LOGIN桐生が医師を見送る。寝室には章真、結安と蝶野、そして眠っているチョコだけが残った。少し間を置いてから、蝶野が口を開く。「お母様とお父様がもうすぐお見えになります。それから芽衣様と陽白様もご一緒です。お嬢様に会いにいらっしゃるそうです」DNA鑑定の結果など待つまでもなかった。蝶野には、この子が章真の娘だと確信できた。顔立ちは結安によく似ている。けれど目元、とりわけ目尻の雰囲気は驚くほど章真そのものだった。まるで小さくなった章真を見ているようだった。蝶野が報告を終えると、章真は結安へ視線を向け、不意に言った。「お前はどう思う?」蝶野は思わず目を瞬かせる。その口調は昔とは違っていた。どこか夫婦が何気ない相談を交わしているような響きがある。当の結安も、その言葉の意味が分からず戸惑っていた。章真は遠回しな言い方をやめ、静かに告げる。「チョコには父親が必要だ。この子を親のいないような環境で育てるつもりはない。結安――俺と結婚しよう」……蝶野は思わず息を呑んだ。驚きと喜びが胸に込み上げる。始まりは決して幸せな縁ではなかった。それでも今は子どもが生まれた。だからこそ結安には報われてほしい。お嬢様にも、ちゃんとした家庭を持たせてあげたい。章真ほどの財力があれば、母娘が苦労することはない。もう居場所を転々とする必要もなくなる。だが――結安には頷けなかった。誰にも彼女の痛みは分からない。18歳で両親を失い、望まぬまま章真の世界へ引き込まれた。そして、想いを寄せてはいけない相手を好きになってしまった。何年経とうと変えられない事実がある。両親の死は間接的とはいえ章真と無関係ではなかった。娘を授かった今でも、何事もなかったように彼と夫婦として暮らし、幸せな家庭を演じることなどできなかった。結安の表情には迷いと苦しみが滲む。章真は顎をわずかに上げ、蝶野へ目配せした。先に席を外せという合図だった。蝶野は面白くない。自分だってこの家族の一員なのに、と心の中で不満を漏らす。だが章真に一瞥されるだけで逆らえなくなり、渋々部屋を出ていく。扉を静かに閉めると、寝室には二人だけが残った。章真は結安を見つめ、もう一度静かに告げる。「結安……俺と結
その口づけは、どこまでも強引だった。決して拒むことを許さない意志が込められている。しかも場所はウォークインクローゼット。すぐ向こうの主寝室では、チョコが甘い寝息を立てて眠っている。二人の血を受け継ぐ娘がすぐそばにいるという事実が、この張り詰めた空気をいっそう危ういものにしていた。絡み合う指先。ぴたりと重なる身体。互いの体温が静かに伝わり合う。結安の艶やかな黒髪はソファへさらりと広がり、小さく整った顔立ちは淡く艶めいている。章真の指先は彼女の柔らかな頬を包み込み、その力強さが、かえって彼女のか細さを際立たせていた。乱れた衣服。一歩も引く気配のない男。結安の目尻から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちる。あまりにも惨めで、あまりにも恥ずかしかった。隣の部屋ではチョコが眠っている。階下には、自分が連れてきた家政婦も、蝶野もいる。皆がこの屋敷にいるというのに、自分は章真に抱き寄せられ、逃れることもできない。どれほど拒もうとも、彼は決して手を緩めなかった。そこにあったのは男女の情愛だけではない。抑えきれない怒りもまた、確かに混じっていた。――彼女はずっと章真を欺いていた。何人もの男と関係があったと口にした。だが、チョコという存在を知った今、それが真実ではないことくらい章真には分かっている。それでも彼女は自分のもとを離れようとしていた。どれほど身体を重ねても、その心は自分には向いていない。頭の中にあるのは、チョコを連れて逃げ出すことだけ。そして逃げた先で、誰と生きるつもりだったのか。――藤堂駿か。その考えが章真の胸の奥にくすぶる苛立ちへ火をつける。狭い空間には、誰にも知られてはならない気配だけが静かに満ちていった。結安には、そこに安らぎなど一つもなかった。あるのは章真から与えられる罰だけ。永く続いたわけではない。10分ほどが過ぎるころには、室内は再び静けさを取り戻していた。章真は彼女の耳元へ額を寄せ、荒い息をゆっくりと整えている。しばらくしてから彼は結安の頬へ手を添え、もう一度唇を重ねた。まだ足りない――そんな執着が滲んでいる。こんな章真を見るのは初めてだった。結安は顔を背けようとする。しかし身体には力が入らず、思うように動けなかっ
二階へ上がる。東側の寝室の前を通りかかったとき、章真が声を潜めて言った。「あとでこの部屋を改装させよう。子ども部屋にして、チョコが使えるようにする。もう4、5歳なんだから、いつまでもパパやママと一緒に寝るわけにはいかないだろう……結安、お前が昔ここに住んでいたこと、覚えてるか?」――忘れるはずがなかった。けれど、そこで暮らしたのはほんの数日だけだった。駿の一件を境に、彼女は主寝室へ移ることになった。あの頃の出来事が脳裏をよぎり、結安の目元がわずかに赤く染まる。それでも何も言わなかった。今となってはすべてが遠い昔のことだ。娘はもう4歳になっている。いまさら何を口にしたところで、何も変わりはしない。章真は一瞬、その部屋へ入ろうとした。だが結局は数秒立ち尽くしただけで、チョコを抱いたまま主寝室へ向かった。家へ戻ってきたばかりの幼い娘にとって、この家はまだ見知らぬ場所だ。今は大人がそばにいてやらなければならない。主寝室の扉を静かに開け、リビングスペースを忍び足で抜け、その奥の寝室へ入る。室内は昔と変わらない。黒とグレーを基調とした無機質な空間。冷たい光沢を帯びたインテリアが並び、独り身の男らしい静かな気配を漂わせていた。片腕で娘を抱き、もう片方の手で薄い掛け布団をめくる。小さな革靴をそっと脱がせた。柔らかな子ども用の靴。普段から大切に世話をされていることがひと目で分かる。真っ白な靴下に包まれた小さな足は、ふっくらとして丸みを帯びていた。章真は昔から「可愛いもの」にはまるで興味がなかった。それでも、そのぷくぷくとした小さな足を見ると、思わず指先でつまんでしまう。ぷにぷにと弾力があって心地よい。何度か名残惜しそうにつまんでからようやく手を離した。娘をベッドへ寝かせ、掛け布団を丁寧に掛け直す。前髪をそっと整え、小さな頬を優しく撫でる。4歳という、大きな頭に小さな体のアンバランスさが何より愛らしい年頃。章真は静かにその寝顔を見つめ続け、やがて頬へそっと口づけを落とした。柔らかく、すべすべとした感触。――自分の血を受け継ぐ娘。子ども好きというわけではない。だが、自分の血が流れる存在だけは特別だ。そんな執着は多くの男が心のどこかに抱えているもの
車が静かに停まる。章真は結安へ視線を向けた。「降りろ」結安の鼓動が激しく鳴る。四年――結局、自分はまたここへ戻ってきた。たくさんのものを手に入れ、そして失った場所へ。たった一年しか暮らしていなかったはずなのに、この邸宅を前にすると、胸の奥にどうしようもない懐かしさと戸惑いが込み上げてくる。故郷へ帰るのが怖い――そんな気持ちに似ていた。彼女は車を降りようとせず、ただ屋敷の正門を見つめ続ける。そんな横顔を見つめながら、章真は低く口を開いた。「お前が出て行って最初の一年、この屋敷から笑顔が消えた。正月も……誰一人、心から笑えなかった」結安は何も答えない。彼女の視線はある人物へ向けられていた。蝶野だった。4年ぶりに再会した彼女は、すっかり年を重ねていた。こめかみには白いものが混じり、以前よりずっと小さく見える。章真は静かに続ける。「使用人は一人も辞めさせなかった。もし、お前が帰ってきた時、昔と同じ顔ぶれが待っていたら安心すると思ったからだ。……最初は、そう思っていた。でも、お前が帰らない時間が長くなるにつれて、もう戻って来ないんだと諦めた。まさか、子どもまで産んで、その子を連れて暮らしてたとは思わなかった」結安の胸が締めつけられる。自分と章真の関係は許されるものではない。罪であり、禁忌だった。彼は何一つ迷わず、その想いを貫いてきた。けれど、自分には無理だった。今でも夢を見る。両親が命を落とした、あの日の夢を。そんな自分が、何事もなかったように彼の隣で生き、子どもを育て、夫婦として一生を過ごせるはずがない。自分は章真ではない。彼ほど強くはなれない。4年越しの再会。結安はもう少女ではなく、一児の母になっていた。それでも蝶野の目には、あの日の幼い彼女のままだった。声を震わせながら駆け寄る。「結安ちゃん……!結安ちゃん……本当に、あなたなのね!」結安の瞳にも涙が滲む。「蝶野さん……」蝶野は何度も何度も頷いた。「帰ってきてくれて、本当によかった。ニュースで見た時は信じられなかったのよ。大人になって……少し背も伸びて……それに、お母さんにもなったのね」その視線は自然とチョコへ向かう。章真に抱かれた小さな娘。蝶
「住所を」あんな安アパートがお前たちの家じゃないだろう。チョコの荷物を取りに行く。結安には、もう拒む余地などなかった。彼からスマートフォンを受け取る。まだ彼の体温が残っていて、熱いほど温かい。震える指先で住所を入力していく。入力を終えて手を離した瞬間、全身から力が抜けそうになった。これから先、どうなるのかは分からない。ただ一つ分かっているのは――もう二度と娘を取り戻せないかもしれないということ。思わず両手で顔を覆う。それでも泣かなかった。もう18歳の頃のように、泣けば誰かが守ってくれる少女ではない。今の彼女は一人の母親なのだから。章真はスマートフォンを受け取りながら、結安を静かに見つめた。その時、チョコが小さな両手を伸ばす。「ママ、だっこ」意外なことに、章真は何も言わずチョコを結安へ渡した。結安は大切な宝物を抱き締めるように、そっと娘を胸へ抱き寄せる。運命は再び二人を引き合わせた。ただ、今度は二人きりではない。腕の中には、小さな娘がいた。車はそのまま邸宅へ向かう。車内には運転手と、助手席の宇佐美。桐生よりも宇佐美のほうが、章真にとっては腹心なのだろう。同性だからこそ分かることもある。章真は終始チョコだけを見つめていた。その眼差しは驚くほど穏やかで、優しかった。彼は心の底から娘を愛おしく思っている。その時、スマートフォンが鳴る。着信相手は澄佳だった。息子がまた世間を騒がせていると聞き、いても立ってもいられなかったのだ。恋人騒動どころか、今度は突然娘まで現れた。写真では顔こそ隠されていたが、横顔だけでも一目で分かる。あれは間違いなく葉山家の血筋だった。章真は母が何を聞きたいのか理解していた。穏やかな声で答える。「……ああ。想乃は結安が産んだ子だ。今から二人を連れて帰る。心配しないで。結安に無理なことはしない」電話を切ると、彼は一瞬だけ結安へ視線を向けた。やがて車は郊外の一軒家へ到着する。立地こそ郊外だったが、土地価格は決して安くない。1億円ほどでようやく200平方メートル程度の家が買える地域だ。それでも庭は丁寧に手入れされ、温かな生活の気配が漂っていた。家政婦が玄関を開ける。目の前に停まった高
間違いない。この子は自分の血を分けた娘だ。DNA鑑定など必要なかった。その面差しも、目鼻立ちも。そして何より、この小さな身体を抱き締めた瞬間に胸いっぱいへ溢れ出した、言葉では説明できない血のつながり。それだけで、章真には十分だった。彼はチョコを強く抱き寄せる。胸の奥から込み上げてくるこの感情は、かつて結安を愛していると気づいたあの日によく似ていた。嬉しくて。愛おしくて。胸が震えるほど満たされる。……けれど、その想いを彼女は受け取ってはくれなかった。小さな身体が父親の腕に包まれる。駿に抱かれたときとは、まるで違う温もりだった。幼いチョコも、ぼんやりと何かを感じ取ったのだろう。小さな両手で章真の頬を包み込み、幼い声で尋ねた。「おじさん……チョコのパパ?」――チョコ。その愛称で呼ばれているのか。章真の胸は締めつけられた。柔らかな頬へ何度も口づけを落とし、額をそっと重ねる。そして、もう一度、力いっぱい娘を抱き締めた。結安はその様子を青ざめた顔で見つめることしかできない。何一つ口を挟めなかった。部屋の中には宇佐美と桐生。廊下にはボディーガードたちが控えている。しばらくして章真はチョコを抱き上げ、自分の腕へちょこんと座らせた。それから結安をまっすぐ見据え、拒絶を許さぬ口調で告げる。「これからこの子を立都市へ連れて帰る。DNA鑑定は受けてもらう。……もっとも、その必要はないと思っている。だが、耀石グループの株主へ説明するためにも、正式な手続きだけは踏まなければならない。この子が、俺の実の娘であることを証明する」結安は反射的に彼の腕を掴んだ。何も考える余裕などなかった。瞳には必死な懇願だけが浮かんでいる。しかし章真の瞳に揺らぎはない。彼はわずかに顎を上げ、桐生へ指示を出した。退院手続きを。これからチョコは栄光グループ系列の総合病院で治療を受ける。その前に結安の家へ寄り、荷物をまとめる。必要な物はいくらでも買い直せる。だが、小さな子どもが見知らぬ場所へ行くなら、お気に入りのぬいぐるみや、いつも使っている枕くらいは持って行かせてやりたい。環境が変わる不安を少しでも和らげるために。章真はそのことをよく知っていた。な
瑠璃は、いつの間にかこの生活に慣れていた。岸本の妻という立場にも、そして輝の存在にも。この一年間、彼は身を削るようにして支え続けてきた。それを拒むのは、まるで非情であるかのように思えた。けれど、その一歩を踏み出せば——二人はもう「情人」になってしまう。まだ幼い娘たちはともかく、もし琢真が知ったらどう思うだろう?彼女は父を裏切った、と感じはしないか。震える指先で、瑠璃は葉巻をそっと箱へ戻した。その夜、彼女は眠りが浅く、夢の中で岸本に会った。彼は穏やかな笑みを浮かべ、ベッドの脇に立ち、やさしい声で呼びかける。「瑠璃……琢真を、英国に見に行ったか?」夢の中
女の呼吸は乱れ、途切れ途切れだった。彼女だってひとりの女、欲を持たないわけではない。——けれど、駄目なのだ。どうしても心が許せない。それは岸本のことだけではない。茉莉のあの出来事も心に重くのしかかり、決して割り切れなかった。かつてのように情人でいることさえできない。いざという時になると、心の奥から強烈な拒絶が込み上げる。この男と関係を結ぶことなど、あり得なかった。燃え立った情は、やがて静かに冷えていった。輝は無理に迫ろうとはしなかった。先ほどの衝動は酒の勢いに任せたものに過ぎない。実際、この屋敷で本当に彼女に手を出すことなどできるはずもない。心のどこかで、岸本へ
美羽は二階のバルコニーに立つ琢真を見つけると、ふわふわの声で叫んだ。「お兄ちゃん、早く降りてきて!きれいな灯りがいっぱいだよ!」その声に釣られるように、輝が上を見上げる。老いも若きも、二人の男の視線が空中でぶつかり合った。琢真は真っ直ぐに彼を見つめ、一歩も退かない。しばし視線が絡み合い、やがて茉莉の声が響いた。「お兄ちゃん!パパが線香花火いっぱい買ってきたよ!」琢真の瞳がわずかに揺らぎ、やっと返事をした。「今行く」部屋に戻り、ロングダウンを羽織り、クローゼットから羊毛のマフラーを二本取り出す。階下に降りると、妹たちをひとりずつ捕まえ、丁寧に首元へ巻いてや
横断歩道の上に、小さな身体が血にまみれて倒れていた。少女は痙攣を繰り返している。茉莉は意識が遠のき、朦朧としながらも、父の言葉を思い出していた。——夜の遊園地へ連れて行ってくれるって……そして、ママに電話してくれるって。けれど今は、とても痛くて、寒い。パパ……茉莉を抱きしめて……お願いだから、知らないおばさんの手に渡さないで…………周囲には、いつしか人だかりができていた。車道の真ん中に横たわる小さな女の子を、皆が息を呑んで見つめている。「どこの家の子が、こんなところで……」「親はどこにいるんだ……」誰もが胸の奥でそう思った。——赤信号を渡るな