「イヤです……」
その気持ちを黙っていられなくて、うつむいたまま小さくつぶやいた声は、ピアノの音に掻き消されて彼には届かないはずだったのに。
不意に曲の途中、音の余韻を残して鳴り止んだ演奏にふと顔を上げたら、
「何がイヤなんだよ? ハッキリ言えよ」 ってあごをすくい上げるようにして上向かされた。私はまさか奏芽《かなめ》さんに聞こえてしまうなんて思っていなかったから、驚いてソワソワとしてしまう。
「凜子《りんこ》」
再度促されて、やっと――。
恐る恐る「奏芽《かなめ》さんが私以外の女の子にチヤホヤされるの、イヤです」って本心を言ったの。目に見えない相手にまで嫉妬するとか、私、何て醜くいんだろうって泣きそうになりながら。
「バーカ。頼まれてももうそんな馬鹿なことはしねぇよ。凜子以外にモテても嬉しくねぇし」
そこまで言って「あ……」とつぶやくと「けど、チビどもに聴かせてやるのだけは許してくんね?」って眉根を寄せるの。
小児科で、子供たちにピアノを聴かせてあげたり、あとは姪っ子さんに聴かせてあげたり、そういうのは許して欲しいって真剣な顔をする奏芽さんに、私はいつの間にかモヤモヤした気持ちが消えていた。
「……仕方ないですね。じゃあ、そこだけは
涙目で奏芽さんを見上げながらわざと偉そうにそう言ったら、「あー、くそっ。可愛すぎるわ」って抱きしめられて……耳元で小さく「あんま、煽んないでくれる?」って切なげにこぼされた。
「俺はいつだって理性を総動員して凜子に手、出さねぇように気ぃ付けてんだから……そんな
奏芽さんが好きで好きで堪らないって視線なら……ごめんなさい、私、抑えられそうにないです。
***四季《しき》ちゃんと別れての授業。 いつもなら何て事のない一人での受講が、何だか今日は少し不安で。 せめても……と思って、いつもは真ん中より少し後方あたりの席を選ぶところを、今日は教授に近い場所に、と教壇に近い席――前から2列目を陣取ってみた。 ここは劇場《シアター》のように教壇に対して放射線状に席が配置されている大型の教室で、後方に行くに従って階段を上がって行くように席の位置が高くなっていっている。 どこに座っても、ちゃんと講義内容が分かるように大型モニターに教授の姿やホワイトボードなどが映し出されるし、教授の声もマイクを通して教室のあちこちに配されたスピーカーから聞こえてくるの。 だからかな。 比較的後ろの席に人気があって、いつも後方から埋まるように席がまばらに埋まっている印象。もちろん今日も。 私みたいに前の方に詰めて座る生徒は逆に目立つのだけれど。 あれ? 珍しいな。 私と同じ列、ほんの数席離れたところに今日は見慣れない男の人が座ってきた。*** 教室内はちゃんと冷暖房完備で、この部屋も割と温かくしてある。それでも何となく足元が寒い気がした私は、鞄からいつも持ち歩いている膝掛けを取り出して足に載せた。 そんなに音を立てて動いたつもりはなかったけれど、衣擦れの音が耳障りだったのかな? 先刻の男性が私の方をジッと見てきて――。 その視線と目があって、思わず条件反射で小声でごめんなさいと謝って会釈したら、意外にもニコッと微笑み返された。 良かった、気分を害されてはいないみたい? そう思ってホッとしていたら、その人がおもむろに立ち上がった。 「なんだろう?」と思っていたら「隣、いい?」って聞かれたの。 あまりに想定外のことに、良いとも悪いとも答えられずにいるうちに、さっさとすぐ横に腰を下ろされてしまった。 こんなに沢山席が余っているのに、わざわざすぐ隣とか……ものすごく落ち着かない。
奏芽《かなめ》さんとの通話を終えて、画面をハンカチで綺麗に拭ってから、四季《しき》ちゃんにスマホを返すと、「いい彼氏さんじゃない」ってにっこりされた。 うん、そんなことは私が1番分かってる。 見た目こそ派手で軟派《ナンパ》男みたいに見えちゃう奏芽さんだけど、実際の彼は周りにしっかり配慮が出来てしまえるお兄さん気質の優しい人だ。 その彼に、すごくすごく心配をかけてしまっている。 そう考えると、思わず溜め息がこぼれた。「凜子《りんこ》ちゃん、彼氏さんに頼まれるまでもなくそうするつもりだったけど……今日は放課後も、お迎えがあるまでずっと一緒にいようね」 言われて、私は思わず四季ちゃんを見やる。「でも四季《しき》ちゃん、いつもご飯の後は」 他のお友達と一緒に講義に出るのが常だったはず。 そもそも私と四季ちゃん、次の講義、被ってない。「あー、講義の間は少し離れちゃうけど、でも……凜子ちゃんが教室に入るの見届けてから行くから。あと、講義終わったあとは真っ直ぐに学生ホール《ここ》目指して? なるべく人が多いところにいるようにすること! いい? 次の次は一緒の講義だから合流して一緒に教室行こう!」 何でそこまでしてくれるの? 学校内だし、昼間だし、大丈夫なはずなのに。 そう思ってソワソワしたら、「忘れたの? うちの大学、外部の人が学食とかで普通にご飯食べたり出来ちゃうこと!」って言われた。「そういうことが出来るってことは、その変な人だって簡単に構内に入り込めるってことだよ? 鳥飼《とりかい》さんはそれ、すごく心配してた。凜子《りんこ》ちゃんには言わなかった?」 とか。 そういえば奏芽《かなめ》さんと2人、中庭で彼が学食で買ったというハンバーガーを頬張ったことがある。 あの時、奏芽さん、部外者でも構内に入れるって《そんなこと》言ってた。 奏芽さん、私を不安がらせないために電話ではそれ、言わずにいてくれたのかな。 でも――。
そんな私に、『俺が怒ってる理由、凜子《りんこ》、絶対はき違えてんだろ』って奏芽《かなめ》さんが言うの。「え?」 キョトンとして言ったら、『何でこんな大事なこと、もっと早く言わなかった? 何かあってからじゃ遅いだろーが!』って叱られてしまう。 そのあとつぶやくように『けど、1番ムカつくのは凜子が悩んでるの、気付けなかった俺自身に、だ。ごめんな』とか。 えっと……もしかして……奏芽さん、お仕事の邪魔をしたのを怒ってるわけじゃ、ない? ここにきてやっと、そう思い至った私は、あまつさえ奏芽さんに謝られてしまったことに戸惑って、「あ、あの……っ」って恐る恐る声を掛ける。奏芽《かなめ》さんはまるでそれを断ち切るみたいに『で、今日は大学終わるの何時?』って話題を変えてくるの。 確か今日は4時限までだったから……16時過ぎには終わる……はず。 そう思って「16時過ぎです」って答えたら、しばしの沈黙ののち、『この電話、凜子の番号じゃねぇけど、片山さんの?』って聞かれて、私は奏芽さんの病院の電話、ナンバーディスプレイがついてるんだ……ってどうでもいいことに感心してしまう。 それでやや反応が遅れて、慌てて「は、はいっ」って言ったら、『じゃあちょっと片山さんにかわってもらえる?』とか。 奏芽さん、四季《しき》ちゃんに何の用だろう。 ソワソワとそんなことを思いながら、四季《しき》ちゃんに「奏芽《かなめ》さんが四季ちゃんと話したいって……」とスマホを差し出したら、四季ちゃんが目をパチクリさせた。「え? 私っ?」 うん、私が四季ちゃ
画面に〟鳥飼小児科医院〟と表示されているのを見て、「あ、うん」と思わずうなずいたら、四季ちゃんのスマホからピッ!という電子音が響いた。 「……四季ちゃん?」 その音に驚いて彼女の方を見たら、スマホを耳に当てていた。 「もしもし。……ええ。もちろん、午前の診察受付が終わってるのは知ってます! それとは別件で、個人的に鳥飼先生に緊急の用件なんです! え? 先生の携帯ですか? そっち、繋がらないしメールじゃ遅いからこっちにかけてるんですよ! お願いします。大事な用件なんですっ! 変わってください!」 とか。 ちょ、ちょっと待って、四季ちゃん、その電話先っ! 「え!? 2人? あの、30代ぐらいの男性のほう! そう! ――え? 若先生? 条件に当てはまるのがその若先生とやらなら、そっちの先生だと! ……私ですか? 片山……じゃなくて向井凜子です!」 矢継ぎ早にまくし立てる四季ちゃんに、私はオロオロとなす術がない。 しかも今、私の名前……名乗っ――!? 気持ちは焦るのに、電話中に横から声をかけて割り込んだりしたら、電話先の相手にも失礼になるかもしれないって思ったら、身動きが取れなかった。 こういうところでも自分の真面目さが、迅速な行動を阻害しちゃうとか……本当情けない。 四季ちゃんのスマホから保留音が微かに聴こえてきて、その音にハッとして「四季ちゃんっ!」って声を出した時には、奏芽さんが電話口に出てきた後だった。 あーん、奏芽さん、ごめんなさいっ。 お仕事中に大した用じゃないのに電話しちゃうとか! あまりに非常識なことをしてしまった気がして、泣きそうになりながら四季ちゃんを見詰めたら、「凜子ちゃん、自分の口でちゃんと話して!」っていきなり
「ってことがあって……」 お昼休み。 四季ちゃんと並んで学生ホールで昼食を食べながら、私は奏芽さんに言えず仕舞いになっている、バイト先やその行きしなの違和感を四季ちゃんに訴えた。 10月に入ったあたりから、寒さに耐えられなくなってきて、私は中庭でお弁当を食べるのを断念したの。情けないけど暖房がある屋内に引きこもり気味な……そんな毎日です。 晩秋から今に至るまでの数ヶ月間、私は中庭が見渡せる学生ホールや、少し離れた棟にある学食のテーブルで、四季ちゃんと一緒に昼食を摂っている。 四季ちゃん、人見知りの私を気遣ってか、昼食時だけは2人きりになれるように他の友達から離れる配慮をしてくれているみたいで。 一度「いいの?」って聞いたら、「私も他の子たちにはあまり年上の彼氏の話できないから、お昼くらいは凜子ちゃんと2人きりがいいの」って笑ってくれた。 誰とでも仲良くなれる四季ちゃんも、相手によって話を選んでいるというのは何だか新鮮で、そこだけは2人の秘密みたいに思えて嬉しかったの。 私も四季ちゃんがいてくれるから、中庭よりはるかに人がたくさんいる屋内でお弁当を広げられている気がする。 もし今も一人ぼっちだったら、人気のなさそうな空き教室を探して、お昼のたびにさまよっていたかも知れない。 それにしても。 屋内にいても足元が冷える気がするのは、私が生粋の寒がりだから、かな。 今日の四季ちゃんはセーターの下にミニスカート。それにタイツを合わせて、くるぶしなんてむき出しのブーティーという結構寒そうな格好で。なのに平気そうなのがすごいなって思った。 逆に私はというと、タートルネックにもこもこセーターを重ねて、くるぶしまでのロングスカートにムートンのハイカットスニーカーという出で立ち。それなのに寒くて堪らないとか、ちょっぴり情けない。 ポケットに忍ばせた携帯カイロをモミモミしながら四季ちゃんを見つめたら、 「何それ、かなり気持ち悪いんだけど!」 話し終えるなり、四季ちゃんが物凄く怖い顔をして私を見つめてきた。 「えっ」 その剣幕に気圧されて、ポケットの中のカイロをギュッと握りしめたら、「もちろん、彼氏には話してるんだよね?」と畳み掛けられる。 「あ、えっ
「えっ」 その声に思わず谷本くんを見つめたら、「顔、にやけてたよ」って自分の口元をちょんちょん、と指し示しながら言われた。 思わず両手で口元を隠したら「彼氏できてからの向井さん、すごくいい顔するようになった! 元々美人だなって思ってたけど……最近は角も取れて話しかけやすくなったし」ってにっこり微笑まれた。 話しかけやすくも何も、結構谷本くんは奏芽《かなめ》さんとお付き合いする前から話しかけてくれてた気がするんだけどな? そう思って見つめ返したら「だからっ。その目で俺を見るのやめてってば。マジしんどいっ」って慌てて顔を背けられてしまった。 何のことか分からなくてキョトンとしてから、“艶めいた目”というキーワードが頭に浮かんでハッとする。 そのつもりなんて全くないのに……どう気をつければいいの? 思っていたら「その様子だと今日はちゃんとお迎えありだよね?」って確認されて、「あ、はいっ」 慌てて答えたら「じゃ、安心だ。お疲れ様。また明日ね」ってひらひらと手を振られた。「お、お疲れ様ですつ」 慌てて頭を下げて谷本くんを見送ってから、「私も早く帰ろう」って思う。 奏芽さんと会えると思うと、それだけで気持ちがふわりと浮ついた。*** 店外に出たところで、ふと視線を感じた気がして、私は思わず立ち止まる。「――?」 キョロキョロと辺りを見回してみたけれど誰もいない。 気のせい、かな? そう思っていたら、奏芽《かなめ》さんが車から降りて私の方に歩いていらした。「凜子《りんこ》、どうかしたのか?」 コンビニから出て、辺りを気にして落ち着かない様子だった私を見て、心配してくださったみたい。「あ、いえ何でも……」 言って、奏芽さんを見たら、彼、とても薄着で。「さ、寒くないんですかっ」 モコモコに着込ん