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第238話

Author: 風羽
白金御邸。

夕闇が街を包み始めたころ、舞は澪安を屋敷まで送り届けた。

背の高いガジュマルの木が陽光を遮り、邸宅から漏れる明かりを覆い隠す。

深い青を湛えた空が、葉の隙間から覗き込むようにちらついていた。

車を降り、後部座席から澪安を抱き上げた。

額にはうっすらと汗を浮かべているが、まだまだ赤ちゃんの香りが残る、ふわふわの存在。

名残惜しくて、何度も頬にキスを落とした。

けれど、もう泊まるわけにはいかない。

澪安もまた、離れたくない気持ちを抱えて母にしがみついた。

その姿は、夕暮れの中で白くやわらかく浮かび上がり、思わず抱きしめたくなるほど愛おしかった。

階段の上に長身の男が立っていた。

京介だった。

舞はふと顔を上げ、彼の視線とまっすぐに目が合った。

彼はずっとそこに立っていて、何か言いたそうにしている。

舞はそっと澪安の頭を撫で、やさしく声をかけた。

「澪安、ママの宝物よ。先にお部屋に入っててね。ママとパパ、ちょっとお話があるの」

澪安の頬が、ぽっと赤く染まった。

——ママが、僕のことを宝物って言ってくれた。

胸の奥がふわっと温かくなって、澪安は小さな体でぴょんぴょんと跳ねながら嬉しそうに駆けていく。

ちょうどそこへ使用人が迎えに現れ、やさしく手を取って中へと案内してくれた。

彼の背中を見送ってから、舞はゆっくりと京介に近づいた。

ふたりのあいだを秋の風が抜ける。金木犀の甘い香りがほのかに漂った。

彼女の頬は淡く光り、以前よりもずっと柔らかい雰囲気を纏っている。

あの頃の尖った雰囲気は影を潜め、今では真珠のような穏やかさがあった。

長い沈黙ののち、ようやく京介が口を開いた。

その声には、かすかに名残惜しさが滲んでいた。

「……昨日、都合はどうかって訊いてただろう?その答えだけど——

俺、朝比奈さんと付き合うことにした。結婚も、たぶんそう遠くない。

でも、安心していい。澪安のことに影響は出さない。彼はいつまでも、お前の子どもだ」

突然の言葉だった。

昨夜、あれほど未練を見せ、キスまで交わしたのに。

あれは——ただの男の衝動だったのか。

……けれど幸いなことに、舞もそれほど深く受け止めてはいなかった。

時間が経ち、愛も憎しみも薄らげば、人の心は意外と静かになれるものだ。

少し考えたあと、彼女はまっすぐ
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