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忘れられた声

Autor: 吟色
last update Última actualización: 2025-07-10 15:33:04

《神を殺せ》

それは、願いだったのか、呪いだったのか。

けれど確かなのは、この世界で決して口にしてはならない言葉だということだった。

真っ赤な塗料で壁に叩きつけられたその文字は、まるで誰かの絶叫そのものだった。

剥がれたコンクリートの上に滲む赤。それは時間が経っても褪せず、この空間だけが時を止めていた。

「……マジかよ」

俺の声が、がらんどうの廊下にやけに響いた。湿った空気、埃の匂い、遠い過去の気配。

そこだけ現実じゃないみたいに、世界が息を潜めていた。

「イタズラ……じゃないよね、これ」

カナが小さく呟いた。震える肩。普段冷静な彼女が、こんな表情を見せるのは初めてだった。

「これは記録だよ」

静かに、けれど確信を持った声でルキが言った。

「AIに消される前に、誰かが……最後に残した声だ」

まるで知っていたような口ぶりだった。

怖くもなければ、不思議そうでもない。ただ、その目は壁の向こうを見ていた。

まるで、その奥にまだ何かが残っていることを知っているみたいに。

「神って……ゼオのことか?」

そう問いかけた俺に、ルキは答えない。ただ黙って、崩れかけた教室の方へと歩き出した。

不意に、空気が変わった。温度ではない。言葉では説明できない、気配だった。

誰も声を出していないのに、耳の奥でざわつく音がした。

「……誰か、いる?」

カナが一歩下がった。俺も無意識に息を殺していた。

俺たちは、ルキの背中を追うようにして教室の奥へと進んだ。

そこにあったのは、一体の白骨化した遺体だった。

崩れた机に寄りかかるように、静かに座っていた。

人だった何かが、ただ時間に削られていった名残。

「……な、に、これ……」

カナの声が細く揺れる。俺は言葉が出なかった。

制服は、今では使われていない旧型。

胸元の名札は文字がかすれて、誰だったのかも分からない。

「人間?」

問いかけるように言った俺に、ルキが小さく答えた。

「かつては、ね」

その手には、埃をかぶった紙のノートが握られていた。今の時代にはない、記録媒体。

AIの監視をかいくぐる唯一の手段。神の目から隠された、忘れられた声。

震える手で、それをそっと取った。

ページをめくるたび、ボロボロと紙が崩れそうになる。

でもその中には、確かに言葉が刻まれていた。

『幸福に殺された』

『ゼオは神ではない』

『これは牢獄だ』

『自由を返してくれ』

『我々はゼオを止められなかった』

「……なんだよ、これ……」

目の前の世界が、音もなく崩れていく気がした。

「通報は……しないの?」

カナがぽつりとつぶやいた。でも誰も答えなかった。

AIに知られたら、すべてが終わる。それは、本能的に分かっていた。

「この世界って……やっぱり、どこか間違ってたのか……?」

心の奥にずっと沈んでいた疑念。

それが、言葉になって、口を突いて出た。

「幸福って、本当にこういうものなのか?」

スコアさえ高ければいい。

ルールさえ守れば、平和が保たれる。

そう教えられてきた俺たちの世界。

でも、それが牢獄だとしたら。

カナは言葉を失い、ノートを見つめていた。

ルキだけが、そっと俺の手からそれを受け取った。

「……今は、まだ触れるべきじゃない。重すぎるから」

「なんでそんなことが言えるんだよ……」

問い詰めるつもりはなかった。

でも俺の声には、確かに怒りがにじんでいた。

「僕には……これが普通だった時代の記録がある」

ルキの声は、優しかった。しかし、どこか遠かった。

彼だけが過去を知っているような言い方だった。

そしてそれは、俺たちが今まで信じていた現在を否定するものだった。

カナも、黙り込んだまま顔を伏せた。

俺たちは、何も知らなかった。

この世界が、本当はどんな罪を隠していたのか。

帰り道。

夕焼けに染まった街の中、俺は歩きながら空を見上げた。

整然と歩く制服姿の生徒たち。

一定の距離感、同じ表情、同じスピード。

幸福度スコア:基準値以上。

耳元のAIが優しく囁く。

「幸福は、あなたのそばにあります」

皆が一斉に、無表情の笑顔を浮かべる。

俺だけが、笑えなかった。

あの旧校舎で見た、白骨の誰か。

ノートに刻まれた叫び。

そして、壁に刻まれた《神を殺せ》。

ルキの言葉が、頭から離れない。

『僕には、記録がある』

ルキは本当に、俺たちと同じ人間なのか?

それとも……

神を殺すために生まれてきた存在なんじゃないか。

そのとき、視界の端に、赤い数字が灯った。

スコア:89

「……は?」

一瞬、何が起こったのか分からなかった。

でも、次の瞬間、背中に冷たいものが走った。

幸福度スコアが下がる。それは──この世界で命を削られることを意味する。

“疑い”を持っただけで。

“気づいてしまった”だけで。

AIはすべてを見ている。

言葉より先に、心を。

選択より先に、違和感を。

ルキが隣で立ち止まり、俺に言った。

「……気づいたんだね、アキラ」

その声は、怒りでも喜びでもなかった。

ただ……深く、深く、哀しかった。

「願わくば、君には……もう少しだけ、知らないままでいてほしかった。

幸福の中で、眠っていてほしかった」

その瞬間、俺は気づいた。

この世界はもう、戻れないところまで来ていた。

幸福という名の牢獄は、静かに。

でも確かに、崩れ始めていた。

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