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第1144話

風羽
夜更け、モナは彰人の姿が消えていることに気づいた。

病室の内外を探してもどこにもいない。

……

周防本邸の外に、すらりとした人影が立っていた。

包帯を額に巻いたまま、夜風の中でただ屋敷の奥を見つめている。

高い塀が一枚。

それは物理的な境界であると同時に、彼の内に渦巻く渇望を遮る壁でもあった。

メディアの株式現金化の件で騒ぎが大きくなって以来、周防本邸の警備は彼を見ても見ぬふりをする。

以前のように煙草を差し出されることもない。

彰人はまるで最初からこの家に足を踏み入れたことなどなかったかのように、完全に排除されていた。

夜は澄み、静まり返っている。

彰人は遠くに灯る明かりをじっと見つめた。

ポケットから煙草を取り出し、火をつける。

一本は自分に。

一本は過去に。

そしてもう一本はまだ来ぬ未来に。

深夜近く、携帯が鳴った。

麗子からだった。

声はやけに低く、どこか背筋を冷やす響きを帯びている。

「氷室さん……藤宮鈴音が亡くなりました。自殺です。まだ……体も冷えきっていません。よろしければ、来ていただけますか」

生前、鈴音に冷たくしてきた分、死後が
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  • 私が去った後のクズ男の末路   第1144話

    夜更け、モナは彰人の姿が消えていることに気づいた。病室の内外を探してもどこにもいない。……周防本邸の外に、すらりとした人影が立っていた。包帯を額に巻いたまま、夜風の中でただ屋敷の奥を見つめている。高い塀が一枚。それは物理的な境界であると同時に、彼の内に渦巻く渇望を遮る壁でもあった。メディアの株式現金化の件で騒ぎが大きくなって以来、周防本邸の警備は彼を見ても見ぬふりをする。以前のように煙草を差し出されることもない。彰人はまるで最初からこの家に足を踏み入れたことなどなかったかのように、完全に排除されていた。夜は澄み、静まり返っている。彰人は遠くに灯る明かりをじっと見つめた。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。一本は自分に。一本は過去に。そしてもう一本はまだ来ぬ未来に。深夜近く、携帯が鳴った。麗子からだった。声はやけに低く、どこか背筋を冷やす響きを帯びている。「氷室さん……藤宮鈴音が亡くなりました。自殺です。まだ……体も冷えきっていません。よろしければ、来ていただけますか」生前、鈴音に冷たくしてきた分、死後が怖いのだろう。一人で対処する度胸もなく、場を支える誰かが必要だった。その役を担えるのは氷室彰人しかいない。この二年で、麗子の気位はすっかり削がれていた。彼女はもう分かっている。彰人が自分に興味を持ったことなど、一度もない。利用価値がある間、そばに置かれていただけだ。今、鈴音が死に、彼女に残された最善の結末は――無事に身を引くこと。それだけだ。麗子の声は震えていた。だが、彰人は携帯を握ったまま、表情ひとつ変えなかった。鈴音が死ねば、ほっとすると思っていた。胸が軽くなるか、せめて何かが終わった実感があるはずだと。だが、違った。湧き上がったのはただ深い寂寥だった。――ああ、あれほど灰色だった過去はこれで終わった。それでも、願乃は戻らない。張り詰めていた弦が音もなく切れたようだった。しばらくして、彰人は静かに言った。「今から行く」病院に着いたとき、医療スタッフはすでに鈴音の遺体を処理していた。白い袋に収められ、まるで医療廃棄物のように扱われている。不潔ではないが尊厳もない。そのとき、彰人が低く声を発した

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1143話

    願乃の表情は淡々としていた。「大丈夫。私なら」翔雅は歩み寄って腰を下ろし、そっと彼女の肩を叩く。語りかける声は低く、重みがあった。「彰人はもう理性を失ってる。気をつけて」こういう家に生まれた人間はたいてい感情や欲しいものに執着しすぎない。だが――願乃は彰人にとって特別な存在だったのだろう。失えば失うほど、取り戻したくなる。それも正気を失うほどに。彼はきっとここで引かない。翔雅にはそんな予感があった。食後、願乃は一人で寝室のテラスに出た。春の夜気のなか、外を静かに見つめる。澄佳がワインを一本持ってきて、向かいのソファに腰を下ろす。そして、そっと尋ねた。「彰人のこと、考えてる?」澄佳と願乃は同じ母を持つ姉妹だ。願乃が彰人に抱いていた想いを誰よりも知っている。初恋で、唯一の恋。しかも――澄佳でさえ認めざるを得ないほど、彰人は魅力的な男だった。結婚後も浮いた噂ひとつなく、それがまさか、鈴音という一人の女で崩れるとは。その女の話は聞いている。今は療養施設に入れられ、決して恵まれた暮らしではないらしい。想像するまでもなく、裏が見える。澄佳は妹に訊いた。「あのピーターはどういう人なの?」願乃はワインの栓を抜き、静かにグラスを揺らし、二杯注ぐ。小さく笑って答えた。「私が引き抜いた、有能な人材よ。それだけ」澄佳も微笑み、背もたれに身を預けた。姉妹は他愛ない話を続ける。英国の天気、メディアのこれから――その日の午後、メディアの株価は百円上がった。正体不明の資金が四十億円、一気に流れ込んだのだ。まるで即効性のある強心剤。願乃は調査を指示したが、新規口座で、持ち主は追えない。兄や姉の誰かだろう――そう思った。だが違った。……夜。彰人は発熱した。額は焼けるように熱い。モナは家にも帰らず、付き添い続ける。顔を拭こうとした瞬間、彼は彼女の手首を掴んだ。掠れた低い声に深い情と痛みが滲む。「願乃、願乃……一度でいい……許してくれ……後悔してる……本当に……」それを何度も何度も繰り返す。モナは胸が締めつけられた。正直に言えば、彰人は彼女によくしてくれた。それでも――周防社長を裏切った事実は変わらない。あの

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    彰人が席に着くと同時に、願乃は一切、彼に発言の余地を与えなかった。彼女は会議室をひと巡り見渡し、淡々と口を開く。「すでに皆さまご存じかと思いますが、私が帰国する以前、当社第二位株主であった氷室彰人は保有していた20%の株式をすべて現金化し、あわせて代表取締役社長の職を辞任しました。本日、私は最大株主としてここに戻り、氷室さんの決断を正式に承認します。これをもって、氷室さんはメディアグループの一員ではありません」彼女は顔を横に向け、彰人を見る。「氷室さん、ここまでです。この先は内部会議になりますので、ご退出ください」――ざわっ。会議室が一斉にどよめいた。これが願乃がメディアを率いる、その最初の一手だった。無駄がなく、冷静で、私情は一切ない。その姿に、誰もがかつての舞を重ねた。――なるほど。伊達にあの家の娘ではない。かつてはどこか柔らかく、守られる存在だった願乃は離婚という激変を経て、まるで別人のように生まれ変わっていた。彰人は願乃を見つめた。その瞳に浮かんでいたのは怒りではなく――明らかな賞賛と、抑えきれない驚きだった。――俺の願乃は成長した。――完全に、脱皮した。だから彼は腹を立てるどころか、穏やかに微笑み、紳士的に頷いた。「分かりました。では、周防社長のオフィスで待たせていただきます」願乃は黙って彼の背中を見送った。彰人が会議室を出ると、廊下から差し込む陽光が、彼の全身を照らした。なぜか、その光はどこか寂しさを帯びて見えた。――まるで、彼の時代がここで終わったかのように。願乃は横を向く。「モナ。会議室のドアを閉めて」モナは一瞬、動きを止めたが、すぐに歩み寄り、ドアへ向かった。背中越しに、去っていく彰人の姿を見つめると、なぜか視界が滲んだ。だが彼女は小さく首を振り、感情を押し殺し、メディアのその扉を静かに閉めた。――バタン。会議室は水を打ったように静まり返った。願乃の声は低く、しかし確かに響いた。「本日より、私がメディアの経営を直接指揮します。皆さまには、少しだけ時間をください。もし、氷室彰人と同様に株を現金化したい方がいらっしゃれば、一週間前の株価で、私が買い取ります。ただしその場合、今後――メディアグループ、栄光グループ、ならび

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  • 私が去った後のクズ男の末路   第657話

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    一週間後、真琴は撮影所に入った。正陽フィルムが手掛けるスパイ映画で、彼女はヒロインを務める。男優は星耀エンターテインメント所属の人気俳優で、近年はSNSで絶大な人気を誇る若手俳優だった。クランクインの日、翔雅は真琴に付き添って現場へ。心のどこかで澄佳に会えるのではと期待していた。あの彼女なら、自社の俳優を応援に駆けつけてもおかしくない、と。だが、そこに現れたのは篠宮だけだった。真っ白なスーツに身を包み、精悍で隙のない姿。翔雅と真琴を見た瞬間、彼女は冷ややかに笑い、取り繕う気配すら見せなかった。「どきなさい。邪魔よ」翔雅は眉を寄せる。真琴は唇を噛み、小さく声を落と

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  • 私が去った後のクズ男の末路   第665話

    翔雅の胸は張り裂けそうだった。彼は腕を伸ばし、真琴を抱き寄せる。女は肩に顔を伏せ、嗚咽をこぼす。その泣き声は翔雅の心を軋ませ、男としての誇りをも粉々にした。「心配するな。必ず仇を討つ」掠れた声で、そう誓った。……夜。周防邸は静寂に包まれていた。轟音がその平穏を引き裂く。黒いレンジローバーが鉄製の門を突き破り、庭へ突進する。最後に巨木のガジュマルのそばで急停。車体は歪んでいたが、翔雅は意に介さない。バンッ、と音を立ててドアを開け、男は長椅子へと歩み寄った。風に乗って梔子の香りが漂う。だが胸中の怒りは鎮まらない。そこには、かつて心を尽くそうと誓っ

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