LOGIN結果として、救急車が到着し、彰人は病院へ搬送された。ストレッチャーが運び出されるその瞬間まで、彼は願乃の手を固く握りしめ、決して離そうとしなかった。慌ただしい足音のなか、メディア本社ビルでは社員がこぞって窓際に集まり、野次馬と化す――氷室社長VS周防社長。かつての夫婦が繰り広げる、愛憎入り混じる修羅場だ。「氷室社長は周防社長を愛しすぎたんだ。愛が狂気に変わって、理性を失い、栄光ある人生を自ら降りた」そんな声もあれば、「元夫婦が再会して、ついに大乱闘になった」という見方もあった。いずれにせよ、再会初日から圧巻の一言。氷室社長は見事に、ピーターから周防社長のすべての視線を奪い返したのだった。……病院。救急処置室。彰人は中へ運ばれてもなお手を離さず、願乃は半ば強引に一緒に入ることになった。医師と看護師が慌ただしく動き回り、傷口を洗い、処置を施しながら、合間にゴシップまで拾っていく。三十分も経たぬうちにニュースはトップに躍り出た。今日の見出しはすべてメディア一色だ。その後、彰人はCT検査へ。診断は中程度の脳震盪。感情的なもつれによる事故ということで、大事には至らなかったが、世間に格好の噂話を提供するには十分だった。午後になると、彰人はめまいを訴え、二度ほど嘔吐した。顔色も悪く、ひどく疲弊している。付きっきりで世話をしていたのはモナだった。退職後とはいえ、長年仕えてきた情は残っていた。夕方近く、彰人は朦朧とした意識の中で目を覚ました。願乃はもういない。モナも外で用事をしている。そこへ、周防家の人が来た。現れたのは翔雅だった。かつて義兄弟の間柄だった彼は、どこか同情を滲ませながらベッド脇に腰を下ろし、彰人の肩を軽く叩く。「生きてるかどうか、見に来た」彰人は苦笑し、体を起こす。「死にはしないさ」床から天井までの窓のほうを見やり、静かに視線を泳がせた。午前中、願乃はそこに立っていた。翔雅がため息をつく。「なあ……何やってるんだよ。キス一回で頭割られるなんて。新聞じゃ、お前の口は吸盤みたいで、救急車で運ばれても離さなかったって書かれてる。最近よっぽど飢えてたんだな、ってさ」彰人はぼんやり答える。「飢えてた」翔雅は一瞬きょとんとし、すぐに笑った
メディアの古参連中は満場一致で現状維持を選んだ。彼らは願乃とピーターが奇跡を起こしてくれるのを待っている――老後まで、いやというほど安泰に養ってくれる奇跡を。……社長室。彰人は静かに腰を下ろし、モニターに映る願乃の姿を見つめていた。堂々と壇上を行き来する彼女を誇らしく思う一方で、ピーターと並び、シャンパンを掲げる場面を目にした瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。自分が願乃を呼び戻し、成長を迫った。その結果、彼女を他の人の傍へ押しやってしまったのではないか。この一手は危うい賭けだ。負ける可能性のほうが高い。なぜなら、彼には願乃が必要だ。だが――願乃はもう彼を必要としないかもしれない。三十分後、執務室のドアが開いた。入口にモナが立ち、その脇に願乃がいる。静かな視線で彰人を見つめていた。少しして、願乃が言った。「氷室さんと、二人で話したい」モナは頷き、気遣うようにドアを閉めた。扉が閉じられると、室内にはかつて夫婦だった二人だけが残った。願乃は彰人に歩み寄り、低く、静かに問いかける。「どうして、こんなことをしたの?」その瞬間、乾いた音が響いた。強烈な平手打ちだった。彰人は避けなかった。端正な顔に五本の赤い痕が浮かんでも、彼はなお、柔らかな眼差しで彼女を見つめていた。八歳も年上の男はただ受け止めるように立っている。願乃の唇が震える。「彰人……私たちはとっくに離婚した。でも、母はあなたに恩があったはずよ。母には息子も娘もいた。それでも、あなたをあそこまで引き上げたのは度量と配慮があったから。なのに――あなたはどう報いたの?数千億を現金化してメディアを火にくべた。私を呼び戻すためだけに?利益至上のあなたが、なぜ丸ごと呑み込まなかったの。そっちのほうが、あなたらしいでしょう。何よ、この芝居がかった情は。正気なの?」言い終えるころ、視界が滲んだ。自分のためだけじゃない。母――舞のために。あれほどの規模のグループで、外姓の人間が二割を任される。どれほどの信頼と評価だったか。それを彼は売った。しかも――願乃が知る彼なら、この先にどれだけの落とし穴を用意しているかわからない。この一発は決して無駄じゃない。彰人は黙って彼女を見つめ――次の瞬間、唐突に。彼は細い手首を掴
彰人が席に着くと同時に、願乃は一切、彼に発言の余地を与えなかった。彼女は会議室をひと巡り見渡し、淡々と口を開く。「すでに皆さまご存じかと思いますが、私が帰国する以前、当社第二位株主であった氷室彰人は保有していた20%の株式をすべて現金化し、あわせて代表取締役社長の職を辞任しました。本日、私は最大株主としてここに戻り、氷室さんの決断を正式に承認します。これをもって、氷室さんはメディアグループの一員ではありません」彼女は顔を横に向け、彰人を見る。「氷室さん、ここまでです。この先は内部会議になりますので、ご退出ください」――ざわっ。会議室が一斉にどよめいた。これが願乃がメディアを率いる、その最初の一手だった。無駄がなく、冷静で、私情は一切ない。その姿に、誰もがかつての舞を重ねた。――なるほど。伊達にあの家の娘ではない。かつてはどこか柔らかく、守られる存在だった願乃は離婚という激変を経て、まるで別人のように生まれ変わっていた。彰人は願乃を見つめた。その瞳に浮かんでいたのは怒りではなく――明らかな賞賛と、抑えきれない驚きだった。――俺の願乃は成長した。――完全に、脱皮した。だから彼は腹を立てるどころか、穏やかに微笑み、紳士的に頷いた。「分かりました。では、周防社長のオフィスで待たせていただきます」願乃は黙って彼の背中を見送った。彰人が会議室を出ると、廊下から差し込む陽光が、彼の全身を照らした。なぜか、その光はどこか寂しさを帯びて見えた。――まるで、彼の時代がここで終わったかのように。願乃は横を向く。「モナ。会議室のドアを閉めて」モナは一瞬、動きを止めたが、すぐに歩み寄り、ドアへ向かった。背中越しに、去っていく彰人の姿を見つめると、なぜか視界が滲んだ。だが彼女は小さく首を振り、感情を押し殺し、メディアのその扉を静かに閉めた。――バタン。会議室は水を打ったように静まり返った。願乃の声は低く、しかし確かに響いた。「本日より、私がメディアの経営を直接指揮します。皆さまには、少しだけ時間をください。もし、氷室彰人と同様に株を現金化したい方がいらっしゃれば、一週間前の株価で、私が買い取ります。ただしその場合、今後――メディアグループ、栄光グループ、ならび
メディアグループの会議室には、大口から小口まで、株主たちがびっしりと席を埋めていた。彰人が持ち株を現金化し、完全に身を引いた。それはメディアに激震が走る出来事だった。同じように手放したいと考える株主は少なくなかったが、今この局面で売っても値はつかない。だからこそ、彼らは願乃の帰国を待っていた。彼女が舵を取り、どう判断するのか――それを聞くために。コツ、コツ、と。高いヒールの音が廊下に響く。願乃が会議室に入ってくると、視線を巡らせた。まだ来ていないのは彰人ただ一人。その姿を認めた途端、株主たちは一斉に不満を吐き出した。「周防さん、ようやく戻ってきてくれましたな」「これまで我々が氷室社長についてきたのは先代会長を信じていたからですよ。まさか、あんな形で皆を裏切るとは……」「せめて一言あれば、こちらも備えられた。それを、こそこそと売り抜けて……」「ニュースが出た途端、メディアの株価は一日で二百円も落ちたんですぞ。このまま有力な管理者が立たなければ、連続ストップ安ですよ」「我々はもう老い、配当だけを頼りに生きている。それすら奪うつもりなのか」「そうだ、そうだ。一人で腹いっぱいになって」「ツケは全部、こっちに押し付けやがって……」……当然、耳に入れたくない言葉はまだ続いた。願乃は軽く手を上げ、主席に腰を下ろした。――この人たちはずる賢くて、臆病だ。彰人は十分すぎるほど威圧してきた。辞職した今でさえ、まだ彼を恐れている。そう思った、そのとき。会議室の入口で、足音が止まった。小走りでやって来たモナが、願乃に耳打ちする。「周防さん、氷室さんがお見えです」室内が一気にざわめき、罵声が飛び交う。だが、彰人が姿を現した瞬間、誰一人として口を開けなくなった。会議室は水を打ったように静まり返った。彰人はすぐには入ってこなかった。入口に立ったまま、静かに室内を見渡す。――そして、願乃を見つめた。彼女が来ると知り、あえて選んだのは黒と白のクラシックなスーツ。それは願乃が最も好んでいた一着だった。ネクタイも、髪の整え方も、完璧だった。再会するまで、長い歳月が流れた。彼はすでに四十を越えている。願乃はわずかに疲れを帯びていたが、相変わらず鮮やかな美し
澄佳がそう言うと、翔雅は言葉を失った。「願乃を戻らせるって?正気か?願乃に、時価総額が兆規模の会社を背負わせるつもりか?そんなの無理に決まってるだろ。願乃は小さい頃から大事に育てられてきた。仕事の苦労なんて、味わったことがあるか?」……澄佳はなおも、窓の外の夜を見つめたまま、語りかけるように続けた。「じゃあ翔雅、聞くけど。彼が辞めたあと、周防家でその席に座れる人間が、他に誰がいる?両親?もう高齢よ。兄?彼は今、栄光グループを率いている。規模はすでにメディアの倍。それとも私?この身体で、あの重責を背負えると思う?残るのは願乃だけ。彰人はそこまで読み切っているのよ。最適解は最初から願乃しかなかった。見てなさい、彼女が戻れば、二人は必ず再び顔を合わせることになる。翔雅。私はこれまで、彰人をやり手のビジネスマンだと思ってきた。生まれつき、商売に向いた男だって。でも今は……恐ろしいほどに、計算高い男だと思っている。当時、彼があれほど容易く願乃を妻にできたこと。今となっては、少しも不思議じゃないわ」……改めて思い返してみると、確かにそうだった。彼はあまりにも自然に、人の信頼を手に入れていった。その才能そのものがすでに恐ろしい。澄佳は声を潜めて言った。「彼を見ていると、ある人を思い出すの。私の父よ。もし彰人が父と同じ出自を持っていたら……その思考はもっと複雑で、底知れないものになっていたでしょうね。資金を回収して身を引き、願乃を引き戻す。普通の人間に、そんなことができる?」翔雅は大きく頷いた。「前から思ってたよ。あいつ、どこかおかしい。一年以上、女にも手を出してないって聞いたし、ホルモンバランスでも崩れてるんじゃないか?」澄佳は一瞬言葉を失った。彼女は振り向きざま、きっと睨んだ。「あなたも、そこまでとは思わなかったわ」翔雅は歩み寄り、悪びれもせず妻を抱きしめた。真正面から見つめて言う。「俺たちも、もう一週間だぞ。このままじゃ、俺もホルモンが乱れて、理性を欠いた判断をしないとも限らない。株価のため、社員のため――澄佳、少し犠牲になってくれ……な?」女は言葉を失った。――こんな時に、そんなことを考える余裕があるのか。だが翔雅は実に楽観的だった。来たものに対処するだけだ。彰人はす
ほどなくして、正月がやって来た。気づけば、願乃が旅立ってから、すでに半年以上が過ぎていた。この半年のあいだに、鈴音は手術を受けた。それでも、彼女はしぶとく生き延びた。体調が回復すると、鈴音は毎日のように彰人にまとわりつき、別荘へ迎えに来てほしいと電話をかけ続けた。だが彰人は彼女の電話を取ることはなかった。代わりに、古びたリハビリ専門の療養病院に入院させ、世話役として麗子をつけた。月給百万円。麗子はそれだけで十分に満足していた。そうして、春が過ぎ、夏が来て、やがて秋冬が巡ってきた。彰人には願乃からの便りは一切なかった。顔を合わせることも、当然ない。結代の口からも、願乃の名前が語られることはほとんどなかった。そのうち彰人はどこか現実感を失っていった。結代の存在がなければ、自分は本当に願乃と愛し合い、結婚し、あの幸福を手にしていたのかどうかさえ、疑わしくなっていたかもしれない。正月になると、彰人は何度か周防家を訪れた。だが、そこに願乃の姿はなかった。――正月ですら、帰ってこない。やはり、俺に会いたくないのだろう。二度目の正月も、彼女は姿を見せなかった。そのとき、彰人は悟った。この先の人生で、自分が再び願乃を手に入れることはほぼ不可能なのだと。そう理解した夜、彼は長い時間、煙草を吸い続けた。数日後、彰人は密かに、自身が保有する株式を少しずつ現金化し始めた。彼が持つメディアの二〇%の持ち株は静かに市場へ流され、すべてが完璧に処理された。名義変更の書類にすら、誰一人気づかなかった。だが、願乃が保有する四〇%は絶対的な支配権を持つ株だ。もしメディアの経営が揺らげば――それは彰人が去ることを意味する。そうなれば、願乃は戻らざるを得ない。メディアを引き継ぐために、帰国せざるを得ない。両親の苦労を思えば、彼女がそれを見捨てるはずがない。しかも、そんな展開はほとんど誰も予想しない。――よほど、彰人が正気を失っていない限りは。だが、彼はそれをやった。周防家全体を敵に回すことを承知の上で。彼は恐れていた。願乃が戻ってこないことを。イギリスに定住してしまうことを。事実、願乃はイギリスで長く暮らすつもりでいた。本来なら、結代も連れて行く予定だ
午後、絵里香は警察署から戻ってきた。車を降りた瞬間、膝が震え、ふらつきながら邸内へ入る。中はしんと静まり返っている。彼女は使用人をつかまえて問いただした。「旦那さまは?」使用人は即座に返ってきた。「旦那様は病院へ行かれました。出る前に、妊婦用の滋養を作るよう仰せつかって……」——妊婦?滋養?その言葉に胸が抉られる。絵里香はわずかに頷き、黙って二階へ。寝室に入るなり、彼女は真っ先にシャワーを浴びに行った。警察署の取り調べ室にはタバコの煙が充満し、粗雑な物言いに晒された。——だが、違法とまでは言えない、と釈放された。無傷で戻れた自分に、思わず鼻歌
——これ、モモウサだよ。パパの分と、茉莉の分と、二つしかないの。輝はそのモモウサを見つめ続け、指先でそっと撫でながら、娘との日々を思い返していた。夜の闇に浮かぶ男の輪郭は、ひときわ深く彫り込まれている。よく見れば、目尻に小さな涙の光が揺れ、落ちそうで落ちない。そこへ、入浴を終えた絵里香が夫を探しにやってきた。「輝……」と呼びかけかけて、言葉を飲み込む。男の手にあるのは幼子の持ち物。彼の瞳に宿るのは、娘への想い。絵里香は静かに歩み寄り、そっと傍らに膝をついた。「輝、後悔しているの?もし本当にそうなら、私はこの結婚を諦めてもいい。あなたが幸せなら、それでいいの。赤坂
食後、岸本は子どもたちにお年玉を渡した。瑠璃は家の女主人として、使用人たちへも祝儀を配る。料理人や運転手を含め十数人、それぞれに四十万円ずつ。残業手当は別途支給だ。岸本家の使用人たちは、そんな女主人を心から慕っていた。すべて配り終え、瑠璃が広間へ戻ると、茉莉が手を引いた。「ママ、叔父さんが二階で待ってるよ。びっくりすることがあるんだって」瑠璃は大きなご祝儀だろうと思った。だが、岸本に案内されたのは二階のバルコニーだった。彼は気遣うように厚手のコートを肩に掛け、子どもたちと並んで外の闇を見上げさせた。突然、遠くの夜空に大輪の花が弾ける。一斉に咲き乱れる花火は、まる
輝が去り際に置いていったのは、一通の離婚協議書だった。だが絵里香は署名を拒んだ。——彼を引き留めるのだ。老いようと、死に至ろうと、絶対に離婚はしない。自分が幸福を得られないのなら、輝にも手に入れさせはしない。外の夜景を睨みつけ、憎悪が骨の髄まで染み込む。その時、バッグの中でスマートフォンが鳴った。画面に浮かぶ名は——赤坂瑠璃。一瞬の逡巡ののち、彼女は通話を取った。声には露骨な警戒が滲む。「何の用?」受話器の向こうで、瑠璃は微笑を含ませて答えた。「周防夫人、少しお話しできませんか?」絵里香は思わず息を呑む。——半時間後。二人はとある高級