LOGIN翌朝、慕美は自然と目を覚ました。こんなにも安らかに眠れたのは、何日ぶりだろう。柔らかなベッドと温かな布団。枕には澪安の気配――ほのかに新しい煙草の香りが混じっている。慕美は深く息を吸い込んだ。生きているって……いいものだ。外から、誰かの話し声が聞こえた。声の調子から、智朗だと分かる。澪安が何事か指示を出し、智朗は帰っていった。そのあと、寝室へ入ってきた澪安は、ベッドに座る慕美を見て、ほのかに笑った。「起きたか?」慕美はこくりとうなずく。「……今日は、本邸に帰るの?」しかし澪安は首をふった。「行く前に、寄るところがある」意味が分からず首を傾げると、澪安は彼女のバッグを取って中を探り、すぐに小さなカードをつまみ上げた。――彼女のマイナンバーカード。澪安はそれを掲げ、静かに言った。「市役所へ行く。婚姻届を出す」「……え?」「これから手術の同意書も、緊急の判断も第一親族が必要になる。慕美、お前のために署名できるのは……俺しかいないだろう?」慕美は思わず手を伸ばし、戸惑いながらカードを取り返そうとした。けれど、その小さなカードは澪安の指の間でびくともしない。彼は、まっすぐに見つめていた。すべてをさらけ出したような眼差しだった。猛々しいほどの愛がその黒い瞳に宿り、その視線に射抜かれるようにして、慕美の心は少しずつ崩れていった。そして、小さな声で告げる。「……澪安。私……最後まで一緒にいられないかもしれない」澪安の声は深く、静かに心へ落ちてくる。「じゃあ、一日一日でいい。今日生きているなら――今日、慕美は俺の妻だ」そっと彼女の指を包み込み、低く囁く。「生きているその日を……俺の妻として生きてくれ」慕美は震える唇をかみしめ、そっと澪安の腰に腕を回した。この瞬間、彼女が人生で受けてきた冷たさも、孤独も、痛みも――すべてが優しく補われていくのを感じた。愛だけが、人を遠くへ連れて行く。……午前十時。栄光グループの広報部が、一枚の公式写真をアップした。澪安と慕美が並んで座り、澪安の膝の上には小さな思慕。添えられた文言は――【家族そろって健やかに、共に歩む日々を願って】その写真一枚で、立都市は騒然となった。――周防家の長男、結
もし運命というものが愛に宿るのだとしたら、それはきっと、今。まさに、この瞬間なのだろう。慕美はそっと手を上げた。澪安の頬に触れようとするが、指先がひどく震えて、思うように動かない。やっと触れたその掌には、熱い涙の雫が吸い付くように張りついた。まるで、今にも崩れ落ちそうな彼女の人生そのもののように。しかし――今回は違った。大きな手が、彼女の掌を包み込み、しっかりと自分の頬へ添えた。これから先、彼女はもう一人ではない。彼女がしたいと思うことは、自分が共にしてくれる。彼女ができないことは、自分が代わりに成し遂げる。決して、もう独りにさせたりしない。「……澪安、泣いてるの?」かすれた声で問うと、澪安は短く答えた。「ああ。泣いてる」そう言いながら、彼は深く、深く彼女の下腹部へ顔を埋めた。しばらくして、指先がそっと毛衣をめくり、細い腹部が露わになった。そこにうっすら残る傷跡を見た瞬間、澪安の胸には深い感情が押し寄せる。愛だけではない。家族という情でもない。それ以上の、もっと根源的で、本能に近い何か。彼女を骨の髄まで抱き込みたい。これからの人生、彼女の痛みを自分が受けたい。彼女の分まで生きたい――そんな衝動に近い感情だ。愛は、ときに心を通わせる。――慕美には、澪安の心が分かってる。でも、澪安。あなたはどうしてそんなに不器用で、そんなに真っ直ぐなの?人生が甘さだけでできていたら、それは本当に人生だろうか。苦しみも痛みもなければ、喜びの尊さも分からない。慕美は小さく笑った。優しく、彼の黒い髪を撫でながら。この瞬間、二人は長年連れ添った恋人のようでもあり、寄り添い生きる夫婦のようでもあった。過ぎた日々――本当に、すべてが過ぎ去ったように思えた。この瞬間、ようやく彼女は戻ってきたのだ。幼い日の不幸からも、過去の影からも。遠い異国からも戻り、澪安のもとに、ようやく本当の意味で。胸元で、澪安の少し掠れた声が問いかける。「痛くないか?」慕美は小さく首を振り、そしてまたこくりと頷いた。「少し、痛い」その手がそっと握られた。見上げると、澪安が目を合わせ、そのまま彼女を抱き上げた。一歩一歩、丁寧で慎重で、まるで古代の結婚式で花嫁を
慕美は、静かにその背中を見つめていた。澪安は彼女に気づかないまま、しばらく動かずに立ち尽くしていた。五年の空白のあいだに、彼は料理を覚えた。手際よく食材を切り分け、思慕の好物だけでなく、慕美のために滋養のある鶏の薬膳スープまで用意する。山芋も入れた、体に優しい料理だ。――血液浄化治療は、どれほど辛いのだろう。――どれほど痛むのだろう。そんな思いが、彼の胸に静かに沈んでいる。……半時間ほどして、澪安は食事を整え、二人を呼びに来た。思慕はすでに自分で服を着て、ちょこんと立っている。慕美も立ち上がろうとしたが、腰にそっと手が添えられた。顔を上げると、澪安の瞳には、彼女には読みきれないほど多くの感情が宿っている。澪安は慕美を抱き上げ、丁寧にダイニングの椅子へ座らせる。さらに茶碗にご飯をよそって差し出すと、慕美は戸惑いながら口を開いた。「そんなに重症じゃないから……自分でできるよ」その一言に、澪安は目だけで制した。慕美はもう何も言えなかった。白いご飯を静かに口へ運んでいると、温かな鶏のスープが手元に置かれた。澪安の声は優しいのに、不思議と拒めない強さがあった。「飲め」油っぽいかと思ったが、驚くほどあっさりしていて、山芋の甘みが広がる。慕美はゆっくりと飲み干した。その後も、澪安が箸でつまんだおかずが次々と彼女の茶碗に入る。慕美はおとなしくそれを食べる――今の自分は、思慕と同じ立場だとしみじみ思いながら。だが、澪安はむしろ不機嫌そうだ。彼の目には「素直なのは罪悪感のせいだ」と映っていたから。思慕は父と母を見比べ、こう思ってる。――今日のママはお利口さんだとでも言いたげに目を輝かせていた。二人が仲直りしたと信じて、食後は素直に椅子に座って祖父母を待ち、ランドセルまで整えている。なんて賢くて愛らしい子だろう。食事を終え、慕美は食器を洗おうと立ち上がった。「ああ、あとで俺がやる」澪安の低い声と、上目遣いの視線。慕美はすぐに手を離し、逆らうこともできなかった。思慕が連れて行かれたら――自分は彼に向き合わされる。それを本能で悟っていた。案の定、夜遅くに京介と舞が到着した。病気のことを朧げに聞いていた二人は、やっと状況を理解しはじめる。澪
しばらくして、澪安の手がぎゅっと握りしめられた。ちょうどそのとき、玄関の方から足音が聞こえた。慕美の足音だ。澪安は隠そうともしなかった。彼はそのままバッグを床へ放り投げた。薬の瓶がコロコロと転がり、遠くまで散らばっていく。慕美は呆然としたが、すぐに駆け出して一つずつ拾い集めた。最後の一本に手を伸ばした瞬間、その手より先に、誰かの大きな掌が瓶をつかんだ。――澪安だ。時が固まったように、空気が張りつめる。彼は薬瓶をゆっくりと引き寄せ、黒い瞳で感情の読めないまま彼女を見つめ、静かに問う。「慕美……説明してくれるか?」慕美の唇が震えた。説明などできない。急性腎不全だなんて、言えるはずがない。彼女が沈黙したままでも、澪安は無理に問い詰めなかった。薬を丁寧にバッグへ戻すと、そのまま慕美の冷たい頬を両手で挟み――激しく、乱暴なほどのキスを落とした。まるで、壊してしまいたいほどに。慕美の涙がぽろりとこぼれ、抵抗もせず、ただ震える声で呼んだ。「澪安」あまりにも突然で、胸の奥に深く刺さった。澪安の目から、するりと涙が落ちた。彼は顔を慕美の首筋へ埋め、強く、しかし壊れ物を抱くようにぎゅっと抱きしめる。まるで思慕を抱くときのように。慕美が何かを言おうとすると、彼は低く震える声で制した。「言うな。今、俺は怒ってる」それでも、慕美はか細い声で絞り出す。「怖かったの」「俺が未亡人の夫になるのがか?慕美……もしお前がいなくなっても、俺がもう一度妻を迎えると思ったのか?俺が一人の女だけを、一生愛し抜く人間じゃないと思ったのか?それとも……お前は自分が、俺の心にとって、どうでもいい存在だと?」言葉が返せなかった。胸が痛いほどに。そのとき、寝室の方から思慕の声がした。「パパ……ママ……?」小さな思慕は、二人が抱き合っているのを見て――仲直りしたのかなとでも言うように目を丸くしている。澪安はちらりと息子を見て、胸の奥がひどく痛んだ。愛する者たちに、どれだけ不器用で、どれだけ不足してきたのか――そんな思いが押し寄せる。「おいで、思慕」言われるままに、思慕はちょこんと歩いてきた。澪安はスマホを取り出し、両親――京介と舞へ電話をかけた。繋がると、できるだけ平
慕美の胸がどくんと鳴った。腕の中の思慕が顔を上げ、今にも泣き出しそうな声で言う。「ママ、ごはん作ってくれるって言ったのに……」慕美はそっと身をかがめ、思慕の額に自分の額を寄せた。その様子を無言で見ていた澪安の前で車を降りると、彼は無造作にドアを閉め、思慕を抱き上げてエントランスへ先に進んでいく。明るい照明が、慕美の青ざめた頬を照らした。澪安は、彼女が寒いのだろうと思った――あるいは気まずさで顔色が悪いのだろうと。まさか、彼女が重い病を抱えていることなど思いもしなかった。今日すでに血液浄化治療を終えたばかりだということも。エレベーターの中、二人は黙ったまま乗っていた。思慕だけがじっと、まっすぐに慕美を見つめている。程なくして、チン――と音が鳴り、階に到着した。澪安は顎をわずかに上げ、冷えた声で言った。「着いたぞ」慕美は小さく身を震わせた。「どうした、メルボルンの旦那様に怒られるのが怖いのか?怖いなら、もう思慕のことはお前が気にする必要はない。産んでないと思えばいい。どうせ子どもなんてどうでもいいんだろう?」「ち、違う……そうじゃないの」慕美の否定を背に、澪安はさっさとエレベーターを降りた。ピッという音とともに玄関のロックが外れ、澪安は思慕を抱いたまま室内へ。そのまま子ども部屋に向かったが、途中でふと振り返り、慕美に言う。「すぐ食材が届く。先にシャワー浴びて着替えろ。風邪でも引かれちゃ、メルボルンの旦那様に説明がつかないからな」その言葉の端々に滲む嫉妬は、痛いほど分かりやすかった。慕美は体調を軽んじる気はなかった。素直にうなずくと、寝室へ向かい、クローゼットから清潔な部屋着を選んだ。以前買い揃えた衣服はすべて残されていたため、選ぶのに苦労はない。澪安のことが気になり、長居せずさっとシャワーを浴びた。服を着終えると、ようやく少し落ち着く。寝室横の小さなリビングへ出ると、澪安が窓を開けて煙草を吸っていた。彼女に気づき、すぐに火を消す。「……思慕は?」かすれた声で慕美が問う。「布団の中でおもちゃで遊んでる。大好きなママがごはん作ってくれるのを待ってな。慕美……お前が俺をどう思おうが構わない。傷つけたのは事実だし、仕返しだと言われてもまだ理解できる。だが、思慕
慕美が車に乗り込むと、車内の温もりで現実に引き戻されたように大きく息をのみ、突然、窓を叩きながらしわがれた声を上げた。「思慕の居場所、分かった!分かったよ!」……二〇分後。薄暗いアパートの階段踊り場。そこに、小さく丸まった影がある。思慕だ。ここは、慕美と半年間一緒に暮らしていたマンション。――思慕にとって家だった場所。思慕はどうしてもママに会いたくなって、あの家へ向かった。けれど、そこはもうママのいない場所になっていた。かすかな記憶だけを頼りに、遠い道のりを歩いてきたのだ。けれど、ママはいなかった。戻ろうにも、思慕はお金を持っていない。お腹が空きすぎて、頭がくらくらして、もう動けなかった。だからここで、じっとママを待っていた。――ここに来れば、ママが迎えにきてくれる。――そしたら、家に帰れる。そんな望みだけを抱きしめていた。薄い灯が、思慕の小さな背中を照らしている。あまりにも孤独で、小さすぎる影だ。「……思慕……」慕美の掠れた声が震える。何度も、息のつまった呼びかけを繰り返す。ようやく、思慕がゆっくり顔を上げた。うつろな瞳で、掠れた声を漏らす。「……ママ……ママ……」そして、堰を切ったように涙をこぼした。慕美は駆け寄り、思慕をぎゅっと抱きしめる。思慕も、必死でママにしがみつき、か細いうめき声を上げた。「ママ、ごめんなさい……思慕、悪くないようにしたかったのに……帰りたかったのに……歩けなくて……お金もなくて……」幼い子が、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。そのたびに、慕美の胸は裂けるほど痛んだ。叱れるわけがない。叱るどころか、抱きしめてあげるしかなかった。慕美は痛みに耐えながら、思慕を抱き上げるように支え、無理やり笑顔を作った。「ママがね、思慕の好きな料理を作るよ」「ほんと?」「ほんとだよ。思慕のために、美味しいのを作る」そばで見ていた允久は、事情を知っているからこそ、目に光るものをこらえきれなかった。静かに背を向け、少し距離をとる。最後にそっと慕美の肩に手を置いた。慕美は小さく微笑んで言った。「……ありがとう」その光景を見た澪安は、ふたりの関係をさらに恋愛として受け取ってしまった。