Masuk夜。陽白は壁にもたれかかっていた。指先には一本の煙草。黒のスラックスに白いシャツだけをまとい、行為のあとだというのにシャツはベルトに収められることなく無造作にほどけている。それでも引き締まった体のラインは隠しきれず、斜めに壁にもたれながら、仰いだままゆっくりと煙を吐き出していた。しばらくして、小さく息を漏らす。芽衣の拒絶はやはり胸に刺さっていた。……もっとも、想定内ではある。だが、あれから何年経っても彼女は変わらない。昔と同じように遠回しな物言いをせず、まっすぐすぎるほどに正直だ。育った環境のせいだろう。駆け引きなどしなくても、彼女はほとんどすべてを手に入れられる。男の好意も。女の媚びも。星耀エンターテインメントを掌握する彼女のもとには、望めばどんな美しい男女でも集まる。それでも、芽衣が自分を律するタイプであることを、陽白は信じていた。恋人はいたが、どれも真剣な交際だったはずだ。ベッドの上でも、どこか慎重で――自分のように八年も奔放に遊び続けた人間とは違う。あの八年は本当に彼女に対して後ろめたい。それでも――彼女が欲しい。だが芽衣は自分を望んでいない。ただ、軽く遊ぶ相手でいいと思っている。黒い瞳を細める。望んではいない。それでも――どうしても手に入れたい。どんな手段を使ってでも。彼はふと扉の方を振り返り、やがて背を向けて非常階段へと向かった。もう、穏やかなやり方では無理だ。――強引にいくしかない。……それから二か月後。金融危機。世界中の市場が冷え込み、立都市も例外ではなかった。未曾有の嵐はあらゆる業界を呑み込み、とりわけエンタメ業界は直撃を受ける。人々は生活に追われ、娯楽に目を向ける余裕を失っていた。ちょうど転換期にあった星耀エンターテインメントも、大きな打撃を受ける。中でも、先行投資として約四百億円を投じた映像テーマパーク計画は深刻だった。今後さらに約六百億円の追加投資が必要とされる中、株主の意見は真っ二つに割れる。悲観的な声が多く、「今のうちに損切りすべきだ」という圧力が強まっていた。だが――すでに投じた四百億円はすべて無駄になる。芽衣は簡単に切り捨てる気にはなれなかった。……まだ、打つ手はあるはずだ。四百億円というキャッシュフローが企
陽白はいつになく慎重だった。キャンドルを灯したディナー。一束のバラ。そしてダイヤモンドのネックレス。細部にまで気を配り、できる限りの心を尽くした演出だった。あえて金曜の夜を選び、仕事も早めに切り上げて、芽衣の部屋で準備を整えていた。そして、帰宅した芽衣の目に飛び込んできたのはその光景だった。部屋全体がまるでプロポーズの舞台のように整えられている。もし彼女が頷けば、このまま結婚してもおかしくはない。三年付き合った過去がある。幾度となく共に過ごした時間。若く、整った容姿に、安定した仕事。そして――身体の相性も申し分ない。次の世代のことまで考えれば、非の打ち所がない。けれど、芽衣は彼と長く続く未来を考えたことがなかった。ただ、一緒にいる。それだけでよかった。真剣なのは陽白だけだ。胸の奥に重たいものが落ちる。芽衣はバラを受け取り、そして高価な贈り物に視線を落とす。彼の意図ははっきりしていた。だからこそ、曖昧にはできなかった。彼を騙したくもないし、時間を無駄にさせたくもない。芽衣はそのまま、まっすぐに口を開く。「陽白……もし今の関係が無理だと思うなら、ここで終わりにしましょう。これ……ありがとう。手間をかけてくれて」あまりにもあっさりとした口調だった。迷いも、ためらいもない。それは最初から決めていたことだから。復讐ではない。ただ、価値観が違うだけ。芽衣が求めているのは軽やかで負担のない関係。けれど陽白は未来を求めている。もったいないとは思う。彼の料理は本当に美味しいし。身体の相性だって、申し分ない。それでも――それだけで、人生を共にすることはできない。いつか結婚するかもしれない。けれど、それは陽白ではない。一度、自分を手放した男とは。陽白は拒絶される可能性は考えていた。だが、ここまで迷いなく断ち切られるとは思っていなかった。逃げ場のないほど、はっきりと。その関係が終わる。彼は静かに問いかける。「……どうしてだ?」芽衣は短く答えた。「理由なんてないわ」陽白はしばらく彼女を見つめる。やがて、わずかに息を吐き、穏やかに言った。「……分かった。お前の意思を尊重する。飯、食おう」感
マンションに戻ってから――芽衣はようやく、どこかおかしいと気づいた。……どうして、また陽白を部屋に入れてしまったのか。けれど当の本人はまったく気にした様子もなく、室内に入るなりジャケットを脱いでソファへ無造作に放り、当然のようにキッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、中を確認する。芽衣はほとんど自炊をしない。普段は菊地が手配しているため、食材は最低限しか入っていなかった。それでも陽白は迷いなく細麺を二人分作ることに決める。うずらの卵を茹でて取り分け、もやしを洗い、きくらげを細く刻む。湯を沸かし、さっと野菜を湯通ししてから麺を茹でる。透き通るように整えられた麺に、調味を施し、もやしときくらげ、うずらの卵を添える。見た目も香りも、完璧だった。二つの器を木のトレイに乗せ、ダイニングへ運ぶ。さらに、フレッシュジュースまで用意する。その香りを嗅いだ瞬間、芽衣は抗えなかった。椅子に座り、小さく一口。――美味しい。食べながら、芽衣はふと、昔のことを思い出し、胸の奥で陽白を恨む。あのとき捨てられなければ、自分の一生の食事はずっとこの味だったかもしれないのに。まるで心の中を読んだかのように、陽白が顔を上げた。「芽衣。俺の身体より、この麺のほうが魅力的か?」答えられない。過去のことをすべて脇に置けば、彼と身体を重ねるのは悪くない。彼に恋人さえいなければ、互いに満たし合う関係でもいいのかもしれない。芽衣の中で、葛藤が揺れる。――このまま、彼を泊めてもいいのか。考え込んだそのとき、鼻先をつままれた。痛みで思わず涙が滲む。「……陽白、最低」彼の手を叩き落とす。彼は軽く笑い、食事を終えた彼女を見て、迷いなくその身体を抱き上げた。そのまま真っ直ぐ寝室へ向かう。唇を重ねながら、低く囁く。「考えるな。迷うってことは望んでるってことだ」二人の身体が柔らかなベッドに沈む。陽白はそっと芽衣の頬に触れる。芽衣は小さく震えた。戸惑いが残る。少女ではない。前にも一度、関係はあった。けれど――あのときは酔っていた。今は違う。はっきりと意識がある状態で、彼と向き合っている。それでも――陽白は微かに笑い、彼女の鼻先に口づけた。低く掠れた声。「芽衣、顔が真
陽白は芽衣にきっぱりと追い出された。ドアが閉まったあと、芽衣はそのまま扉に背を預けた。頬はまだ熱いままだ。昨夜のことは――彼女にとって、あまりにも強烈すぎた。今になっても、身体の奥にあの感触が残っている。途中の記憶は途切れているはずなのに、それでも断片的に思い出せてしまう。湿った空気。何度も名前を呼ばれた声。絡めた指先。そして、目の前で揺れていた、男の引き締まった身体。芽衣は乱暴に髪をかき上げた。落ち着かない。そのとき、スマートフォンが鳴る。画面を見ると、陽白からのメッセージだった。【芽衣、言い忘れてた。昼にお前のお母さんが来て、俺たちが一緒に寝てるのを見られた。だから、帰ったらどう説明するか考えておいたほうがいい。俺は責任を取るつもりだ。受けるかどうかは……芽衣の気持ち次第だけど】その一通を芽衣は何度も読み返した。そして最後には、ダイニングテーブルに突っ伏し、深く息をつく。マンションの外。スマホを握ったまま、ひとりの男が口元に笑みを浮かべていた。明らかに、機嫌がいい。実際、彼は上機嫌だった。――もう一度、芽衣を手に入れたのだから。今はまだ、この関係に戸惑いもあるだろう。だが問題ない。彼女の身体は自分を拒んでいない。昔と同じように、ぴたりと合う。いや――あの頃以上に。陽白は現実的な男だ。もし昨夜が噛み合わなかったら、どうしていたかは分からない。だが、結果は違った。あの夜を経て、芽衣と最後まで行けると確信した。……こういうことはやはり大事なのだ。しばらくして、彼はふと思い立ち、卓史に電話をかけた。グループに入れてくれ、と。卓史は思わず耳を疑った。十年も顔を出さなかった男が、今さら?卓史は苦笑しながら、すぐに彼をLINEグループに追加した。二百人近い、大きな同窓グループだ。陽白が入った瞬間、女性陣から一斉に反応が来る。元・校内の人気者だ。当然といえば当然だった。陽白はそのまま、淡々と書き込む。【芽衣は今、皿洗い中】【あとでグループに入れるよ】【さっき飯を食って、今は外で一服しながらみんなと話してる】……続けて、一枚の写真。高級感あふれるリビングダイニング。センスのいいインテリア。テーブルに
夕暮れが近づいた頃、芽衣はようやく目を覚ました。目を開けた瞬間、枕元に残る静かな男の気配が鼻をかすめる。懐かしい――そう感じた次の瞬間、理性が少しずつ戻ってきた。昨夜のこと。蓮司が去っていったこと。そして――自分が取り乱し、泣き崩れ、そのままリビングで陽白と唇を重ねたこと。激しく揺れ動いた記憶が一枚一枚、巻き戻されるように蘇る。思わず掛け布団を引き上げて中を覗くと――ほとんど何も身につけていない。……してしまった。しかも、一度ではない。芽衣はゆっくりと枕に身を沈め、天井を見つめたまま、どうすればいいのか分からなくなる。もし相手の部屋だったなら、さっさとヒールを掴んで、ドレスを抱えて出ていくところだろう。けれどここは自分の部屋だ。それに――キッチンのほうから、料理の香りが漂ってくる。陽白はまだここにいる。――料理の腕も、昔と変わらない。動揺しながらも、芽衣は思わず唾を飲み込んだ。一日、何も食べていない。お腹が小さく鳴る。そのとき、寝室のドアが大きく開いた。ドアのところに立っていたのは陽白だった。すっきりとした装い。どうやら一度自分の部屋に戻って着替えてきたらしい。黒のタートルネックに同系色のパンツ。白い肌に、長身で整った顔立ち。二人はしばらく無言で見つめ合う。やがて陽白が歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。手を伸ばし、芽衣に触れようとする。芽衣はさっと身を引いた。「……まだ帰らないの?」唇を噛みながら言う。それでも彼の手は、そっと芽衣の肩に触れたままだった。軽く笑う。「相変わらずだな」芽衣は睨みつける。彼はそのまま、気だるげに肩を軽く叩いた。「起きて顔を洗え。飯を食いながら話そう」芽衣はのろのろとベッドから下りる。隠す気にもならなかった。どうせ、もう全部見られている。……何を話すつもりなのか。そう思いながらも、彼女は着替えを済ませ、顔を洗い、長い髪を適当にひとつにまとめてリビングへ出た。心はぐちゃぐちゃで、とてもおしゃれする気分ではない。けれどテーブルに並んだ料理を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。プライドも何もかも後回しにして、まずは箸を伸ばす。燻製の魚を一口。外はさくりと香ばしく、中はふっくらと柔ら
微妙な空気が流れていた。ひとりは芽衣の母。もうひとりは芽衣の元カレ。しかも、別れて何年も経つ相手だ。そんな二人が、よりにもよってこの状況で鉢合わせしてしまったのだから、気まずくならないはずがない。先に動いたのは陽白だった。布団をめくり、そのままベッドから下りる。幸い、下だけは身につけていたため、どうにか最悪の事態だけは免れていた。澄佳は言った。「外で待っているわ」そう言うと、すぐに踵を返して部屋を出ていった。陽白は手早く服を身につけ、リビングへ出ると、背後のドアをきちんと閉めた。使用人の女性は帰ってもらっていた。さすがに、この場に居合わせるにはあまりにも気まずすぎたからだ。広いリビングには、澄佳と若い男だけが残された。陽白はこういう場面での立ち回りを心得ている男だった。まず芽衣の母に茶を淹れて差し出し、それから音を立てないように散らかった服や、食べ残しの鍋料理を片づけ始めた。すべてを片づけ終える頃には、部屋はすっかり元の清潔な空間に戻っていた。陽白は澄佳の向かいに腰を下ろす。端正な顔立ちに、曇りのない表情。澄佳は茶を口に運びながら、この婿候補をゆっくりと眺め、静かな口調で切り出した。「もし今夜のことがただの成り行きだったのなら、私はこれ以上何も聞かないわ。何も知らなかったことにする」陽白は迷わず答えた。「伯母さん、本来なら、もっと早くご挨拶に伺うべきでした。芽衣に対しては本気です。もちろん、昔の私には至らないところがありました。間違った選択をして、芽衣との八年を無駄にしてしまいました。でも、もう同じことは繰り返さないです。これまでの分まで大切にします。芽衣に、安心できる関係と、落ち着いた暮らしを渡したいと思っています」……澄佳は微笑んだ。「それで、芽衣は承知しているの?あなたのその気持ちをあの子は知っているのかしら。昨夜のことを、あの子は復縁だと思っているのか、それとも一夜限りの関係だと思っているのか。ちゃんと聞いたの?」陽白はまっすぐに言った。「芽衣には、きちんと気持ちを伝えます。ただ、伯父さんと伯母さんには、少しだけ時間をいただきたいんです。芽衣は、すぐには私を受け入れられないかもしれません。だから、もう一度、最初からやり直すつもりです。やり方は少
四階で智也たちが降りると、澄佳はすぐに翔雅の腕から逃れようとした。だが彼は細い腰を強く抱き寄せ、顎を彼女の肩に預けながら、エレベーターの鏡面に映る二人を見て呟く。「どうした?使ったら捨てるつもりか」澄佳は冷たく鼻を鳴らした。「まさか、お礼でも欲しいの?」翔雅は厚かましく笑みを浮かべる。「そうだ。欲しい。くれるか?」「一度、泌尿器科にでも行ったらどう?一日中そんなに元気だと、何か隠してるんじゃないの」澄佳の皮肉に、翔雅はただ喉の奥で笑った。本来は食事をしながら契約の話をする予定だった。だが澄佳の気分は、そんな気になれなかった。今夜はただ少し酒を口にして
翔雅の動きは粗暴で、澄佳の背は冷たい鏡に押しつけられた。映し出された顔は朱に染まり、彼の体が容赦なく迫ってくる。——このクソ男!翔雅の薄い唇が耳もとに触れ、熱砂を噛んだような、乾いた低い声が落ちる。「俺に特別な趣味があるかどうか……あの夜、知らなかったか?」「一ノ瀬さん!」澄佳は怒りに声を張る。「シッ!」彼はその身を縛め、高いヒールを脱がせると、肉色のストッキングを彼女の脚に通し始めた。大きな掌が素肌をなぞるたびに、微細な震えが走る。澄佳は呆然とした。片脚を掴まれ、身動きも取れない。動けば、もっと惨めに見えるだけだ。——こんな屈辱、一生忘れられな
夏の終わり、茉莉はイギリスへ旅立った。琢真は自ら彼女を送り、一週間そばに付き添い、生活に慣れたのを見届けてから立都市へ戻った。それからの日々、二人はそれぞれ忙しく過ごした。琢真は翔和産業の経営を任され、四つの部門を兼ね持つことになった。瑠璃は容赦しない。愛情ゆえに甘くすることなどなく、徹底的に鍛え上げる。月にわずか四日間の休暇を捻り出し、すべてをイギリス行きに費やしたが、移動時間を差し引けば、茉莉と過ごせるのは二日ほどにすぎなかった。立都市に初雪が降ったその日、琢真はロンドンへ飛んだ。専用機を降りると、タクシーで茉莉のマンションへ向かう。ロンドンの一等地にあるその部
朝になった。茉莉はすっかり寝過ごしていた。一緒に眠り込んでいたのは、ほかならぬ琢真だった。昨夜、彼は茉莉を自室に連れていき、二人は同じベッドで眠った。今回は毛布ごと抱きしめるのではなく、素直に一つの布団に潜り込み、少女は温かな胸に包まれて幸せそうに眠っていた。目覚ましをかけ忘れたのも無理はない。目を覚ますと、もう午前九時。茉莉には十時から授業がある。急いで準備すればぎりぎり間に合うかもしれないが、寝坊の腹立たしさは彼に向かう。「ぜんぶあなたのせいよ!寝ちゃったら起こしてくれればよかったのに」むくれて腕を叩く茉莉に、琢真は笑みを崩さず、頬をつまんで宥める。「顔を洗って







