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冷たい壁の向こうに

冷たい壁の向こうに

By:  ルカCompleted
Language: Japanese
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原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。 苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。 囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。 娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。 手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。 「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか? あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」 一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。 彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。 その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。 私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。 ……

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Chapter 1

第1話

原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。

苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。

囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。

娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。

手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。

「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか?

あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」

一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。

彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。

その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。

私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。

……

救命室の明かりが消え、医師は首を振りながらため息をついた。

「青柳さん、手は尽くしたのですが、残念です」

ついさっきまでいつもと変わらず元気だった雨音(あまね)が、ベッドの上に横たわっている。まるで眠っているようだった。

「雨音、まだ寝ちゃだめよ。ママ、あなたが楽しみにしていたバースデーケーキを買って来たのに、まだ願い事もしていないじゃない」

震える指でフォークを雨音の手に持たせようとしたが、驚くほど冷たい感触が手に伝わってきた。

その瞬間、私は内臓を引き裂くような鋭い痛みに襲われ、こぼれる涙が次々と娘の手を覆った。

一時間前、別荘のひび割れたコンクリートの隙間から娘を見つけた時、娘の身体はすでに死後硬直が始まっていた。

娘の死因は喘息だった。

だけど何故、怖がりの雨音が、あんな所にいたのだろう?

私が生理食塩水を浸した綿棒で、娘の指の間に固まったセメントをぬぐい取ってやった時、雨音が傷だらけの手に持っていたチョコレートキャンディの包み紙を見て、私は背筋が凍り付いた。

包み紙にはAOYAGIグループのロゴが印刷されていた。キャンディは聡が雨音に渡したものだったのだ。

震える指で聡の電話番号を押し通話ボタンを押し、可能な限り冷静に、「今日、雨音に会わなかった?」と尋ねると――

聡は明らかに苛立った様子で、「夏美(なつみ)、子どもを理由に、連絡してくるのはやめてくれ」と言った。

事情を説明しようとしたその時。

「パパ」という無邪気な声が聞こえた。

「私ね、このミッキーちゃんのお人形も、この向日葵のスカートも、このお部屋も大好き。私ここに住んでもいい?」

パパ?

娘が死んでまだ間もないというのに、聡はもう藤野と娘を家に招いている?

その瞬間、六年間たまっていた鬱憤が爆発した。

私は受話器に向かって、「聡さん、雨音の部屋に、勝手に他人を入れないで。そこに藤野さんや彼女の娘さんがいるなら、今すぐ帰らせてちょうだい!」と大声で叫んでいた。

一瞬、沈黙が流れた。

聡はフンと鼻を鳴らし、傍にいた執事にこう言った。

「雨音の持ち物をリビングに運び、この部屋を、悠果(ゆうか)の好きなように模様替えしてやってくれ」

受話器の向こうからは、悠果の喜ぶ声と、たしなめるような真美の声が聞こえてくる。

「聡さん、あんまり悠果を甘やかさないで。悠果はパパに会えただけで十分嬉しいの。それにここは雨音ちゃんの部屋なんだし」

真美を諭すような聡の声。

「いいんだ、雨音は手のかかる子で困っていてね。悠果はいい子だし、こうする方がお互いにとっていいんだよ……」

受話器から聞こえるかすかな会話に、心が締め付けられるようだった。

聡にも、優しく愛情深い面はあった。その優しさや愛情を、少しでもいいから雨音にも分けてやってほしかった。

私は声をふり絞った。

「聡さん、今日は雨音の誕生日なの。仁愛病院で待ってるから」

「夏美、もういい加減にしてくれないか?」

高まる感情を必死に抑え、深呼吸をしてから、ゆっくりと言った。

「最後に一度だけ、雨音に会ってあげて」
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