LOGIN「私、もう過去ばかり見るのはやめる」
言葉にするまで、どれだけ時間がかかっただろう。 過去は私の中で、ずっと重たい鎖のように絡みついていた。 あの時の傷、あの時の涙、あの時の沈黙。 全部が私を縛っていた。 でも、今の私は過去に怯えてばかりじゃいけない。 そう思えたのは、湊さんが、今の私を見てくれているから。 「ほんと、?」 湊さんの声は、驚きと少しの不安が混じっていた。 彼にとっても、私の言葉は予想外だったのかもしれない。 でも、私は頷いた。これは、私の決意だから。 「湊さんが今の私を見てくれてるのに、私だけが昔のことにしがみついてるなんて寂しかったよね。ごめんね」 湊さんは、ずっと私の“今”を見てくれていた。 それなのに私は、過去の影ばかりを見て、彼の優しさに気づこうとしなかった。 そのことが、今になって、ひどく申し訳なく思えた。「そんな事ないよ」 必死に否定したけれど、声は震えていた。自分でも隠しきれていないのが分かる。 怖いと認めたくない一心で口にした言葉だったが、湊さんの視線は優しくも鋭く、私の心の奥を見透かしているようで落ち着かない。 「ほんとかなぁ」 軽く笑うような声に、胸がざわめいた。からかわれていると分かっていても、図星だから余計に恥ずかしい。 頬が熱くなり、視線を逸らす。彼の余裕ある態度が、私の必死さを際立たせる。 「全然怖くない」 強がりを込めて言った。けれど、声は震え、顔は引きつっていた。 「じゃあ、離れてても見れる?」 試すような問いかけに、心臓がさらに速くなる。湊さんは私の気持ちを分かっていて、わざとそう言ってるんだ。 「…意地悪ばっかり」 そう呟きながら、私は湊さんの腕をそっと離した。指先に残る彼の温もりが消えていく瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。 「え?」 湊さんが少し驚いたようにこちらを見た。 私の反応が予想外だったのだろう。彼にとっては、ほんの軽い冗談、ちょっとした意地悪のつもりだったのかもしれない。けれど、私にとってはその一言が胸に突き刺さる。 気づかないフリをしてくれたっていいじゃない。 彼が優しく笑って流してくれれば、私はまだ強がりを続けられたのに。私の必死さはもう隠せない。 「湊さんの言う通りだよ。私、怖いの見れないの。でも子供だと思われたくなくて、必死に我慢してた」 必死に強がっていたのに、結局は耐えきれずに認めてしまった。 「彩花」 名前を呼ばれると、心臓が跳ねた。優しい響きなのに、逃げたくなる。 「もういいです」
「なんだか、寒くない?」怖いと言えない私は、寒いと誤魔化すように口にした。実際、部屋の空気は少しひんやりしている気もしたけれど、それ以上に心臓が早鐘を打つように速くなり、体が震えていた。「そう?暖房つけようか?」湊さんの優しい声に胸が温かくなる。私の言葉をそのまま受け止めてくれていることが嬉しい。けれど、暖房をつけてもこの震えは止まらない。怖さを隠すためについた嘘が、彼を動かそうとしていることに罪悪感を覚える。「そ、そうじゃなくて、その…」声が震え、言葉が詰まる。唇を噛みながら勇気を振り絞った。私はそっと彼の腕に手を回し、抱きしめた。体温がじんわり伝わってきて、胸の奥が少し落ち着く。「こうして見ちゃだめ、ですか?」声は小さく震えていた。彼の腕に寄り添いながら、心臓の鼓動が耳に響くほど速くなる。「いいけど…あ、怖い?」湊さんの問いかけに胸が跳ねた。図星を突かれ、心臓がさらに速くなる。「違う!寒いから!決して怖いとかじゃない」声が少し大きくなってしまった。必死に否定することで、逆に怖さが伝わってしまった気がする。「怖いなら正直に言っていいのに。見るのやめとく?」湊さんは私が必死に隠している気持ちを、もう全部分かってしまっているんだ。「大丈夫。最後まで見る」声は震えていたけれど、強く言い切った。怖さを隠してでも、湊さんと一緒にいる時間を守りたいと思った。「そう。そこまで言うなら」湊さんの言葉に胸が少し安心した。けれど、その安堵は長く続かなかった。映像はより刺激的になり、暗闇の中から突然現れる影や不気味な音が、心臓を締め付けるように迫ってくる。「ひっ…いやぁ。想像以上に迫力あるなぁ」思わず声が漏れた。自分でも情けないと思うほど、反射的に声が震えてしまう。画面
ソファーに腰を下ろすと、ふわりと沈む感覚と同時に、湊さんの隣にいる安心感が広がった。 静かな部屋に二人きり、時計の音だけが響いていて、時間がゆっくり流れていくように感じられた。 「何する?映画でも観る?」 沈黙を破るように、湊さんが口を開いた。その声は穏やかで、私の心を少し軽くしてくれる。 「うん」 湊さんの横顔を見つめながら、私は小さく頷いた。 「どんな映画が好き」 湊さんの問いかけに、胸が少し緊張した。好きな映画を答えればいいだけなのに、なぜか心臓が速くなる。 少し考えるふりをしたけれど、答えはもう決まっていた。 「湊さんと見れるなら、何でもいい」 その言葉を口にした瞬間、顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしいくらいに素直な本音だった。 湊さんと一緒なら、映画のジャンルなんて関係ない。そんなことを言う自分が少し子供っぽく思えて、視線を逸らした。 ソファーの端を指でつまみながら、心臓の鼓動を落ち着けようとした。 「そんな可愛いこと言って。それじゃあ俺が好きな映画観る?」 湊さんの声は少し笑みを含んでいて、私の胸をさらに熱くさせた。 可愛いと言われたことが恥ずかしくて、頬が赤くなる。けれど、同時に嬉しくて、心臓が跳ねるように高鳴った。 「ぜひ」 私は笑顔を作りながら答えた。 声は少し高くなってしまい、緊張が隠せなかった。けれど、湊さんの好きなものを一緒に楽しめることが嬉しい。 彼の指がリモコンを操作する音が、静かな部屋に響いた。ソファーのクッションを抱きしめるようにして、彼の動作を見守った。 「これなんだけど…」 画面に映し
「うん。会議が長引いて疲れただけだよ。心配かけてごめんね」 その言葉は優しい響きを持っていたけれど、どこか表面的に感じられた。 心配をかけまいとするその態度が、逆に本当のことを話してくれていないのではと疑念を呼び起こす。 私は信じたい。彼が言う「疲れただけ」という言葉をそのまま受け止めたい。けれど、目の奥に沈む影がどうしても気になってしまう。 「それじゃあ、早く寝た方がいいね」 私はそう言いながら、心の奥で複雑な感情が渦巻いていた。 「そうしようかな」 湊さんの返事は穏やかで、疲れを隠しきれない響きを含んでいた。 …まだ1時間しか一緒にいられてないのに。 彼の疲れを理解しているからこそ強くは言えないけれど、心の奥ではもっと一緒にいたいという気持ちが膨らんでいく。 なんて、だめだめ。寂しさを押し付けるなんて、子供じゃないんだから。迷惑なんてかけられない。 「彩花?」 湊さんが私の名前を呼んだ瞬間、心臓が跳ねた。 彼が私の気持ちに気づいているのかもしれないと思うと、隠していた寂しさが一気に表面に浮かび上がる。 「ん?」 返事をしながら、声が少し震えていた。 「どうしてそんな悲しそうな顔するの」 なるべく表情に出さずに過ごしてきたはずなのに。なのに、彼には見抜かれてしまう。 隠していたつもりの寂しさが、湊さんにははっきりと伝わっていたんだ。 「そんなことないよ」 必死に誤魔化そうとした。けれど、声は弱々しく、説得力を欠いていた。 心の奥では寂しいと認めてしまっているのに、口では否定する。
「え?この服湊さんが買ってくれたんだよ。あんまり外に行かないから大丈夫だって言ったんだけど、それなら家で着たらいいって…」 「そうだったっけ」 短い返事。声は落ち着いているけれど、どこか上の空に聞こえる。 「もー。そうだよ。沢山買ったから忘れちゃった?」 冗談めかして笑いながら言ったけれど、心の中では少し寂しさを感じていた。 湊さんが覚えていないこと自体は仕方ない。人は誰だって忘れるし、湊さんは毎日忙しいのだから当然だ。 でも、私にとっては大切な思い出だった。 「そうかも…あの、さ」 湊さんの声が急に真剣な響きを帯びる。私は胸がきゅっと縮むのを感じた。 「ん?」 首を傾げながら問い返す。心臓の鼓動が速くなる。 「彩花は、俺の事、好き?」 突然の問いに、思考が一瞬止まった。 いつもなら、軽い冗談みたいに笑いながら聞いてくるのに。 今日の湊さんは違った。 ほんの気まぐれで確かめたいだけじゃなくて、本気で答えを求めているように見えた。 瞳の奥が真剣で、逃げ場のない視線に胸が締め付けられる。 「当たり前でしょ?どうしてそんなこと聞くの?」 私は少し強めに言ってしまった。湊さんの問いかけがあまりにも唐突で、胸の奥に不安が広がったから。 好きかどうかなんて、答えるまでもないことなのに。 「何となく。…今日のご飯も美味しいね。俺の好物ばっかりだし」 湊さんは少し笑みを浮かべながら言ったけれど、その笑みはどこか弱々しい。 「好きな物を作ったら、喜んでくれると思って」 私は少し照れながら言った。
あの日から、心が少し楽になった。 お義母様の影に怯えていた日々から、ほんの少し解放されたようだった。 まだ不安は完全には消えていないけれど、以前のように押し潰されそうになることはなくなった。 「湊さん!おかえりなさい!」 玄関の扉が開いた瞬間、思わず声が弾んだ。 「ただいま」 短い返事なのに、湊さんの声には安心感があった。 「お仕事お疲れ様」 湊さんの顔色を見て、思わず労いの言葉が出た。 眉間に寄せられた皺、少し重たい足取り。相当疲れているのだろうと胸が痛む。 「ありがとう」 その声は確かに私の胸に届いたけれど、どこかいつもよりテンションが低いように感じられた。 普段なら玄関に入った瞬間、すぐに抱きしめてくれるのに、今日はただ立ち尽くしている。 「会いたかった」 その不安を打ち消すように、思わず本音がこぼれた。 「…俺も」 少し間を置いて返されたその言葉に、どこか違和感を感じた。 湊さんの声は落ち着いていたが、ほんのわずかに沈んでいるように感じられた。 「湊さん?」 私は思わず問いかけた。 玄関に立つ彼の姿が、いつもの湊さんとはあまりにも違って見えたからだ。 普段なら軽やかな笑みを浮かべて、私を安心させるように抱きしめてくれるのに、今日はその気配がない。 目の奥には疲労の影が濃く、肩は少し落ちていて、まるで重たい荷物を背負っているようだった。 彼の沈黙が長く続けば続くほど、胸の奥に広がる不安は大きくなる。 「ごめん。ちょっと疲れちゃって、お風呂入ってくる
「ねぇ。ほんとの事を言わないと、今よりもっとすごいキスするけど」 その言葉に、心臓が跳ねた。 今よりもっとすごいって、そんなの無理に決まってる。 さっきのキスだけでも、息ができないほどだったのに。 唇が触れた瞬間、世界が止まったような感覚。 それ以上なんて、想像もできない。 でも、湊さんは私の目を見て、まるで挑むように言ってくる。 その瞳に、冗談の色はなかった。 私は、背筋がぞくりと震えるのを感じながら、言葉を探した。 「何言って…」
「…ふふっ」 湊さんが笑った。 その笑い声が、あまりにも柔らかくて、私は思わず顔を上げた。 彼が笑うのを、私は初めて見た。 少なくとも私に向けて笑ったのは、記憶がある限り、これが初めてだった。 その笑顔が、あまりにも無邪気で、私は胸がいっぱいになった。 こんなふうに笑う人だったんだ。 「どうして笑うんですか、」 何かおかしなことを言っただろうか。 からかわれたのか、それとも呆れられたのか。 でも、彼の目は優しかった。
「だって、俺達夫婦なんだよ?敬語ってなんか距離感じない?」 その言葉が、あまりにも自然に湊さんの口からこぼれたことに、私は驚いた。 “夫婦”という言葉を、こんなにも柔らかく、こんなにも当たり前のように使う彼を、私は知らない。 「そう…ですかね、」 言葉を濁すように、私は答えた。 私もそう思います。そう思うからあえて敬語を使ってきたんです。 心の中で、そう呟いた。 敬語を使ってでも、関係を保ちたかった。 それが、私の本音だった。 「そうだ
「あ、前の僕が彩花ちゃんを好きじゃなかったって意味じゃないよ、」 湊さんの言葉は、慌てたようで、でもどこか必死だった。 そう言われれば言われるだけはっきり分かる。 湊さんがどれだけ否定してくれても、その言葉が重ねられるたびに、過去の記憶が鮮明に蘇ってくる。 私は、何も言えずにただ彼の顔を見つめた。 その瞳に映る私は、きっと今とは違う存在だったのかもしれない。 でも、過去の私は彼にとって、ただの“同居人”だったはずだ。 「いいの。分かってるから」