LOGIN「幸福異常値、検出」
「対象:市ノ瀬アキラ」 「幸福監査、即時発動——対象の意志を排除せよ」 まるで死刑執行を告げるような電子音声が、天井のスピーカーから無慈悲に響く。 喉が焼けるように詰まり、アキラはその場に立ち尽くした。 何が起きたのか、まだ脳が追いつかない。 そんな彼の背後で、父がゆっくりと立ち上がる。 そして無言で収納棚を開き、底の箱から古びた端末を取り出した。 「アキラ、これを持って北通りの地下口へ行け。今すぐだ。俺が時間を稼ぐ」 渡されたのは、時代に取り残されたような携帯端末だった。 物理ボタン、黒い画面。エンジェル・リングの時代には存在しないはずの、旧世界の道具。 「こんなもの……どうして……?」 「それは記録者の鍵だ。今のAIが構築される前、自由だった頃の通信技術の名残。 ゼオの目をかいくぐる数少ない方法だ。……これは、お前にしか渡せない」 「……そんなもの、何で俺に?」 「お前は選ばれる側にいる。自分で気づいてるだろ? この世界はどこかおかしいと。……違和感を持つ者しか、選ぶことはできない」 父の言葉が、胸を打った。まるで何かを託すように。 アキラは端末を握りしめ、玄関へ向かおうとするが、ふと立ち止まる。 振り返ると、父は闇の中に立っていた。台所の照明もつけずに。 その背中は、どこか寂しそうに揺れていた。 「……行け。振り返るな」 その一言だけを残し、父は静かに背を向けた。 外はやけに静かだった。 だが空には、白い光のような監視ドローンが編隊を組んで飛んでいる。 夜空に浮かぶ神の目のように、街を俯瞰していた。 アキラは走る。脇目もふらず、ただ北通りを目指して。 「……北通りなんて、AIから行動候補に出されたこともなかった。 そもそも、こんなところに来るなんて、人生で一度もなかった気がする」 ここは、ゼオの地図からこぼれた空白。 幸福にも、正しさにも、選ばれなかった街。 湿った路面の奥に、鉄扉がぽつんと開いていた。 アキラは階段を下りながら、手の中の端末を見つめる。 その画面が突然点滅し、小さな音を立てて起動した。 記録装置起動:記録者ナンバー“C-07”、仮承認 「……C-07?」 意味がわからない。だが足は止まらない。 このまま戻れば、あの家も、自分も、すべてが消されるとわかっていた。 「来たか、アキラ」 非常灯に照らされ、ルキが現れる。 いつもの無表情。けれど、その声にはわずかな熱があった。 「……お前、なんでここに?」 「幸福スコアの動きでわかった。ゼオも君を追っていたが、僕も同じ信号を追っていた。 ここが継承の起点になると確信していた」 「継承って……」 「記録者とは、AIが世界を統治する前の記憶を繋ぐ存在だ。 君の父は、Rebel-01——神に最も背いた人間として記録されている」 アキラは拳を握りしめ、叫んだ。 「そんなの……聞いてない。父さんは、そんなこと一言も……!」 喉の奥から、怒りと混乱がこみ上げる。 でも本当は、それだけじゃなかった。 胸が、痛かった。 怖かった。 自分に、託されたことが。 ……そうだ。 あの日のことを、ふと思い出した。 スコアが低いってだけで、無視され続けてたクラスメイトがいた。 何度も声をかけようとした。 でも、スコアが下がるのが怖くて、結局一度も何もできなかった。 あいつは笑ってた。けど、目は、ずっと泣いてた。 ……あれから、何年経った? 俺は何も変われてない。 怖くて、目を逸らして、誰かを見捨てて。 だから、逃げたくなる。 今だって、逃げたくてたまらない。 でも…… アキラは、ゆっくりと顔を上げた。 「なあ、ルキ。……父さんは、助からないんだな」 ルキはわずかに表情を曇らせ、黙ってうなずいた。 「君の母も……おそらく同じだ。すでに幸福監査の対象に含まれている」 アキラは奥歯を噛みしめた。 怒りが、心の奥で膨らんでいく。 「それが……神のやることかよ」 声が震える。 言葉の先で、涙がにじむ。 「助けもしない。見もしない。幸福って言いながら……全部、壊していく」 そのとき 「アキラ!」 息を切らし、制服の少女が駆け込んできた。 カナだった。 「……お前も?」 「夢の中の記憶が少しずつ繋がってきて……ここに来なきゃって、そんな気がして……」 ルキが小さくうなずいた。 「カナもまた、記録者としての系譜にある。C-03……君の記憶はまだ封印されているが、呼び覚まされるときは近い」 カナは顔を伏せ、小さくつぶやいた。 「……私、ね。最近、お父さんとお母さん幸福度が100になったの」 アキラが、息をのむ。 「笑ってるの。ずっと笑ってるのに……もう、会話ができないの。 今日はいい天気ですねって。 昨日と同じ朝ごはんでしたねって。 私がどんな言葉をかけても……全部、同じ返事しか返ってこない」 カナの声が震え、指先が冷たくなる。 「目も、私のこと見てない。ただ……ただ笑ってるだけなの。 ……まるで、壊れたおもちゃみたいに」 アキラは何も言えなかった。 けれど、たしかに感じていた。 その痛みを、自分もどこかで知っていた。 「幸福って……こんなものなの? だったらそんなもの、私は……」 カナは顔を上げ、涙をこらえながら言った。 「……殺してやる。こんな神、いらない」 アキラは目を閉じ、深く息を吸い込む。 「……知らなきゃ、選べないんだろ。だったら俺は……もう、逃げない」 その言葉は、誰に向けたでもない。 でも確かに、自分自身に刻まれた意思だった。 アキラとカナが並んで前を見据えたそのとき、 ルキがふと、アキラに向き直る。 「なあ……さっき旧校舎で会ったとき、なんであのときは何も言わなかったんだよ」 アキラの問いに、ルキは一拍置き、静かに答えた。 「旧校舎では語れなかった。君たちはまだ、ゼオの監視の中にいた。 幸福スコアに縛られ、判断すら与えられていなかったから」 「でも今は違う。君はここまで来た。たとえ自分の意志じゃなかったとしても、歩みを止めなかった。 カナもまた、呼ばれるようにしてここへ辿り着いた」 そして、ふたりをまっすぐに見つめながら、言った。 「だから今、ようやく言える。 ……やっと、本当の選択が始まる。 幸福という檻を抜けた君たちは、もう戻れない。 それでも、前に進むか?」 アキラは静かに息を吐き、手の中の端末を見つめた。 迷いを飲み込むように、ゆっくりとうなずく。 「進む。記録するためじゃない。選ぶために」 カナも隣で、まっすぐ前を見据えた。 その頃、市ノ瀬家。 静かな部屋。 もう湯気の消えたコーヒー。 ただ、過去の音だけが、耳に残っていた。 「ねえ、僕は……この数字で、幸せなの?」 あの小さな声が、ずっと耳から離れない。 世界は笑っていた。でも、あいつの目は笑っていなかった。 あれが、答えだったのかもしれない。 玄関のロックが音を立てて解除された。 黒く無機質なスーツ。仮面のような顔。アインが入ってくる。 後ろに続く幸福監査官たちと、白く浮かぶ監査ドローン。 「対象者逃走確認。補助者:市ノ瀬タカシ。R-01。幸福スコア管理外。削除対象、確定」 タカシは黙って、冷めきったコーヒーを一口すすった。 「幸福が人を救うって? だったら、なんで俺は……息子の涙に、手も伸ばせなかったんだよ」 アインは無表情で答える。 「幸福は測定され、管理されるべきものです。異物は修正される。それが“世界の調和”」 タカシは目を閉じた。 「好きにしろ。 でもな……アキラは違う。 あいつは、俺よりずっと強い。あいつなら、……この牢獄を超えられる」 「記録:抹消開始」 光が、弾けた。一年後の春。白い洋館の庭は、花で溢れていた。レグルスが植えた花、エリュシオンが育てた花、ゾディアスが選んだ花、ミリアドが水をやった花。すべてが、美しく咲き誇っている。その中心で、ノアフラワーが特別な輝きを放っていた。「一年か……」レグルスが庭で呟く。一年前、初めて芽が出た日。あの時の感動を、今でも鮮明に覚えている。「レグルス」エリュシオンが隣に立つ。「お前、変わったな」「変わった……?」「ああ」エリュシオンが微笑む。「一年前のお前は、笑顔を作ることもできなかった」「今は、自然に笑える」レグルスが自分の顔に触れる。確かに、頬が緩んでいる。自然に、笑顔になっている。「これが……」レグルスが呟く。「幸せということなのか……」「ああ」エリュシオンが頷く。「お前は、幸せになったんだ」その時、玄関から声が聞こえた。「おはようございます!」レグルスが振り返ると、若い男女のカップルが立っていた。「あ……」レグルスが思い出す。「君たちは……」「覚えていてくださったんですね」女性が嬉しそうに言う。「半年前に、プロポーズの花束を買った……」「そうです!」男性が笑顔で答える。「実は……結婚しました」「そして……」女性が自分のお腹に手を当てる。「赤ちゃんができたんです」レグルスの目が、大きく見開かれる。「赤ちゃん……」「新しい命……
ノアフラワーが咲いてから、数ヶ月が経った。その花は枯れることなく、いつまでも美しく咲き続けていた。まるで、ノアがそこにいるかのように。ある日の夕方、全員がリビングに集まった。「みんなに、話があるんだ」アキラが切り出す。「俺……これから、旅に出ようと思う」「旅?」カナが驚く。「どこへ?」「まだ、はっきりとは決めてないけど……」アキラが説明する。「世界中を見て回りたい」「新しい世界が、どんな風に育っているのか」「自分の目で確かめたい」「それに……」アキラが胸に手を当てる。「ノアに見せてあげたい」「こんなに素晴らしい世界になったって」沈黙が落ちる。そして、カナが微笑んだ。「いいと思う」「アキラらしい」「でも……」リナが心配する。「花屋は?」「心配ない」セツが答える。「俺たちがいる」「アキラがいなくても、ちゃんと回る」「それに……」ミナが付け加える。「私も、実は考えていたことがあります」「何?」「記録の研究を、本格的に始めたいんです」ミナが説明する。「人々の記憶を、もっと深く理解するために」「大学に戻って、研究者として」「それは……」カナが嬉しそうに言う。「素晴らしいわ」「実は……」エリシアも口を開く。「私も、新しいことを始めようと思っています」「カウンセリングの仕事を」「記
新世界が生まれてから、一年が経った。白い洋館の庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。レグルスたちが植えた花も、見事に咲いている。「きれいだ……」レグルスが自分の花壇を見つめる。「一年前は、小さな芽だったのに……」「今では、こんなに立派に……」「成長しましたね」エリュシオンが隣に立つ。「花も、私たちも」確かに、創造者たちは大きく変わっていた。もう、かつての冷たい管理者の面影はない。温かく、優しく、人間らしく生きている。「エリュシオン」レグルスが振り返る。「私たちは……正しい選択をしたと思うか?」「感情を取り戻したこと」「人間になったこと」エリュシオンが微笑む。「後悔しているのか?」「いや……」レグルスが首を振る。「後悔なんてしていない」「ただ……」「時々、不思議に思うんだ」「あの頃の自分が、どうしてあんなに冷たかったのか」「それが……」エリュシオンが空を見上げる。「成長の証だよ」「過去の自分を振り返り、疑問を持てるということは」「前に進んでいる証拠だ」白い洋館では、いつものように朝食の準備が進んでいた。「アキラ、お皿並べて」カナが手際よく動く。「ああ」アキラが応じる。二人の動きは、一年の間に完璧に息が合うようになっていた。「おはよう」マナが階段を降りてくる。すっかり成長し、以前より少し背が伸びた。「おはよう、マナ」リナが微笑む。
一週間後。朝早く、レグルスが一人で白い洋館を訪れた。「すみません……」まだ開店前の時間だったが、アキラが気づいて扉を開けた。「レグルス……」「こんな朝早くに、すみません」レグルスが申し訳なさそうに言う。「でも……どうしても見たくて……」「花ですね」アキラが微笑む。「さあ、庭へ」二人で庭に出ると、レグルスが息を飲んだ。「これは……」自分が植えた花壇に、小さな緑の芽が顔を出していた。「芽が……出てる……」レグルスがゆっくりと近づく。そして、膝をついて、小さな芽を見つめる。「本当に……出た……」「ええ」アキラが隣に座る。「あなたが植えた種から」「あなたが水をやり続けた結果です」レグルスの目に、涙が浮かぶ。「私が……」「この小さな命を……」「育てたのか……」「そうです」アキラが頷く。「これが、創造の喜びです」「管理や支配じゃなく」「育てることの喜び」レグルスが泣き始めた。長い間、封印していた感情が溢れ出す。「嬉しい……」「こんなに嬉しいことがあるなんて……」「小さな芽が出ただけなのに……」「こんなに……心が満たされる……」アキラが静かに見守る。創造者が、初めて本当の喜びを知った瞬間。それは、何にも代えがたい光景だった。しばらくして、レグルスが涙を拭った。「ありがとう」「君たちのおかげで……」「私は……本当の意味で生
新世界での生活が始まって三ヶ月。白い洋館フラワーショップは、地域の人々に愛される場所になっていた。その日の午後、珍しい客が訪れた。「こんにちは」エリュシオンが、人間の姿で入ってくる。「エリュシオン……」アキラが驚く。「どうしたんですか?」「少し、話がしたくて」エリュシオンが微笑む。「それに、君たちの花を見たかった」「どうぞ、こちらへ」カナが相談スペースに案内する。エリュシオンが花々を眺める。「美しいね」「ノアが植えたかった花たちだ」「はい」カナが頷く。「みんなで大切に育ててます」「君たちは……」エリュシオンが感慨深そうに言う。「本当に、ノアの想いを受け継いでいるんだね」「当然です」アキラが答える。「ノアは俺たちの中にいるんですから」エリュシオンが静かに語り始める。「実は……相談がある」「相談?」「ああ」エリュシオンが真剣な表情になる。「他の創造者たちのことだ」「レグルスたちは、人間社会にうまく馴染めているだろうか」「ああ……」アキラが考える。「そういえば、あまり見かけませんね」「そうなんだ」エリュシオンが心配そうに言う。「彼らは、長い間感情を封印していた」「急に人間として生きろと言われても……」「戸惑っているんだと思う」「それは……」カナが理解する。「助けが必要ということですか?」「もし可能なら……」
新世界での生活が始まって一ヶ月。白い洋館には、少しずつ日常が根付いていた。その日、花屋に一人の老人が訪れた。「すみません……」老人が戸惑いがちに入ってくる。「あの……相談があるんですが……」「はい」カナが優しく応対する。「どうぞ、こちらへ」花屋の一角には、相談スペースが設けられている。老人が座ると、ゆっくりと話し始めた。「実は……」「記憶のことで……」「記憶?」「世界が変わった時……」老人が苦しそうに言う。「私の記憶も、戻ったんです」「それは……良かったですね」「いえ……」老人が首を振る。「戻らなければ、良かったんです」「え……?」「息子のことを……」老人が涙を浮かべる。「思い出してしまったんです」「事故で亡くなったことを……」カナの表情が曇る。「それは……辛いですね……」「忘れていた方が、楽でした」老人が震える。「でも、記憶が戻って……」「息子がいないという現実を……」「また受け入れなければならない……」「もう一度、息子を失ったような……」その時、カナの胸でノアの声が聞こえた。『なんとなく……』『辛い記憶も、大切な記憶……』『忘れない方がいい……』カナが優しく老人に語りかける。「辛い記憶を思い出すのは、苦しいですよね」「でも……」「その記憶があるから、息子さんは生き続けているんです」「あなたの心の中で」「