Masuk男の言葉が落ちた瞬間、空気が微かに揺らぐ。――あいつにできることなら、俺にもできる。それは金の話でも、優しさでも、ましてや結婚の話でもない。ただ露骨なほどに、生々しい欲求のことだった。芽衣はもう三十歳。子どもではない。それでも――この言葉は受け止めきれなかった。何より、相手が陽白ではなおさら。しかも今、自分は蓮司を部屋に連れてきている。芽衣は言葉を選びながら口を開く。「私は彼とちゃんと向き合ってみたいと思ってるの」すぐさま、返ってくる。「俺でもいいだろ」芽衣は言葉を失った。この場を離れたい。けれど出るには、彼の前を通るしかない。だから彼女はまっすぐ陽白を見た。眩しい照明の下、互いの表情は隠しようがない。芽衣の顔には、どうしようもない困惑。陽白の瞳に、わずかな攻めの色が宿る。――ほんの数秒。次の瞬間、それは霧のように消えた。代わりに浮かんだのは、穏やかで柔らかな笑み。「冗談だよ、芽衣。彼氏ができたなら、それはいいことだ。実はあいつの映画にも出資してるんだ。気にしないでくれ、一緒に鍋を囲むくらい。年も少し下だろ?少しは気を遣わないとな……もちろん、お前の顔を立てて、だけど」――そんなに都合よく、割り切れるもの?芽衣は疑いを捨てきれない。だが、陽白はさらに続けた。「ちょうど今、メディアグループの案件を取りにいこうと思っててさ。担当、お前の義理の叔父だろ?今度、紹介してくれないか?」芽衣は一瞬、思考が止まる。――義理の叔父?それはつまり――彰人のことだ。陽白を見つめる。見れば見るほど、その立ち居振る舞いや笑みがどこか彰人に似ている気がしてくる。だが違う。彼にはあの人のような陰はない。ごく普通の家庭で育ち、穏やかに生きてきた男のはずだ。――考えすぎだ。芽衣は小さく息をついた。「……分かった。今度ね」それは蓮司のためでもあった。陽白は微笑む。笑うと、浅いえくぼがわずかに浮かび、それが不思議と柔らかな魅力を添えていた。彼は一歩近づき、芽衣を見下ろしながら、低く囁く。「そんなに好きなのか?あいつのこと」また、空気が変わる。その瞬間、足音が近づいてきた。蓮司だ。陽白は一歩退き、何事もなかったように火
芽衣はまだ蓮司の首に腕を回したままだった。本来なら、甘く濃密な夜になるはずだった。けれど――陽白の視線を浴びたままでは、どうにも続けられない。彼女はそっと腕をほどき、軽く咳払いをする。「陽白……どうして来たの?」陽白は指先の煙草を唇に運び、深く一吸いしてから床に押し消す。それから足元の荷物を持ち上げ、二人を見やりながら穏やかに言った。「実家から少し取り寄せたものがあってね。よかったら食べてくれ。新鮮なきのこで鍋にすると美味いんだ。それと――母からの年始の気持ち」そう言って、小さな箱を差し出す。あまりにも自然な仕草だった。芽衣は受け取り、中を開く。箱の中にあった翡翠のブレスレットは明らかに高価すぎた。横で蓮司もそれを見ている。愚かな男ではない。すぐに察した――陽白の意図もそして二人の過去も。蓮司は芽衣を見た。芽衣は陽白を見た。――帰ってほしい。このブレスレットは返すつもりだった。もう恋人ではないのだから、母親からの贈り物を受け取る理由はない。だが、言葉を口にする前に、陽白はまるでこの家の主のように顎を軽く上げ、芽衣に合図する。「寒いし、今食べるのがちょうどいいだろ。蓮司も一緒にどうだ……邪魔して悪いな。鍋でも囲んで、詫びにさせてくれ」ここまで言われては蓮司も断れない。芽衣も追い返すことができなかった。――奇妙な三人の夜が始まる。部屋に入ると、陽白は気遣うように言った。「二人はゆっくりしてていい。鍋は俺がやる」そう言われて、芽衣は蓮司を連れて寝室へと入った。もちろん、二人きりの時間を過ごすためではない。――ただ、彼から距離を置くためだった。芽衣は申し訳なさを感じていた。だが蓮司は穏やかに言う。「もしかしたら、ただの同窓の縁かもしれないよ。今は隣人でもあるし、関係を保っておきたいだけかもしれない。仕事でも何かと助けになるし」芽衣はそうは思えなかった。――けれど、そう思うしかない。あれほど自然に振る舞い、しかも自分たちのために鍋まで用意している。もし別の意図があるなら、普通はここまで余裕を見せないはずだ。つまり――蓮司の言う通り。過去は過去として、良い関係を保ちたいだけ。そう結論づけたとき、芽衣の胸は少し軽くなった。やが
芽衣が断ったあと、車内には長い沈黙が落ちた。やがて、陽白はそっと彼女の手を取った。そこに男女の情や欲は一切なく、ただ軽やかな口調で言う。「冗談だよ、芽衣。お前が俺を許さないことくらい分かってる。このままの距離でいよう。お前が恋をして、結婚するのを見届けるよ」芽衣は顔を横に向け、彼を見つめた。驚いたような表情だった。――相変わらず、切り替えが早すぎる。だが、芽衣はそれ以上深く考えなかった。アクセルを踏み込み、そのままマンションへと車を走らせる。距離は近い。十分ほどで地下駐車場に着き、車を停めると、彼女は隣の男へ視線を向けた。「着いたわ。降りて」陽白はまるで夢から覚めたように瞬きをする。そして妙に丁寧な口調で言った。「送ってくれてありがとう、芽衣」芽衣はハンドルに手を置いたまま、指先で軽く叩きながら言う。「陽白。正直、あなたがここにいると少しプレッシャーなの。それに大学の同級生たちにも、ちゃんと説明してほしい。私たち、もう元には戻れないから」陽白はあっさり頷いた。「分かった。あとで卓史に話しておくよ」――そこで、ふと声色が変わる。「なあ芽衣。俺って、そんなにお前に負担をかけてる?もう無理だとして……それでも、俺に対して何も感じないのか?たとえば今も。あの日、同じベッドで抱きしめたときも……女としての欲求すら、何も?」芽衣は言葉を失う。陽白は小さく笑った。「冗談だよ。芽衣……また会えて、嬉しい」まるで何事もなかったかのような、余裕の笑みだった。芽衣には、彼がまるで分からない。一緒にいようと言ったことも、追いかけると言ったことも――すべて軽口のように聞こえる。だから、彼女はすぐに手放した。そのまま二人は別れ、それぞれの家へ帰る。――そして、すぐに正月を迎えた。忙しさも落ち着き、自炊する気にもなれなかった芽衣は両親とともに周防本邸へ戻って年を越すことにした。祖父母も高齢で、こうして顔を合わせられる時間が、あとどれほどあるか分からない――そんな思いもあった。年始の間、蓮司が地方での撮影を終えて戻ってくる。何度か芽衣を誘ってきた。考えた末、芽衣は思う。――蓮司は悪くない。結婚に至らなくても、もう一度短い恋をしてみるのもいいかもしれない。
芽衣は正直なところ陽白のことなど放っておきたかった。だが卓史に別れを告げようとした瞬間、陽白がするりと彼女に絡んできた。細い手首を軽く掴み、もう片方の手には自分のコート。そのまま周囲と自然に会話を続ける。手を繋ぐわけではない。けれど――逃がさない。ここにいるのが当たり前だと示すような、絶妙に距離を詰めた仕草だった。芽衣は振りほどけない。それに――ここで騒ぎを起こすつもりもない。外から見れば、完全に恋人同士だ。陽白は時間を計っていた。十分ほど。見せるべき相手に、きちんと見せる。やがて、かつての学部長まで近づいてきて、陽白の肩を軽く叩いた。「これからは大事にしなさい。あんな遠くまで行かなくてもいい。芽衣はいい子だ。家柄も申し分ない」陽白はいつも飄々としているが、学部長の前では昔のように礼をわきまえる。芽衣の手を引いて一歩前へ出ると、穏やかに微笑んだ。「はい、先生。今日はお車、大丈夫ですか?よろしければ、私たちの車でお送りしましょうか」短いやり取りで、さらに印象を固める。――二人は恋人だと。学部長は手を振る。「いや、大丈夫だ。代行を呼んである」そのまま、二人で駐車場まで見送る。車が走り去ると、陽白は自然な口調で言った。「じゃあ、俺たちも帰ろうか」近くにいた同級生たちが、それを聞いて手を振る。「お疲れー」「またなー」と声をかけた。完全に「そういう関係」として認識されている。陽白はふと芽衣を見て、その手を優しく包んだ。「芽衣……こういうの、なんか夫婦みたいだな。同窓会の帰りに、一緒に家に帰る感じ」芽衣はちらりと彼を見て――「……バカみたい」と、小さく鼻で笑った。だが車に乗り込んだとき、彼女の鼻先はわずかに赤くなっていた。――あの言葉に、反応してしまった。大学時代の三年間。あの頃の彼との未来を、芽衣は本気で思い描いていた。自分の家は裕福で、彼も優秀だった。障害なんて、ほとんどなかった。順調にいけば、二十五歳で結婚して、三十になるまでに、子どもが二人か三人。――そんな未来。だが現実は違う。三十になった今、陽白は海外から戻り、好き放題に生きてきた男として、目の前にいる。ハンドルを握りながら、芽衣はぼんやりと思った
芽衣は電話を切り、ふと思った。――卓史は陽白と仲がいい。ということは、あの男も来るはずだ。あれから、もう一か月近く経っている。きっと、あの夜のことなんて、もう忘れているだろう。そう考えて、芽衣は特に気にも留めなかった。――自分と陽白のことが、学部内で大騒ぎになっているとも知らずに。しかも卓史は性格が悪い。そのことを一切、芽衣に伝えていない。同級生たちはただひたすら見世物を待っていた。別れて八年。八か月でもない。それなのに、また一緒に寝た?――大事件だ。芽衣はデパートで、卓史への贈り物に腕時計をペアで選んだ。価格は六百万円台。高すぎず、だが十分に品のあるものだ。パーティー当日。彼女はSARAWONGのヌードカラーの刺繍入りドレスを身にまとい、同ブランドの同系色のコートを羽織る。足元は淡いブラウンのピンヒール。全体にやわらかく、上品な印象だった。卓史の実家は地方にあるため、今回の会は主に同僚と大学時代の友人を招いたものだった。十卓ほどの規模。そして――見どころを演出するために、卓史はわざわざ芽衣と陽白を同じテーブル、しかも隣同士に配置していた。席に着こうとした芽衣は椅子の背に貼られた自分の名前を見つける。――ここまでやる?そして隣を見ると、陽白の名前。思わずため息が出た。――絶対、わざとでしょ。そのとき、顔見知りの女性が近寄ってきて、小声で――しかし遠慮なく聞いてきた。「ねえ芽衣、陽白が言ってたんだけど……あんたたち、もうそういう関係なんでしょ?今付き合ってるの?それとも、遊び?」――頭が真っ白になった。陽白、何言ってんのあの男?「そういう関係」って、どういう意味?ただ酔って、ベッドに居座られただけで、何も起きてないんだけど?弁解しようにも、言葉が出てこない。そのとき――当の本人が現れた。陽白が入ってきた瞬間、会場が一瞬静まり返る。誰かがわざとらしく椅子を叩いた。「陽白、こっち!卓史がちゃんと席用意してるぞ、芽衣の隣!」視線が一斉に集まる中、陽白は落ち着いた足取りで歩いてきて、彼女の隣に腰を下ろした。そして自然な動作で身を寄せ、低く囁く。「来てどれくらいだ?」――視線は妙に真剣だった。まるで、何か
陽白はゆっくりと目を覚ました。寝起きでも、やはり整った顔立ちだ。黒い瞳でしばらく芽衣を見つめてから、ようやく口を開く。「昨夜、お前が酔ってたからな。そのまま残って、様子見てただけだ」芽衣は冷ややかに笑った。「酔ってたら何してもいいわけ?勝手にベッド潜り込んで、しかもこんな格好にして」次の瞬間、陽白は身を翻し、彼女を押し倒した。体が密着する。指が絡む。空気が一気に甘く、張りつめる。芽衣は一度だけ抵抗したが、すぐに動きを止めた。八年の間に、陽白の体は明らかに変わっていた。無駄のない筋肉がしなやかに張りついている。あれだけ好き勝手に生きているはずなのに、どうやってこの体を維持しているのか――そして何より、その熱。まるで、飢えた獣のような気配があった。芽衣は彼を睨みつけた。冷たいはずの表情がどこか柔らかく崩れる。陽白は軽く笑い、彼女の鼻先に軽く噛みついた。「三十そこそこだぞ。反応くらいして当然だろ」そして、低く囁く。「目の前にこんな女がいて、何も感じない方が異常だ」……結局――彼は芽衣に蹴り落とされた。その後も懲りずに朝食を作ろうとしたが、あっさり玄関まで追い出される。ドアが閉まる。芽衣はその場で頭をかいた。――どこでおかしくなった?陽白が帰国して半年。何度か顔を合わせただけで、互いに深入りはしていなかった。なのに突然、あんなふうに現れて――しかも「反省」って。あまりにも雑だ。せめて普通、こういう展開なら、高級ジュエリーの一つや二つくらい持ってくるものじゃないのか。まさかの、火鍋の材料だけ。芽衣は金には困っていない。だが、多少はベタな展開の方が納得できる。別に、やり直す気はないのに。洗面所で歯を磨きながら、ふと鏡に映る自分を見る。首元に、かすかな赤い跡。襟元をめくって確認した瞬間――頬がじわりと熱を帯びた。脳裏に、昨夜の感触がよみがえる。柔らかなベッド。絡められた指。湿り気を帯びたキス。髪が乱れ、押さえ込まれる感覚。芽衣は小さく息を呑み、喉を鳴らした。――最悪。あの男、最初からその気だった。でなければ、あの程度のカクテルで酔うはずがない。……それからしばらく、陽白は現れなかった
最近、寒真は多くのことを勉強していた。すぐに、夕梨が出産するのだと分かった。嫉妬している場合ではない。彼は片手で彼女を支え、もう片方の手で電話をかけて琢真に知らせた。夕梨が産気づいたこと、すぐに助産師とVIP病室の手配をするように伝えた。指示を終えると、彼はアクセルを踏み込んだ。運転しながら夕梨を安心させ、気を紛らわせようとする。夕梨の方が彼よりずっと落ち着いていた。彼女の手はドアの取っ手を強く握り締め、冷や汗が滴り落ちていたが、歯を食いしばって言った。「まだそんなに痛くないわ、運転に集中して」ここから産院までは車で三十分ほどかかる。道中で事故など起こしたくはない。
寒真は黙り込んだ。車内は薄暗く静まり返っていた。寒真は横目で夕梨を見た。彼女はずっと目を閉じていて、無防備に見えるが、実際は無関心なのだと知っていた。彼女にとって、朝倉寒真という男は取るに足らない過去の知人に過ぎない。この数年、彼女は留学や仕事、そして育児に忙しく、彼のことなど数えるほどしか思い出さなかったのではないか?しかし、彼には聞く勇気がなかった。彼女の「朝倉さん、お久しぶりです」という一言でさえ、彼にとっては慈悲だったのだ。その時、対向車のライトが差し込み、一筋の光が夕梨の顔を照らし出した。その輪郭は変わらず完璧だったが、青さは消え、完全に成熟した自制的な女
その後の日々は、格別に心地よいものだった。寒真は、岸本家の婿としての立ち居振る舞いを、少しずつ身につけ始めていた。寒笙がからかうたびに、寒真は横目で彼を見やり、鼻で小さく笑って言った。「俺、今はほとんど婿扱いだからな。別荘でも待遇が違う。家政婦さんたちも、みんな『寒真さん』だ。もう身内同然だよ。――で、寒笙。お前、何年、豊海村に帰ってない?今さら戻れると思ってるのか?お前が顔を出したら、村じゃ、ただじゃ済まない。特に翠乃の親父は……あの時、助けなきゃよかったって、今でも思ってるはずだぞ」……寒笙はすごすごと退散した。その背中を見送ってから、寒真はどこか上機嫌なまま家
髪を適当に乾かし終えると、寒真は逃げるように浴室へ隠れた。しばらくして、浴室から微かな音が聞こえてきた。夕梨は軽く笑った。男も心にもないことを言うものだ、本当はしたいくせに。シャワーを浴びて髪を乾かした後、彼女は心地よくベッドヘッドにもたれ、何気なく本をめくっていたが、内容は頭に入ってこず、浴室の物音が気になって仕方なかった。およそ二十分後、寒真が浴室から出てきた。全身びしょ濡れだ。腰に小さなバスタオルを一枚巻いているだけ。上は何も隠せず、下もろくに隠せていない。水滴が隆起した胸筋を伝ってゆっくりと落ち、あの小さなタオルの中へと消えていき、想像をかき立てる。夕梨