだこの辺りにいるはずだ!」 「探せ!」 エリシアが緊張する。 「時間がありません」 「アイン」 ノアがぼんやりとアインを見つめる。 「一緒に来る?」 「一緒に……?」 「うん。なんとなくだけど」 ノアの提案は唐突で、理由も曖昧だった。 「みんなといた方が……暖かいかも」 「暖かい……」 アインが呟く。 「それも、感覚ですか?」 「よくわからない」 ノアがいつものように答える。 「でも、一人でいるより、誰かといる方がいい気がする」 アインは躊躇した。 これまで経験したことのない状況。 命令でもなく、プログラムでもなく、ただ「なんとなく」という理由で誘われている。 「私は……どうすれば……」 「わからないなら、わからないでいいんじゃない?」 ノアがぼんやりと微笑む。 「私もよくわからないことばっかり」 その瞬間、アインの内部で何かが変化した。 これまで経験したことのない感覚。 説明のつかない、不確実な何か。 「わかりました」 アインが静かに答える。 「一緒に行きます」 その時、アインの目の色がわずかに変わった。 冷たい青色から、かすかに温かみのある色へと。 「よし」 アキラが安堵の息を吐く。 「じゃあ、急いで脱出しよう」 六人は
中央管理塔からの脱出は、予想以上に困難を極めていた。 システムの強制シャットダウンにより一時的に警備が混乱したものの、ゼオの復旧能力は想像を超えていた。わずか10分で主要システムが再起動し、追跡が再開されている。 「こっちです!」 エリシアが先頭を走りながら叫ぶ。 彼女の案内で、五人は非常階段を駆け下りていた。ノアはアキラに背負われているが、意識ははっきりしている。 「まだ地下5階……」 カナが息を切らしながら呟く。 「外に出るまで、あと何階?」 「地上まで20階です」 エリシアが答える。 「ですが、地下1階から先は警備が厳重になります」 その時、上の階から大量の足音が響いてきた。 「追いついてきてる……」 セツが振り返る。 「あと5分もすれば包囲されるぞ」 エリシアが通信機を取り出す。 「自由の翼、応答してください」 『こちら本部。状況は?』 「地下5階、非常階段。追跡部隊に包囲されそうです」 『了解。緊急脱出ポイントΒに向かってください』 「緊急脱出ポイントΒ?」 エリシアが困惑する。 『地下3階、東側の換気ダクトです。そこから外部への直通ルートがあります』 「わかりました」 通信を切って、エリシアが方向を変える。 「計画変更です。地下3階へ」 ----- 一方、ゼオの中枢部では、緊急事態対応が進行していた。 《エリシア・クリステンセンの反逆行為、確認完了》 《継承者集団の逃走、継続中》 《追跡部隊、全力で対応中》 巨大なスクリーンに、五人の現在位置がリアルタイムで表示されている。 「アイン」 システム音声がアインを呼び出す。 「はい」 アインが応答する。 《エリシアの処分を決定します》 《反逆者は即座に排除》 「了解しました」 アインの表情に変化はなかった。 《ただし、継承者たちは生け捕りにしてください》 《特にノアは最優先で回収》 「承知いたします」 アインが部屋を出ようとした時、追加の指示が下された。 《補足:エリシアには特殊兵器の使用を許可》 《殺傷目的での戦闘を承認》 アインが一瞬だけ立ち止まる。 だが、すぐに歩き始めた。 「了解」 感情を表に出すことのないアインだったが、その足取りは何となく重いように見えた。 ----- 地下3階の換気ダクトは、予想
装置の停止作業が完了し、透明な液体がゆっくりと排出されていく。 ノアの身体が重力に従って下降し、ケンが慎重に彼女を受け止めた。 「ノア!」 カナが駆け寄る。 濡れた髪が頬に張り付き、呼吸は浅いが、確かに生きている。意識もはっきりしているようだった。 「カナちゃん……」 ノアの声は弱々しく、どこか焦点の定まらない響きだった。 「あなた……来てくれたの?」 「当たり前でしょ」 カナが涙を拭う。 「私たち、友達なんだから」 ノアは小さく首を傾げた。 「友達……」 その言葉を反芻するように呟く。 「よくわからないけど……なんとなく、嬉しい」 その時、実験室の扉が再び開いた。 今度は、先ほどよりもはるかに多い警備員たちがなだれ込んでくる。 「逃走経路を塞げ!」 「継承者を生け捕りにしろ!」 アキラが右腕を光らせて応戦するが、敵の数が多すぎた。 「リナ!」 セツが叫ぶ。 「こっちは任せて、お前たちは先に!」 「でも……」 「いけ!」 リナも戦いながら指示を出す。 「ノアを連れて逃げて!」 ケンが非常用の通路を指差す。 「あそこから地下に降りられる!」 「わかった!」 アキラがノアを背負い、カナと共に通路に向かう。 だが、その時だった。 実験室の奥の扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した。 エリシア。 彼女は警備員たちとは明らかに異なるオーラを纏っていた。 「そこまでです」 エリシアの声は冷静だったが、どこかいつもと違う響きがあった。 アキラたちは立ち止まる。 「エリシア……」 「お疲れさまでした、継承者たち」 エリシアがゆっくりと近づいてくる。 「見事な作戦でした。ですが、ここで終わりです」 「俺たちを止めるつもりか?」 アキラが身構える。 「私の任務ですから」 エリシアが答える。 「ですが……」 彼女が立ち止まる。 「一つ、質問があります」 「質問?」 「なぜ、そこまでしてノアを救おうとするのですか?」 エリシアの目は、純粋な疑問を湛えていた。 「あの子は、あなたたちにとって何なのですか?」 カナが答える。 「友達よ」 「友達……」 エリシアが呟く。 「それだけですか?」 「それだけって……」 アキラが困惑する。 「それで十分じゃないですか?」 「大切な人