十月の中旬。食堂の丸テーブルに荷物を下ろすと、すでに到着していた翠がスマホを眺めながら「えー」と小さく声を上げた。
「亮介のヤツ、今日もお昼は図書館で勉強だって。そりゃ国試は大事だけどさ、私や瑞希がいるときくらい顔見せろっての」
ぶつぶつと文句をこぼしながら、器用に親指を動かす翠。
きっと亮介に返信しているのだろう。「……ごめん、翠。私のせいかも」
二週間前の出来事が脳裏をよぎり、胸がずきっと痛んだ。
あの日を境に、亮介は私たちと昼食を取らなくなった。 翠に避ける理由はない。原因があるとすれば――私だ。もう一度、彼を振ってしまった。
しかも、亮介があれほど「やめろ」と言った義兄との恋愛を選ぶ形で。「なんで謝るの。瑞希は悪くないよ」
翠は即座に顔を上げ、首を横に振った。
事情を話しているから、全部知っているうえでの言葉。だからきっと本心なのだろう。「でも真面目な話、亮介の気持ちも尊重しなきゃね。整理がつくのに時間かかってるんだと思う。それまでは、瑞希とふたりでランチだね」
そう言って、うーんと考え込むような表情をしたあと、にっこり笑う。
その明るさに救われながらも、私は心の底で、翠を巻き込んでしまっている申し訳なさを感じていた。けれど――こればかりは時間に解決を委ねるしかないのだろう。
「……あのさ、翠」
「うん?」
「あ……いや。今日なに食べるの?」
口をついて出かけた言葉を慌てて飲み込み、私は他愛もない話題に切り替えた。
「まだ決めてない。瑞希のお弁当は?」
「今日は時間なくて、こんな感じ」
ランチバッグから取り出したのは、梅干しのおにぎりが二つと、ソーセージにアスパラ入りの炒り卵。空いた隙間には冷凍のカリフラワーを詰めて、なんとか形にした。
「時間なかったの
値は張ったけれど、そのぶん納得のいく買い物ができたと、私も漣くんも満足していた。「前にも言ったけど、父さんは瑞希が選んだものだったら、なんだってすごくよろこぶよ」「うれしいけど……私は、漣くんが選んだほうがもっとよろこぶって思うけどな」「俺と父さんが血のつながった親子だから?」 私が小さくうなずく。 それだけが理由ではないけれど、父にとって私は、いつかは独り立ちしていく存在。だからこそ、実の子である漣くんは特別なのだろうと思えてしまう。「そりゃ喜んでくれるとは思うけど……それでも、瑞希からのお祝いはひとしおだよ」 漣くんはやわらかく言って、私を眩しそうに見つめる。「今でこそ父さんも母さんも明るくしてるけど……愛莉が亡くなった直後は、本当に見ていられなかった。その悲しみを乗り越えるきっかけをくれたのが瑞希だ」 彼の瞳は私を見ているようで、その奥にある過去へも向けられているように思えた。「もちろん、愛莉のことは変わらず愛してるだろう。でも、家族に希望をくれた瑞希の存在は大きいんだ」「……漣くん」 胸がじんわりと熱くなる。 両親には助けてもらった、という思いばかりが強くて、親孝行できていないことをずっと悩んでいた。 でも――ただそこに存在するだけで、悲しみを和らげる力になっていたのかもしれない。そう思わせてくれる彼の言葉は、とてもありがたかった。「だからこそ、ふたりにはわかってもらわなきゃいけない。俺たちが真剣に想い合ってるってこと」「……そう、だね」 ここ最近、この部屋に来るときは「翠と会う」とか、「図書館に行く」といった口実を使っている。 本当は「お兄ちゃんに会いに行く」と正直に言ってしまいたい。でも、ただの妹が頻繁に兄のもとへ通うことに、両親が違和感を抱くのは当然だ。 そのたびにうそを重
「さて、ちょっと食券買ってくるね」「うん、行ってらっしゃい」 ひらりと手を振って、学食の入り口にある券売機へと向かう翠の背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。 本当は、亮介に言われたことを、もう少し詳しく翠に打ち明けたかった。『俺はずっと言ってたよな。周りにきょうだいとして認識されている以上、「血はつながってないからいい」とはならないって』『瑞希の兄貴も兄貴だよ。学生の瑞希と違って、そういうことをよく理解してるはずなのに、わざわざ大事な妹を苦労させるなんて』 思い返すたびに、彼の言葉はじわじわと効いてくる。 まるでボディブローのように、遅れて痛みが広がるのだ。 今さらながら、この選択が本当に正しかったのか――自信をなくしかけていた。 もし亮介の意見が世間の総意だとしたら。私たちは想い合うことで、互いを不幸にしてしまうのではないか。そんな不安が頭を擡げる。 ふたりで幸せになりたい。けれど、私のせいで漣くんを苦しめてしまう未来があるのかもしれない。 両親に打ち明ける日を決めてから、その現実が目前に迫り、私はますます慎重に考えるようになっていた。 多分、私は翠に亮介の言葉を伝えて、「大丈夫だよ」と背中を押してほしかったのだろう。 でも、やめた。答えを聞いても意味がないと気付いたからだ。 どんな返事をもらっても、私はきっと漣くんから離れられない。 漣くんと一緒に生きるためには、「全方位から好かれよう」とする気持ちを手放さなければならないのかもしれない。 ――それが、禁じられた恋に足を踏み入れた私たちの定めなのだから。◆◇◆ そんな葛藤を抱えながらも、漣くんとの関係は順調に続いていた。 そして、私たちの恋を両親に告げるXデーを決めた。 還暦を迎える父の誕生日――十一月初旬の日曜日。 父にとって特別な一日を、その告白の舞台に選ぶのは酷かもしれない。 でも、多忙な両親
十月の中旬。食堂の丸テーブルに荷物を下ろすと、すでに到着していた翠がスマホを眺めながら「えー」と小さく声を上げた。「亮介のヤツ、今日もお昼は図書館で勉強だって。そりゃ国試は大事だけどさ、私や瑞希がいるときくらい顔見せろっての」 ぶつぶつと文句をこぼしながら、器用に親指を動かす翠。 きっと亮介に返信しているのだろう。「……ごめん、翠。私のせいかも」 二週間前の出来事が脳裏をよぎり、胸がずきっと痛んだ。 あの日を境に、亮介は私たちと昼食を取らなくなった。 翠に避ける理由はない。原因があるとすれば――私だ。 もう一度、彼を振ってしまった。 しかも、亮介があれほど「やめろ」と言った義兄との恋愛を選ぶ形で。「なんで謝るの。瑞希は悪くないよ」 翠は即座に顔を上げ、首を横に振った。 事情を話しているから、全部知っているうえでの言葉。だからきっと本心なのだろう。「でも真面目な話、亮介の気持ちも尊重しなきゃね。整理がつくのに時間かかってるんだと思う。それまでは、瑞希とふたりでランチだね」 そう言って、うーんと考え込むような表情をしたあと、にっこり笑う。 その明るさに救われながらも、私は心の底で、翠を巻き込んでしまっている申し訳なさを感じていた。 けれど――こればかりは時間に解決を委ねるしかないのだろう。「……あのさ、翠」「うん?」「あ……いや。今日なに食べるの?」 口をついて出かけた言葉を慌てて飲み込み、私は他愛もない話題に切り替えた。「まだ決めてない。瑞希のお弁当は?」「今日は時間なくて、こんな感じ」 ランチバッグから取り出したのは、梅干しのおにぎりが二つと、ソーセージにアスパラ入りの炒り卵。空いた隙間には冷凍のカリフラワーを詰めて、なんとか形にした。「時間なかったの
「俺はずっと言ってたよな。周りにきょうだいとして認識されている以上、『血はつながってないからいい』とはならないって」「……そうだね」 彼の言葉に、私はうなずくしかなかった。 亮介は、想いを伝えてくれるより前から繰り返し忠告してくれていた。 世間の目は厳しい。理解を得にくい関係だと――私のために。「自分が選ばれなかったから言ってるんじゃない。俺は瑞希の悲しむ顔を見たくないんだ。そんな恋愛、絶対につらくなる」 真剣な声音。険しい表情。 誤った選択をしようとする私を引き留めたい一心なのだろう。語調が自然と強くなる。 そして、抑えきれなくなった感情のせいか、やや捲し立てて彼が続ける。「瑞希の兄貴も兄貴だよ。学生の瑞希と違って、そういうことはよく理解してるはずなのに。なのに、わざわざ大事な妹を苦労させるなんて」「漣くんのせいじゃないよ」 自分のことを非難されるのは受け止められる。 でも、漣くんだけを責められるのは耐えられなかった。 これはふたりで選んだ未来。だから、つい声を強めてしまう。「――そうだね。亮介が言うように、気持ちだけじゃどうにもならないこともある。つらいことも苦労することもあるかもしれない。でも……私は漣くんと決めたの。一緒にいる未来を諦めないって」「だいたい、なんだよ、その『漣くん』って。兄貴は兄貴だろ」 珍しく、亮介の口調に苛立ちが混じった。 私が『兄』を名前で呼んだことが気に障ったのだろう。 逆撫でする意図なんてなかった。けれど、これが世間一般の感覚なのかもしれないと思うと、胸がちくりと痛んだ。「――っ、ごめん」 私の表情を見て、亮介がはっとしたように目を伏せ、大きく息を吐いた。 おそらく彼自身も、私を攻撃するつもりではなかったのだ。感情のまま口にしてしまい、後悔しているのかもしれない。「&helli
十月に入り、大学の後期が始まった。その直後、私は思い切って亮介に連絡を取った。 三人でランチをすると決まっている日を利用して、「少し早く合流できない?」と切り出したら、すぐにOKの返事。大学の中庭に彼を呼び出した。 到着すると、すでに亮介はベンチに腰を下ろしていた。奇しくもそこは、五月の終わりに彼から告白を受けた場所だった。 あのとき、私は漣くんに拒絶されて心がボロボロで。亮介の優しさにどれほど救われたかわからない。 それから四か月――まさか、漣くんと本当に恋人になっているなんて。未だに信じられない思いだ。「瑞希と会うの、もしかして一か月半ぶり?」 軽く挨拶を交わしたあと、私も彼の隣に腰を下ろす。「そうかも。亮介は変わりない?」「俺は全然。瑞希も……さすがに体調は落ち着いたんだよな?」「うん、おかげさまで」 私はガッツポーズをしてみせ、元気だと強調する。「…………」 当たり障りのないやりとりが一段落すると、会話が途切れた。 横顔を盗み見ると、亮介は言葉を探しているような、どこか焦った表情を浮かべていた。 私との間に気まずさを感じているのだろう。普段なら気にならない沈黙を、必死に埋めようとしているのかもしれない。 いや――もしかすると、私がなぜ呼び出したのか、うすうす勘付いているのかも。 話の内容までは読めていなくても、きっと彼にとって不本意な内容だろうということを。 なら、回り道せずにストレートに言ったほうがいい。「えと……時間が経っちゃうと言いにくくなっちゃうから、単刀直入に言うね」 私は身体を亮介の方に向け、まっすぐにその目を見据える。「私、お兄ちゃんと――漣くんと、付き合うことにしたんだ。だから、亮介の気持ちには応えられない。本当にごめんなさい」 謝罪の言葉とともに、深々と頭を下
「そうだよね。わかってはいるんだけど……それをきっかけに両親との関係が悪くなったらって思うと、苦しくなっちゃうときがあって。ほら、恩を仇で返すみたいなものだし」 不安を言葉にすると、翠はすぐさま首を振った。「それはご両親を信頼しないと。瑞希を実の娘みたいに育ててくれたんでしょ?」 私は静かにうなずく。 間違いなく、ふたりは実子である漣くんと同じように私をかわいがってくれた。「だったら大丈夫だよ。こういうことがあったからって、瑞希のことを嫌ったり、悪く思ったりはしないと思う。優しいご両親なんだよね? だから、あまり思いつめないで」「……うん。そうだね。ありがと、翠」 私には両親と積み重ねてきた長い時間がある。 ショッキングな告白をしたからといって、それが消えるわけじゃない。 必要以上に怯えなくてもいい――翠の言葉を受けて、自然とそう思えるようになった。 お礼を告げると、翠は「ううん」と首を横に振り、少しだけ間を置いてから言った。「――そしたらさ、亮介のことも、もう一度ちゃんと振ってあげてほしいんだ」「え……亮介?」 思わず目を見開く。 普段、この席でよく一緒に食事をしている彼の名前が唐突に出てきて、胸がざわついた。「亮介から聞いたんだよ。瑞希に告白を断られてるけど、聞かなかったことにしてほしいって頼んだって。『カッコ悪いけど仕方ないよな』って、笑いながら言ってた」 私は言葉を失う。 気まずい思いを抱えていた私と違って、翠は亮介と電話や直接の会話を重ねていたらしい。「亮介ね、本当は夏休みの間も瑞希を誘いたかったみたい。でも、断られるだろうって思ってやめたんだって。……でも、ずっと心配してたよ。発表会で倒れたのも見てたわけだし」 あのあと届いた「大丈夫?」というメッセージを思い出す。