【５】①

　その日――三限目が終わると、私はまっすぐ家に帰り、自室の机に向かった。

　課題のレポートについて、今日中に片づけたい作業があるからだ。

　テーマは『感染症マーカーとしてのCRPの有用性と限界』。

　三千字程度と指定されている。まずは構成を練り、必要な論文を集めておきたい。

　こういう地味で根気の要る作業は嫌いじゃない。けれど私は検索に時間がかかるタイプだから、早めに着手しておくに越したことはない。

　提出まで一週間ある今のうちに下準備を終えておけば、あとは書いて見直すだけ。ずっと気が楽になるはずだ。

　パソコン画面で資料探しに没頭していると、余計な考えが消えていく。

　――亮介の「彼氏に立候補」なんて冗談が、まだなんとなく胸に引っかかっていた。

　でも、こうして目の前の作業に集中すれば、ざわつく気持ちも薄れていく。私にとって一番手軽な逃げ場とでも言うべきか。

「ふう……」

　作業がひと段落したところで、私は大きく伸びをした。

　スマホの時計は十七時半を回っている。三時間近く集中していたらしい。

　喉が渇いた。

　ノートPCを閉じて部屋を出る。階段を降りかけたところで――

「病院長の娘さん、本当に素敵な方らしいのよ」

　母の声が耳に飛び込んできた。

「かわいらしくて、お育ちもいいって。漣にぴったりじゃない？」

「またその話？　何回目だよ」

「いいお話じゃない。先方も興味を持ってくださってるのよ。もうすぐ三十なんだし、そろそろ結婚を考えてもいい頃でしょう？」

　足が止まる。

　この時間に兄が帰宅しているのにもおどろいたけど、それよりも、母の言葉だ。

　……縁談、か。

　兄の外科医としての活躍は、病院内外で評判になっている。

　父や母を通じてお見合い話が舞い込み、相手はどれも良家の令嬢ばかり。

　けれど兄は、これまで興味を示さなかった。――少なくとも、そう信じていた。

「今は仕事に集中したい。恋愛も結婚も考えられない」

「会うだけでもいいじゃないの」

　母の声に、兄が困ったように笑っている光景が浮かぶ。

　私は冷蔵庫からお茶を注ぎ、余計な音を立てないようにして自室へ戻った。

　天井を見上げながら、胸に小さなトゲのような痛みを感じる。

　兄が誰かと結婚する――そんな未来を、考えたくない。

　どうにもならないとわかっているからこそ、聞きたくなかった。

　そうでなければ、心がもたない。

　兄がいつか誰かと結婚してしまうことも、その相手が私ではないことも――。

　空になったグラスを持ち、階下へ降りる。

　キッチンでは、母が夕食の準備をしていた。デミグラスソースの香りがやさしく包み込む。

「あら、瑞希。レポートは進んだ？」

　母――五十四歳の朝比奈晶恵（あさひな あきえ）は、笑顔で私を迎えた。

　現役の看護主任で、忙しくても家族を大切にしてくれる人。

　私がこの家でのびのびと暮らせたのは、母の細やかな愛情のおかげだ。

「うん。もうすぐ夕食？」

「もう少しかかるかな。あとでテーブルお願い」

「もちろん」

　母に背を向け、リビングへ向かう。

　L字のソファには、白いTシャツとデニムとまとった兄が、座ってスマホを眺めていた。

「今日は早いね」

「当直明けで、午後には帰ってた」

「お疲れさま」

　軽く言葉を交わしながら、胸の奥がザワザワ音を立てる。

「さっきお母さんと話してたの、縁談のこと？」

「そんなところ」

「受けるの？」

「まさか」

「じゃあ、断ったんだ」

　声が少し弾んでしまったのが、自分でもわかった。

　けれど――

「今はな」

　今は？ 

　その言葉が不安を煽る。

　いずれは受けるという意味？ 

　それとも私に余計な期待をさせないため？

「お兄ちゃん、最近、冷たいよね」

「そんなことない」

「あるよ。全然、私のほう見てくれない」

　兄がようやく顔を上げた。その目に、わずかな驚きが混じる。

「……そういうつもりじゃない」

「私が好きって言ったから？」

　空気がぴんと張りつめた。

「瑞希」

　母に聞かれるのを避けるような声音だ。

　リビングとキッチンの間には、空間を遮る引き戸がある。

　私は迷わず引き戸を閉め、距離を詰めた。

「好きな人に冷たくされるのはつらいよ。私のこと、きらいになった？」