LOGIN結安は一瞬、息を止めた。宇佐美は章真の側近だ。彼に知られるのはまずい。少女はすぐに視線を落とし、小さな声で言った。「ちょっと気分転換で歩いてただけです。暑かったので、中で休ませてもらってて……宇佐美さんこそ……叔父さんとご一緒なんですか?」上手く注意を反らされたことに、宇佐美自身は気づかない。所詮、彼は雇われの秘書だった。結安と同じ家で暮らしているわけでもない。そこまで深く気に掛けてはいない。少し考えたあと、彼は答えた。「葉山さんなら、前のビルにいますよ。行きますか?」結安は素直そうに微笑む。「お仕事中でしょうし……私は大丈夫です」宇佐美は彼女に好印象を抱いていた。華奢で綺麗な少女。しかも礼儀正しい。嫌う理由などない。宇佐美が立ち去ったあと、結安はようやく小さく息を吐いた。けれど胸のざわつきは消えない。もし宇佐美が章真へ話したら?もし疑われたら?章真は宇佐美みたいに簡単に誤魔化せる相手ではない。結安は唇を噛む。だが数秒後には、ゆっくり表情を整えていた。……宇佐美が向かったのはクラブだった。五階のVIPルームは目が眩むほど豪奢だ。部屋にいるのは章真と、若い男が一人。章真はソファへ腰掛け、男は立たされたまま。男は天宇グループ案件の主任エンジニアだった。プロジェクト自体は手に入れた。だが肝心の技術責任者が協力的ではない。だから章真は話し合いの場を用意したのだ。章真はマグカップを片手に持っていた。中には琥珀色の酒。ゆるく揺らしながら、気怠げに口を開く。「若いうちは理想論を捨てられないもんだ。分かるよ。宇佐美だって新卒の頃はお前みたいに尖ってた。でも現実ってのは残酷だ。立花拓哉は終わった。耐えきれず飛び降りて、奥さんも後を追った。残った一人娘は今うちで預かってる。大事に育ててるよ。いい服を着せて、美味いもの食わせて、可愛がってる……でも、それは俺の機嫌がいいからだ。俺が欲しいものを手に入れてるから成立してる。もし千億単位の損失を出したら?俺が孤児一人に優しくする余裕、まだあると思うか?」章真は軽く笑った。「顔はいいんだよな、あの子。商品価値は高そうだ。芸能界にでも入れるか?学校なんか辞めさせてさ」
結安は小さく唇を結び、遠慮がちに言った。「蝶野さん……少し外へ出てもいいですか?」蝶野はもともと結安に甘かった。束縛するつもりなど最初からない。ただ、子どもに寂しい思いをさせたくなくて、慌てて運転手を手配しようとする。けれど結安は、柔らかく微笑んで首を振った。「近くの市民ライブラリーで勉強するだけです。歩いて行けるので」蝶野は何度も頷いた。「いい場所よねぇ、あそこ。静かだし雰囲気もいいし。ちゃんと勉強して、立派になるのよ」結安は淡く笑った。――本当は医学部へ進みたい。けれど、それには長い年月が必要だ。そして莫大なお金も。だから彼女は、どうしても資金を作らなければならなかった。結安は静かに二階へ上がり、自室のウォークインクローゼットへ向かう。中から慎重に服を選び出し、それに合わせた靴とアクセサリーも揃える。タグ付きのまま、丁寧に畳み、綺麗にバッグへ詰め込んだ。リュックを背負い、再び階下へ降りる。庭で蝶野を見つけると、礼儀正しく手を振った。「お昼には戻ってきますね」蝶野はもう可愛くて仕方がない。ほとんど実の娘のように思っていた。いつか結安が結婚する日が来たら、自分はきっと泣いてしまうだろう――そんな未来まで想像している。できれば、この家にずっといてほしいとすら思っていた。けれど彼女は知らない。結安が、その目の届く場所で少しずつ服やアクセサリーを持ち出し、売り払っていることを。そして十分なお金を手にしたら、いつか遠くへ逃げるつもりでいることを。……午前十時。結安は高級ブランド専門のリユースショップへ足を踏み入れた。店主は少女の姿を見るなり、冷房目当ての学生くらいにしか思わず、ほとんど相手にしない。だが結安は黙ってカウンターへ歩み寄り、リュックを下ろした。そして中から取り出したのはシャネルの最新限定コレクション。富裕層の女性たちですら入手困難な人気モデルだった。セットアップだけで六百万円近い価値があり、タグも付いたまま。さらにアクセサリーと靴まで揃っている。女店主の目の色が一瞬で変わった。最初は偽物を疑った。けれど生地に触れた瞬間、本物だと分かる。さらに結安自身の雰囲気。一目で本物のお嬢様育ちだと察せられた。店主
章真は、まるで息をするみたいに人の好意を手に入れる。若く。端正で。金を持っていて。――しかも気前がいい。学年主任との話のあと、章真は学校へ四億円近い寄付を申し出た。新しい図書館建設のためだ。その瞬間、彼は学校中の特別なお客様になった。この学校では、数百万円規模の予算申請ですら毎回苦労する。それなのに章真は、軽く笑って巨額の寄付を決めてしまったのだ。もはや福の神扱いだった。けれど結安だけは知っている。彼が立花家から手に入れたものに比べれば、そんな金額など微々たるものだということを。そして――彼の優しさは、すべて気まぐれだということも。葉山叔父さんごっこに飽きれば、彼はいつでも自分を捨てられる。今は機嫌がいいから優しくしているだけ。価値がなくなれば、きっと迷いなく本性を見せる。結安はそれを理解した上で彼に合わせていた。彼は欲しいものを手に入れた。――結安もまた、同じだった。学年主任と校長が章真へ媚びへつらう中、結安は彼の隣で大人しく座っていた。仲の良い保護者と少女。そんなふうに見える距離感。それが章真を満足させる。――引き取って正解だったな。彼はそう思う。私生活はかなり乱れている。だが経営者である以上、世間体は必要だった。このままずっとアヒルを養っていても悪くないかもしれない。見た目も可愛い。家に置いておくだけでも気分がいい。せいぜい肩でも揉ませれば、養育費の元くらいは取れるだろう。本来なら、そのまま結安は授業へ戻るはずだった。だが章真が、「周防本邸へ連れて行く」と言い出したため、学年主任は即座に許可を出した。しかも自ら駐車場まで見送りに来る。顔中に愛想笑いを貼りつけながら、何度も頭を下げる姿は、完全に大口寄付者への対応だった。章真もまた気前よく小切手を渡し、そのまま結安を車へ乗せる。シートベルトを締め終えた結安を見ながら、彼はふいに尋ねた。「なんだ、不機嫌そうだな。授業なんて、そんなに大事か?大学なんて、立都市ならどこでもどうにでもしてやる。そんなことより、マッサージとか覚えた方が役に立つぞ」……結安は馬鹿ではない。つまり彼は、自分をメイドとして育てるつもりなのだ。今はまだ幼いから面白がっている
結安は立ったまま――じっと「葉山叔父さん」を見つめていた。普段はスーツ越しに隠れているせいで細身に見える。だが浴衣一枚になった章真の身体は、想像以上に男らしかった。厚みのある胸板。うっすら覗く引き締まった腹筋。日頃から鍛えているのが一目で分かる。そんな結安の視線を受けながら、章真はゆっくりと近づいてくる。そして見下ろすように立つと、静かに言った。「そこに座って、大人しく待ってなさい。俺が身支度を終えるまでだ……今回だけだからな。次またやったら休学させる。家で料理と掃除でも覚えて、メイドとして働いてもらうぞ。メイド代も浮くしな」まだ数日しか経っていないのに、もう平気で睡眠を邪魔してくる。しかも隠す気すらない。結安はこくりと頷き、リュックを背負ったまま素直に腰を下ろした。背筋をぴんと伸ばして。その様子に、章真は少し満足する。彼は支配することを好む男だった。こうして従順でいてくれるなら――将来的に、この家に置いてやっても悪くないと思う。昼は学校へ通い、夜はここでメイドとして働く。案外悪くない生活かもしれない。やがて章真は身支度を終え、仕立ての良いスリーピースに着替え、細い金縁眼鏡を掛けて結安と共に階下へ降りた。章真には朝食を摂る習慣がない。ブラックコーヒーを一杯飲むだけだ。一方、結安は卵サンドを片手に車へ乗り込み、そっと彼へ差し出した。それを見た章真は目を細める。「俺が空腹で倒れるとでも思ったか?まだ毎朝朝飯を食う年齢じゃない……そういうのはお前の父親くらいの歳になってからだ」拓哉の話題が出た瞬間、結安は黙ってサンドイッチを引っ込め、そのまま自分で食べ始めた。章真は何も言わず、アクセルを踏み込む。――慰めもしない。彼は拓哉という男を心の底では見下していた。弱肉強食。ビジネスの世界では当たり前のことだ。力がないのが悪い。それを他人のせいにはできない。それどころか、自分は娘まで引き取ってやっている。こんな善人が他にいるだろうか、とすら思っていた。学校へ掛け合い、生活を気に掛け、面倒を見てやっている。三十分後。黒のベントレーはある公立高校へ静かに滑り込んだ。設備はどれも古びていて、校舎にもどこか時代を感じる。いかにも普通の高
けれど結安は分かっていた。彼の優しさなんて、きっと気まぐれだ。今はただ機嫌がいいだけ。あるいは、少し興味を持っているだけ。そのうち本気の恋人でもできれば、この家に自分の居場所などなくなる。……もっとも。結安自身、ここに居続けるつもりなどなかった。章真は両親を死へ追い込んだ側の人間だ。そんな相手の庇護の下で、何も知らないふりをして生きていけるはずがない。生き延びたいとは思う。けれど、ただ惨めにしがみつきたいわけじゃない。もちろん、本音を章真に話すつもりもなかった。結安は従順そうに目を伏せ、小さな声で言った。「分かりました、葉山叔父様」――叔父様?章真はわずかに眉を上げる。以前、結安は彼をお兄ちゃんと呼んでいた。だが、彼が何年もかけて父の会社を狙っていたと知ってから、その呼び方は二度と口にしなくなった。お兄ちゃんより、叔父様のほうが安全だった。世の中には悪い叔父はいても、悪いお兄ちゃんという響きは存在しない。もちろん、そんな少女の複雑な感情を章真が知るはずもない。彼はただ、素直で聞き分けのいい子だと満足していた。叔父様呼びも悪くない。どこか威厳が出る。その呼び方を彼は自然に受け入れた。まだ父親ではない。だが先に姪ができたと思えば、それも悪くない。明日は学校へ付き添い、そのあと両親の家へ連れて行こう。少し自慢したくなっていた。章真は結安の髪を撫でる。改めて眺めると、本当に整った顔立ちだった。家へ連れて歩いても見栄えがいい。結安は目的を果たし、そろそろ部屋へ戻ろうと身体を動かす。だが次の瞬間、また肩を押さえられた。章真はソファにもたれ、目を閉じたまま低く息をつく。「なかなか上手いな。次は肩も頼む。今日は疲れた」結安は逆らえなかった。おとなしく彼の肩へ手を伸ばす。明るい照明。静まり返った屋敷。傍らには、懸命に世話を焼く少女。章真はふと思った。騒がしい夜遊びも。欲望に溺れる時間も。今はどうでもいい。こうして静かな家で過ごすのも、案外悪くない。……もっとも。この子の手つきはまだぎこちない。明日にでも蝶野に教えさせるか。力加減も分かっていない。危うく変な場所を押されそうになった。そ
返事はない。章真が視線を上げると、結安は両手を膝の上に揃え、まるで優等生のようにきちんと座っていた。……なるほど。寝室で男を待つのは大人の女の役目だ。この子はまだ子ども。だからリビングで、帰りの遅い保護者を待っていたわけか。宿題でも見てほしいのか。保護者欄にサインでも必要なのか。そう考えると、妙に新鮮だった。章真は、まだ父親というものをやったことがない。だが、いずれ自分にも子どもはできるだろう。その予行練習と思えば悪くない。そんなことを考えていると、結安が小さく口を開いた。「……学校が、受け入れてくれなくて。先生が、一度あなたに来てもらって、手続きをしてほしいって……」――ほう。それは少し面倒そうだ。だが逆に、少し興味も湧いた。それに、数日会わなかっただけで、「あなた」呼びか。随分よそよそしくなったものだ。章真はソファへ歩み寄り、結安の隣へ腰を下ろす。その瞬間、結安は敏感にアルコールの匂いを感じ取った。まだ幼い。それでも女の本能のような警戒心が働き、無意識に身体を少し離す。章真は目を細めた。……へえ。アヒルは自分を怖がるのか。誰の金で食べ。誰の家に住み。誰の庇護で生きていると思ってる。それなのに、そんな顔を向けてくるとは。まったく、躾がなっていない。少し教育したほうがいいかもしれない。どうせしばらく育てる予定だ。今後は両親にも会わせる。祖父母たちだって結安を見たがっている。なら、それなりに形を整えておかないと困る。恥をかくのは自分だ。章真はソファにもたれ、結安を横目で見ながら小さく息を吐いた。「最近忙しくてさ。足が疲れきってるんだ。本当はどこかでマッサージでも受けたかったんだけど……未成年の面倒を見に帰ってきた」そう言って、じっと彼女を見る。察しのいい子なら、とっくに動いている。だが結安は、ただ彼を見つめ返していた。瞳の奥では何かが揺れている。……涙か。少しくらい脚を揉んだからといって死ぬわけじゃない。衣食住すべて彼が与えている。姫みたいなベッドで寝かせている。その保護者に少し尽くして、何が悪い?章真は譲る気もなく、そのまま待ち続けた。「自分から動け」とでも言うように。
深夜、寒真は一人テラスで煙草を吸っていた。彼は指先で遊んでいるピンクダイヤモンドを見つめた。何の意味もないように思えた。わずか二、三ヶ月で、夕梨の心から彼は消え去った。あの愛に溢れた日々は、彼女にとっては遠い記憶でしかなかった。彼女は新しい生活を始めている。なぜ自分にはそれができないのか?寒真の喉が動き、心臓がズキズキと痛んだ。彼は手を振り上げ、ダイヤの指輪を裏庭の芝生へと投げ捨てた。……その後、彼らの接点は一切なくなった。彼は仕事に没頭し、玲丹は頻繁にマンションを訪れて手料理を振る舞った。実際、彼女の料理の腕は悪くなく、恋人としては夕梨よりもあらゆる面で優れて
深夜。寒真は朝倉家の本邸に戻った。服は乾いていたものの、微かにアルコールの匂いが残っていた。真夜中だというのに母親の紀代を起こしてしまい、彼女が駆け下りてくると、長男がソファに倒れ込み、天井を見上げたまま呆然としていた。次男の寒笙がその傍らに座っている。紀代は寒笙に尋ねた。「兄さんどうしたの?飲みに行ったはずなのに、どうして魂が抜けたみたいになってるの?」寒笙は真剣な顔で言った。「きっと大事件が起きたんだよ」紀代が問い詰めようとした時、寒真が自ら白状した。「夕梨が妊娠した」紀代は思わず声を上げた。「おめでたじゃないの。なんでそんな浮かない顔してるのよ
寒真は502号室に入った。中には罠だらけの宴が設けられていた。澪安だけでなく、彰人や翔雅、さらには宴司というビジネス界の顔馴染みもいた。幸い琢真がいなかった。いたら今日は半殺しにされていただろう。寒真は入り口に立ち、煙草を一本取り出して口にくわえ、頭を下げて火をつけた。個室は薄暗く、炎が顔の下半分を照らし、明滅の中で非常に彫りが深く美しく見えた。煙を吐き出しながら、寒真は軽く咳払いをした。「やはり罠だらけの宴でしたか。実は夕梨が望むならいくらでも出せますが、彼女が受け入れてくれるかどうか……義兄さん、そう思いませんか?」澪安は座ったまま動かず、顔には不可解な表情
寒真は呆然とした。彼は夕梨に、これっぽっちの実力しかないと思われるのを恐れ、彼女の頬にキスをして、低い声で約束した。「宴会が終わったら、絶対に満足させてやるから」夕梨は我に返り、頬をガラスケースに押し付け、少し目を閉じた。「チャンスがあるとは限らないわ、最近ひかりは夜に二回起きるもの」寒真は彼女の耳たぶを揉んだ。「俺があいつを寝かしつける。存分に楽しもう」夕梨はそれ以上答えなかった。時間が迫っており、二人はすぐに身支度を整えた。女の額には細かい汗が滲んでいる。男は近づいて優しくそれをキスで拭った。……十二月中旬、クリスマスの十日ほど前。ひかり







