LOGIN「住所を」あんな安アパートがお前たちの家じゃないだろう。チョコの荷物を取りに行く。結安には、もう拒む余地などなかった。彼からスマートフォンを受け取る。まだ彼の体温が残っていて、熱いほど温かい。震える指先で住所を入力していく。入力を終えて手を離した瞬間、全身から力が抜けそうになった。これから先、どうなるのかは分からない。ただ一つ分かっているのは――もう二度と娘を取り戻せないかもしれないということ。思わず両手で顔を覆う。それでも泣かなかった。もう18歳の頃のように、泣けば誰かが守ってくれる少女ではない。今の彼女は一人の母親なのだから。章真はスマートフォンを受け取りながら、結安を静かに見つめた。その時、チョコが小さな両手を伸ばす。「ママ、だっこ」意外なことに、章真は何も言わずチョコを結安へ渡した。結安は大切な宝物を抱き締めるように、そっと娘を胸へ抱き寄せる。運命は再び二人を引き合わせた。ただ、今度は二人きりではない。腕の中には、小さな娘がいた。車はそのまま邸宅へ向かう。車内には運転手と、助手席の宇佐美。桐生よりも宇佐美のほうが、章真にとっては腹心なのだろう。同性だからこそ分かることもある。章真は終始チョコだけを見つめていた。その眼差しは驚くほど穏やかで、優しかった。彼は心の底から娘を愛おしく思っている。その時、スマートフォンが鳴る。着信相手は澄佳だった。息子がまた世間を騒がせていると聞き、いても立ってもいられなかったのだ。恋人騒動どころか、今度は突然娘まで現れた。写真では顔こそ隠されていたが、横顔だけでも一目で分かる。あれは間違いなく葉山家の血筋だった。章真は母が何を聞きたいのか理解していた。穏やかな声で答える。「……ああ。想乃は結安が産んだ子だ。今から二人を連れて帰る。心配しないで。結安に無理なことはしない」電話を切ると、彼は一瞬だけ結安へ視線を向けた。やがて車は郊外の一軒家へ到着する。立地こそ郊外だったが、土地価格は決して安くない。1億円ほどでようやく200平方メートル程度の家が買える地域だ。それでも庭は丁寧に手入れされ、温かな生活の気配が漂っていた。家政婦が玄関を開ける。目の前に停まった高
間違いない。この子は自分の血を分けた娘だ。DNA鑑定など必要なかった。その面差しも、目鼻立ちも。そして何より、この小さな身体を抱き締めた瞬間に胸いっぱいへ溢れ出した、言葉では説明できない血のつながり。それだけで、章真には十分だった。彼はチョコを強く抱き寄せる。胸の奥から込み上げてくるこの感情は、かつて結安を愛していると気づいたあの日によく似ていた。嬉しくて。愛おしくて。胸が震えるほど満たされる。……けれど、その想いを彼女は受け取ってはくれなかった。小さな身体が父親の腕に包まれる。駿に抱かれたときとは、まるで違う温もりだった。幼いチョコも、ぼんやりと何かを感じ取ったのだろう。小さな両手で章真の頬を包み込み、幼い声で尋ねた。「おじさん……チョコのパパ?」――チョコ。その愛称で呼ばれているのか。章真の胸は締めつけられた。柔らかな頬へ何度も口づけを落とし、額をそっと重ねる。そして、もう一度、力いっぱい娘を抱き締めた。結安はその様子を青ざめた顔で見つめることしかできない。何一つ口を挟めなかった。部屋の中には宇佐美と桐生。廊下にはボディーガードたちが控えている。しばらくして章真はチョコを抱き上げ、自分の腕へちょこんと座らせた。それから結安をまっすぐ見据え、拒絶を許さぬ口調で告げる。「これからこの子を立都市へ連れて帰る。DNA鑑定は受けてもらう。……もっとも、その必要はないと思っている。だが、耀石グループの株主へ説明するためにも、正式な手続きだけは踏まなければならない。この子が、俺の実の娘であることを証明する」結安は反射的に彼の腕を掴んだ。何も考える余裕などなかった。瞳には必死な懇願だけが浮かんでいる。しかし章真の瞳に揺らぎはない。彼はわずかに顎を上げ、桐生へ指示を出した。退院手続きを。これからチョコは栄光グループ系列の総合病院で治療を受ける。その前に結安の家へ寄り、荷物をまとめる。必要な物はいくらでも買い直せる。だが、小さな子どもが見知らぬ場所へ行くなら、お気に入りのぬいぐるみや、いつも使っている枕くらいは持って行かせてやりたい。環境が変わる不安を少しでも和らげるために。章真はそのことをよく知っていた。な
電話の向こうから聞こえてきた結安の声は小刻みに震えていた。「拾った子です」章真は鼻で小さく笑う。――拾った子、か。その瞬間、彼はようやく理解した。最近の結安の身体が、以前とはどこか違って見えた理由を。細身であることに変わりはない。それでも以前より柔らかく、女性らしい丸みを帯びていた。出産を経験した身体だったのだ。それでも彼は、まだ少女の素性を疑っていた。もし自分の子だというなら――あの頃、結安と身体を重ねた回数など数えるほどしかない。最初の一度を除けば、避妊もしていた。その最初ですら、彼女は緊急避妊薬を服用している。二人の間に子どもができるはずがない。だが、あのぼやけた写真。少女の眉や目元には、どこか自分によく似た面影があった。章真はすぐに結安の居場所を調べさせる。今すぐ。一刻も早く。彼女のもとへ向かわなければならない。そして、自分の目であの子を確かめる。もし、本当に自分の娘だったなら――結安はもう二度と逃がさない。章真は電話を切った。漆黒に輝く高級ミニバンは、そのまま病院へ向かって走り出す。道中、彼のスマートフォンは何度も鳴り続けた。すべて家族からの着信だった。きっと、あの少女のことを聞きたいのだろう。しかし章真は一本たりとも応じなかった。なぜなのか、自分でも分からない。胸の奥はひどく落ち着かず、これまで幾度となく経験した企業買収や経営危機よりも、はるかに心を乱されていた。もし、あの子が自分の娘ではなかったら。その時、自分はどうするのか。結安を駿に譲るのか。車内は薄暗い。男の瞳は闇よりもなお深く沈んでいた。やがて車が静かに停車する。その瞬間、彼は一つの結論を下した。――DNAの結果など関係ない。あの子は自分の娘だ。いや。自分の娘でなければならない。そして、父親になれるのはこの世で自分だけだ。正午12時。漆黒のベントレーが病棟前へ静かに滑り込む。病院の周囲はすでに報道陣で埋め尽くされていた。この状況では、たとえチョコが章真の娘ではなかったとしても、世間はそう信じるだろう。本来なら、人知れずDNA鑑定を済ませるのが最善だった。だが章真は、チョコが他人の子ということを許せなかった。
SNSは完全にダウンしていた。シェリーは一線目前の中堅女優。それだけに、この騒ぎはまさに破格の注目度だった。芸能記者が最初に公開したのは結安と章真がマンションへ入っていく写真だった。だが、世間の反応は意外なほど薄い。「大物実業家と女優」――そんな組み合わせはもはや珍しくもないからだ。ところが、その直後に公開された一枚が一気に流れを変えた。駿と結安が並んで写る写真だった。結安は目を真っ赤に腫らし、バス停のベンチに座っている。少し離れた場所に立つ駿はただ静かに彼女を見つめていた。その距離感、その視線――まるで恋愛映画のワンシーン。切なさをまとった男女の主人公そのものだった。その写真を見た時点で、章真の機嫌はすでに最悪だった。それでも彼は予定どおりH市へ向かうことを選ぶ。帰ってから片づければいい――そう思っていた。しかし、専用機に乗り込んだ直後、芸能記者は決定的な一枚を投下した。深夜、小さな戸建てから並んで出てくる駿と結安。駿の腕の中には、四、五歳ほどの幼い少女が眠っていた。愛らしい顔立ちを見れば、一目で結安の娘だと思えてしまう。――その瞬間、SNSは完全に機能停止した。【『蒼穹の花』主演シェリー、極秘出産か】【エリート男性の正体とは】【耀石グループ社長、他人の子を育てていたのか】【謎の少女は財閥の後継者?それともこれはエリート男性の策略?】……耀石グループの専用機内。章真の顔色は青白く、険しくこわばっていた。彼は最後の一枚から目を離せない。結安とあの男が子どもを抱き、真夜中に病院へ向かう姿。駿のことは知っている。高校時代の同級生だ。あの男のために、結安は吐き気をこらえながら自分に尽くしていた。あの頃の結安は、少し触れただけでも顔を真っ赤にするような、あんなにも初々しい少女だった。それなのに――すべては、あの男のためだったのか。昔、彼女は「藤堂という名字の人は好きじゃない」と笑っていた。その言葉を自分は信じていた。だが現実には、二人の間には子どもまでいる。自分だけが、滑稽な勘違いをしていたのだ。この数年間、二人は幸せに暮らしていたのだろうか。彼女が最初に心も身体も許した相手は、駿だったのだろうか。そう考えただけで、胸の
結安が病室へ戻ると、チョコのそばには若い看護師が付き添っていた。その看護師は目ざとかった。結安が、最近話題になっている女優・シェリーだとすぐに気づく。新進気鋭の林安監督作品『蒼穹の花』で主演に抜擢され、一気に注目を集めている女優。さらに耀石グループ社長・章真との熱愛報道も、たびたび週刊誌を賑わせていた。本人は否定している。けれど芸能界では、否定されるほど本当なのでは、と噂されることも少なくない。そして目の前で点滴を受けている少女は――どことなく章真に似ている気がした。もちろん、看護師には守秘義務がある。胸の内へそっとしまい込むだけだ。もっとも、彼女がここまで甲斐甲斐しく世話を焼く理由は、何か見返りを期待しているからではない。ただ純粋に――いつかこの秘密が世間へ出たとき、『章真社長のお嬢さんに三日間付き添ったんだよ。点滴も私が入れたの』そんな自慢話ができたら面白いな、と少しだけ思っただけだった。結安が病室へ入る。看護師は改めて彼女を見つめる。――やっぱり綺麗。さすがは章真が選んだ女性だ。チョコは先ほどより少し元気を取り戻していた。ベッドにもたれ、小さな白い手を忙しなく動かしながら積み木で遊んでいる。結安が戻ってきたのを見ると、甘い声で言った。「ママ」「駿おじさん、好き」結安は微笑みながら近づき、小さな頭を優しく撫でる。それから看護師へ頭を下げた。「ありがとうございました」看護師は胸がどきどきしながらも、平静を装って笑顔を作る。「何かありましたら、ナースステーションまで呼んでください」「今日は夜勤なので」「ありがとうございます」結安が頷く。看護師が退室したあと、結安はチョコを抱き寄せ、一緒にしばらく積み木で遊んだ。やがて遊び疲れたチョコは母親の肩へ寄りかかり、眠たそうに呟く。「ママ……」「駿おじさん、チョコのパパになってくれないの?」結安は少し考えてから、小さな嘘をついた。「駿おじさんにはね、好きな人がいるの」「……そっか」チョコは寂しそうに呟く。幼稚園へ通い始めた彼女は、周りの子どもたちにはみんなお父さんがいることを知っていた。自分だけは違う。ママは、お父さんは病気で亡くなったと言っていた。でも
夜も更けた頃。車は郊外に建つ一軒の小さな戸建ての前で静かに止まった。車を降りようとした結安は、ドアノブを握る手に力を込めたまま、穏やかな声で駿に告げる。「この家は……あの時計を売って手に入れたお金で買ったの。約一億円で。チョコの父親は葉山章真よ。駿……今夜が終わったら、もう私の前には現れないで。あなたを巻き込みたくないの。あなたは章真の恐ろしさを知らない。あの人は目的のためなら手段を選ばない。芽衣さんだって、私を守りきれなかった。私は……自分勝手な人間だから。ただ静かに暮らしたい。もう、大切な人を弱みにはしたくないの。あなたは私にとって救いでも支えでもない。弱みになってしまう。駿……私の弱みにならないで。一度だけで、もう十分だから」駿はハンドルを握り締めた。指先が白くなるほど力が入る。しばらく沈黙したあと、ようやく静かに頷いた。「……分かった」彼女の意思を尊重するしかなかった。二人は車を降り、並んで二階の子ども部屋へ向かう。世話役の女性が、チョコへ薬を飲ませているところだった。チョコは女性の腕の中で小さく身体を丸めている。肩まで伸びた艶のある黒髪。雪のように白く柔らかな頬。熱で眉を寄せたその表情さえ愛らしく、小さな身体は思わず抱きしめたくなるほど儚い。駿は初めて思った。――四、五歳の子どもって、こんなにも可愛いものなんだ。その瞬間、胸に浮かんだのは。――こんな子の父親になれたら。そんな自分に苦笑する。足音に気づいたチョコがゆっくり目を開けた。弱った子猫のような声で呼ぶ。「ママ。チョコ……つらいよ……」……世話役の女性も心配そうに口を開く。「一度薬を飲ませたんですが、熱が全然下がらなくて……今流行っているウイルスは症状が重いみたいですし、この子はもともと身体が弱いから、お薬だけで様子を見るより点滴を受けたほうが安心だと思います」結安は頷いた。身をかがめ、チョコをそっと抱き上げる。片腕で娘を抱き、もう片方の手で額へ触れる。――熱い。かなり熱がある。その様子を見た駿が静かに言った。「病院まで送るよ」チョコは母親の首へ小さな腕を回したまま、じっと駿を見つめる。「ママ……あのおじさん、だあれ?チ
澄佳はしゃがみ込み、そっと彼のセーターをめくった。「傷口、見せて」彼が家の使用人に薬の処置をさせるはずもなく、大抵は自分で適当に済ませていることを澄佳は知っていた。ここ数日でどれほど治っているのか、気になって仕方がない。翔雅の胸中は柔らかくも、密かな喜びで満ちた。——やはり彼女は気にかけてくれている。彼はあっさりセーターを脱ぎ、半ば横になって見やすくした。セーターを脱げば、鍛え抜かれた腹筋があらわになる。その左腹には七、八センチほどの傷痕があり、まだ完全に塞がってはおらず、薄紅色の生々しい肌が覗いていた。澄佳は指先でそっと触れ、顔を上げて問う。「まだ痛むの?」
メディアに定義され、翔雅は真琴と「付き合っている」ことにされた。ただし大々的に発表されたわけではない。彼女を連れてイベントに出席し、事実上「彼女」として扱われただけだった。公の場では翔雅は真琴に気遣い、優しく振る舞った。だがプライベートでは冷淡で、必要以上の言葉は交わさなかった。彼の心は子どもたちへ向かっていた。礼の葬儀以来、一度も会っていない芽衣と章真。四月の終わり、夜。黒いレンジローバーが周防邸の門前に停まっていた。時刻はすでに十時近く。だが澄佳や澪安の車は現れず、代わりに現れたのは一台の黒いリムジンだった。窓が半ば降ろされ、そこから覗いたのは、なお
その正月を、翔雅は丸ごと真琴に費やした。一度は看護師に任せようとしたが、翔雅がいなければ真琴は薬を飲まず、時には自傷をほのめかす。結局、彼は駆けつけるしかなかった。時が経つにつれ、彼は疲れ果て、まるで運命を受け入れるような諦めを抱くようになった。松の内も明けた頃、真琴は退院した。行き先は、あのマンション。翔雅は彼女のために家政婦を一人つけてやった。だが真琴は頻繁に電話をかけてきては「一緒にご飯を」と呼びつける。精神科医の通院も必要で、常に誰かにそばにいてほしい様子だった。翔雅は真剣に、彼女を海外で静養させることを考えた。ある日の夕方、まだ六時前にマンションを訪れた。
しばらく迷ったあと、慕美はそっと身を引き、扉を開ける。周防本邸には人が多い。廊下で誰かに見られたら、想像しただけで顔が熱くなる。澪安は、その心配を読んでいた。部屋に入るとすぐに彼女の手を引き、ソファへ座らせる。彼は片膝を曲げ、その上に彼女を横向きに乗せるように座らせた。片やタキシードのまま、片や白い浴衣一枚。アンバランスなのに、不思議と完璧な絵になっていた。澪安は彼女の細い手首を指先で弄び、ぽつりと言う。「みんなが気づかないと思ってるのか?」慕美の頬が、ふっと染まる。「気づくのは構わないけど、堂々と見せるものじゃないでしょう」澪安の手が、彼女の腰