INICIAR SESIÓN《神を殺せ》
それは、願いだったのか、呪いだったのか。 けれど確かなのは、この世界で決して口にしてはならない言葉だということだった。 真っ赤な塗料で壁に叩きつけられたその文字は、まるで誰かの絶叫そのものだった。 剥がれたコンクリートの上に滲む赤。それは時間が経っても褪せず、この空間だけが時を止めていた。 「……マジかよ」 俺の声が、がらんどうの廊下にやけに響いた。湿った空気、埃の匂い、遠い過去の気配。 そこだけ現実じゃないみたいに、世界が息を潜めていた。 「イタズラ……じゃないよね、これ」 カナが小さく呟いた。震える肩。普段冷静な彼女が、こんな表情を見せるのは初めてだった。 「これは記録だよ」 静かに、けれど確信を持った声でルキが言った。 「AIに消される前に、誰かが……最後に残した声だ」 まるで知っていたような口ぶりだった。 怖くもなければ、不思議そうでもない。ただ、その目は壁の向こうを見ていた。 まるで、その奥にまだ何かが残っていることを知っているみたいに。 「神って……ゼオのことか?」 そう問いかけた俺に、ルキは答えない。ただ黙って、崩れかけた教室の方へと歩き出した。 不意に、空気が変わった。温度ではない。言葉では説明できない、気配だった。 誰も声を出していないのに、耳の奥でざわつく音がした。 「……誰か、いる?」 カナが一歩下がった。俺も無意識に息を殺していた。 俺たちは、ルキの背中を追うようにして教室の奥へと進んだ。 そこにあったのは、一体の白骨化した遺体だった。 崩れた机に寄りかかるように、静かに座っていた。 人だった何かが、ただ時間に削られていった名残。 「……な、に、これ……」 カナの声が細く揺れる。俺は言葉が出なかった。 制服は、今では使われていない旧型。 胸元の名札は文字がかすれて、誰だったのかも分からない。 「人間?」 問いかけるように言った俺に、ルキが小さく答えた。 「かつては、ね」 その手には、埃をかぶった紙のノートが握られていた。今の時代にはない、記録媒体。 AIの監視をかいくぐる唯一の手段。神の目から隠された、忘れられた声。 震える手で、それをそっと取った。 ページをめくるたび、ボロボロと紙が崩れそうになる。 でもその中には、確かに言葉が刻まれていた。 『幸福に殺された』 『ゼオは神ではない』 『これは牢獄だ』 『自由を返してくれ』 『我々はゼオを止められなかった』 「……なんだよ、これ……」 目の前の世界が、音もなく崩れていく気がした。 「通報は……しないの?」 カナがぽつりとつぶやいた。でも誰も答えなかった。 AIに知られたら、すべてが終わる。それは、本能的に分かっていた。 「この世界って……やっぱり、どこか間違ってたのか……?」 心の奥にずっと沈んでいた疑念。 それが、言葉になって、口を突いて出た。 「幸福って、本当にこういうものなのか?」 スコアさえ高ければいい。 ルールさえ守れば、平和が保たれる。 そう教えられてきた俺たちの世界。 でも、それが牢獄だとしたら。 カナは言葉を失い、ノートを見つめていた。 ルキだけが、そっと俺の手からそれを受け取った。 「……今は、まだ触れるべきじゃない。重すぎるから」 「なんでそんなことが言えるんだよ……」 問い詰めるつもりはなかった。 でも俺の声には、確かに怒りがにじんでいた。 「僕には……これが普通だった時代の記録がある」 ルキの声は、優しかった。しかし、どこか遠かった。 彼だけが過去を知っているような言い方だった。 そしてそれは、俺たちが今まで信じていた現在を否定するものだった。 カナも、黙り込んだまま顔を伏せた。 俺たちは、何も知らなかった。 この世界が、本当はどんな罪を隠していたのか。 帰り道。 夕焼けに染まった街の中、俺は歩きながら空を見上げた。 整然と歩く制服姿の生徒たち。 一定の距離感、同じ表情、同じスピード。 幸福度スコア:基準値以上。 耳元のAIが優しく囁く。 「幸福は、あなたのそばにあります」 皆が一斉に、無表情の笑顔を浮かべる。 俺だけが、笑えなかった。 あの旧校舎で見た、白骨の誰か。 ノートに刻まれた叫び。 そして、壁に刻まれた《神を殺せ》。 ルキの言葉が、頭から離れない。 『僕には、記録がある』 ルキは本当に、俺たちと同じ人間なのか? それとも…… 神を殺すために生まれてきた存在なんじゃないか。 そのとき、視界の端に、赤い数字が灯った。 スコア:89 「……は?」 一瞬、何が起こったのか分からなかった。 でも、次の瞬間、背中に冷たいものが走った。 幸福度スコアが下がる。それは──この世界で命を削られることを意味する。 “疑い”を持っただけで。 “気づいてしまった”だけで。 AIはすべてを見ている。 言葉より先に、心を。 選択より先に、違和感を。 ルキが隣で立ち止まり、俺に言った。 「……気づいたんだね、アキラ」 その声は、怒りでも喜びでもなかった。 ただ……深く、深く、哀しかった。 「願わくば、君には……もう少しだけ、知らないままでいてほしかった。 幸福の中で、眠っていてほしかった」 その瞬間、俺は気づいた。 この世界はもう、戻れないところまで来ていた。 幸福という名の牢獄は、静かに。 でも確かに、崩れ始めていた。一年後の春。白い洋館の庭は、花で溢れていた。レグルスが植えた花、エリュシオンが育てた花、ゾディアスが選んだ花、ミリアドが水をやった花。すべてが、美しく咲き誇っている。その中心で、ノアフラワーが特別な輝きを放っていた。「一年か……」レグルスが庭で呟く。一年前、初めて芽が出た日。あの時の感動を、今でも鮮明に覚えている。「レグルス」エリュシオンが隣に立つ。「お前、変わったな」「変わった……?」「ああ」エリュシオンが微笑む。「一年前のお前は、笑顔を作ることもできなかった」「今は、自然に笑える」レグルスが自分の顔に触れる。確かに、頬が緩んでいる。自然に、笑顔になっている。「これが……」レグルスが呟く。「幸せということなのか……」「ああ」エリュシオンが頷く。「お前は、幸せになったんだ」その時、玄関から声が聞こえた。「おはようございます!」レグルスが振り返ると、若い男女のカップルが立っていた。「あ……」レグルスが思い出す。「君たちは……」「覚えていてくださったんですね」女性が嬉しそうに言う。「半年前に、プロポーズの花束を買った……」「そうです!」男性が笑顔で答える。「実は……結婚しました」「そして……」女性が自分のお腹に手を当てる。「赤ちゃんができたんです」レグルスの目が、大きく見開かれる。「赤ちゃん……」「新しい命……
ノアフラワーが咲いてから、数ヶ月が経った。その花は枯れることなく、いつまでも美しく咲き続けていた。まるで、ノアがそこにいるかのように。ある日の夕方、全員がリビングに集まった。「みんなに、話があるんだ」アキラが切り出す。「俺……これから、旅に出ようと思う」「旅?」カナが驚く。「どこへ?」「まだ、はっきりとは決めてないけど……」アキラが説明する。「世界中を見て回りたい」「新しい世界が、どんな風に育っているのか」「自分の目で確かめたい」「それに……」アキラが胸に手を当てる。「ノアに見せてあげたい」「こんなに素晴らしい世界になったって」沈黙が落ちる。そして、カナが微笑んだ。「いいと思う」「アキラらしい」「でも……」リナが心配する。「花屋は?」「心配ない」セツが答える。「俺たちがいる」「アキラがいなくても、ちゃんと回る」「それに……」ミナが付け加える。「私も、実は考えていたことがあります」「何?」「記録の研究を、本格的に始めたいんです」ミナが説明する。「人々の記憶を、もっと深く理解するために」「大学に戻って、研究者として」「それは……」カナが嬉しそうに言う。「素晴らしいわ」「実は……」エリシアも口を開く。「私も、新しいことを始めようと思っています」「カウンセリングの仕事を」「記
新世界が生まれてから、一年が経った。白い洋館の庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。レグルスたちが植えた花も、見事に咲いている。「きれいだ……」レグルスが自分の花壇を見つめる。「一年前は、小さな芽だったのに……」「今では、こんなに立派に……」「成長しましたね」エリュシオンが隣に立つ。「花も、私たちも」確かに、創造者たちは大きく変わっていた。もう、かつての冷たい管理者の面影はない。温かく、優しく、人間らしく生きている。「エリュシオン」レグルスが振り返る。「私たちは……正しい選択をしたと思うか?」「感情を取り戻したこと」「人間になったこと」エリュシオンが微笑む。「後悔しているのか?」「いや……」レグルスが首を振る。「後悔なんてしていない」「ただ……」「時々、不思議に思うんだ」「あの頃の自分が、どうしてあんなに冷たかったのか」「それが……」エリュシオンが空を見上げる。「成長の証だよ」「過去の自分を振り返り、疑問を持てるということは」「前に進んでいる証拠だ」白い洋館では、いつものように朝食の準備が進んでいた。「アキラ、お皿並べて」カナが手際よく動く。「ああ」アキラが応じる。二人の動きは、一年の間に完璧に息が合うようになっていた。「おはよう」マナが階段を降りてくる。すっかり成長し、以前より少し背が伸びた。「おはよう、マナ」リナが微笑む。
一週間後。朝早く、レグルスが一人で白い洋館を訪れた。「すみません……」まだ開店前の時間だったが、アキラが気づいて扉を開けた。「レグルス……」「こんな朝早くに、すみません」レグルスが申し訳なさそうに言う。「でも……どうしても見たくて……」「花ですね」アキラが微笑む。「さあ、庭へ」二人で庭に出ると、レグルスが息を飲んだ。「これは……」自分が植えた花壇に、小さな緑の芽が顔を出していた。「芽が……出てる……」レグルスがゆっくりと近づく。そして、膝をついて、小さな芽を見つめる。「本当に……出た……」「ええ」アキラが隣に座る。「あなたが植えた種から」「あなたが水をやり続けた結果です」レグルスの目に、涙が浮かぶ。「私が……」「この小さな命を……」「育てたのか……」「そうです」アキラが頷く。「これが、創造の喜びです」「管理や支配じゃなく」「育てることの喜び」レグルスが泣き始めた。長い間、封印していた感情が溢れ出す。「嬉しい……」「こんなに嬉しいことがあるなんて……」「小さな芽が出ただけなのに……」「こんなに……心が満たされる……」アキラが静かに見守る。創造者が、初めて本当の喜びを知った瞬間。それは、何にも代えがたい光景だった。しばらくして、レグルスが涙を拭った。「ありがとう」「君たちのおかげで……」「私は……本当の意味で生
新世界での生活が始まって三ヶ月。白い洋館フラワーショップは、地域の人々に愛される場所になっていた。その日の午後、珍しい客が訪れた。「こんにちは」エリュシオンが、人間の姿で入ってくる。「エリュシオン……」アキラが驚く。「どうしたんですか?」「少し、話がしたくて」エリュシオンが微笑む。「それに、君たちの花を見たかった」「どうぞ、こちらへ」カナが相談スペースに案内する。エリュシオンが花々を眺める。「美しいね」「ノアが植えたかった花たちだ」「はい」カナが頷く。「みんなで大切に育ててます」「君たちは……」エリュシオンが感慨深そうに言う。「本当に、ノアの想いを受け継いでいるんだね」「当然です」アキラが答える。「ノアは俺たちの中にいるんですから」エリュシオンが静かに語り始める。「実は……相談がある」「相談?」「ああ」エリュシオンが真剣な表情になる。「他の創造者たちのことだ」「レグルスたちは、人間社会にうまく馴染めているだろうか」「ああ……」アキラが考える。「そういえば、あまり見かけませんね」「そうなんだ」エリュシオンが心配そうに言う。「彼らは、長い間感情を封印していた」「急に人間として生きろと言われても……」「戸惑っているんだと思う」「それは……」カナが理解する。「助けが必要ということですか?」「もし可能なら……」
新世界での生活が始まって一ヶ月。白い洋館には、少しずつ日常が根付いていた。その日、花屋に一人の老人が訪れた。「すみません……」老人が戸惑いがちに入ってくる。「あの……相談があるんですが……」「はい」カナが優しく応対する。「どうぞ、こちらへ」花屋の一角には、相談スペースが設けられている。老人が座ると、ゆっくりと話し始めた。「実は……」「記憶のことで……」「記憶?」「世界が変わった時……」老人が苦しそうに言う。「私の記憶も、戻ったんです」「それは……良かったですね」「いえ……」老人が首を振る。「戻らなければ、良かったんです」「え……?」「息子のことを……」老人が涙を浮かべる。「思い出してしまったんです」「事故で亡くなったことを……」カナの表情が曇る。「それは……辛いですね……」「忘れていた方が、楽でした」老人が震える。「でも、記憶が戻って……」「息子がいないという現実を……」「また受け入れなければならない……」「もう一度、息子を失ったような……」その時、カナの胸でノアの声が聞こえた。『なんとなく……』『辛い記憶も、大切な記憶……』『忘れない方がいい……』カナが優しく老人に語りかける。「辛い記憶を思い出すのは、苦しいですよね」「でも……」「その記憶があるから、息子さんは生き続けているんです」「あなたの心の中で」「