LOGIN夜更け、モナは彰人の姿が消えていることに気づいた。病室の内外を探してもどこにもいない。……周防本邸の外に、すらりとした人影が立っていた。包帯を額に巻いたまま、夜風の中でただ屋敷の奥を見つめている。高い塀が一枚。それは物理的な境界であると同時に、彼の内に渦巻く渇望を遮る壁でもあった。メディアの株式現金化の件で騒ぎが大きくなって以来、周防本邸の警備は彼を見ても見ぬふりをする。以前のように煙草を差し出されることもない。彰人はまるで最初からこの家に足を踏み入れたことなどなかったかのように、完全に排除されていた。夜は澄み、静まり返っている。彰人は遠くに灯る明かりをじっと見つめた。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。一本は自分に。一本は過去に。そしてもう一本はまだ来ぬ未来に。深夜近く、携帯が鳴った。麗子からだった。声はやけに低く、どこか背筋を冷やす響きを帯びている。「氷室さん……藤宮鈴音が亡くなりました。自殺です。まだ……体も冷えきっていません。よろしければ、来ていただけますか」生前、鈴音に冷たくしてきた分、死後が怖いのだろう。一人で対処する度胸もなく、場を支える誰かが必要だった。その役を担えるのは氷室彰人しかいない。この二年で、麗子の気位はすっかり削がれていた。彼女はもう分かっている。彰人が自分に興味を持ったことなど、一度もない。利用価値がある間、そばに置かれていただけだ。今、鈴音が死に、彼女に残された最善の結末は――無事に身を引くこと。それだけだ。麗子の声は震えていた。だが、彰人は携帯を握ったまま、表情ひとつ変えなかった。鈴音が死ねば、ほっとすると思っていた。胸が軽くなるか、せめて何かが終わった実感があるはずだと。だが、違った。湧き上がったのはただ深い寂寥だった。――ああ、あれほど灰色だった過去はこれで終わった。それでも、願乃は戻らない。張り詰めていた弦が音もなく切れたようだった。しばらくして、彰人は静かに言った。「今から行く」病院に着いたとき、医療スタッフはすでに鈴音の遺体を処理していた。白い袋に収められ、まるで医療廃棄物のように扱われている。不潔ではないが尊厳もない。そのとき、彰人が低く声を発した
願乃の表情は淡々としていた。「大丈夫。私なら」翔雅は歩み寄って腰を下ろし、そっと彼女の肩を叩く。語りかける声は低く、重みがあった。「彰人はもう理性を失ってる。気をつけて」こういう家に生まれた人間はたいてい感情や欲しいものに執着しすぎない。だが――願乃は彰人にとって特別な存在だったのだろう。失えば失うほど、取り戻したくなる。それも正気を失うほどに。彼はきっとここで引かない。翔雅にはそんな予感があった。食後、願乃は一人で寝室のテラスに出た。春の夜気のなか、外を静かに見つめる。澄佳がワインを一本持ってきて、向かいのソファに腰を下ろす。そして、そっと尋ねた。「彰人のこと、考えてる?」澄佳と願乃は同じ母を持つ姉妹だ。願乃が彰人に抱いていた想いを誰よりも知っている。初恋で、唯一の恋。しかも――澄佳でさえ認めざるを得ないほど、彰人は魅力的な男だった。結婚後も浮いた噂ひとつなく、それがまさか、鈴音という一人の女で崩れるとは。その女の話は聞いている。今は療養施設に入れられ、決して恵まれた暮らしではないらしい。想像するまでもなく、裏が見える。澄佳は妹に訊いた。「あのピーターはどういう人なの?」願乃はワインの栓を抜き、静かにグラスを揺らし、二杯注ぐ。小さく笑って答えた。「私が引き抜いた、有能な人材よ。それだけ」澄佳も微笑み、背もたれに身を預けた。姉妹は他愛ない話を続ける。英国の天気、メディアのこれから――その日の午後、メディアの株価は百円上がった。正体不明の資金が四十億円、一気に流れ込んだのだ。まるで即効性のある強心剤。願乃は調査を指示したが、新規口座で、持ち主は追えない。兄や姉の誰かだろう――そう思った。だが違った。……夜。彰人は発熱した。額は焼けるように熱い。モナは家にも帰らず、付き添い続ける。顔を拭こうとした瞬間、彼は彼女の手首を掴んだ。掠れた低い声に深い情と痛みが滲む。「願乃、願乃……一度でいい……許してくれ……後悔してる……本当に……」それを何度も何度も繰り返す。モナは胸が締めつけられた。正直に言えば、彰人は彼女によくしてくれた。それでも――周防社長を裏切った事実は変わらない。あの
結果として、救急車が到着し、彰人は病院へ搬送された。ストレッチャーが運び出されるその瞬間まで、彼は願乃の手を固く握りしめ、決して離そうとしなかった。慌ただしい足音のなか、メディア本社ビルでは社員がこぞって窓際に集まり、野次馬と化す――氷室社長VS周防社長。かつての夫婦が繰り広げる、愛憎入り混じる修羅場だ。「氷室社長は周防社長を愛しすぎたんだ。愛が狂気に変わって、理性を失い、栄光ある人生を自ら降りた」そんな声もあれば、「元夫婦が再会して、ついに大乱闘になった」という見方もあった。いずれにせよ、再会初日から圧巻の一言。氷室社長は見事に、ピーターから周防社長のすべての視線を奪い返したのだった。……病院。救急処置室。彰人は中へ運ばれてもなお手を離さず、願乃は半ば強引に一緒に入ることになった。医師と看護師が慌ただしく動き回り、傷口を洗い、処置を施しながら、合間にゴシップまで拾っていく。三十分も経たぬうちにニュースはトップに躍り出た。今日の見出しはすべてメディア一色だ。その後、彰人はCT検査へ。診断は中程度の脳震盪。感情的なもつれによる事故ということで、大事には至らなかったが、世間に格好の噂話を提供するには十分だった。午後になると、彰人はめまいを訴え、二度ほど嘔吐した。顔色も悪く、ひどく疲弊している。付きっきりで世話をしていたのはモナだった。退職後とはいえ、長年仕えてきた情は残っていた。夕方近く、彰人は朦朧とした意識の中で目を覚ました。願乃はもういない。モナも外で用事をしている。そこへ、周防家の人が来た。現れたのは翔雅だった。かつて義兄弟の間柄だった彼は、どこか同情を滲ませながらベッド脇に腰を下ろし、彰人の肩を軽く叩く。「生きてるかどうか、見に来た」彰人は苦笑し、体を起こす。「死にはしないさ」床から天井までの窓のほうを見やり、静かに視線を泳がせた。午前中、願乃はそこに立っていた。翔雅がため息をつく。「なあ……何やってるんだよ。キス一回で頭割られるなんて。新聞じゃ、お前の口は吸盤みたいで、救急車で運ばれても離さなかったって書かれてる。最近よっぽど飢えてたんだな、ってさ」彰人はぼんやり答える。「飢えてた」翔雅は一瞬きょとんとし、すぐに笑った
メディアの古参連中は満場一致で現状維持を選んだ。彼らは願乃とピーターが奇跡を起こしてくれるのを待っている――老後まで、いやというほど安泰に養ってくれる奇跡を。……社長室。彰人は静かに腰を下ろし、モニターに映る願乃の姿を見つめていた。堂々と壇上を行き来する彼女を誇らしく思う一方で、ピーターと並び、シャンパンを掲げる場面を目にした瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。自分が願乃を呼び戻し、成長を迫った。その結果、彼女を他の人の傍へ押しやってしまったのではないか。この一手は危うい賭けだ。負ける可能性のほうが高い。なぜなら、彼には願乃が必要だ。だが――願乃はもう彼を必要としないかもしれない。三十分後、執務室のドアが開いた。入口にモナが立ち、その脇に願乃がいる。静かな視線で彰人を見つめていた。少しして、願乃が言った。「氷室さんと、二人で話したい」モナは頷き、気遣うようにドアを閉めた。扉が閉じられると、室内にはかつて夫婦だった二人だけが残った。願乃は彰人に歩み寄り、低く、静かに問いかける。「どうして、こんなことをしたの?」その瞬間、乾いた音が響いた。強烈な平手打ちだった。彰人は避けなかった。端正な顔に五本の赤い痕が浮かんでも、彼はなお、柔らかな眼差しで彼女を見つめていた。八歳も年上の男はただ受け止めるように立っている。願乃の唇が震える。「彰人……私たちはとっくに離婚した。でも、母はあなたに恩があったはずよ。母には息子も娘もいた。それでも、あなたをあそこまで引き上げたのは度量と配慮があったから。なのに――あなたはどう報いたの?数千億を現金化してメディアを火にくべた。私を呼び戻すためだけに?利益至上のあなたが、なぜ丸ごと呑み込まなかったの。そっちのほうが、あなたらしいでしょう。何よ、この芝居がかった情は。正気なの?」言い終えるころ、視界が滲んだ。自分のためだけじゃない。母――舞のために。あれほどの規模のグループで、外姓の人間が二割を任される。どれほどの信頼と評価だったか。それを彼は売った。しかも――願乃が知る彼なら、この先にどれだけの落とし穴を用意しているかわからない。この一発は決して無駄じゃない。彰人は黙って彼女を見つめ――次の瞬間、唐突に。彼は細い手首を掴
彰人が席に着くと同時に、願乃は一切、彼に発言の余地を与えなかった。彼女は会議室をひと巡り見渡し、淡々と口を開く。「すでに皆さまご存じかと思いますが、私が帰国する以前、当社第二位株主であった氷室彰人は保有していた20%の株式をすべて現金化し、あわせて代表取締役社長の職を辞任しました。本日、私は最大株主としてここに戻り、氷室さんの決断を正式に承認します。これをもって、氷室さんはメディアグループの一員ではありません」彼女は顔を横に向け、彰人を見る。「氷室さん、ここまでです。この先は内部会議になりますので、ご退出ください」――ざわっ。会議室が一斉にどよめいた。これが願乃がメディアを率いる、その最初の一手だった。無駄がなく、冷静で、私情は一切ない。その姿に、誰もがかつての舞を重ねた。――なるほど。伊達にあの家の娘ではない。かつてはどこか柔らかく、守られる存在だった願乃は離婚という激変を経て、まるで別人のように生まれ変わっていた。彰人は願乃を見つめた。その瞳に浮かんでいたのは怒りではなく――明らかな賞賛と、抑えきれない驚きだった。――俺の願乃は成長した。――完全に、脱皮した。だから彼は腹を立てるどころか、穏やかに微笑み、紳士的に頷いた。「分かりました。では、周防社長のオフィスで待たせていただきます」願乃は黙って彼の背中を見送った。彰人が会議室を出ると、廊下から差し込む陽光が、彼の全身を照らした。なぜか、その光はどこか寂しさを帯びて見えた。――まるで、彼の時代がここで終わったかのように。願乃は横を向く。「モナ。会議室のドアを閉めて」モナは一瞬、動きを止めたが、すぐに歩み寄り、ドアへ向かった。背中越しに、去っていく彰人の姿を見つめると、なぜか視界が滲んだ。だが彼女は小さく首を振り、感情を押し殺し、メディアのその扉を静かに閉めた。――バタン。会議室は水を打ったように静まり返った。願乃の声は低く、しかし確かに響いた。「本日より、私がメディアの経営を直接指揮します。皆さまには、少しだけ時間をください。もし、氷室彰人と同様に株を現金化したい方がいらっしゃれば、一週間前の株価で、私が買い取ります。ただしその場合、今後――メディアグループ、栄光グループ、ならび
メディアグループの会議室には、大口から小口まで、株主たちがびっしりと席を埋めていた。彰人が持ち株を現金化し、完全に身を引いた。それはメディアに激震が走る出来事だった。同じように手放したいと考える株主は少なくなかったが、今この局面で売っても値はつかない。だからこそ、彼らは願乃の帰国を待っていた。彼女が舵を取り、どう判断するのか――それを聞くために。コツ、コツ、と。高いヒールの音が廊下に響く。願乃が会議室に入ってくると、視線を巡らせた。まだ来ていないのは彰人ただ一人。その姿を認めた途端、株主たちは一斉に不満を吐き出した。「周防さん、ようやく戻ってきてくれましたな」「これまで我々が氷室社長についてきたのは先代会長を信じていたからですよ。まさか、あんな形で皆を裏切るとは……」「せめて一言あれば、こちらも備えられた。それを、こそこそと売り抜けて……」「ニュースが出た途端、メディアの株価は一日で二百円も落ちたんですぞ。このまま有力な管理者が立たなければ、連続ストップ安ですよ」「我々はもう老い、配当だけを頼りに生きている。それすら奪うつもりなのか」「そうだ、そうだ。一人で腹いっぱいになって」「ツケは全部、こっちに押し付けやがって……」……当然、耳に入れたくない言葉はまだ続いた。願乃は軽く手を上げ、主席に腰を下ろした。――この人たちはずる賢くて、臆病だ。彰人は十分すぎるほど威圧してきた。辞職した今でさえ、まだ彼を恐れている。そう思った、そのとき。会議室の入口で、足音が止まった。小走りでやって来たモナが、願乃に耳打ちする。「周防さん、氷室さんがお見えです」室内が一気にざわめき、罵声が飛び交う。だが、彰人が姿を現した瞬間、誰一人として口を開けなくなった。会議室は水を打ったように静まり返った。彰人はすぐには入ってこなかった。入口に立ったまま、静かに室内を見渡す。――そして、願乃を見つめた。彼女が来ると知り、あえて選んだのは黒と白のクラシックなスーツ。それは願乃が最も好んでいた一着だった。ネクタイも、髪の整え方も、完璧だった。再会するまで、長い歳月が流れた。彼はすでに四十を越えている。願乃はわずかに疲れを帯びていたが、相変わらず鮮やかな美し
翌日、周防邸にはめでたい話が持ち上がった。彰人が願乃に結納の話を持ちかけたのだ。彰人には両親がいないため、最終的に男方の代表として伊野圭吾夫妻が周防家を訪れ、結婚の申し込みをすることになった。彰人は数年にわたり仕事で力を蓄えており、誠意は十分だった。贈り物や準備も申し分なく、結納金は十億円と提示された。京介と舞は、彼に損をさせまいと、婚礼用に二棟の邸宅を別途贈与した。一棟は雲城市に、もう一棟は立都市にあり、いずれも一棟あたり数十億円を超える豪奢な別荘である。さらに、メディアグループの株式三〇%が、願乃へ直接譲渡された。願乃は若くして、特筆すべき大事業を成したわけでは
慕美は、澪安が生活を共にする相手として申し分ないと認めざるを得なかった。悪癖らしいものはほとんどなく、暮らしぶりも規則正しい。彼女は知らない。かつての澪安は、夜ごと遊び歩き、家に戻らぬことも多かったのだ。今はただ、それを控えているだけにすぎない。それでも毎日、慕美は叔母を見舞いに通っていた。叔母の意識は相変わらず混濁し、罵声を浴びせ、物を投げつける。だが慕美は気にも留めない。彼女の人生には新しい血が流れ込んでいた。痛みを抱え帰路についたとしても、帰れる場所がある。澪安と暮らす、あの家に戻れるのだ。――これが「家」というものなのか。慕美は初めて知った。それが逃れられぬ
一週間後——クリスマスの夜。立都市は彩りの光に包まれていた。街を飾るネオンでさえ、今日は聖なる夜に譲る。大通りには英語のキャロルが流れ、サンタクロースを乗せた馬車が子どもたちに贈り物を配っていた。もちろん、十分な金を払えば馬車に同乗することもできる。翔雅は六万円を支払い、芽衣と章真を馬車に乗せてやった。白馬の蹄が澄んだ音を響かせ、南瓜型の車体にはカラフルな灯りが巻きつけられ、きらきら瞬いている。芽衣は父の膝に座り、小さな鞭を振って得意満面。——章真は黙って控えめに微笑むだけだった。澄佳は広場の真ん中に立ち、白いダウンコートに身を包み、分厚いマフラーを首に巻いていた。子どもた
澄佳が部屋に入ってきた。彼の手にあるスマホへ視線を向け、何気なく尋ねる。「安奈から?」翔雅は、萌音のことを知られたくなかった。誤解されるのが怖い。だから淡く笑みを浮かべてうなずく。「そうだ」彼女の手にある果物皿を取り上げると、小さく切った果実を一片、澄佳の唇へ運んだ。「清都へ、出張に行く」澄佳は小さくかじり、そのまま彼を見上げる。心の中では察していた。行き先は萌音のもとだ、と。だが口には出さず、ソファに腰を下ろし、仰ぎ見て問う。「いつ発つの?荷造りしてあげる」翔雅は胸が締めつけられるほど愛おしかった。それでも静かに答える。「明日の朝だ」不機嫌







