「向井《むっかい》ちゃーん!」
いきなり気やすげに名前を呼ばれて、私はゾクリと肩を震わせる。 本当何なの。 自慢じゃないけれど、そんな砕けた呼び方で私を呼ぶ友人はひとりもいない。 こんな変な呼び方で私を呼ぶのはあの男ぐらいしかいないから。無視よ、無視! 私はあえて聞こえていないふりをして、歩く速度を緩めない。 だって今、私はバイト中じゃないし、声の主だってお客さんじゃない。 立ち止まって、バイト先の常連客である彼に時間を割く必要なんてどこにもないのだ。 それに―― それに……あんなことがあったのに、気まずくないの? 「うっわー、あからさまに無視するとか感じ悪ぅーい」 なのに、いっかな懲りた風のないその男は、わざわざ早足で私に追いつくと――というか私を追い越すと、行く手を阻むみたいに前に立ち塞がるの。 人が三人並んだらいっぱいいっぱいの狭い路地。 彼に手を広げられて通せんぼをされたらお手上げ。 はぁっと大きな溜め息をついて長身な彼を見上げたら、ニヤリとされた。 身長一五七センチの私から見ると、一八〇あるらしい彼は本当に大きくて。 間近に立たれると仰ぎ見るように見上げなくてはいけない。 それがまた見下されてるみたいで腹立たしいの。 「邪魔なんですけど」 彼の明るく染められた少し長めの髪の毛が、太陽の光を受けてキラリと輝いた。 北欧の人でもあるまいに、ともすると金髪にも見えそうなその髪を見て、年甲斐もなく馬鹿なんじゃないの?とか思ってしまう。 私より一回り以上も年上なくせに、全く地に足のついていないようなこの外観。 今は付けていないけれど、ピアスの穴だって開いてるの、知ってるよ? 遊び人然とした彼の雰囲気が、私は本当に大嫌い。 もちろん、中身も見た目を裏切らず軽薄で本当イヤ。 大事な人がいるくせに、こんな風にあちこち女の子に声をかけるところも。 さほど仲もよくないのに、ほんの少し顔見知りというだけで、こんな風に異性の前に立ちはだかって足を止めさせるところなんて馬鹿なんじゃないの?って思ってしまう。 「今日もご機嫌斜めだね、向井《むかい》ちゃん。なになに? もしかして女の子の日?」 信じられないぐらいデリカシーのない言葉と一緒に、無遠慮に伸ばされた彼の手が、私の左側のお下げをつまみ上げる。 「ゴム、まだ返せてねぇけど、違うのつけてるの?」 「触らないでっ!」 咄嗟に跳ね除けようとした手を、待ってましたとばかりにギュッと掴まれて、「却下」ってニヤリとされた。 「いきなり親しくもない女性の髪を引っ張ったり、手首を掴んだりするなんて失礼だと思わないんですか?」 こういうやからは少しでも甘い顔をしたらすぐにつけ上がる。 前もそのせいで、この男にヘアゴムをほどかれたのだ。あのとき奪われたの、まだ返してもらってない。 私はキッと彼を下から睨みつけると、掴まれた手を振りほどこうと引っ張った。 「……っ」 さして強く掴んでいる風でもないのに、全然離れてくれない手に焦燥感が募る。 バスの時間だって迫ってる。 「離して!」 焦りつつ言ったら、「お願いできたらな」って笑われた。 何でお願いしなきゃいけないの!? 思ったけれど、力では絶対に敵いそうにないので、不本意ながら言い直す。 「離してください、お願いします!」 この際声が棒読みになったのは大目に見てもらわないと。 吐き出すように言った言葉に、眼前の男がククッと喉を鳴らした。 「誰にお願いしてんのか、ちゃんと分かるように名前も言ってくんなきゃ」 言われて、私は正直言って溜め息をつきまくりたい衝動に駆られた。 でもそれもこの男を喜ばせるだけだと知っているから、落とすのはひとつだけに留めておこうと決意する。大学生活が始まって程なくして、私は近所のコンビニ――セレストア――で、平日の十八時から二一時の時間帯を中心に、シフトを組んでもらえるようにお願いしてバイトを始めた。 現在時刻は19時半。 夕方と夜の橋渡しのような微妙な時間帯だけれど、夕飯やお酒やおつまみなんかを求めて来るお客さんで、結構店内は賑わっている。 にもかかわらず、お店って不思議と一気にレジへ人が押しかけるタイミングと、あれ?ってぐらい人が引ける瞬間があって……今は後者に当たっていた。 店内に散らばって買い物中のお客さんたちから見えないように一度背後を振り返ってうつむくと、ふぁ、と小さくあくびを噛み殺す。 昨夜も夜遅くまで勉強をし過ぎてしまった。 「眠い?」 一緒にシフトに入っている谷本くんに小声で聞かれて、私は慌てて背筋を伸ばした。 「ご、ごめん、なさっ」 3人体制の勤務で、1人が自分より少し年配の男性店長、もう一人が同年代の男の子は結構ハードルが高くてキツイなって思ってしまう。 女の子でも馴染むまで時間かかってしまう私だけれど、異性に感じるほどの気まずさは感じないのに。 谷本くんは他所の大学の学生さんで、私より一つ上。 学部が違うから学んでいる内容は違うと思うし、あまり大学の話――というより私生活については私、語らないようにして過ごしている。 そんなの私なんかに話されても困るだろうし、とか思って勝手に線引きしているだけなんだけど、谷本くんの方はそうでもないのかな? 割と気楽に話しかけて来るから、結構ドキッとしてしまう。 「あ、ごめん。責めてないよ? ただ、今日は目元がいつもに増して潤んでるから、あくび、ずっと我慢してるのかな?って思ってた」 クスクス笑われて、私は慌てて指先で目尻をこすった。 「そんなひどくしたら赤くなるよ?」 心配そうに言われたところで、谷本くん側のレジにお客さんが並ぶ。 「いらっしゃいませ」 谷
「ところで凜子。バス、間に合わなかったんじゃね?」 って、如何にももののついでみたいに言ってきて……その瞬間、私が困ってるの、やっぱり知ってたんじゃないって思って、すごく腹が立ったの。 っていうか……だったら今の私がこんなことをしている場合じゃないっていうのも、分かるよね? 「そうよ! だから……離してっ! 私、急いで大学に行かないといけないのっ!」 再度 奏芽《かなめ》さんの腕からすり抜けようともがき始めた私に、奏芽さんが「どうやって?」って静かに問いかけてきて、私はグッと言葉に詰まる。 「まさか走って行こうってわけじゃねぇだろ?」 畳み掛けるように言われたセリフに、ますます言葉を失って黙り込んだ。 「なぁ、俺が車で連れてってやろうか?」 奏芽さんがまるで満を持したみたいにそう言って私の耳元でクスッと笑った時、絶対確信犯だって思ったの。 だから――。 本当は喉から手が出そうなくらい願ってもない申し出だったけれど、フルフルと首を横に振って彼を拒絶した。 「かっ、奏芽さんの車に乗ったら……真っ直ぐ大学にたどり着ける気がしないので……っ!」 言って、素早くしゃがみ込んで彼の腕をまんまとすり抜けると、私は再度捕まったりしないで済むように、くるりと向きを変えて彼を視界に収めた。 一歩、二歩と後退りながら彼から距離を取りつつ、奏芽さんの出方を窺う。 奏芽さんは心底楽しそうにニヤリと笑うと、私が下がった分以上の距離を詰めてきて。 「さすが俺が見込んだ女だな、凜子! そういうお堅いところ、正直たまんねぇわ。……けど、まぁそうだなぁ。だったら――」 そこでスマホを取り出すと、何やら操作をしてから、「タクシー呼んでやったから」って私に画面を見せてくる。 何?と不審に思ったのも束の間。 私はすぐに驚きの声を上げてしまった。 「うそっ。最近って、アプリでタクシー呼べちゃうのっ!?」 タクシーといえば道路を流しているの
「で、さっきの続き。誰のこと考えてた? もしかして……前に俺の目の前で電話した相手?」 わー、まだそれ言うんだ。結構しつこーい。しかもあんな電話のこと覚えてるとか……少しびっくりです! 私は彼の目をまっすぐ見返すと 「奏芽《かなめ》さんには関係ありませんけど――」 キッパリそう言って、フイッと背中を向けてやったの。 そんなことよりも、今の私にはどうやって大学へ行くか?の方が重要なの! あなたにはお休みでも、学生の私にとっては普通の日なんだと、いい加減気付いてもらえませんか? 「何だよそれ……」 なのに。背後からの不満たらたらな声に、言わないといつまでもしつこそうだなって思い直した私は、振り返らないままに「そう、前話した電話の人! 私の初恋の人です。奏芽さんも会ったことあるでしょ!?」って答えた。 ゴム返すとか何とか言って私とのぶちゃんの間に割り込んできたじゃない。 結局色々あってゴムは返してもらってないけど……。 でもそのせいで私、色々悩んだのよ? これで満足ですか? ちゃんと答えたんだからもういい加減解放してください。 そう続けようとしたら、後ろから包み込むようにギュッと抱きしめられて、思わず言葉に詰まった。 えっ。 ちょっ、な、なにっ。 奏芽さんの長めの髪が頬をかすめた途端、ふわりと彼が使っているらしいシャンプーの香りが鼻先をくすぐって、それが妙に心をざわつかせた。 てっきり如何にも香水ですっていうマリン系の香りとかそういうのがこの人には似合うと勝手に思っていたのに、まさかの柑橘系の香り。そのギャップにもドキッとさせられてしまう。 「あ、あのっ、お願いなのでっ、そういうのは私以外の人にっ!」 何だかにわかに恥ずかしくなって、一生懸命奏芽さんの腕を振り解こうとしたら「あれからあいつに会ったのか?」って耳元でささやかれる。 「かっ、奏芽さんには……関係ありませんっ」 あの夜以来、のぶちゃんとも奏芽さん同様気
私をぐちゃぐちゃにかき乱すそういう言動の数々、大っ嫌い。 私は基本的に異性に対する耐性が、ものすごく低いの。 なのにこの人の過剰なまでの距離感のなさは、私には毒にしか思えない。 小さい頃からずっと地味子できたから、異性と話したことなんて数えるぐらいしかないの。 だからお願い、そっとしておいて? 私が気負わずにおしゃべりできる男の子はたった一人だけなんだから。 そこでふと、今は何だか少し気まずい雰囲気になってしまっている幼なじみのお兄さんの顔が思い浮かんで、私は思わずうつむいた。 私より六つ上の彼は、今や立派な社会人。 公立の小学校で先生をやっている彼――本間《ほんま》信昭《のぶあき》――に憧れて、私は大学で学校の先生を目指して日夜勉学に励んでいると言っても過言ではない。 生活費の足しにしたくてアパート近くのコンビニでバイトはしているけれど、それ以外はちゃんと真面目に勉強しているの。 それもこれも、憧れの人の背中に少しでも近づきたかったから。 (のぶちゃん、あれから会えてないけど元気かな……) とか考えていたら、眼前の最低男が、頬に触れていた手を髪に移動させてグイッとおさげを引っ張り上げてきた。 「痛いっ!」 未だ触れたままだった彼の手にギュッと力を込めて抗議の声を発したら、「凜子、今、別の男のこと考えてただろ?」って睨まれる。 私の何をそんなに気に入ってくれたのか分からないけれど、ひとつだけ言えることがある――。 「そんなのあなたには関係ないっ」 そもそも名前を呼び捨てにされる覚えなんてない。 「なぁ、今、凜子の前にいるのは誰だ?」 私の抗議なんて聞く耳を持たないみたいに、自分の言いたいことをガンガン押し付けてくる彼がすごく苦手。 嫌で嫌でたまらないのに、私は何故か気がつくといつも彼のペースに巻き込まれてしまっている。 「あなただけど……」 「名前」
それに……そもそもそういうのって、そんな軽く、今からご飯どう?みたいなノリで言っていいものなの!? もっとこう、照れたりはにかんだりしながら恐る恐る相手におうかがいを立てるものなんじゃ……ないの? 少なくとも私は……それがいい。 そんな風に大事に大事に言葉をつむいでくれる人が……いい。 あと、私だけを見てくれる人じゃないと嫌! ので、あれは知らない。 聞かなかったことにするっ! *** それにしても……よ。 馬鹿みたいにいらない時間を食ってしまった。 バスが来る時刻まで、あと一分ないじゃないっ。 乗り遅れたらどうしてくれるの!? 思いながら息を切らせて走って……走りながらあの人だって、朝の診察時間に間に合わなかったら困るんじゃないの?ってふと考えてから、今日は木曜日で休診日だったんだ、って思い至った。 どこまでもマイペースで自分勝手な男! 自分が休みなのをいいことに、朝っぱらから私のこと、からかいに来たんだ。 そう思ったら、背後に置いてきたかなり年上のバカ小児科医のことが、たまらなく憎らしく思えた。 やっぱりアイツ、大嫌いっ! *** 走って走ってようやくバス停が見えてきたところで――。 バスが! 乗らないといけなかったバスが! 角を曲がって走り去っていく様が目に入った。 もぉー、もぉー、もぉー! 本ッ当最悪っ! あの男の通せんぼさえなければ余裕で間に合っていたはずなのに。 一限目はどうしても落としたくない講義だ。どうしよう……。 バスは上りも下りも一時間に一本か、多い時間帯でも2本。 次の便を待っていたのでは、完全に遅刻。 (タクシーで……) ふとそう思ったけれど、片親世帯の貧乏学生の私にはハードルが高すぎる。 そんな無駄遣いをしたら、必死で働いて私を大学まで行かせてくれている母に申し訳が立たない。 誰かお友達と乗り合いで、とかならまだしも、一人で乗るのとか……絶対に無理。 うー。 バス停まであと数メートルという地点に茫然と立ち尽くして泣きそうになっていたら、諸悪の根源がのんびりと追いついてきた。 「なぁ、なぁ。――ハウスって……俺、犬じゃねぇんだけど」 言われて、「犬の方がマシ!」と睨みつけたら「わー、凜子ちゃん、ご機嫌斜めぇ〜。絶対
それでも我慢できなくて、はぁーーーっ!とひとつ盛大な吐息を落とすと、「離してください、お願いします。鳥飼《とりかい》……奏芽《かなめ》さん」 先ほどよりもさらに棒読み。まるでお経みたいに言ってやったの。 「んー。どうしようかなぁ。今日こそは俺、キミの下の名前教えてもらいたいんだけど? そうしたらすぐにでも離してあげようじゃないか」 って約束が違いますよね!? 「おじさん、約束が違います、おボケになられたんですか?」 腹立たしくてわざとそう言ったら「わー、向井《向かい》ちゃん、今日もとっても辛辣っ♥ お兄さん痺れちゃーう♥」ってクネクネされた。 気持ち悪いのでやめてもらっていいですか? 私がそういう風にされるのが嫌いだと知っていて、わざとやっているのが分かるのがまた腹立たしい。 「ね? 名前」 再度催促されるように言われて、私は今度こそあからさまに盛大な溜め息をついてやった。 「あなたに教える名前なんて持ち合わせておりません。どうかお引き取りを」 言ったついでにギュッと力を入れて手を引いてみたけれどやっぱり腕、振り解けなかった。 「いい加減痛いんですけど」 それに時間もないっ。 握られた手に、もう一方の手を添えて引き剥がそうと頑張りながら睨みつけたら、「ちょっとそれゾクゾクするんだけど」って本当この人、馬鹿なの? 「おっと」 私の反応なんてお構いなしにそう言った彼に、不意に手をグイッと引っ張られて腰を抱かれる形になった私は、驚いて思いっきり彼の胸元を叩いた。 抱き寄せられた拍子に、ビクッとなって肩に掛けていたショルダーバッグを落としてしまった。 と、その荷物のすぐ横を自転車が通過していって、ドキッとしてしまう。 もしかして彼、それから守ってくれた? 「もう少し食べた方がいいね、〝凜子《りんこ》ちゃん〟」 少しはいいところもあるのかも?と見直しそうになった途端、それを払拭するように腰から