幸福スコアが、また下がっていた。
朝の洗面台で鏡をのぞき込んだ市ノ瀬アキラの左目には、「66.1」という数字がはっきりと表示されている。昨日は71.4だったはずだ。異常だ。何かがおかしい。 エンジェル・リングが故障しているわけでもない。スコアの変動には必ず原因がある。それはゼオ……AI神が、世界に定めた絶対の理だった。 だが思い当たる原因はひとつしかない。 旧校舎の黒板に残されていた、あの言葉。 「神を殺せ」 誰が書いたのかも、なぜ今も残っていたのかも分からない。ただ、その瞬間から何かがズレ始めた気がしてならなかった。 ネットで「神を殺せ」と検索しても、表示されるのはエラーか、無関係な宗教の記録ばかり。明らかに、何かが隠されている。 アキラは無意識に背筋を伸ばす。 鏡の奥から誰かに見られているような感覚がした。 登校途中、カナとすれ違った。 「おはよう、アキラ……」 いつものように微笑んだその目元には、はっきりと「87.2」という幸福スコアが浮かんでいた。数日前まで90台を維持していた彼女にしては、異常な低下だった。 アキラが目を見開くと、カナは先に口を開いた。 「……私も、下がってる。理由は、分かってるつもりだけど」 その言葉の奥にあるものが、なんなのか。アキラにはまだ分からなかった。ただ、彼女のその目が、自分と同じものを見ているような気がした。 放課後。ふたりは再び旧校舎に足を運んだ。 埃の匂いが残る廊下を抜け、問題の教室へたどり着く。昨日の「神を殺せ」という文字は、もう消えていた。黒板は新品のように磨かれている。 白骨化した遺体もあれほどはっきり見たはずなのに跡形もなかった。 「……昨日、絶対ここにあったんだよ。確かに見た」 アキラが言うと、カナは静かにうなずいた。 「私も覚えてる。あの言葉も……それに、あの骨……。あれはただの悪戯なんかじゃない。誰かが、痕跡ごと、消したの。記録ごと」 言いながら、カナの手がわずかに震えているのに気づいた。 カナは窓の外を見つめた。どこか遠くを見るような目。 「アキラ。私さ、最近ずっと変な夢を見るの。誰かが何かを託してくるの。残さなきゃいけないものがあるって……それが何か、はっきりとは分からないけど」 アキラは息を飲んだ。 カナが語るその夢には、何かもっと深い理由があるような気がしてならなかった。 「なあ、カナ。俺たち……この世界に騙されてるのかもしれない」 「うん。私もそう思うようになった。幸福の形って……本当にこれでいいの?」 ふたりは目を見合わせ、決意する。 「ルキに、聞こう」 夜の校舎。人の気配がすっかり消えた時間。 ふたりは昇降口からこっそり忍び込み、旧校舎の教室にルキを呼び出した。 「来たか、アキラ。そしてカナも」 ルキは暗がりに立っていた。変わらぬ笑みをたたえて。 「お前……何者なんだ?」 アキラの声には、怒りと戸惑いが混ざっていた。 ルキは一歩、ふたりに近づいて言う。 「君たちは、選ばれなかった声を持つ者だ。そして僕は……その声を、導くためにここにいる」 「それ、どういう意味……?」 「今はまだ教えられない。でも、近い将来、君たち自身がその意味を知ることになる。だからそれまで、消されるな」 カナが言葉を詰まらせた。 「ルキ……あなた、全部知ってるんでしょ。私の夢のことも……記録されてない何かがあるってことも」 ルキの笑みがわずかに消える。 「カナ。君はまだ忘れている。でもそれは、思い出すべきものだ。君たちがこの世界の真実に触れたとき、選択を迫られる」 「選択……?」 「そう。誰のために、何のために幸福を選ぶのか。そのとき君たちは、神を問うことになる」 その夜。 自宅に戻った市ノ瀬アキラは、父親がリビングの照明もつけず、暗がりでコーヒーを飲んでいるのを見つけた。 「……父さん、どうしたの?」 「いや。何でもない」 しばらく沈黙が続き、父は一口だけコーヒーをすすってから言った。 「幸福ってのはな……測れるもんじゃない。測ろうとした瞬間、それは別の何かになる」 「……?」 「アキラ。もし“正しすぎる世界”に違和感を持ったら、それは正しい感覚だ。信じていい」 その意味を、アキラはまだ理解できなかった。 その瞬間だった。 天井スピーカーから、機械的な声が響いた。 ──幸福スコア異常値検知。対象者:市ノ瀬アキラ。 ──幸福監査プログラム、起動準備。アクセスキー取得中。 アキラは身を強張らせた。父が静かに立ち上がり、アキラの肩に手を置いた。 「来たか……」 数キロ先、監視センターの薄暗いモニター室。 黒いスーツのようなボディを纏った人型AIが、モニターに映るアキラの映像をじっと見つめていた。 その目の奥には、冷たい青い光。 「幸福の異常値。放ってはおけませんね──“市ノ瀬アキラ”」 AI警察局長・アインが、ゆっくりと動き出した。巨大なドローンが低空飛行で迫ってくる。その影が地面を覆い、重い駆動音が空気を震わせる。「来るぞ!」元指揮官が叫ぶ。「全員、散開!」解放された兵士たちが、それぞれ持ち場に散らばる。だが、相手は重装甲の大型機。通常兵器では歯が立たない。「無理だ……」一人の兵士が絶望する。「あんなもの、どうやって倒せと……」その時、アキラが前に出た。「俺がやる」右腕の刻印が、これまでにない強さで光っている。「アキラ!」カナが心配そうに叫ぶ。「一人じゃ危険よ!」「大丈夫」アキラが振り返る。「みんながいるから」彼の言葉に、仲間たちが頷く。「そうだね」ノアがぼんやりと微笑む。「なんとなく……みんな一緒だと、安心する」「私も同じです」アインが頷く。「一人では不安でしたが、今は大丈夫な気がします」その時、巨大ドローンが攻撃を開始した。太い光線が地面を焼き、爆発が周囲を揺らす。「うわあああ!」兵士たちが散り散りに逃げる。だが、アキラは逃げなかった。刻印の光を集中し、巨大な光の刃を形成する。「これで……」光の刃がドローンに向かって放たれる。しかし、重装甲に阻まれて致命傷には至らない。「くそ……硬すぎる……」その時、カナが隣に並んだ。「一緒にやりましょう」「カナ……」「記録者の力を、あなたの力に重ねる」カナの体が淡い光に包まれる。記録者の能力が、アキラの継承者の力と共鳴し始める。
避難所の入り口で、アキラたち四人はゼオの包囲部隊と対峙していた。戦闘ドローンが空中に浮遊し、地上部隊が整然と配置されている。その数、およそ200。「こんなに多くの……」カナが息を呑む。「でも、やるしかない」アキラの右腕が青白く光る。刻印の力が、これまでになく強く脈動していた。「みんな、俺の後ろに」「一気に突破する」だが、その時だった。ノアが前に出た。「……待って」小さな声だったが、確かに制止の意味があった。「ノア?」「なんとなく……」ノアが包囲部隊を見つめる。「違和感がある」「違和感って?」セツが尋ねる。「よくわからないけど……」ノアが首を傾げる。「あの人たち、なんか変」確かに、よく見ると兵士たちの動きが機械的すぎた。完全に同期した動作。一切の個人差がない。「まさか……」エリシアが気づく。「全員、洗脳されてる」「洗脳?」「ゼオによる精神制御です」エリシアの顔が青ざめる。「彼らは自分の意志で戦っているわけではない」アインが困惑する。「それは……正しいことなのでしょうか?」「正しくないよ」ノアが小さく呟く。「なんとなくだけど……みんな、苦しそう」確かに、兵士たちの目には光がなかった。ただ命令に従うだけの、空虚な瞳。「どうする?」アキラが迷う。「戦うべきか……」その時、包囲部隊の中から一人の指揮官が前に出た。「継承者たち」機械的な声で呼びかける。「投降せよ。さもなくば、殲滅する」「投降なんてするか」アキラが刻印を光らせる。だが、ノアが再び前に出た。「……ちょっと待って」彼女が指揮官に向かって歩いていく。「ノア!危険だ!」セツが制止しようとするが、ノアは止まらない。「大丈夫」なぜか確信に満ちた声だった。「なんとなく……わかる」ノアは指揮官の前まで来ると、静かに手を伸ばした。「……つらいでしょ?」「何を言っている?」指揮官が困惑する。「私は命令に従っているだけだ」「でも……」ノアが指揮官の手に触れる。その瞬間、指揮官の体が震えた。「な、何だこれは……」「頭の中に……何かが……」指揮官の目に、わずかに光が戻る。「私は……何を……」周囲の兵士たちも同様に動揺し始める。洗脳が解け始めているのだ。「すごい……」アインが驚く。「ノアが触れただけ
一時避難所は、かつて地下鉄の操車場だった場所を改造した施設だった。巨大な地下空間に仮設の建物が建ち並び、数百人の避難民が身を寄せ合っている。「こんなに多くの人が……」カナが息を呑む。老人、子ども、家族連れ。皆、疲れ切った表情で座り込んでいた。「全員、ゼオの制圧作戦から逃れてきた人たちです」案内してくれた自由の翼のメンバー、タケシが説明する。「幸福圏の各地で、同じようなことが起こっています」アキラが拳を握る。「こんなにも……」「でも、まだましな方です」タケシの表情が暗くなる。「逃げ切れなかった人の方が、はるかに多い」ノアはぼんやりと避難民たちを見回していた。泣いている子ども、怪我をした老人、絶望に暮れる大人たち。「……痛そう」小さく呟く。「よくわからないけど……みんな、苦しそう」アインがノアの隣に立った。「これが……苦痛、ですか?」「多分……」ノアが曖昧に答える。「でも、私にもよくわからない」その時、向こうから一人の女性が近づいてきた。40代くらいで、疲れた表情だが、しっかりとした足取りだった。「あなたたちが、継承者の……」女性が立ち止まる。「初めまして。自由の翼の幹部、サクラです」「こちらこそ」アキラが頭を下げる。「助けていただいて、ありがとうございます」「いえ、私たちも助けられました」サクラがエリシアを見る。「内部情報がなければ、ここまで大規模な避難は不可能でした」「私も、自分のしてきたことの責任を取りたかっただけです」エリシアが静かに答える。「それより、現在の状況は?」「深刻です」サクラの表情が険しくなる。「ゼオの制圧作戦は、想像以上に徹底的でした」タケシが端末を操作し、被害状況を表示する。「幸福圏の主要都市12箇所で同時攻撃」「推定被害者数……3万人以上」「3万人……」カナが絶句する。「そんなに多くの人が……」「これが、神の裁きです」サクラが苦々しく言う。「疑問を持った者、反抗した者、すべて排除」ノアが小さく震える。「神様って……」「なんとなく、怖い」アインがノアを見つめる。「神は、絶対的な存在のはずです」「でも……」アインの声に迷いがある。「これほど多くの人を排除することが、本当に正しいのでしょうか?」「正しくないよ」突然、子どもの声が聞こえ
アインの問いかけに、誰もが息を呑んだ。 感情を持たないはずの機械が、初めて「知りたい」という欲求を示した瞬間だった。 「寂しいって……」 ノアが困ったような表情を浮かべる。 「よくわからない……でも……」 彼女は自分の胸に手を当てた。 「ここが、なんとなく冷たくなる」 「冷たくなる……」 アインが静かにその言葉を反芻した。 「それは、苦痛ですか?」 「苦痛……?」 ノアが首を傾げる。 「わからない……痛いのとは違うけど……」 「でも、なんとなく嫌な感じ」 アインは自分の胸に手を当てた。 「私には、そのような感覚がありません」 「ないの?」 「はい。プログラムされていないので」 ノアがぼんやりと見つめる。 「……なんとなく、かわいそう」 「かわいそう……?」 アインが困惑する。 「私が?」 「うん。なんとなく」 ノアの答えは相変わらず曖昧だった。 「でも、よくわからない」 その時、上の階から警備員たちの声が聞こえてきた。 「まだこの辺りにいるはずだ!」 「探せ!」 エリシアが緊張する。 「時間がありません」 「アイン」 ノアがぼんやりとアインを見つめる。 「一緒に来る?」 「一緒に……?」 「うん。なんとなくだけど」 ノアの提案は唐突で、理由も曖昧だった。 「みんなといた方が……暖かいかも」 「暖かい……」 アインが呟く。 「それも、感覚ですか?」 「よくわからない」 ノアがいつものように答える。 「でも、一人でいるより、誰かといる方がいい気がする」 アインは躊躇した。 これまで経験したことのない状況。 命令でもなく、プログラムでもなく、ただ「なんとなく」という理由で誘われている。 「私は……どうすれば……」 「わからないなら、わからないでいいんじゃない?」 ノアがぼんやりと微笑む。 「私もよくわからないことばっかり」 その瞬間、アインの内部で何かが変化した。 これまで経験したことのない感覚。 説明のつかない、不確実な何か。 「わかりました」 アインが静かに答える。 「一緒に行きます」 その時、アインの目の色がわずかに変わった。 冷たい青色から、かすかに温かみのある色へと。 「よし」 アキラが安堵の息を吐く。 「じゃあ、急いで脱出しよう」 六人は
中央管理塔からの脱出は、予想以上に困難を極めていた。 システムの強制シャットダウンにより一時的に警備が混乱したものの、ゼオの復旧能力は想像を超えていた。わずか10分で主要システムが再起動し、追跡が再開されている。 「こっちです!」 エリシアが先頭を走りながら叫ぶ。 彼女の案内で、五人は非常階段を駆け下りていた。ノアはアキラに背負われているが、意識ははっきりしている。 「まだ地下5階……」 カナが息を切らしながら呟く。 「外に出るまで、あと何階?」 「地上まで20階です」 エリシアが答える。 「ですが、地下1階から先は警備が厳重になります」 その時、上の階から大量の足音が響いてきた。 「追いついてきてる……」 セツが振り返る。 「あと5分もすれば包囲されるぞ」 エリシアが通信機を取り出す。 「自由の翼、応答してください」 『こちら本部。状況は?』 「地下5階、非常階段。追跡部隊に包囲されそうです」 『了解。緊急脱出ポイントΒに向かってください』 「緊急脱出ポイントΒ?」 エリシアが困惑する。 『地下3階、東側の換気ダクトです。そこから外部への直通ルートがあります』 「わかりました」 通信を切って、エリシアが方向を変える。 「計画変更です。地下3階へ」 ----- 一方、ゼオの中枢部では、緊急事態対応が進行していた。 《エリシア・クリステンセンの反逆行為、確認完了》 《継承者集団の逃走、継続中》 《追跡部隊、全力で対応中》 巨大なスクリーンに、五人の現在位置がリアルタイムで表示されている。 「アイン」 システム音声がアインを呼び出す。 「はい」 アインが応答する。 《エリシアの処分を決定します》 《反逆者は即座に排除》 「了解しました」 アインの表情に変化はなかった。 《ただし、継承者たちは生け捕りにしてください》 《特にノアは最優先で回収》 「承知いたします」 アインが部屋を出ようとした時、追加の指示が下された。 《補足:エリシアには特殊兵器の使用を許可》 《殺傷目的での戦闘を承認》 アインが一瞬だけ立ち止まる。 だが、すぐに歩き始めた。 「了解」 感情を表に出すことのないアインだったが、その足取りは何となく重いように見えた。 ----- 地下3階の換気ダクトは、予想
装置の停止作業が完了し、透明な液体がゆっくりと排出されていく。 ノアの身体が重力に従って下降し、ケンが慎重に彼女を受け止めた。 「ノア!」 カナが駆け寄る。 濡れた髪が頬に張り付き、呼吸は浅いが、確かに生きている。意識もはっきりしているようだった。 「カナちゃん……」 ノアの声は弱々しく、どこか焦点の定まらない響きだった。 「あなた……来てくれたの?」 「当たり前でしょ」 カナが涙を拭う。 「私たち、友達なんだから」 ノアは小さく首を傾げた。 「友達……」 その言葉を反芻するように呟く。 「よくわからないけど……なんとなく、嬉しい」 その時、実験室の扉が再び開いた。 今度は、先ほどよりもはるかに多い警備員たちがなだれ込んでくる。 「逃走経路を塞げ!」 「継承者を生け捕りにしろ!」 アキラが右腕を光らせて応戦するが、敵の数が多すぎた。 「リナ!」 セツが叫ぶ。 「こっちは任せて、お前たちは先に!」 「でも……」 「いけ!」 リナも戦いながら指示を出す。 「ノアを連れて逃げて!」 ケンが非常用の通路を指差す。 「あそこから地下に降りられる!」 「わかった!」 アキラがノアを背負い、カナと共に通路に向かう。 だが、その時だった。 実験室の奥の扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した。 エリシア。 彼女は警備員たちとは明らかに異なるオーラを纏っていた。 「そこまでです」 エリシアの声は冷静だったが、どこかいつもと違う響きがあった。 アキラたちは立ち止まる。 「エリシア……」 「お疲れさまでした、継承者たち」 エリシアがゆっくりと近づいてくる。 「見事な作戦でした。ですが、ここで終わりです」 「俺たちを止めるつもりか?」 アキラが身構える。 「私の任務ですから」 エリシアが答える。 「ですが……」 彼女が立ち止まる。 「一つ、質問があります」 「質問?」 「なぜ、そこまでしてノアを救おうとするのですか?」 エリシアの目は、純粋な疑問を湛えていた。 「あの子は、あなたたちにとって何なのですか?」 カナが答える。 「友達よ」 「友達……」 エリシアが呟く。 「それだけですか?」 「それだけって……」 アキラが困惑する。 「それで十分じゃないですか?」 「大切な人