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冷たい壁の向こうに

冷たい壁の向こうに

By:  ルカCompleted
Language: Japanese
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原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。 苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。 囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。 娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。 手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。 「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか? あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」 一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。 彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。 その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。 私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。 ……

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Chapter 1

第1話

原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。

苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。

囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。

娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。

手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。

「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか?

あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」

一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。

彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。

その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。

私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。

……

救命室の明かりが消え、医師は首を振りながらため息をついた。

「青柳さん、手は尽くしたのですが、残念です」

ついさっきまでいつもと変わらず元気だった雨音(あまね)が、ベッドの上に横たわっている。まるで眠っているようだった。

「雨音、まだ寝ちゃだめよ。ママ、あなたが楽しみにしていたバースデーケーキを買って来たのに、まだ願い事もしていないじゃない」

震える指でフォークを雨音の手に持たせようとしたが、驚くほど冷たい感触が手に伝わってきた。

その瞬間、私は内臓を引き裂くような鋭い痛みに襲われ、こぼれる涙が次々と娘の手を覆った。

一時間前、別荘のひび割れたコンクリートの隙間から娘を見つけた時、娘の身体はすでに死後硬直が始まっていた。

娘の死因は喘息だった。

だけど何故、怖がりの雨音が、あんな所にいたのだろう?

私が生理食塩水を浸した綿棒で、娘の指の間に固まったセメントをぬぐい取ってやった時、雨音が傷だらけの手に持っていたチョコレートキャンディの包み紙を見て、私は背筋が凍り付いた。

包み紙にはAOYAGIグループのロゴが印刷されていた。キャンディは聡が雨音に渡したものだったのだ。

震える指で聡の電話番号を押し通話ボタンを押し、可能な限り冷静に、「今日、雨音に会わなかった?」と尋ねると――

聡は明らかに苛立った様子で、「夏美(なつみ)、子どもを理由に、連絡してくるのはやめてくれ」と言った。

事情を説明しようとしたその時。

「パパ」という無邪気な声が聞こえた。

「私ね、このミッキーちゃんのお人形も、この向日葵のスカートも、このお部屋も大好き。私ここに住んでもいい?」

パパ?

娘が死んでまだ間もないというのに、聡はもう藤野と娘を家に招いている?

その瞬間、六年間たまっていた鬱憤が爆発した。

私は受話器に向かって、「聡さん、雨音の部屋に、勝手に他人を入れないで。そこに藤野さんや彼女の娘さんがいるなら、今すぐ帰らせてちょうだい!」と大声で叫んでいた。

一瞬、沈黙が流れた。

聡はフンと鼻を鳴らし、傍にいた執事にこう言った。

「雨音の持ち物をリビングに運び、この部屋を、悠果(ゆうか)の好きなように模様替えしてやってくれ」

受話器の向こうからは、悠果の喜ぶ声と、たしなめるような真美の声が聞こえてくる。

「聡さん、あんまり悠果を甘やかさないで。悠果はパパに会えただけで十分嬉しいの。それにここは雨音ちゃんの部屋なんだし」

真美を諭すような聡の声。

「いいんだ、雨音は手のかかる子で困っていてね。悠果はいい子だし、こうする方がお互いにとっていいんだよ……」

受話器から聞こえるかすかな会話に、心が締め付けられるようだった。

聡にも、優しく愛情深い面はあった。その優しさや愛情を、少しでもいいから雨音にも分けてやってほしかった。

私は声をふり絞った。

「聡さん、今日は雨音の誕生日なの。仁愛病院で待ってるから」

「夏美、もういい加減にしてくれないか?」

高まる感情を必死に抑え、深呼吸をしてから、ゆっくりと言った。

「最後に一度だけ、雨音に会ってあげて」
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第1話
原因は、5歳の娘のせいで夫が愛人を空港に迎えに行くのが遅れた事だった。苛立った夫が娘を別荘の排水溝に追いやったのだ。囲われた壁の内側から、かすかに娘の助けを呼ぶ声が聞こえる。娘を助けようと、必死で壁を壊そうとする私を、夫は地面に突き倒した。手の傷口から流れる血が、愛人のために用意した花束を濡らし、それを見て青柳聡(あおやぎ さとし)は吐き捨てるように言った。「ただの家政婦であるお前に、母親面をして家の事に口出しする権利があると思うか?あの時、お前が俺を誘惑して妊娠し、俺に結婚を迫らなければ、俺は普通に真美と出会えていた筈なんだ。真美にこんな惨めな思いをさせる事だってなかっただろう?」 一瞬、頭の中が真っ白になり、私は信じられない気持ちで聡を見つめた。 彼は藤野真美(ふじの まみ)の手をとり、彼女の娘を胸に抱きよせ、「君達への償いは、必ず果たすよ」と言った。 その後、藤野真美の娘は聡の胸に顔をうずめながら、誇らしげに彼を「パパ」と呼んだ。 私に抱かれた娘の身体はすっかり冷たくなっていて、もう口をきくことができなくなっていた。聡さん、お望み通り、私はあなたの妻をやめる。 …… 救命室の明かりが消え、医師は首を振りながらため息をついた。「青柳さん、手は尽くしたのですが、残念です」 ついさっきまでいつもと変わらず元気だった雨音(あまね)が、ベッドの上に横たわっている。まるで眠っているようだった。「雨音、まだ寝ちゃだめよ。ママ、あなたが楽しみにしていたバースデーケーキを買って来たのに、まだ願い事もしていないじゃない」 震える指でフォークを雨音の手に持たせようとしたが、驚くほど冷たい感触が手に伝わってきた。 その瞬間、私は内臓を引き裂くような鋭い痛みに襲われ、こぼれる涙が次々と娘の手を覆った。 一時間前、別荘のひび割れたコンクリートの隙間から娘を見つけた時、娘の身体はすでに死後硬直が始まっていた。 娘の死因は喘息だった。 だけど何故、怖がりの雨音が、あんな所にいたのだろう? 私が生理食塩水を浸した綿棒で、娘の指の間に固まったセメントをぬぐい取ってやった時、雨音が傷だらけの手に持っていたチョコレートキャンディの包み紙を見て、私は背筋が凍り付いた。 包み紙にはAOYAGIグループのロゴが印刷され
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第2話
重く長い沈黙が続いていた。「それで?何が望みなんだ?」冷たい笑みを浮かべながら聡が言った。「娘に喘息のフリを教えるだけじゃ足りずに、今度は死んだフリでもさせたか?」 氷のように冷たい態度をとって、聡は呆れるほどつれない口調でこう続けた。「何でお前みたいな女が母親なんだよ?あの子は俺の娘でもあるんだ、しっかり見ていなきゃダメだろ」 受話器の向こうから真美の声が聞こえる。「夏美さんに誤解されるといけないから、聡さんは病院へ行って。私は悠果と家で待ってるから」 突然、聡は何かを思い出したように、焦った様子で、「三十分でつくから、雨音にそう伝えてくれ」と言った。 その後、電話は突然切れたのだった。 携帯電話をしまうと、私は雨音の頬に触れ、そっと呟いた。「ね?パパは雨音の事が大好きなんだよ。もうすぐ来てくれるからね」 あの日、彼は病院で、祖父の枕元に跪いてこう言った。「夏美が青柳家の子どもを産んでくれたら、その子は僕の宝物です」と。 でも、彼は変わってしまった。 雨音が生まれてから今まで、彼はまともに雨音と目を合わそうとしない。 雨音は悲しそうに私によく聞いていた、パパはどうして私の事が嫌いなの?と。 雨音を傷つけないため、聡の印象を悪くしないために、私はそのたび嘘をついていた。プルル……メールの音で我に返った。警察から別荘の防犯カメラの映像が届いていたのだ。映像には、排水溝の中に入る雨音の姿が映っていた。カメラに映る雨音の姿を見ると、また涙で視界がかすんだ。聡は嘘をついていた。彼は今日確かに雨音に会っていた。それなのになぜ嘘を?映像には、聡が出かける際、ドアから出てきた聡の足に抱き着いて、恥ずかしそうに話す雨音の姿が映っていた。「パパ、お願い。一分でもいいの。ママがもうすぐケーキを買ってくるから、ろうそくの火を消すまで一緒にいて」本当はプレゼントがほしかった筈だ。でも、そう話すのが精一杯のわがままだったのだろう。聡は不機嫌そうな顔で、ポケットからチョコレートキャンディを取り出し、庭に放り投げた。「じゃあパパとかくれんぼしよう」聡は雨音の手を振りほどき、暗い溝を指さして言った。「先にチョコレートキャンディを探して、その後隠れるんだよ。いい子にしていたら、パパが一
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第3話
聡は真美のコートを取り、荷物を置きながら、こちらを振り返りもせず、「知らない」と言った。 そして私の持つ工具を見て、眉をひそめた。「悠果が寝てるんだ、あまり大きな声を出さないでくれ、いいな?」 私は唖然とし、信じられない気持ちで彼を見つめた。 彼は私の事など気にもしていない。 隣を通り過ぎる時、彼は小さな声でこう言った。「今まで十分いい暮らしをさせてやっただろ。恨まれる筋合いはない。本来なら、すべて真美に与える筈のものだったんだから」 藤野真美。聡の初恋の相手で、ずっと手が届かなった高嶺の花。 彼の知り合いから聞いた事がある、彼は真美にフラれるたび、自傷行為を繰り返していたと。 痛みにも似た吐き気のするような感覚に襲われ、目の前が真っ暗になった。 聡は私の持つ工具に手を伸ばした。 私は工具を握りしめ、「雨音の……声を聞いたの……あの子はあそこにいるわ」 私は増築中のサンルームを指さして言った。「聡さん、雨音はあのサンルームの近くにいる筈なの。お願い、手伝って!」 聡は私の話に取り合おうとしない。「気でも狂ったのか?あんな分厚い壁、そんな工具でどうにかできるものじゃない!」「でも雨音はそこにいるのよ、どうして信じてくれないの!?」 私は聡の胸を叩いたが、聡の身体はピクリとも動かない。 私は絶望し、涙が頬を伝った。「あなたにとっては、雨音が失踪した事は大した問題ではないのね。でも私は違う。今までだって、あの子と離れた事はなかった。たった一度、この三時間の間だけよ。あなたは私の言った事も、母親の直観も、信じてはくれないのね?」 もう一度、聡の胸を叩く。 聡は私を押し返し、その瞬間、私は何かに躓いて後頭部をぶつけた。 鈍い音がした後、生温かい液体が後頭部から背中に向かって流れていく。 手が痛い…見上げると真美の娘が私の手を踏みつけていた。「おばさんダメだよ。ここはママのお庭なんだから、触らないで」 その時、人形の洋服についていたボタンが落ちた。 顔を上げると、真美の娘が抱いている人形に目が留まった。 それは、私が雨音にプレゼントした、限定品のバービー人形だった。 誕生日の三か月前から、雨音が私におねだりしていた…… その時、私はすべてを悟った。 なぜ聡は、私が
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第4話
携帯電話のアラームが鳴り、私はふと我に返った。 あれから三十分経つが、まだ聡は現れない。 もう間に合わない。雨音の遺体は霊安室に運ばれようとしていた。 今日は雨音の誕生日なのに、雨音の願いを叶えてやりたくて、私は聡に電話をかけ、ビデオ通話のボタンを押した。 通話が始まった時、映し出されたのは悠果の姿だった。 悠果は雨音のお気に入りの向日葵のワンピースを着ていて、カメラはその後、寝室のドアに向けられていた。「パパ、お絵かきコンクールに遅れちゃうよ!」 ドアが開くと、露になった肩を恥ずかしそうにタオルケットで隠す真美の姿が映し出された。「コラ悠果!」 聡は口元に笑みを浮かべながら、黒いネクタイを締め、シャツの袖口を正しながら言った。「ゆっくり休むといい。悠果とコンクールに出かけてくるよ」 寝室には、脱ぎ捨てた衣服が散乱している。 散乱した衣服の中に、使い終わったコンドームが二つ落ちていた。 吐き気がして、通話を終了した。 私達は、彼に言われた通り、三十分間彼を待っていた。 でも彼は? 彼は、愛人とベッドで過ごした後、愛人の娘と出かけるところだった。 あんな男、父親でも何でもない! 電話を切った後、私は雨音の葬儀の手続きを済ませた。 聡と結婚した時、友人から羨ましがられた。でも、私にとってあの男との生活は監獄にいるのも同然だった。 それでも、いつかきっと夫婦や家族の絆が生まれ育まれると信じていたのに…結局、彼が私に心を開く事は一度もなかった。 その後雨音が生まれた。雨音は頭のいい子で、最初は私に風当たりの強かった姑とも、雨音がいてくれたおかげで、いい関係を築けるようになった。 聡は月三回程度しか家に帰らなかったが、いつも雨音が傍にいるから寂しさは感じなかった。雨音は細い腕を私の腕に絡め、大きくなったらママを色んな所に旅行に連れて行ってあげるね、と言った。 聡に怒鳴られた時も、雨音は私の頬にキスをし、優しく言うのだった。大丈夫だよ、私がいつもママの傍にいるからね……と。 雨音の居る場所、それが私の家だったのに。 雨音が居なくなった今、私にはもう帰る場所がない。 霊園を出る時、私は聡と別れる事を心に決めた。「田代(たしろ)先生、離婚届にサインしました。夫にも……できるだ
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第5話 
花火が終わった後、私は聡に電話をかけ、居場所を聞いた。 彼は真美と娘を一瞥し、小声で話した。「あと三十分待ってくれ、今からそっちに向かう」「必要ないわ」 電話を切り、聡の前に立った。「ご家族の団欒を邪魔したくはないのですが、娘の服を返して下さい」 聡はうつむいて言った。「夏美、もういいだろ。汚い心であれこれ詮索するのはやめてくれ」 私は聡には構わず、悠果の前に立ち、ワンピースを撫でながら、「これ、雨音のお気に入りのワンピースなの。絵具がついたら大変、雨音がきっと悲しむわ」 そう言って、私はワンピースに手を伸ばした。「わぁぁん」大声を上げて、悠果が泣き崩れた。「このワンピースは私のだもん、渡さないから!家にある物も、パパも、車も家もぜーんぶ!私のものなの!」 傍にいた真美が、悠果を抱きしめた。「娘に近寄らないで、これは娘のワンピースなんだから!」パチン! 気付いたら、真美の顔を平手打ちしていた。「そんな浮気男もう要らないわ、あなたとわがままなあなたの娘にくれてやるわよ!」 真美は立ち尽くし、しばらくの間沈黙が流れた。「なぜ今日に限って面倒を起こすんだ?」 聡は悲痛な面持ちで悠果を抱き寄せ、「今日は悠果の誕生日なんだ。話なら他の日でもいいだろう?」 そう話す聡を見て、私は笑った。 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。 潮風を背に、その場を立ち去ろうとしたその時、真美が私の前に立った。 彼女は私の腕を掴み、怒りに満ちた目で私を睨みつけた。「あなたも母親でしょう、どうしてこんなひどい事ができるの?」 真美は目に涙をためながら、私を見つめている。「喪服なんて着て、一体どういうつもり?」 彼女の頬を涙が伝い、真美は声を上げて泣き始めた。「あなたの娘がいなくなったのは、あなたの躾がなっていなかったせいよ。その上、あなたはうちの子まで呪う気!?」「夏美、真美に謝れ!」 足元がふらついた真美を、聡が支えた。「今日は悠果の六歳の誕生日なんだぞ。悠果はプレゼントは花火がいいって言ってたんだ……」「あなたは雨音が誕生日に、何を望んでいたか知ってる?」 私は苦笑いしながら、彼の言葉を遮った。 聡は視線を落とし黙り込んだ。「……」「その子のプレゼントは派
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第6話
「パパ、キャンディ見つけたよ。一緒に誕生日を過ごしてくれる…?」 ハッとして目が醒めた。悠果のベッドで、いつの間にか眠っていたらしい。 悠果の規則正しい寝息を聞きながら、聡は雨音との約束を思い出していた。 うしろめたさを抱えたまま、悠果のベッドの横にあるプレゼントの山から適当なギフトを手に取り、病室の外へ出た。「聡さん、どこへ行くの?私達の面倒を見てくれるんじゃなかったの……?」 真美は聡の袖を引っ張りながら、目に涙を浮かべている。 どうしようもなく、胸がざわついた。なぜか目を赤くした夏美の顔が脳裏に浮かんで離れない。 聡は真美に言った。「約束した通り、悠果の入学の手続きはしておいたし、君にも会社のポストを手配しておいたよ。海辺の別荘も君と悠果の好みに合わせて改装したし、俺と夏美は早々に引っ越すつもりだから。もちろん俺は悠果の父親代わりだし、困った事があったら、いつでも連絡してくれ」「そうじゃなくて、私は……」 聡は焦燥感にかられ、真美の手を振り払った。「悪いが俺には家族がいるんだ。妻と娘を放ってはおけないんだよ」「でもあなたは彼女を愛していないじゃない!」「真美!」 聡は眉をひそめ、冷たく言い放った。「君に何がわかる?」 そう言って、聡自身言葉を失った。 確かに今まで夏美を愛した事など一度もなかった筈だ。授かり婚で、仕方なく結婚したし、結婚式にも何のこだわりも思い入れも感じなかった。それなのに、一体いつから、夏美に心惹かれるようになったのだろう? 聡は自分がわからなくなってしまった。 自分の名を呼ぶ真美を背に、聡は足早に家へ向かった。 ドアを開けると、部屋は真っ暗で、また胸がざわつき始めた。「夏美?雨音?」 家中を探し回って、聡は夏美の荷物がない事に気づいた。 夏美に何度も電話したが、繋がらない。 窓辺に寄りかかり、タバコに火をつけた。 夏美は頭がよく、優しい女だった。その夏美がいなくなるなんて。 すべての原因が自分である事は、明らかだった。 タバコの火を消し、外に目をやるとこじ開けられたサンルームが見えた。ふいに、嫌な予感が胸をよぎった。 まさか雨音……まだ見つからないのか? 呼び鈴が鳴り、ドアを開けると警備員が立っていた。「青柳さんですね?監
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第7話
「青柳さん、落ち着いて下さい。娘さんのご遺体はもう火葬されています。これ以上騒ぎを起されると、警察を呼ばざるをえませんよ!」 事実、すでに看護師が雨音の死亡証明書を聡に手渡していた。しかし、聡はそれを破り捨て、何度も雨音の行方を尋ねていたのだ。 看護師はうんざりした表情で、聡を責めた。「雨音ちゃんはここに運ばれて来た時、すでに意識がありませんでした。あなた父親でしょう?重い喘息があると知っていて、なぜサンルームの増築なんて始めたんです?」 看護師の言葉が、聡の胸に突き刺さった。 そういえば、彼は父親なのに、雨音に関心を持たないし、雨音の事を話しもしない。 夏美はよく彼にそう話していたのに、それは夏美が彼の気を引くために言っている戯言だと、気に留めず、相手にもしなかった。プルル……携帯にメールが届いていた。差出人は夏美……! 高鳴る鼓動、しかし送られてきた写真は、無惨にも彼の心を引き裂いた。 雨音は、黒いフレームの中で、昔のように、無邪気に笑っていた。 声もなく、ただ涙がこぼれ落ちた。心臓が抜き取られ、五臓六腑が引き裂かれる思いだった。 傍にいた看護師が、悔しそうに言った。「ここに運ばれて来たとき、あの子の指はセメントだらけで、可哀想にまだ五歳なのに。どんなに苦しかったか、怖かったか。もう少し早くここへ運ばれていたら助かっていた筈なのに。信じられないわ、自分の子にこんなひどい事をする親がいるなんて!」 セメント、サンルーム…… 身体が雷に打たれたようだった。 あの日は雨音の誕生日だった。しかし、業者に施工する指示は出していなかった。なのになぜ、彼らはあの日施工を? 聡は震える指を抑え、冷静に、業者に電話をかけた。「確認したい事があるんだ。五月十八日に施工の指示を出した覚えがないのだが、なぜあの日許可もなく、作業をしていたんだ?」 業者は困惑しながら答えた。「藤野さんから作業するように指示されたんですよ。私も少し戸惑ったのですが、社長からそう伝えるように頼まれた、と仰ったので作業を始めたんです」 ぼんやりとした記憶が甦る。確かあの日は、プレゼントを持って家に帰り、普段着に着替えてから真美を迎えに行った。その時、真美がサンルームに星形のライトをつけたいと言って、彼に意見を聞いていた。
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第8話
秘書から送られてきた資料によると、真美が帰国した理由は夫との死別ではなかった。 そして、彼女が海外へ行ったのは、聡の父に言われたからではなく、むしろ、多額の違約金を手に入れ、自ら出国したと書かれていた。 また、彼との交際期間中も、彼女はある富豪と愛人関係にあり、彼との間に悠果を妊娠していたのだ。 真美は当時、妊娠した事実と金さえあれば、妻の座が手に入ると考えていたが、その後富豪が急死し、娘である悠果でさえ、相続権を得る事ができなかった。 そればかりか、富豪の妻は今も、真美と悠果の命を狙って、世界中を探し回っているという。 帰国後、生活のため、彼女がターゲットにしたのが聡だったのだ。 彼女は、雨音が喘息である事や、アレルギー体質である事を調べていた。 その上で聡にサンルームを造ってほしいと密かにねだったのだ。 あの日、真美は雨音が別荘にいる事を知って、業者に作業するよう指示を出していた……「真美、君にもう一度だけチャンスをやる」 聡は真美を見つめた。もうとっくに気持ちは決まっていたが、もう一度だけ真美にチャンスを与えたいと思った。 真美は泣きじゃくった。こんな事になるなど、思いもよらなかったのだ。「聡さん、私はこの家が好きなの。ただ、あなたの家族の事をもっと知りたかっただけ。それの何がいけないの?」 聡は口元を引き締めた。 冷たい笑みを浮かべ、電話をかけ始めた。「山口(やまくち)さん、あなたの探している人はここにいますよ。場所は…」 真美が反応した時、聡はすでに電話を切っていた。「聡さん、今……誰と話してたの?」 聡は何も答えず、微笑んだ。 真美は突然取り乱し、狂ったように聡に掴みかかった。「答えろ!何でそんな事したんだ!?」 聡はうんざりして、真美の胸元を蹴り上げた。そして、かつてないほど冷酷な眼差しで言った。「真美、お前は雨音に手を出すべきじゃなかった。あの子は俺の娘なんだ」 言い終わると、ドアが蹴破られ、黒服を着た男達が数人駆け込み、真美と娘を外へ引きずり出した。 外で真美が大声で叫んでいた。「聡、忘れたのか、私がお前のせいで海外でどれほど惨めな思いをしたか!?」 聡は右手をポケットに入れ、左手でタバコに火を点け、煙を深く吸い込んだ。 漂う煙の中、彼はゆっ
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第9話  
飛行機を降りて、まず雪姫高原でスキーをした。その後、動物園で鹿にせんべいをやり、最後は西雲市に戻って住む場所を決めた。 これは、生前の雨音と決めていた事だった。 聡に嫁ぐ前、私は青柳家に雇われた家政婦の産んだ子で、まったくの世間知らずだった。 聡との結婚を機に、私は青柳家の嫁となり、そして母になった。 青柳家には家政婦や姑も同居していたけれど、それでもやはり、自分の事は自分でやらなければならない、そう思っていた。 いつしか私には、青柳家の嫁、専業主婦という肩書が生まれ、「林(はやし)夏美」という名はどこかに忘れ去られたように思えた。 以前は誰からも感謝される事はなかったが、西雲に来て、自分の好きな家事が職業になるのだと知った時は驚いた。 西雲での暮らしが落ち着いた後、私はコミュニティカレッジに入学し、ライフオーガナイザーになるための勉強を始めた。そこで出会った先生や同級生と交流し褒められる内に、自然と、自分の強みや興味を見つける事ができた。 昼間は講義で忙しくしていたが、家に帰ると、どうしても雨音の事を思い出した。そして、そのたびに、辛く悲しい思いが胸に溢れた。 もし私が勇気を出して、雨音と一緒に青柳家を出ていたら、雨音は今も生きて私の傍にいたのだろうか? 妄想と現実を行ったり来たりしながら、私はいつまでも思想の束縛から抜け出せずにいた。 そう、コミュニティカレッジで、優等卒業生として表彰台に立った、あの時までは。 あの日、鳴りやまない拍手の中、校門の傍で手を振る小さな人影に目が留まった。「ママ、新しい人生の幕開けだね。これでもう安心できるよ。きっと、明るい未来が待ってる。私はもう行くけど心配ないよ、これからは寂しいなんて思わなくても大丈夫だからね……」 それからは、悪夢にうなされることはなくなり、雨音の夢を見る事もなくなった。 卒業後、私はある学校に招かれ、そこで開催されたいくつかの大会に参加し、その結果、幸運にも客員教授として採用されたのだった。 また、ある資産家が私にビジネスの話を持ち掛けてきた。彼は、私に「ハウスキーパーの女王」というペルソナを設定してIPプロジェクトを立ち上げ、新たにメディア業界に参入したいと申し出た。 いくらかのオンライン出演を経て、瞬く間に私は話題のインフルエンサーとい
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第10話 
賢治と別れた後、マンションのドアを開けると、突然部屋の中にいた人物に身体を押さえつけられ、激しく唇を奪われた。 懐かしい匂いに、心臓が引き裂かれるような感覚が甦り、めまいがした。「夏美、会いたかったよ。明日一緒に家へ帰ろう」 聡の指がそっと唇をなぞる。声には抵抗できない威圧感があった。「ごめん。俺が悪かったんだ。でも雨音の仇は取ったよ。人を雇って真美を強姦させ、その後、富豪の妻、あの山口の元へ送ってやったんだ。あの女はかなりの悪事を行ってきた、当然の報いを受けたんだよ。娘の悠果は病気で移動中に死んだ……」 聡は始終無表情で話していた。身体中に悪寒が走った。「聡さん、私達の関係はもう終わってるわ。放して!」 振り払おうとしたが、聡はさらに強く私の身体を引き寄せた。 身体をかすかに震わせながら、聡は薄ら笑いを浮かべている。「過去の事はもう忘れよう、ね?俺はお前にひどい事をしたけど、お前だって俺を散々苦しめただろ?でも大丈夫、やり直すんだ。最初からね。今までの事は全部忘れて……」 聡は息を荒げながら、またキスをしてきた。頬、唇に、次第に下へ。唇が胸元に近づいた時、私は言った。「あなたにはもううんざり。本当に、心底うんざりしているの。私だけじゃない、雨音も同じよ。お願い、もうこれ以上、私達に関わらないで」 聡の身体が硬直している。 しかしその直後、聡は私の洋服を引き剝がし、獣のように荒々しく首筋にキスをしてきた。 狂ったように首筋に噛みつき、抵抗する私を、ベッドに押し倒し、血走った眼で覆いかぶさってきた。「雨音を亡くした気持ちならよくわかる。俺だって雨音には申し訳ない気持ちでいっぱいだよ。俺は全然いい父親じゃなかった。でも……夏美、俺達また子どもをつくろう。お前に誓う、今度はいい父親になってみせる。だからもう一度、雨音を産んでほしいんだ……」パチン―― 気付いたら、彼の頬を打っていた。身体が震えている。「雨音はこの世でたった一人しかいない私の娘よ!でも死んでしまった、雨音の代わりなんてどこにもいないのよ!」 聡の目つきがかわったのがわかった。 彼は私の両手を頭に押し付け、ベルトを引きちぎり、狂ったように私の首筋にしゃぶりついた。「いいから言う通りにするんだ。俺達の子を産んでく
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