Share

第868話

Author: 風羽
「まずは家族と相談してみてください」

そう言われた言葉が頭の中で反芻され続けた。

病院の長い廊下は冷え切っていた。

慕美は手探りでベンチを見つけ、ゆっくり腰を下ろす。

震える指先で診断書を何度も、何度も見返した。

紙の上には、涙の跡が滲んでいる。

遠く、若い恋人同士が寄り添って歩いていく。

指を絡め、笑い合い、未来なんか何も疑っていない顔。

慕美は静かに目を伏せた。

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

――澪安に会いたい。

もし、自分が死ぬのだとしたら、もう一度でいい。

彼の手を握って、雪景色を見たい。

もう一度だけでいい。

思慕を迎えに行きながら、二人で並んで歩きたい。

華やかなドレスで舞踏会に出たい。

一度。

たった一度でいい。

でも、現実は残酷だった。

病気は治らない。

生きるための唯一の方法は、腎移植だ。

だが腎臓は、望んで手に入るものではなかった。

医師は知り合いの紹介で、すぐにドナーを探し始めてくれた。

だが、結果は不適合。

つまり、彼女はただ待つしかない。

一ヶ月か。半年か。

それとも、間に合わないまま終わるのか。

けれど、慕美には待つ時間がなかった。

もうすぐ澪安が戻ってくる。

「迎えに来て。そこで答えを聞かせて」

そう言った彼に――自分はまだ「未来」を渡せるのだろうか。

澪安は初婚だ。

思慕はいるが、籍が入っていない今なら、彼にはもっと相応しい女性が現れる。

もし結婚して妻が死ねば、澪安の人生に影が残る。

その選択を、彼に負わせたくなかった。

――彼の人生を縛るくらいなら、嫌われる方がいい。

そう思った。

……

数日が過ぎても、ドナーの連絡は来なかった。

痛みは悪化し、頻度も強さも増していく。

処方された痛み止めを飲み、誤魔化しながら日々をやり過ごす。

ある朝、思慕がいない時間。

鏡の前でそっと顔に触れた。

頬がわずかにむくんでいる。

いずれ、病状が進めば、もっと崩れてゆくだろう。

慕美は、かすかに笑った。

――神様は、最後まで意地悪だ。

寝室から着信音が響く。

表示された名前に胸が痛む。

澪安。

通話ボタンを押すと、弾む声が飛び込んできた。

「今から搭乗だ!周防夫人、十時、空港で待ってて」

慕美は返事ができず、ほんの数秒、息を止めた。

喉が熱
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第868話

    「まずは家族と相談してみてください」そう言われた言葉が頭の中で反芻され続けた。病院の長い廊下は冷え切っていた。慕美は手探りでベンチを見つけ、ゆっくり腰を下ろす。震える指先で診断書を何度も、何度も見返した。紙の上には、涙の跡が滲んでいる。遠く、若い恋人同士が寄り添って歩いていく。指を絡め、笑い合い、未来なんか何も疑っていない顔。慕美は静かに目を伏せた。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。――澪安に会いたい。もし、自分が死ぬのだとしたら、もう一度でいい。彼の手を握って、雪景色を見たい。もう一度だけでいい。思慕を迎えに行きながら、二人で並んで歩きたい。華やかなドレスで舞踏会に出たい。一度。たった一度でいい。でも、現実は残酷だった。病気は治らない。生きるための唯一の方法は、腎移植だ。だが腎臓は、望んで手に入るものではなかった。医師は知り合いの紹介で、すぐにドナーを探し始めてくれた。だが、結果は不適合。つまり、彼女はただ待つしかない。一ヶ月か。半年か。それとも、間に合わないまま終わるのか。けれど、慕美には待つ時間がなかった。もうすぐ澪安が戻ってくる。「迎えに来て。そこで答えを聞かせて」そう言った彼に――自分はまだ「未来」を渡せるのだろうか。澪安は初婚だ。思慕はいるが、籍が入っていない今なら、彼にはもっと相応しい女性が現れる。もし結婚して妻が死ねば、澪安の人生に影が残る。その選択を、彼に負わせたくなかった。――彼の人生を縛るくらいなら、嫌われる方がいい。そう思った。……数日が過ぎても、ドナーの連絡は来なかった。痛みは悪化し、頻度も強さも増していく。処方された痛み止めを飲み、誤魔化しながら日々をやり過ごす。ある朝、思慕がいない時間。鏡の前でそっと顔に触れた。頬がわずかにむくんでいる。いずれ、病状が進めば、もっと崩れてゆくだろう。慕美は、かすかに笑った。――神様は、最後まで意地悪だ。寝室から着信音が響く。表示された名前に胸が痛む。澪安。通話ボタンを押すと、弾む声が飛び込んできた。「今から搭乗だ!周防夫人、十時、空港で待ってて」慕美は返事ができず、ほんの数秒、息を止めた。喉が熱

  • 私が去った後のクズ男の末路   第867話

    クリスマスの夜。立都市中の女性たちが羨む存在――それが、今夜の慕美だ。だが当の本人は、今すぐでもH市へ飛んで行きたい気持ちを必死に抑えていた。――もし思慕の世話がなければ、とっくに飛行機に乗っていただろう。辛うじて残った理性が、彼女の足を止めた。マンションへ戻り、思慕を寝かしつけると、慕美は待ちきれないようにスマホを取り上げ、澪安に電話をかけた。通話が繋がった途端、声が自然と甘くなる。「いつ帰ってくるの?」受話器越しに、低く笑う声。「恋しくなった?」慕美は否定しなかった。子供じみた照れ隠しをする年齢でもない。大人の女性は、自分の感情も欲望も、正しく認められる。声は少し掠れていた。「あとどれくらい?」笑い声が止まり、澪安の声が落ち着いた。「H市でトラブルだ。前に会った副社長……覚えてるだろ?裏でかなり大きな問題を起こしててな。現地の社長じゃ収拾できない。だから処理が終わるまで、もう少し残る」昔なら、きっとここまで説明はしなかった。聞かれても仕事を理由に曖昧に笑い、濁していたはずだ。今の二人の関係には、もうそういった壁はない。慕美は口を挟まない。栄光グループのことに余計な意見を言うつもりもない。ただ、少し優しい声で告げる。「寒い場所なんだから……ちゃんとダウン着てね。コートだけで若い女に見られても知らないよ」彼が低く笑った。その笑いには余裕と幸福が混ざっていた。しばらくして、わざと意地悪く囁く。「慕美、まだ答えてないだろ。十分可愛がってやったんだ。そろそろ見返りが欲しい」「澪安、ほんと最低」――快楽を得ていたのは自分だけじゃない。むしろ、彼のほうが深く沈んでいたはずだ。数秒の沈黙。次に戻ってきた声は、驚くほど優しかった。「すぐ帰る。そのとき迎えに来て。そこで答えを聞かせて」答えなど、お互い分かりきっている。これは、恋人同士の甘い儀式。その夜、二人は眠れなかった。距離は離れていても、心はそばにいた。深夜。思慕の寝顔を確認した慕美は、リビングの大きな窓辺に立つ。外では雪が降り続いていた。初めて雪が甘く感じた。ガラスに落ち、溶けて消えるその儚さが、胸の奥まで染みた。……翌朝。慕美は思慕を連れてマンションを出た瞬

  • 私が去った後のクズ男の末路   第866話

    その後、二人の関係は穏やかに深まっていった。慕美は結婚を急いでいなかった。仕事はようやく軌道に乗りはじめ、思慕には立都市での生活に慣れてほしいという思いもあった。何より、彼女は今、手にしている全てを大事に思っていた。その中にはもちろん、澪安も含まれている。秋が過ぎ、冬の気配が濃くなっていくころ――まさか先頭になって結婚したのは、宴司と詩のことと誰も思っていなかった。二人の恋は、少し奇妙だった。宴司は最初、慕美と距離を縮めるために詩へ接近した。金で釣って、色で惑わせば落ちる――そう思っていた。詩はたしかに噛みついた。けれど噛みついたらもう離さなかった。そのうち、宴司の心の抵抗は薄れ、肩の力も抜けていった。気づけば、彼は彼女を選んでいた。逃げるより、抱きしめる方が楽だと知ったのだ。詩は悪くない。強気だが、朗らかで、情が深い。一緒に過ごすうち、宴司は彼女に惹かれていった。二人の結婚式はクリスマスの夜。会場は華やかで、灯りは暖かく、笑い声が響いていた。その日、澪安はH市で出張中。式には参加できなかったが、「気持ちだけでも」と慕美に託して結婚祝いを贈った。宴司の披露宴は、とにかく賑やかだった。会場はどんどんヒートアップし、誰も彼もが宴司を酔わせようとやってくる。新郎の仲間たちが必死に庇うものの――そんなものが通用する相手ではない。立都市の実業家が集まっているのだ。止められるわけがない。宴司は苦笑しながらも、次々と差し出される大吟醸を淡々と飲み干していく。その姿に、誰かがぽつりとつぶやいた。「……やるな。まさに修羅場経験済みの男」慕美と同じ卓にいた允久が微笑みながら言った。「まさか宴司が、立都市でこんなに因縁を作っていたとはね」慕美はゆっくり笑った。「商売だし。持ちつ持たれつ、だよ」彼女と宴司の間にあったわだかまりは、もう過去のものだ。かつて恨みも不信もあったが今、宴司は詩の夫だ。彼女はただ、友人として詩の幸せを願っていた。允久はふと横目で慕美を見た。穏やかな横顔に、胸の奥で柔らかなものがふっとほどける。彼は根が古風な男で、どこか成熟した色気を持つ女性に惹かれるところがある。もし出会ったのが数年前の彼女だったなら――きっと、ここまで心を動かされることはなかった

  • 私が去った後のクズ男の末路   第865話

    澪安は、後ろからそっと彼女を抱き寄せた。顎を彼女の細い肩に乗せる。「気に入った?」慕美は飾らず答えた。「すごく。でも……高すぎる」澪安は小さく笑い、彼女の耳にかすれる声で囁く。「お前と思慕のためなら、いくらだって高くない」そして続ける。「それから、彰人と話した。思慕と結代、同じ私立幼稚園へ転園させようと思う。教育も環境も、もっといい。お前はどう思う?」今の彼は、昔とは違う。独断ではなく、彼女の意見をきちんと求める。その変化が、胸に静かに沁みた。慕美は少し考えて、うなずいた。彼女は頑固ではない。そしてわかっている――もし結婚すれば、思慕は栄光グループの跡継ぎから逃れられない。それが嫌なら、もうひとり正式な跡継ぎを産むしかない。だがまだ何も決まっていない。だから今は、思慕の教育を万全に整えること。澪安は、彼女の躊躇いを読み取って微笑む。「もし面倒なら、思慕はうちの両親に任せてもいい。きっと超一流に育ててくれる。あいつ、素質あるし」慕美は苦笑しながら首を振った。「いい。私が育てたい」彼女は思慕が好きで、一緒に暮らしていたいと思っていた。……あれだけ車の中で挑発しておきながら、ここへ来ると澪安は意外なほど落ち着いていた。コートを脱ぎ、片腕で彼女の腰を抱き寄せ、くすぐるように鼻先を首筋へ寄せる。「ラーメン作る。食べる?」慕美は小さく笑う。「もうお腹いっぱい」「じゃあ、俺が麺煮てる間にシャワー浴びてこい」軽く腰を叩き、キッチンへ向かう。慕美はふっと笑って主寝室へ向かった。浴衣を探そうと、クローゼットを開け、息が止まる。中には、びっしりと彼女の服が並んでいた。タグはどれも外されておらず、普段よく着る小さなブランドから、フォーマルに使える海外ブランドまで揃い、バッグやアクセサリーまで完璧に揃っていた。慕美は服に疎い人間ではない。一目見ただけで値の張るものだと分かった。このクローゼットにある衣服とジュエリーを合わせれば、数億円は下らないだろう。金を使うこと自体は簡単だが、そこに込められた心づかいこそ価値がある。彼女が普段愛用しているブランドは、新進デザイナーのもので、一着数万円程度のものが多い。それさえも澪安は探し出し、秋冬物まで揃えていた。どれ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第864話

    慕美は、静かに彼を見つめた。今夜の澪安は、珍しく完璧だった。態度も、距離感も、礼儀も――そして贈り物のセンスに至るまで。妍心があれほど嬉しそうに笑ったのだから、それだけで十分だ。だから慕美は、ふっと微笑んで言った。「好きよ。すごく」夜の車内には落ち着いた静けさが流れ、互いの視線が絡んだ。言葉より深く、甘く、くすぐったい沈黙だった。そのあと、澪安が低い声で呟く。「俺のところ、来ないか?お前の家、狭すぎて――動きづらい」――動きづらい?言い方が完全にアウトだ。慕美は聞こえないふりをしながら、わざとゆっくり問い返す。「動きづらいって?私の家がそんなに狭かった?」澪安は彼女の手を包み、その甲にそっとキスを落とす。そして、目を細めながら囁いた。「狭かったよ」そのあと、小声でいくつか下品な文句を足したのだ。慕美は一瞬、周防本邸に行くべきかと思ったが、あそこは人も多く、家族も同居していて落ち着かない。そう考えると澪安の家のほうが都合が良かった。以前の別荘だろうと想像していたが、車が止まった先を見て、思わず目を瞬いた。そこは立都市でも屈指の高級住宅街。洋館スタイルの低層レジデンス。全8棟、各棟4階。一棟につきわずか8戸。敷地面積は236平方メートル。家に入った途端、思慕が眠そうに目をこすりながら起きた。知らない空間に戸惑いながら、父親に腕を回し、甘えるように声を出す。澪安は思慕のお尻を支えながら、優しくあやして子ども部屋へ連れて行った。部屋は深いブルーを基調にした海賊船のデザインで、男の子が好みそうな空間だった。思慕は眠くて仕方ない様子だったが、それでもお風呂だけはしっかり入り、いい匂いのまま柔らかな布団に沈んだ。そして黒く大きな瞳をぱちりと開いて、「パパ、これからここがぼくのおうちになるの?」と尋ねた。柔らかい照明が、父と子の顔を照らす。澪安は頬に触れ、ゆっくりと話した。「ここはママとお前の家だ。パパは、ここに入るときは……ママとお前に許可をもらう」思慕は意味が分からないといった顔で瞬きをした。そのとき、ドアのところからミルクの香りがした。慕美がマグを手に入ってきたからだ。彼女は静かに息を吸った。澪安の言葉の意味が分かった。―

  • 私が去った後のクズ男の末路   第863話

    その事実を飲み込むまで、しばらく時間がかかった。――恬奈は、エイズになった。胸のざわつきを抱えたまま、慕美は允久に子どもたちを頼み、席を立った。ラグジュアリーな洗面所。金色の蛇口から静かに水が流れ、タイルには柔らかい光が反射していた。その鏡の向こうに恬奈が立っていた。壁にもたれ、冷たい目を向けている。そして彼女はゆっくりとバッグから細身の箱を取り出した。婦人向けの高級たばこ。一本抜き取り、火をつける仕草は驚くほど慣れていた。かつての清純な映像の面影は、もうどこにもなかった。慕美は洗面台に片手を置き、静かに視線を合わせる。恬奈は薄く笑った。乾いた、投げやりな笑み。「聞いたんでしょう?私、汚れた病気になったのよ」煙が緩やかに広がる。「原因はね夫。その選んでくれた素晴らしい旦那様は、周防澪安が紹介してくれたの。ねぇ、優しいでしょう?彼って、本当に『女にはいいものだけ渡す男』なのよ。安心して。私はあなたを恨まない。昔は怒り狂ったけど……澪安に思い知らされたの。彼を怒らせちゃいけない。私一人じゃなく、桂木家全部が終わる。彼が気分次第で救ってくれるか、全員路上で物乞いするか――決められる男。ようやく分かったの。男が女を本気で想ったとき、どんな原則だって平気で壊すのよ。世間は言うわよ。『幼なじみ、家同士の付き合い、ずっと近くにいた二人』って。でもね、あなたの前じゃ、私は何者でもなかった」最後のひと吸い。そのまま洗面台横の灰皿で火を押しつぶす。そして微笑んだまま、何事もなかったように踵を返した。残ったのは薄い香水と煙草の香り。慕美は鏡に映る自分を見つめた。この街中、立都市の巨大ビル、どこにでも恬奈の広告は掲げられている。完璧なメイク、完璧な笑顔。だがその裏側がこんなにも崩れていたなんて。西園寺のゴシップも――聞けば精神科病院に入れられたらしい。すべてが示していた。――澪安は、かつて深く傷ついた。そして、その傷を1つずつ処理した。複雑な思いを抱えたまま席へ戻ると、そこに澪安がいた。黒のシャツ、ハンドメイドのスーツ。髪は後ろに流し、わずかに前髪が落ちる。鋭く整った横顔。まるで広告の中から歩いてきたような男。美しい男は世の中に多い。だが、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status