Masuk寒真と夕梨は、ほんの数秒――ただそれだけ視線を交わした。寒真が先に目を逸らす。夕梨はそこでようやく、自分が数秒も凝視していたことに気づき、胸の奥がざわついた。博仁が小声で尋ねる。「朝倉監督……お知り合いですか?」相手の前で私事を語るわけにはいかない。何より今日はお見合いだ。夕梨は淡く微笑む。「監督は、うちのホテルの大切なお客様なんです」博仁は納得したように頷いた。彼は夕梨をたいへん気に入り、家柄、仕事、容姿、立ち振る舞い……どれも申し分ないと確信していた。結婚したら優秀な夫婦として評価されるだろう――そう確信していた。夕梨も「悪くない」と思った。試してみる価値はあると。ただ、寒真が視界に入るだけで、胸の奥にざらつく何かが生まれるのを自覚していた。なるべく無視していたが、心は少し乱れる。娘の変化に、一番敏感なのは母親だ。瑠璃も視線を追い、寒真を見つけた。――女癖が悪いと言われる監督。娘のことは、母親として当然把握している。使用人の紀子が「お嬢様が男物のコートを着て帰ってきた」と慌てて報告してきたばかり。あれはきっと、この男だ。そしてタイミングよく、二家には多少の縁もあった。瑠璃が寒真を一瞥すると――彼の目に宿る所有欲が一瞬で読めた。彼女は咳払いし、御巫家の母子に穏やかに言う。「夕梨はこの後、ホテルに戻らないといけませんので……今日はここまでにしましょう。あとは若い人たちで、ゆっくりと」御巫夫人は快く頷いた。「お仕事が第一よ」夕梨は席を立ち、丁寧に一同へ挨拶してから店を出た。博仁も礼儀正しく後に続き、ビルの駐車場まで見送ろうと並んで歩く。だが、エレベーターの前で夕梨はふっと立ち止まり、微笑んで言った。「ここまでで大丈夫です。お母様をお待たせしますし……」博仁は無理強いせず、スマホを軽く掲げ「連絡します」と笑いかけた。夕梨も微笑み返す。エレベーターに乗り込み、扉が閉まった途端だった。夕梨は、壁に背を預けて息を吐き出す。全身の力が抜け、膝が震えそうだった。――どうして、人生の節目には必ず彼が現れるのだろう。――もうさよならを言ったはずなのに。気持ちを整え、車を取りに行こうとしたそのとき――エレベーターの扉が開き、彼女は固まっ
夕梨はふと視線を落とし、そのとき初めて、自分がまだ寒真のコートを着ていることに気づいた。追い返そうかと思ったが、寒真の車はすでに別荘の門を出ていた。――まあいい。クリーニングして返せば。けれど夕梨は、その大事なことを忘れていた。二人はもう二度と会わない、と自分たちで決めたばかりだったのだ。……家に戻ると、夕梨はゆっくりとシャワーを浴び、ベッドに横たわってからようやく、戻ってきた写真をゆっくり手に取った。小さな額の中の写真は、時の流れで少し滲んでいたけれど、そこに写る笑顔の温度だけは変わらなかった。夕梨は静かに見つめ続け、そのままネックレスを指に絡めながら眠りに落ちた。夢に現れたのは寒笙。ありふれた夢のかたちで、彼は穏やかに告げる。「夕梨、自分の道を行きなさい。もう、待たなくていい。俺は幻――もう戻れない」目を覚ましたとき、まつ毛の下には乾きかけた涙の跡。夕梨は枕に額を寄せ、写真をそっと撫でた。泣きながら、小さく笑う。「うん、分かった。寒笙。ちゃんと、生きていくね」……翌日。夕梨はコートを返すためにホテルへ向かった。フロントで確認すると、寒真はすでにチェックアウト済み。少し驚き、すぐに思い当たる。――昨夜、彼はただ夕梨を追ってここに来ただけ。話が終わった以上、ここに留まる理由などない。電話をかけるが、電源が入っていない。きっともう飛行機の上だろう。彼の言葉が、ふと蘇る。「夕梨、俺はずっと飛び回ってる。約束なんてできない」ホテルの廊下で、夕梨は微笑んだ。そのコートは、彼女のオフィスのハンガーに――その後、長い間掛けられたままだった。……その日を境に、寒真はまた夕梨の世界から消えた。日常は、何事もなかったように続く。一週間後、ホテルのヴィラ棟は解体され、わずか三日で小さな美しいミニパークに生まれ変わった。白いキューピッドの彫刻は著名アーティストの作品で、夜には淡い光をまとい、央筑ホテルの新たな名所になった。夕梨の働きぶりは本社でも話題になり、米国本社への短期研修枠が彼女に提示された。リナシア国全体の事業を任せたいという打診だ。大きな飛躍のチャンス。だが夕梨は落ち着いていた。「少し、考えさせてください」青河は柔らかく笑って言
「寒真」夕梨は震える声で、彼の名を呼んだ。だがその声はすぐに、彼の圧倒的な口づけに呑み込まれ、押し潰された。寒真のキスは、あまりにも上手かった。大きな身体で小柄な彼女を包み込み、全身は昂ぶりで震えているのに、それでも、触れるのは唇だけ。敏感な場所には決して触れず、ただ深く、長く、彼女だけを味わうように。ようやく彼が離れたときも、腕は彼女を離さなかった。ずっと欲しかった。指先が彼女の柔らかな頬をそっと掠め、すべてを物語っていた。三年前、二人は恋人同然だった。だからこそ夕梨は分かる。彼がこの先、どこへ進もうとしているのか。夕梨はそっと顔を背けた。「帰るわ。家に帰らないと」寒真の声は、掠れきっていた。「まず食べなさい。家まで送る」彼が手を伸ばしてスマホを取ったとき、画面には「13:00」の数字。珍しく、昼まで眠ってしまっていた。彼がこんなふうに眠り込むことなど滅多にない。腕の中の夕梨は、まだ少しふらつくのか、ほとんど抵抗しない。寒真は片腕で彼女の腰を支え、もう片方の手でルームサービスを呼んだ。いつもより豪華なメニューを二人分。電話を切ると、寒真は彼女の髪に頬を寄せ、ゆっくりと、愛おしそうにすり寄った。夕梨は目を閉じて囁く。「寒真。あなた、結婚する気がないんでしょう?」寒真も目を閉じ、低く答えた。「忘れてないよ、副総支配人」だから、さっきのはキスだけ。彼は一線を越えなかった。ふと何か思い出したように、彼が彼女の首元を探る。「あの細いネックレスは?どこにいった?」夕梨はぼんやりと細い指を首に触れ、呟いた。「もう一度やり直したいから。過去は、忘れたいの」寒真の眉間に深い皺が寄る。「俺たち、今同じベッドに寝てるんだが」夕梨は淡く微笑んだ。「あなたが強引に連れてきたのよ。私は自分の家にいたはずだわ。寒真。こんなの、意味がないわ。私の欲しいものは、あなたにはあげられない。あなたの持っているものは、私にはもう必要ない。私たちは並行線。食事したら、ちゃんと終わりにしましょう。恨んでないの。気にしないで。私はしがみつく女じゃないわ。責任なんて求めない」寒真が何か言いかけた瞬間、ドアを叩く音――ルームサービスだ。彼は布団をめくって立ち上がり、
寒真は、その夜一睡もしていなかった。事件発生の瞬間から、ずっと夕梨の後ろをついていた。彼女が警察署へ向かうときも同じだった。だが、一度も声をかけなかった。――これは彼女の仕事だから。大事件に加えて極寒の夜。きっと人知れず泣くだろうと、彼は勝手に思っていた。しかし夕梨は泣かず、ただ淡々と現場を仕切り、冷静に提案までしてみせた。三年の時の蓄えというのか、彼女は随分と変わった。寒真の瞳には、労わりと、そして深い敬意が混ざる。彼はゆっくり中へ歩み寄り、呆然としている夕梨の頭を軽く撫で、それから青河に向けて言った。「蒼川さん、彼女は……俺の彼女なんで。先に連れていく」――彼女?誰が?夕梨が言い返す暇もなく、寒真の腕が彼女の身体を抱き寄せた。抵抗したいはずなのに、彼の腕は驚くほど温かかった。そのとき初めて、夕梨は自分の身体がどれほど冷えきっていたかに気づく。オフィスの暖房ですら追いつかないほど、芯が凍えていたのだ。小さく震えた夕梨に、寒真はすぐ気づいた。そして自分の防寒ジャケットを脱ぎ、迷いなく彼女の肩にかけ、ボタンを一つずつ丁寧に留めていく。布地には彼の体温が残っており、夕梨の呼吸は少し楽になった。それでも、もう彼と親しくなるわけにはいかない。……二人はホテルの外へ出る。長い廊下には人影がなく、朝の空気は薄く冷たい。夕梨がコートを返そうとすると、寒真はその手をそっと押さえた。「返さなくていい。死にたいのか?そんな体で、よく働き続けられるな」叱るようでいて、どこまでも優しい声音だった。彼は、強い女性が好きで、賢い女性を尊敬する。夕梨は言い返そうとしたが、一晩何も食べず、体力も限界。ふらりと身体が傾き、そのまま崩れ落ちそうになった瞬間、寒真がすばやく抱きとめた。すぐに、飴を一粒、そっと彼女の口元へ運ぶ。夕梨がゆっくり噛む間、彼の指先は名残惜しげに彼女の唇をなぞり、顔をすぐ横に寄せて触れ合わせた。冷たくて、細くて――それでも胸の奥に火を灯すような生命力があった。――やっぱり、好きで仕方がない。夕梨の呼吸が落ち着いた頃、離れようとしたが、寒真はもう彼女を抱き上げていた。迷いなく、自室のスイートへ向かう。その途中、事件のあったヴィラの前を通ると
夕梨の当直は、朝七時までだった。夜九時半、制服のスーツに身を包み、ホテル内のヴィラエリアをひと巡りした。特に異常はない。オフィスへ戻ったときには、もう十一時に近かった。デスクの上には、湯気の立つ餃子の折詰が置かれていた。秘書が気を利かせて用意してくれたらしい。小さなカードには【岸本副総支配人、私は先に上がりますね】とある。夕梨はふっと笑みを浮かべ、コートを脱いで箸をのばそうとした――その瞬間、イヤホンから雑音が走り、続いてフロントの慌てた声が飛び込んだ。「副総支配人!ヴィラ3206号室で事件です!警察が来ています!」夕梨は、一瞬だけ固まった。食事どころではない。真冬の夜、薄手のセットアップのままハイヒールで駆けだし、ヴィラエリアへ向かって歩を速めた。途中、パトカーと数台の黒いワゴンがすれ違うように停車した。あっという間に規制線が張られ、現場へ通じる通路には近づけない。小走りで駆け寄り、動揺しきったスタッフに声をかける。「どういう状況?」応じたのは、警察官だった。「あなたが責任者ですか?」「はい」「通報がありました。情愛関係のもつれによる殺人事件です。死亡したのは男性です。加害者はその男性の正妻……愛人と思われる女性も重傷で、救急を呼んでいます。捜査にあたり、ホテル側には全面協力をお願いします」……ホテルで情痴殺人。この手の事件は風評が半年は続く。売上にも直撃する。夕梨は腕時計を見た。――ほぼ日付が変わる頃だ。「分かりました。私はここの責任者です。全力で協力します」警察官はうなずき、手袋と専用シューズを渡してきた。「現場では物に触れないように。専用のシューズカバーと手袋を着けて、こちらへ入ってください。終わったら署で事情を聞きます。それから、亡くなった男性は著名人ですので、情報の取り扱いには十分注意してください。あと、被害者のチェックインを担当したフロント係の方も、後ほど署まで同行をお願いします」「承知しました」指示に従って中へ入る。育ちのいい彼女は、ホテルで働くようになって多少の苦労はしたが、それでも血の匂いが充満した現場など、生涯で一度も見たことがない。足を踏み入れた瞬間、吐き気が込み上げる。それでもフロント係を伴い、遺体の確認に立ち会う必要があ
夕梨はドアハンドルへ手を伸ばした。だが次の瞬間、ロックの音がして、車内が閉ざされた。寒真がゆっくりと横を向き、闇の中でぎらりと光る眼差しを向けてくる。その視線は、まるで獲物を逃がさない獣のようで、夕梨の指先がわずかに震えた。彼の問いに答えられない。答えてしまえば、嘘になるから。彼を愛していなかった――今も、以前も。大事にしていた写真も、寒真のものではなく、寒笙のもの。彼はただ、ひとときの快楽が欲しかっただけ。夕梨は、心の空洞を埋めるためだけに彼を受け入れた。三年。二度と会わないと思っていたのに、こうしてまた絡まるように再会し、好きかどうかと問い詰められるとは。夕梨は震える唇をきゅっと結び、負けまいとするような目で彼を見返した。「もう答えたはずですよ。写真は誤解です。中に写真が入っていたことを忘れていただけです。もしそれで誤解したなら、今ここで説明します。だからネックレスを返してください。今後はお互い別々に歩きましょう。もう関わらないです」寒真は微動だにせず、ただ強く彼女を見つめる。夕梨は顔をそむけ、淡い声で続けた。「私をまだ好きかって聞きましたね。答えを言います。数日前、母に縁談を勧められてね。条件の良い人みたいだから、一度会ってみるつもりです。確かに、私たちは一時期付き合っていました。あなたに夢中だった時期もありました。でもそれは過去のことです。再会しても、私はあなたに縋ったりしていないです。監督は、女の執着が嫌いなんでしょう?あの時、電話に出もしなかったし、連絡も途絶えたし、最後には……お金で片をつけたでしょう。あなたは悪い人じゃなかったです。ただ、少しばかり遊び人だっただけですよ。だから、もう忘れたのです。信じなくてもいいですけど。私は新しく始めたいです。他の人を見てみたいです。合うかもしれないし、合わないかもしれないです。でも……試してみたいです。あなたが『結婚なんてしない』って言ってたの、覚えていますわ」沈黙。夕梨は、彼がその言葉に弱いことを知っていた。案の定、寒真の表情がわずかに揺れる。彼は生涯結婚するつもりのない男だ。束縛が嫌い。子どもも嫌い。家庭というものに息苦しさしか感じない。夕梨の言葉は、彼の中で結婚の要求に聞こえたのだ。彼はシート