部屋の扉を控えめにノックすると、ほどなくして開いた。
「どうしたの、瑞希?」
私と同じくパジャマ姿の兄は、私を見下ろしながら少し驚いているように見えた。
就寝後に、こうやって兄の部屋を訪れるのは初めてだったから、意外だったのかもしれない。
「ねむれないの」
「悪い夢でも見た?」
「ちがうけど……」
「けど?」
「…………」
心配そうに訊ねる兄に、どう伝えるべきか考えを巡らせていると、扉の向こう側に兄の学習デスクが見えた。
教科書やノートの類が広げられており、それまで兄が勉強していたことがうかがえる。 宿題をしていたのかもしれない。邪魔をしてしまっているのだとしたら、兄に申し訳ない。「気にしないで、話してみて。聞いてほしかったから来たんだろ?」
私の視線が机に向けられていることに気付くと、兄は私に視線を合わせるようにその場にしゃがみこんで、微笑みかけてくれた。
「っ……」
その笑顔が優しくて、寒い夜にかけてもらえる柔らかな毛布のように、とても安心できるもので――緊張が緩んだ私は、その場で泣き出してしまった。
兄は私をそっと抱きしめると、私が泣き止むまで、しばらく背中をとんとんと優しく叩いてくれた。
施設にいたころから、私は自分の素直な気持ちを吐露できないところがあった。
身寄りがないため、嫌われないようにという思いが無意識に働いたのだろう。 でもこのときは、自分で自分を抑えることができなかった。ひとしきり泣いて落ち着くと、兄が自分の部屋に私を促した。
そして、ベッドに私を座らせて、改めて「なにがあったの?」と訊ねた。私はぽつぽつと、頭の中に渦巻いていた不安について兄に話し始めた。
いつか自分が、朝比奈家の人間でなくなってしまうことが、とてつもなく恐ろしくて悲しい、と……拙い言葉で告げる。「そうか。……ごめんな、瑞希」
横に座って私の話を聞いた兄は、なぜか謝りながら私の頭をそっと撫でた。
「瑞希がそんな風に思ってるの、全然気づかなくてごめん」
兄が謝る必要なんてないのに、なぜか兄は唇をきつく噛んで、自分を責めているように感じられた。
――おにいちゃんのせいじゃない。
そう告げようとした刹那、兄が私の身体をそっと抱きしめる。
「心配しなくて大丈夫だ。瑞希はひとりじゃない。俺たちは家族になったんだから、とつぜん瑞希から離れていったりしない。ずっとそばにいるよ。だから、大丈夫」
離れていったりしない。ずっとそばにいる。
兄の、囁くような優しい響きが、私の心に棲みついていた恐怖を、うそみたいに取り払ってくれた。
――ああ。私は、ここにいていいんだ。
朝比奈家にいていいんだ。私たちは、家族になったんだから。
「ありがとう、おにいちゃん」
温かい背中に腕を回すと、心底ホッとした。
私には、つらいときにこうやって守ってくれる、素敵なお兄ちゃんがいる。それがたまらなくうれしかった。
「きょうは、おにいちゃんと、いっしょにねていい?」
ほんの少しだけ身体を離して、兄を見上げる。
そして、いつも言い出せなかったお願いを、勇気を出して訊ねてみた。兄は笑みを深くして、快くうなずく。
「いいよ。枕を持っておいで」
私は「うん!」と元気よく言って、駆け足で自分の部屋へと枕を取りに行った。
「当直明けだったから、午後には帰って来てたんだ」 兄はスマホに視線を注いだまま、声だけで淡々と返事をする。「そうだったんだ。お疲れさま」 兄がこの時間帯に家にいる理由は、だいたい当直明けか有休を取得したかのどちらかだ。 キッチンで話を盗み聞きしたときに予測はついていたけれど、今知ったという体でうなずいてみせる。「――さっきここでお母さんと話してたの、お兄ちゃんだったんだね」 兄の存在を意識していたと思われたくなくて、私は兄が在宅していたことに気が付かなかったふりをした。「ああ」「もしかして、また縁談?」「そんなところ」 からかうように訊ねると、兄は声の調子を変えずに肯定する。「今回はどうするの? 受けるの?」 知りたくない気持ちと同じくらい、どうするのか確かめたい気持ちが急激に高まり、衝動的に訊ねてしまったのを、自分自身でも驚く。「まさか」「じゃあ、断ったんだ」 わかりやすく声のトーンが明るくなってしまったに違いない。そうであってほしいと願っていたから。「今はな。当たり前だ」「……そっか」 端的な返答を得て、ホッとしたのは一瞬だけ。すぐに胸にモヤモヤしたものが広がる。 『今は』って言い方をするのは、そのうち受けるかもしれないから? それとも、よろこんでしまった私に期待を持たせないようにするため? いずれにしても、心底安心できるような答えではなさそうだ。 兄はずっと、手元のスマホを見つめていて、私には目もくれない。 あのときからずっとそうだ。 兄へ改めて想いを伝えたあの春の夜からずっと、彼は私と面と向かうのを避けるみたいに、私の視線に気が付かないふりをする。 まるでそれが、揺るぎない自分の答えであると主張するように。 ――すっかり警戒されちゃってるな。 わかりやすい拒絶に傷つくけれど、自分
「そう言われても……」 返事に困っている兄の様子が伝わってきたところで、私はふたりの会話をシャットアウトして冷蔵庫を開けた。 なかから、当初の目的通り冷水筒に入ったお茶を手に取ると、食器棚から取り出したタンブラーに注いで、逃げるように自分の部屋に戻る。「はぁ……」 扉を閉めると、私は手にしたグラスの中身をひと口飲んだあと、それデスクに置いて、ベッドに横たわった。 ――またお兄ちゃんの縁談か……。 白い天井の中心で煌々と光るシーリングライトを眺めながら、気持ちがずーんと落ち込んでいく。 年齢的にも、環境的にも、そういう話が舞い込んでくるのは仕方がない。 わかっていても、堪えるものは堪えるのだ。 兄がいずれ、誰かと結婚してしまうことも、その相手が私ではないことも……。 どうにもならないとわかっているからこそ、聞きたくなかったな。 いつの日か耳にするだろう、失恋確定の報せ。 私が知るのは、可能な限り先延ばしにしたいところだ。 でなければ、心が保ちそうにない。 空になったグラスを置きに、再び階下に降りる。 キッチンに入ると、母が食事の準備をしてくれている最中だった。「あら、瑞希。レポートは捗った?」 私に気が付くと、母はにこっと微笑み、そう問いかけてくる。 朝比奈 晶恵(あさひな あきえ)。今年で五十四歳になる、私の里親。 彼女は私と暮らし始めてすぐ「本当のお母さんだと思ってほしい」と言ってくれたので、遠慮なく「お母さん」と呼ばせてもらっている。 看護系の専門学校を卒業後、聖南大学附属病院の看護師として働いていた母は、父と出会い結婚。 以降は系列の別病院に籍を移し、二度の妊娠・出産における休業期間以外はバリバリと働いているそう。 とにかく仕事が好き
三限目が終わると私はまっすぐ自宅に帰り、自室にこもった。 直前の講義で課題に出されたレポートに着手するためだ。 テーマは『感染症マーカーとしてのCRPの有用性と限界』。 三千字程度という字数指定に沿って、まずは内容を自分なりに理解してから構成を決め、それに合わせて論文の検索サイト等で参考資料を用意する。 レポート作成のように集中しながらコツコツとこなす課題は好きだ。 けれど、私は資料の準備に時間がかかってしまいがちなので、来週の提出に先駆けて、それだけでも済ませてしまおうと思ったのだ。 そうすれば、あとは執筆して見直しをするだけなのでだいぶ楽になる。「ふう……」 構成の作成と使えそうな資料探しが一段落ついたので、私はデスクの椅子に座ったままぐっと伸びをする。 手元のスマホを見ると、もう十七時半。 あっという間に、三時間ほども経っていたようだ。 ……喉が渇いちゃったな。 デスクに広げていたノートPCを閉じ、階下に向かうために自室を出た。 すると、階段の下から話し声が聞こえてくる。母と……兄の声だ。 母が今日、非番だったのは知っていたけれど、兄はいつの間に帰ってきていたのだろう。 こんなに早い時間に家にいるということは、当直明けだろうか。 階段を下り、キッチン側の扉から一続きになっているリビングへと抜けて行こうとしたとき――「あの病院長の娘さん、本当に素敵な方らしいのよ。写真を見せてもらったんだけど、かわいらしくて、お育ちもよさそうで」 と言う母の声が聞こえたので、静かに足を止め、息を潜めた。「またその話? 何回目だと思ってるんだよ、母さん」「だって、いいお話じゃないの。先方が漣に興味を持ってくださってるんですもの。あなたももうすぐ三十になるし、そろそろ結婚を考える頃合いでしょう?」
「そうだけど」 学生食堂は安いし便利なので利用したいと思いつつ、高校のころから自分でお弁当を作っているため、今でも可能な限り継続している。「料理、上手いんだな」「えっ? あ……あり、がと」 不意に褒められたものだから、私はもごもごしてしまう。 料理は好きだけど、あまり誰かに自分の作った食事を振る舞うことはないため、純粋にうれしい。 亮介から正面切って褒められたことって、ほとんどなかったから。 「いや、本当に。少なくともこの玉子焼きに関しては、毎日でも食べたいくらい」「毎日って。さすがに大げさすぎない?」 彼にしてはやたら熱心に褒めてくれるのが妙にくすぐったい。 私は「あはは」と声を立てて笑う。「――でも、そうだね。彼氏ができたらそのぶんも作ってあげるとか、ちょっと憧れるかも」 同じ大学や職場でないと実現は厳しそうだけれど、自分が作ったお弁当を食べてもらえて、おいしいと思ってもらえたならうれしいし、作りがいがありそうだ。 もしくは、一緒に住んでいて出がけに渡すとか―― そこまで考えを巡らせたところで、兄の顔が思い浮かんだ。 兄は忙しすぎて、昼食の時間もろくにとれないことがざらにあると聞いている。 お弁当を持って行ってもらって、空き時間に食べてもらえたら、私も少しは兄の役に立てるんだろうか? ……いやいや。奥さんでもないのにそれはやりすぎか。 それに、食事の時間もとれないほど忙しいなら、食べきれなかったときに気を使わせてしまうし。 だいたい、今のこのギクシャクした状態で、兄が私のお弁当を素直に受け取ってくれるとは到底思えない。「なら、瑞希の彼氏に立候補しようかな」「っ?」 私のささやかな夢
「ごめん、席取りありがとう」 数日後、二限目の終わりに食堂へいくと、入り口付近のカウンターに亮介の姿を見つけた。 私はお礼を言いながら、彼の座るとなりの席に、通学用のトートバッグを下ろした。「いや、大丈夫」 それまで手元のスマホに意識を注いでいた亮介がパッと顔を上げ、短く答えて続ける。「――でも、カウンターしか空いてなかった」 しくじったという風に、彼が苦笑する。「全然。今日はふたりだから、テーブル使うのも忍びないしね」 今日はお互い別々の授業だった上に、食堂の棟とは離れた場所での講義だったから、席の獲得に出遅れてしまったのだ。 本来ならば毎週、この時間は三限のみの授業だという翠が早めに到着し、席を押さえてくれることになっているから、慣れていないのもある。「にしても翠、珍しいよな」「いつも元気なイメージだよね。早く熱が下がるといいけど」 今朝届いた翠からのメッセージには、昨夜から発熱して熱が下がらないので今日の講義は休む旨が書かれていた。 私が軽く首を傾げると、亮介は「そうだな」とうなずいた。 亮介とふたりでランチって、初めてかもしれない。 翠はノリがよくて奔放そうに見えて意外と真面目なので、多少の体調不良ならノートのために無理して授業に出るタイプだ。 そんな彼女が休むというのだから、よほど調子が悪いに違いない。早く元気になってほしいものだ。「亮介は今日、なににしたの?」「Bランチのアジフライ。久しぶりに、魚が食べたいと思って」「いいね」 亮介のトレイからは香ばしい、いい香りが漂っていた。 視線を落とすと、大ぶりのアジフライ。この食堂は安価でおいしいものを提供すると評判で、学生のファンが多いのも納得だ。「瑞希はいつも通り弁当?」
「――いい、瑞希。反省なんてする必要ないよ。人を好きになると、誰しも多少なりとは暴走するものなんだから。それがたまたま、お兄さんだっただけ」「いや問題だろ。相手が自分の兄貴だなんて」 またしても冷静に突っ込みを入れる亮介。 翠は、今度は亮介を軽く睨むようにして彼へ視線を飛ばした。「血は繋がってないし、戸籍上も他人なんでしょ? それなら法律的になにも問題ないじゃない」「そうだね、一応……」 私は曖昧にうなずいた。 正確に言うと、私の戸籍上の名前は『朝比奈瑞希』ではない。 これは、私が朝比奈家で快適に生活をするための通称だ。 大学を卒業し、委託里親制度における委託関係が解消されたあとは、戸籍に登録されている『砂原瑞希』として生きていくことになる。だから兄は戸籍上では他人で間違いない。 ただ、法律的に問題ないからOKというわけじゃないのは、私も重々承知していて――「法律的には問題ないかもしれないけど、実質的にはきょうだいなんだから、普通に引くじゃん。……俺は三歳下の妹がいるけど、そういう目では絶対に見られない」「亮介のところは実のきょうだいなんだから、全然話が違うでしょ」 私の懸念点をズバリと言語化してみせる亮介に、翠がムッとした顔になる。 「あ、ごめんごめん。ふたりとも、私のことで揉めないで」 ふたりの言葉の応酬がヒートアップしてきたのを感じて、慌ててストップをかける。 この話題になると、ふたりが口論になるのはよくあることだ。 法律的には障害がないからと私を応援してくれる翠に対して、障害がなければいいという話ではないというスタンスの亮介。 私にとって心地いい言葉ををくれる翠の言い分も、おそらく一般的な回答だと思われる亮介の言い分も、ありがたく受け止めている。 ふ