原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。 苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。 囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。 娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。 手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。 「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか? あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」 一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。 彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。 その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。 私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。 ……
View More確証のもと、複数の罪状から、聡は死刑を宣告された。 死刑執行の数日前、彼は私に会いたいと申し出た。 数年会っていなかった聡の母も、私の前に跪き、聡に一目会うよう懇願した。 数年会わない内に、聡の母は以前のはつらつとして活気に溢れた様子は見る影もなく、ただの老人のように見えた。「夏美さん、聡のわがままを聞いてやって。聡はあなたに心からの謝罪をしたいと思っているの」 私は大きくなったお腹を撫でた。「結構です。彼の謝罪は受け入れられないし、それに幸せそうな私を見たら、彼はきっと、耐えられないと思いますから」 聡の母は私のお腹に目をやり、何か言おうとした。が、言うのをためらったようだった。 そして、彼女は私の手を取り、「あなたの幸せを、心から祈っているわ」と言って部屋を後にした。 聡の死刑が執行された日、空には小雨が降っていた。 雨の中、私は雨音の墓参りをした。墓石に優しく手を触れ、私は雨音に真相を話した。「雨音、世の中にはどうしても許せない人がいる。あなたのパパもその中の一人、彼はずっといい人じゃなかった。でもママは、あなたをがっかりさせたくなくて、無理矢理、理想的な父親像を作ってしまっていたの。 今はそれが間違いだったってわかる。悪人は悪人で、父親の皮を被っていても、中身は悪人のまま。そして悪人は裁かれるべきで、あなたのパパは自分がした事への報いを受けたの」 そう言って、私は雨音の写真にキスをした。「雨音、ママ妊娠したの。あなたはまたママの娘でいてくれる?」 後ろにいる賢治を振り返り、小さな声で呟いた。「あなたのために、素敵なパパを選んだつもりよ。よかったら、あなたの気持ちを聞かせて」 話し終わると、降っていた雨が晴れ上がり、青空が顔を覗かせた。 賢治が私に日傘をかぶせながら、優しく言った。「もうすぐ検診の時間だよ。また雨音ちゃんとお喋りしに来ようね」 帰り道、賢治が思いついたように言った。「今日の検診で、先生にピンクかブルー、どっちのベビー服を用意したらいいか尋ねてみようか?」 私は笑った。「ピンクよ」 賢治は驚いた顔で、「どうしてわかるの?」と尋ねた。 何も言わず、私は彼に微笑んだ。 だって、雨音が戻って来てくれるから。
賢治は私を家に送り届けた後、私が窓を開けておやすみを言うまで、ずっと階下にいた。 これまでの付き合いの中で彼は異変に気付き、すぐに警察に通報して、警察官と一緒に私を助けに来てくれたのだった。 あの時、賢治は私の手からナイフを取り、震える私の身体を抱きしめ、優しくささやいた。「大丈夫、僕がついてる」 私は聡を見つめた。さっきまでの恐怖がこみ上げてくる。「…殺さなきゃ。彼を殺さなきゃ!」 聡は血の混ざった唾を吐き捨て、無表情で言った。「無駄だよ、お前は俺から離れられない。お前は俺を骨の髄まで愛していると言った。酒に酔った俺を誘い、雨音を身ごもって、結婚を迫った……」「もうやめて!」 そう叫んだ。涙交じりの、振り絞るような声で。「あなたを訴えるわ。強制性交未遂罪でね!」 聡は眉をひそめた。「夏美!」 私は今まで隠していた過去を思い出し、顔を覆って泣きじゃくった。「私が成人した夜、あなたは私があなたに片思いしていた事を知って、酒に酔った勢いで、私を誘い肉体関係を結んだ。あなたは妊娠した責任を私に押し付けたけれど、私は雨音のために屈辱に耐え、真実は胸の内にしまっておいた。なのにあなたは何度もその事を持ち出して脅し、私と肉体関係を持ち続けた」 涙で息が苦しかった。「でもあの夜、あなたはワインを一本飲んだだけだった。いつもの量の十分の一程度しか飲んでいなかったの。だから本当は酔ってなんかいなかった。あなたのお母様から聞くまで知らなかったわ。あなたはずっと私を騙し続けるつもりだったのよね?」 聡の顔から笑みが消え、一瞬のうちに顔が蒼ざめた。「夏美、ごめん。でも俺、本当にお前を愛してるんだ……」 私は口元を引き締めた、また、涙がこぼれ落ちた。「愛してる?私を?私の認識が正しければ、あなたの会社は多額の負債を抱えているそうね?私達が離婚してからもう四年も経つのよ。あなたが言うように、あなたが私を本当に愛しているなら、四年間あなたは何をしていたの。私の会社が軌道に乗った今、姿を現すなんて偶然にしてはタイミングがよすぎるわ!」 私は涙を拭い、数年かけて集めた資料と、あの夜彼が言った言葉をすべて、弁護士に送った。「夏美、俺達は夫婦だろう、俺を売るような真似はやめてくれ!」 聡は焦っ
賢治と別れた後、マンションのドアを開けると、突然部屋の中にいた人物に身体を押さえつけられ、激しく唇を奪われた。 懐かしい匂いに、心臓が引き裂かれるような感覚が甦り、めまいがした。「夏美、会いたかったよ。明日一緒に家へ帰ろう」 聡の指がそっと唇をなぞる。声には抵抗できない威圧感があった。「ごめん。俺が悪かったんだ。でも雨音の仇は取ったよ。人を雇って真美を強姦させ、その後、富豪の妻、あの山口の元へ送ってやったんだ。あの女はかなりの悪事を行ってきた、当然の報いを受けたんだよ。娘の悠果は病気で移動中に死んだ……」 聡は始終無表情で話していた。身体中に悪寒が走った。「聡さん、私達の関係はもう終わってるわ。放して!」 振り払おうとしたが、聡はさらに強く私の身体を引き寄せた。 身体をかすかに震わせながら、聡は薄ら笑いを浮かべている。「過去の事はもう忘れよう、ね?俺はお前にひどい事をしたけど、お前だって俺を散々苦しめただろ?でも大丈夫、やり直すんだ。最初からね。今までの事は全部忘れて……」 聡は息を荒げながら、またキスをしてきた。頬、唇に、次第に下へ。唇が胸元に近づいた時、私は言った。「あなたにはもううんざり。本当に、心底うんざりしているの。私だけじゃない、雨音も同じよ。お願い、もうこれ以上、私達に関わらないで」 聡の身体が硬直している。 しかしその直後、聡は私の洋服を引き剝がし、獣のように荒々しく首筋にキスをしてきた。 狂ったように首筋に噛みつき、抵抗する私を、ベッドに押し倒し、血走った眼で覆いかぶさってきた。「雨音を亡くした気持ちならよくわかる。俺だって雨音には申し訳ない気持ちでいっぱいだよ。俺は全然いい父親じゃなかった。でも……夏美、俺達また子どもをつくろう。お前に誓う、今度はいい父親になってみせる。だからもう一度、雨音を産んでほしいんだ……」パチン―― 気付いたら、彼の頬を打っていた。身体が震えている。「雨音はこの世でたった一人しかいない私の娘よ!でも死んでしまった、雨音の代わりなんてどこにもいないのよ!」 聡の目つきがかわったのがわかった。 彼は私の両手を頭に押し付け、ベルトを引きちぎり、狂ったように私の首筋にしゃぶりついた。「いいから言う通りにするんだ。俺達の子を産んでく
飛行機を降りて、まず雪姫高原でスキーをした。その後、動物園で鹿にせんべいをやり、最後は西雲市に戻って住む場所を決めた。 これは、生前の雨音と決めていた事だった。 聡に嫁ぐ前、私は青柳家に雇われた家政婦の産んだ子で、まったくの世間知らずだった。 聡との結婚を機に、私は青柳家の嫁となり、そして母になった。 青柳家には家政婦や姑も同居していたけれど、それでもやはり、自分の事は自分でやらなければならない、そう思っていた。 いつしか私には、青柳家の嫁、専業主婦という肩書が生まれ、「林(はやし)夏美」という名はどこかに忘れ去られたように思えた。 以前は誰からも感謝される事はなかったが、西雲に来て、自分の好きな家事が職業になるのだと知った時は驚いた。 西雲での暮らしが落ち着いた後、私はコミュニティカレッジに入学し、ライフオーガナイザーになるための勉強を始めた。そこで出会った先生や同級生と交流し褒められる内に、自然と、自分の強みや興味を見つける事ができた。 昼間は講義で忙しくしていたが、家に帰ると、どうしても雨音の事を思い出した。そして、そのたびに、辛く悲しい思いが胸に溢れた。 もし私が勇気を出して、雨音と一緒に青柳家を出ていたら、雨音は今も生きて私の傍にいたのだろうか? 妄想と現実を行ったり来たりしながら、私はいつまでも思想の束縛から抜け出せずにいた。 そう、コミュニティカレッジで、優等卒業生として表彰台に立った、あの時までは。 あの日、鳴りやまない拍手の中、校門の傍で手を振る小さな人影に目が留まった。「ママ、新しい人生の幕開けだね。これでもう安心できるよ。きっと、明るい未来が待ってる。私はもう行くけど心配ないよ、これからは寂しいなんて思わなくても大丈夫だからね……」 それからは、悪夢にうなされることはなくなり、雨音の夢を見る事もなくなった。 卒業後、私はある学校に招かれ、そこで開催されたいくつかの大会に参加し、その結果、幸運にも客員教授として採用されたのだった。 また、ある資産家が私にビジネスの話を持ち掛けてきた。彼は、私に「ハウスキーパーの女王」というペルソナを設定してIPプロジェクトを立ち上げ、新たにメディア業界に参入したいと申し出た。 いくらかのオンライン出演を経て、瞬く間に私は話題のインフルエンサーとい
秘書から送られてきた資料によると、真美が帰国した理由は夫との死別ではなかった。 そして、彼女が海外へ行ったのは、聡の父に言われたからではなく、むしろ、多額の違約金を手に入れ、自ら出国したと書かれていた。 また、彼との交際期間中も、彼女はある富豪と愛人関係にあり、彼との間に悠果を妊娠していたのだ。 真美は当時、妊娠した事実と金さえあれば、妻の座が手に入ると考えていたが、その後富豪が急死し、娘である悠果でさえ、相続権を得る事ができなかった。 そればかりか、富豪の妻は今も、真美と悠果の命を狙って、世界中を探し回っているという。 帰国後、生活のため、彼女がターゲットにしたのが聡だったのだ。 彼女は、雨音が喘息である事や、アレルギー体質である事を調べていた。 その上で聡にサンルームを造ってほしいと密かにねだったのだ。 あの日、真美は雨音が別荘にいる事を知って、業者に作業するよう指示を出していた……「真美、君にもう一度だけチャンスをやる」 聡は真美を見つめた。もうとっくに気持ちは決まっていたが、もう一度だけ真美にチャンスを与えたいと思った。 真美は泣きじゃくった。こんな事になるなど、思いもよらなかったのだ。「聡さん、私はこの家が好きなの。ただ、あなたの家族の事をもっと知りたかっただけ。それの何がいけないの?」 聡は口元を引き締めた。 冷たい笑みを浮かべ、電話をかけ始めた。「山口(やまくち)さん、あなたの探している人はここにいますよ。場所は…」 真美が反応した時、聡はすでに電話を切っていた。「聡さん、今……誰と話してたの?」 聡は何も答えず、微笑んだ。 真美は突然取り乱し、狂ったように聡に掴みかかった。「答えろ!何でそんな事したんだ!?」 聡はうんざりして、真美の胸元を蹴り上げた。そして、かつてないほど冷酷な眼差しで言った。「真美、お前は雨音に手を出すべきじゃなかった。あの子は俺の娘なんだ」 言い終わると、ドアが蹴破られ、黒服を着た男達が数人駆け込み、真美と娘を外へ引きずり出した。 外で真美が大声で叫んでいた。「聡、忘れたのか、私がお前のせいで海外でどれほど惨めな思いをしたか!?」 聡は右手をポケットに入れ、左手でタバコに火を点け、煙を深く吸い込んだ。 漂う煙の中、彼はゆっ
「青柳さん、落ち着いて下さい。娘さんのご遺体はもう火葬されています。これ以上騒ぎを起されると、警察を呼ばざるをえませんよ!」 事実、すでに看護師が雨音の死亡証明書を聡に手渡していた。しかし、聡はそれを破り捨て、何度も雨音の行方を尋ねていたのだ。 看護師はうんざりした表情で、聡を責めた。「雨音ちゃんはここに運ばれて来た時、すでに意識がありませんでした。あなた父親でしょう?重い喘息があると知っていて、なぜサンルームの増築なんて始めたんです?」 看護師の言葉が、聡の胸に突き刺さった。 そういえば、彼は父親なのに、雨音に関心を持たないし、雨音の事を話しもしない。 夏美はよく彼にそう話していたのに、それは夏美が彼の気を引くために言っている戯言だと、気に留めず、相手にもしなかった。プルル……携帯にメールが届いていた。差出人は夏美……! 高鳴る鼓動、しかし送られてきた写真は、無惨にも彼の心を引き裂いた。 雨音は、黒いフレームの中で、昔のように、無邪気に笑っていた。 声もなく、ただ涙がこぼれ落ちた。心臓が抜き取られ、五臓六腑が引き裂かれる思いだった。 傍にいた看護師が、悔しそうに言った。「ここに運ばれて来たとき、あの子の指はセメントだらけで、可哀想にまだ五歳なのに。どんなに苦しかったか、怖かったか。もう少し早くここへ運ばれていたら助かっていた筈なのに。信じられないわ、自分の子にこんなひどい事をする親がいるなんて!」 セメント、サンルーム…… 身体が雷に打たれたようだった。 あの日は雨音の誕生日だった。しかし、業者に施工する指示は出していなかった。なのになぜ、彼らはあの日施工を? 聡は震える指を抑え、冷静に、業者に電話をかけた。「確認したい事があるんだ。五月十八日に施工の指示を出した覚えがないのだが、なぜあの日許可もなく、作業をしていたんだ?」 業者は困惑しながら答えた。「藤野さんから作業するように指示されたんですよ。私も少し戸惑ったのですが、社長からそう伝えるように頼まれた、と仰ったので作業を始めたんです」 ぼんやりとした記憶が甦る。確かあの日は、プレゼントを持って家に帰り、普段着に着替えてから真美を迎えに行った。その時、真美がサンルームに星形のライトをつけたいと言って、彼に意見を聞いていた。
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