「梓、ドアを閉めて」
怜司は玄関に立ち、驚いてソファの下へ逃げ込んだ猫を先に見てから、ようやく私に目を向けた。
千晴は、もうスリッパに履き替えていた。靴箱には同じデザインの男性用もある。急に用意したものではないのは明らかだった。
ドアを閉めて足元を見ると、私には使い捨てのスリッパが一足、置かれていた。
怜司の口調は淡々としていた。
「早く来るなら、どうして言わなかった?」
「メッセージは送ったよ」
「会議中で、スマホを見ていなかった」
そう言うと、彼はスーツの上着を千晴に渡した。
彼女は当たり前のように受け取り、振り返ってウォークインクローゼットに掛けると、慣れた手つきで冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出した。
猫がソファの下から顔をのぞかせた。
千晴はしゃがみ込み、優しく手を差し伸べる。
「モチ、ママが帰ってきたよ」
怜司の眉間にあった険しさが、少し和らいだ。
「あまり甘やかさないでくれ。さっきもまたカーテンを引っかいて駄目にしたんだ」
立ち尽くしたまま、私は指先をゆっくりと手のひらに食い込ませた。
モチという名前だったんだ。この家には、千晴の指紋も、スリッパも、コップもある。それだけではない。彼女の帰りを待つ猫までいた。
私は十数回も来ているのに、置いておく歯ブラシさえ自分で持ってこなければならなかった。
千晴は猫を抱き上げ、ようやく私の存在を思い出したように言った。
「森川さん、誤解しないでね。怜司は仕事が忙しいから、私がたまにモチの世話をしに来てるだけなの」
「たまにって、どのくらい?」と私は尋ねた。
猫の背中をなでる彼女の手が、一瞬止まる。
「週に3、4回かな。遅くなったときは、ゲストルームに泊まることもあるけど」
怜司が眉をひそめた。
「そんなことを聞いて、何か意味があるのか?」
「あるよ」
私は彼を見た。
「怜司、私たち、付き合って3年だよ。私はあなたの家に来るのに、前もって許可を取らなきゃいけない。彼女はいつでも入れて、泊まることまでできる。それって公平だと思う?」
彼はアイランドキッチンへ行き、コップに水を注いだ。
「千晴はモチの世話をしている。自由に出入りできるようにしておく必要があるんだ」
「私は?」
「君には必要ない」
たったひと言。迷いもためらいもなかった。思わず笑いが漏れた。
「恋人なのに、あなたの家に入る必要はないってこと?」
「梓、恋人だからといって、越えていい境界じゃない」
怜司はコップを置き、指先でキッチンカウンターを軽く二度たたいた。苛立ったときの彼の癖だった。
「何度も言っただろう。自分の空間に勝手に踏み込まれるのは好きじゃない。今日、急に来たこと自体、よくないんだ」
「でも、望月さんが来るのはいいのね」
「彼女と君は違う」
千晴は目を伏せ、小声で彼をなだめた。
「怜司、そんな言い方しないで。森川さんが傷つくよ。私の指紋登録、消そうか?これからは管理会社の人に開けてもらえばいいんだし」
消すと言いながら、彼女は動かなかった。
案の定、怜司が止めた。
「その必要はない。モチには君が必要だ。彼女がすねたからって、今までのやり方を変えることはない」
モチは千晴の腕から飛び降り、私を避けて、慣れた様子で怜司の足元に寝そべった。
彼は身をかがめ、その頭をなでた。
3年前、ペットショップの前で、前の飼い主が手放した茶トラの猫を気に入ったことがある。怜司に3回頼んだ。でも、一度も頷いてはくれなかった。それだけは譲れないのだと思っていた。
今ならわかる。譲れるかどうかも、相手次第だったのだ。
私は彼のために買ったネクタイをバッグから出し、キッチンカウンターに置いた。今日は、付き合い始めて3年の記念日だった。早く来たのは、彼を驚かせて喜ばせたかったからだ。
千晴は箱に目をやると、ふと笑った。
「これ、見覚えがある。怜司、もう持ってなかった?」
怜司は箱を開け、ひと目だけ見た。
「ああ。先月、君が似たものをくれた」
千晴は申し訳なさそうに私を見た。
「ごめんね、知らなかったの。あのネクタイ、怜司にぴったりだと思ってつい……」
怜司は箱の蓋を閉め、私の前へ押し戻した。
「返品しておいで。無駄にすることはない」
「今日が何の日か、覚えてる?」
彼は腕を上げ、時計を見た。
「木曜日」
不意に、千晴のスマホが鳴った。電話を終えた彼女は、少し困った顔をした。
「動物病院から、モチの追加の予防接種の時期だって。でも私、夜は用事があって」
怜司は車のキーを取った。
「俺も一緒に行く」
玄関まで来て、ようやく私を振り返る。
「君も早めに帰って。これからは、俺の返事を待ってから来るように」
私はネクタイの箱を手に取らなかった。ただ、小さな声で尋ねた。
「怜司、私もこの家に自由に入れるようになりたいって言ったら?」
彼は2秒、黙った。
「梓、そんなやり方で俺を試さないでくれ」
目の前で、ドアが閉まった。
……
翌日の午後、怜司からメッセージが届いた。
【昨夜の態度は悪かった。だが、急に押しかけてきた君にも非がある。お互い反省して、この話は水に流そう】
私はその文面を長いこと見つめ、【わかった】とだけ返した。
すぐに、今度は店の住所が送られてきた。
【今夜は部署の食事会だ。俺の同僚に会いたいって、前から言ってただろう?18時に来て】
この3年間、彼は仕事関係の集まりに私を連れていったことがなかった。昨夜の言い争いで、少しは変わってくれたのかと思った。
仕事が終わると、私はわざわざ家に戻り、ワンピースに着替えた。
店に着いたときには、個室はもう人でいっぱいだった。怜司の隣に、一つだけ空いた席がある。
そこへ向かいかけたところで、千晴がケーキを提げて入ってきて、笑顔で言った。
「ごめんね。モチの手当てが長引いちゃって」
すぐに誰かが声をかけた。
「黒瀬家の奥様、お席は取ってありますよ」
千晴が頬を赤らめる。
「そんな呼び方しないで。森川さんもいるのに」
一瞬、個室が静まった。十数人の視線が、一斉に私へ向いた。
怜司は何も説明せず、千晴のために隣の椅子を引いただけだった。
「座って」
私はテーブルのそばに立ち、自分のために空けられているように見えた席を見つめた。
同僚が慌てて取りなした。
「森川さんは、こちらへ。弁護士の河原(かわはら)先生をご紹介します。黒瀬さんから伺いましたが、最近、お仕事でもご一緒されているんですよね?」
私はいちばん端の席に座った。
怜司が私を呼んだのは、恋人だと認めるためではなかった。私たちの会社が共同で入札に参加しているから、契約書の確認を担当する弁護士と引き合わせておきたかった。それだけだった。
食事が始まってからも、話題はプロジェクトのことばかりだった。
怜司は黙々と食べ、ときおり顔を傾けて千晴の話に応じていた。
私の取り皿は、ずっと空のままだった。卓上の料理には、ほとんどピーナッツが入っていた。私は重いピーナッツアレルギーだ。
この店を選んだのは、千晴だった。
付き合って1年目に、ピーナッツのソースをうっかり口にして、病院で手当てを受けたことがある。あの夜、怜司は明け方まで付き添い、私のアレルゲンをスマホにメモしていた。
それくらいは、覚えてくれていると思っていた。
けれど彼は、顔を上げて私を見ただけだった。
「どうして食べない?」
「食べられるものが、ほとんどないから」
「好き嫌いはよくない」
千晴が、すぐに店員を呼んだ。
「サラダを一つ追加してください。ピーナッツは入れないで。怜司、森川さんはピーナッツアレルギーでしょう。忘れたの?」
怜司の手がわずかに止まった。
「……最近、忙しくてな」
謝罪はなかった。代わりに、千晴が優しい声で私を慰めた。
「この人、自分の誕生日も忘れるくらいだから、気にしないで。私たち、10年の付き合いだけど、私のアレルギーまで忘れることがあるの」
同席していた一人が笑った。
「またまた。この前、君がマンゴーアレルギーだって、黒瀬さんは取引先から届いた果物を全部送り返したじゃないか」
別の人が続けた。
「黒瀬さんは物忘れがひどいんじゃなくて、大事なことしか覚えないんですよ」
急に、場が静まり返った。言った本人もまずいと気づいたらしく、気まずそうに酒をひと口飲んだ。
ようやく怜司が眉をひそめた。けれど、その相手は彼らではなかった。
「梓、そんな顔をしないでくれ。みんな冗談を言っているだけだ」
何でもないことのように言われた。
まるで私が恥をかかされたのではなく、場違いな態度を取っただけのように。
私は唇の端をわずかに持ち上げた。
「今夜、私を呼んだのは、仕事の話をするため?」
彼は手を拭いた。
「ほかに何がある?」
「同僚の人たちは、私たちが付き合ってるって知ってるの?」
怜司の目が、少し冷たくなった。
「たかが冗談を、わざわざ人前で問題にするのか?
私的な関係を仕事の場に持ち込む必要はない。君はプロジェクトの協力相手だ。感情的になって、仕事の実力まで疑われるようなことはしないでくれ」
心が一瞬で冷たくなった。私は立ち上がり、バッグを取った。
千晴も立ち上がった。
「帰らないで。あなたに謝るよう、私からみんなに言うから」
「結構です」
私は怜司を見て、静かに言った。
「黒瀬さんのおっしゃるとおりですね。私的な関係で、仕事に影響を与えるべきではありません」
怜司の眉が、ぴくりと動いた。
私は初めて、彼が送ってくれるのを待たずに、一人で個室のドアを開けた。
ドアが閉まりかけたとき、中から同僚のひそめた声が聞こえた。
「黒瀬さん、あの子、本当に恋人なんですか?」
短い沈黙のあと、怜司が平然と答えた。
「まだ、どうなるかわからない。千晴の前で余計なことは言わないでくれ」
……
確かに怜司は、仕事と個人的な感情をきっちり分けている。そのことが、よくわかった。
翌日の午後、入札に向けたリハーサルの前に、アシスタントが新しい進行表を手に、驚きもあらわに駆けてきた。
「森川さん、メインのプレゼン担当の名前、どうして変わっているんですか?」
受け取って、目を通す。
進行表の、もともと私の名前があったメインのプレゼン担当の欄には、はっきりと千晴の名が載っていた。
この住宅プランは、コンセプトから300枚を超える図面まで、私がチームを率いて半年かけて作り上げたものだ。千晴は会議を2回、傍聴しただけだった。
私は進行表を握りしめ、そのまま会議室のドアを開けた。
「怜司、説明して」
彼は身をかがめ、千晴のためにプロジェクターを調整していた。私の声を聞いても、淡々と目を上げただけだった。
「急な変更だ。千晴が説明して、君は質疑応答を担当する。彼女はマーケティング部門の責任者だ。君より説明がうまい」
私は進行表を机に置いた。
「核になるコンセプトも、平面図も、模型も、全部私のものよ。望月さんは図面の寸法を確認したことすらない。どうして彼女がメインのプレゼンをするの?」
千晴はノートパソコンを閉じ、静かに言った。
「あなたの手柄を横取りするつもりはないの。最近のあなたは調子がよくないから、本番で取り乱さないか心配だって、怜司が言ってたの」
「私がいつ、取り乱したの?」
怜司が口を挟んだ。
「昨夜、チーム全員の前で俺たちの関係を問い詰めただろう。あれで、協力し合う雰囲気を壊したんだ」
怜司は椅子を引き、私に座るよう促した。
「梓、俺と千晴が親しくしているのが気になるのはわかる。でも、これは40億円の案件だ。君の機嫌を取るために使うわけにはいかない」
彼の口調は、相変わらず落ち着いていた。けれど、ひと言ひと言が、私のデザイナーとしての実力を否定していた。
「だから、私の成果を彼女に渡すの?」
「説明を任せるだけだ」
「じゃあ、誰の名前を載せるの?」
私は進行表の最後のページを開いた。メインデザイナーの欄まで、千晴に変わっていた。
会議室では、誰も何も言わなかった。チームの何人かは俯き、私と目を合わせようとしない。
怜司は眉間をもんだ。
「クライアントは千晴を買っている。彼女の名前を出したほうが、受注しやすい。案件を取れたら、ボーナスも利益の取り分も、きちんと払う」
千晴が、水の入ったコップを差し出した。
「怒らないで。受注できたら、祝賀会であなたのことも話すから」
私は受け取らなかった。
「このプランの初稿、見たことある?」
千晴は答えられなかった。
怜司はとうとう我慢しきれなくなり、冷たい声で言った。
「今日から、君はプレゼンのチームを外れる。残りの資料は千晴に渡して。今後の会議にも出なくていい」
胸が締めつけられた。
「怜司、何の権利があって、私を外すの?」
「俺がこのプロジェクトの総責任者だからだ」
「著作権は私が持ってる」
「契約書に明記してある。プロジェクトの期間中に生まれた設計成果は、共同チームに帰属する」
彼は私のことをよくわかっていた。あのとき、彼と一緒に仕事がしたくて、契約書を一条ずつ確認しなかったことも。
渡すとき、彼が言ったのはひと言だけだった。
「君に損はさせない」
それで、私は署名した。
千晴が私の前へ来て、優しく言った。
「森川さん、恋愛のことで、みんなの仕事を止めないでくれる?怜司だって、プロジェクトのためにやってるの」
私はプロジェクターの接続ケーブルを抜いた。画面が、突然真っ暗になった。
怜司が私の手首をつかんだ。力は加減していても、振りほどくことは許さない握り方だった。
「やめてくれ。ケーブルをつなぎ直して。プロジェクトが終わったら、埋め合わせはする。
千晴がここで足場を固めるには、この案件が必要なんだ。君はもう2つも賞を取っている。今回くらい、なくても困らないだろう」
私は彼の目を見据えた。
「彼女が必要としてるから、私が譲るべきなのね?」
怜司は正面から答えなかった。
「どうして彼女と張り合う?」
ふいに、争う気が失せた。手首の力を抜くと、彼も手を放した。
私は接続ケーブルを千晴に渡した。
「わかった。あなたが説明して」
怜司の表情が、少し和らいだ。
「仕事が終わったら会いに行く。そのとき、また話そう」
「もういい」
私は背を向け、会議室を出た。
エレベーターのドアが閉まる前に、プロジェクトのアシスタントが追いかけてきて、書類の入った封筒を私に押しつけた。
「森川さん、黒瀬さんから処分するように言われた古い資料です。シュレッダーにかけるところだったんですが、森川さんのものが入っているかもしれないと思って」
私は封筒を開けた。いちばん上にあったのは、3年前の新人デザインコンテストでの申し立ての記録だった。
申し立ての対象者は、千晴。申し立てた側にあるのは、私、森川梓(もりかわ あずさ)の署名だった。
そして、対応方針の最後のページに、怜司が直筆で署名した社内メールが一通、挟まれていた。件名は、ただこう書かれていた。
【森川梓に接近し、申し立ての取り下げを促す計画について】
……
3年前、私は新人デザインコンテストに参加した。決勝の前夜、私の応募作品は何者かによって無断で公開された。千晴は、それとほとんど同じプランで金賞を取った。
私は異議を申し立てた。けれど主催者は証拠不十分だと言い、調停を受け入れるよう勧めてきた。
どうすることもできずにいた私の前に、怜司が現れた。
彼は弁護士に連絡を取り、一緒に証拠を整理してくれた。私が高熱を出したときには、一晩中付き添ってくれた。
その後、証拠を保存したドライブが思いがけず壊れ、申し立てを続けられなくなった。
彼は言った。
「もうやめよう。一度のコンテストのことで、いつまでも立ち止まっていなくていい。君には俺がいる」
それが、彼を好きになったきっかけだった。この3年間、彼が私を愛してくれたと信じられる、たった一つの証拠でもあった。
けれど、そのメールの日付は、私たちが初めて会った日の7日前だった。
私は一枚ずつ、めくっていった。千晴が彼に送ったメッセージがあった。
【森川さんは、まだバックアップを持っているかもしれない。叔父様が、この件が大事になれば、会社の次の資金調達に響くって】
怜司の返信。
【俺が彼女に接触する】
【すごく警戒してるけど、うまくいく自信はあるの?】
【愛情に飢えている人間ほど扱いやすい。少し辛抱強く付き合ってやれば、自分から諦める】
最後のやり取りは、私たちが付き合うと決めた翌日だった。千晴が尋ねていた。
【彼女、申し立てを取り下げた?】
怜司は返していた。
【もうすぐだ。なだめるのは簡単だよ】
手の中で、紙がかすかに鳴った。
ちょうどそのとき、スマホの画面が明るくなった。母からの電話だった。
今日は、母が腫瘍の摘出手術を受ける日だった。怜司は、来ると約束していた。
病院に着いたときには、もう看護師から2回、催促されていた。
母は病院のベッドに横たわり、顔色が悪かった。
「怜司さん、渋滞にでも巻き込まれたの?」
「うん。もうすぐ着くよ」
私は非常階段へ行き、怜司に電話をかけた。
1回目は、出なかった。2回目は、切られた。3回目に出たのは、千晴だった。
「森川さん、怜司は今、手が離せないの」
「彼に代わって」
「モチがいなくなって、捜してるの。臆病な子だし、外は雨でしょう。本当に危ないのよ」
私はスマホを握りしめた。
「母は30分後に手術なの。来るって約束したのよ」
千晴は少し黙った。
「でも、手術はお医者さんがしてくれるし、あなたもいるでしょう。モチには、私たちしかいないの」
怜司が電話を代わった。呼吸が少し乱れ、電話の向こうからは雨音が聞こえた。
「梓、お母さんの手術は覚えている。でも、モチがいなくなったんだ」
「今から来れば、まだ間に合う」
「千晴は心配のあまり、喘息の発作を起こした。こんなところに一人で置いていけない」
「じゃあ、私の母は?」
「よくある手術だし、危険性も低い。君がそばにいるなら、それで十分だろう」
少し間を置き、彼は口調を和らげた。
「言うことを聞いてくれ。モチが見つかったら、すぐに行く」
言うことを聞いてくれ。3年前、申し立てを取り下げるよう説得したときも、彼はそう言った。
「梓、言うことを聞いてくれ。もう追及はやめよう。君なら、これからもっといい作品を作れる」
私は冷たい壁にもたれ、尋ねた。
「怜司、最初に私へ近づいたのは、望月さんのためだったの?」
電話の向こうが、急に静かになった。傘をたたく雨音だけが聞こえる。
その沈黙が、すでに答えだった。
「……何を言いたい?」
「そうか、違うか。それだけ答えて」
「昔のことは複雑なんだ。電話では説明しきれない」
「つまり、そうなのね」
怜司の声が低くなった。
「最初に君へ近づいた理由には、確かに彼女が関わっていた。でも、そのあとは違う。梓、そこにこだわりすぎないでくれ」
「証拠の入ったドライブ、誰が壊したの?」
「知らない」
答えるのが、あまりにも早かった。
そばで千晴が泣きながら、モチの名前を呼んだ。
怜司はすぐに言った。
「ひとまず切る。またあとで連絡する」
通話が切れた。
看護師が非常階段のドアを開けた。
「森川さん、お母様が手術室に入られます」
私は頬を濡らしていた涙を拭った。
手術室へ運ばれながらも、母は私を慰めていた。
「怜司さんを責めないでね。仕事は大事だから」
私は母の手を握り、笑顔で頷いた。
4時間後、手術は無事に終わった。
ようやく怜司からメッセージが来た。
【猫は見つかった。お母さんはどう?】
私は返事をしなかった。
昔の申し立ての記録をすべてスキャンし、3年間使っていなかったメールアカウントに再びログインした。
宛先の欄には、コンテストの実行委員会、共同プロジェクトのクライアント、そして業界団体の通報窓口のアドレスを入れた。
添付したのは、当時の手描きの原稿だけではない。怜司の社内メールと、たった今見つけ出したクラウドのバックアップ記録も加えた。
最後に、共同プロジェクトの管理画面を開いた。
設計の使用許諾を取り消す。自分の電子署名を削除する。
画面に、続けて二つの警告が表示された。
【取り消すと、このプロジェクトは入札への参加を継続できなくなります】
【よろしいですか?】
私は確認ボタンを押した。
同時に、怜司から音声メッセージが届いた。
「梓、君の指紋も登録していい。もうすねないでくれ。今夜、病院へ迎えに行く……」
最後までは聞かなかった。
画面の中で、通報メールの送信状況を示すバーが、端まで伸びた。
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