LOGIN"何かあっても、救急車は呼ぶな。俺の名前が診療記録に載るなんて、あってはならないことだ"
頭の中に、以前湊さんが言っていた言葉がよぎる。
冷静に、まるで当たり前のように言ったその一言。
感情のない口調だったけれど、彼の中では絶対的なルールだった。
彼にとって病院は、命を守る場所ではなかった。それは、世間に“弱さ”を晒す危険な場所だった。
診療記録に名前が残ること、誰かに通院を目撃されること。
そのすべてが、彼の築き上げた完璧な像を崩す可能性を孕んでいた。
彼は社長として、会社の顔として、常に表に立つ。
会見、取引、メディア対応。そのすべてにおいて、健康と安定が求められる。
もし「社長が倒れた」「通院しているらしい」などという噂が広まれば、
契約の見直しや株主の不安、取引先の信頼低下につながる可能性がある。
彼にとっては、体調不良すら「管理すべき情報」であり、
それを外部に漏らすことは、情報漏洩と同じくらいの“失態”だった。
私は、彼の価値観を知っていた。
彼の望みを守ることが、私の役割だと思っていた。
でも────
そんな理由で、救急車を呼ばないなんて…
声にならない言葉が喉の奥で震えた。
彼の命がかかっているかもしれないのに。
それなのに私は、彼の“世間体”を優先してしまっていいのだろうか。
どちらが正しいのか、分からなかった。
でも、選ばなければならなかった。
「湊さん、」
震える声が漏れた。
彼の顔は青白く、目は閉じたまま。
呼吸はある。けれど、意識はない。
まるで、時間が止まってしまったような感覚。
私は彼の手を握ったまま、動けずにいた。
心臓が痛いほど脈打っている。
頭の中は真っ白なのに、思考だけが暴走している。
もしこのまま目を覚まさなかったら。私は、彼の“強さ”に縛られていた。
彼が弱さを見せないから、私もそれを見てはいけないと思っていた。
でも、今目の前にあるのは、動かない彼の身体。
冷たい頬。閉じたままの瞳。
「…そうだ。顧問医が、」
私は急いでスマホを手に取り、登録されていた“医療顧問”の番号を探した。
湊さんが信頼している、外部には絶対に漏れない医師。
彼の“秘密”を守るために雇われた人。彼の“弱さ”を誰にも知られずに、処理するための存在。
指が震えて、画面をうまく操作できない。
何度もタップを間違え、ようやく通話ボタンを押す。
耳に当てたスマホから、コール音が響く。
その音が、まるで自分の選択を肯定してくれるようで、苦しかった。
その間にも、視界が滲んでいく。
涙が頬を伝っていることに、初めて気づいた。
私は泣いていた。
彼のために。 自分の無力さのために。
そして、選択の重さに押し潰されそうな自分の弱さのために。
「すぐに来てください…湊さんが…頭を…!」
声がうまく出せなかった。
喉が詰まって、言葉が途切れ途切れになる。
でも、相手は慣れているようだった。
「すぐ向かいます」とだけ言って、電話は切れた。
スマホをそっと膝の上に置いた瞬間、私は深く息を吐いた。
でも、呼吸はうまく整わなかった。
胸の奥が、ずっとざわざわしていた。
彼のために正しいことをしたのか、それとも、ただ彼の“望み”に従っただけなのか。
その答えは、まだ出せなかった。
でも今は、泣いている場合じゃない。私が動かなければ。
彼の命のために。
彼の“望み”のために。 そして、私自身が後悔しないために。パーティー当日。私たちは普段通りの休日を過ごし、ついに夜が来た。昼間の空気はどこか穏やかで、まるで何事もない日常の延長のようだった。湊さんはいつも通りで、私もそれに合わせるように笑っていたけれど、心のどこかで、ずっとこの夜のことを意識していた。時計の針が進むたび、胸の奥が少しずつざわついていく。どんな顔で、あの場所に立てばいいのか。答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。「はい」湊さんが、静かに差し出した箱。その瞬間、時間が少しだけ止まったような気がした。昨日、クローゼットの奥からそっと取り出した、あの箱。まさか、彼の手から渡されるなんて思っていなかった。言葉が出てこなくて、ただ、箱の重みだけが現実だった。「湊さん、どうして」ようやく絞り出した声は、かすれていた。問いかけというより、呟きに近かったかもしれない。「本当は、こっちが着たいんでしょ?」湊さんの声は、やさしくて、まっすぐだった。その一言に、私は心の奥を見透かされたような気がして、思わず息をのんだ。たしかに、そうだった。でも、それを認めるのが怖かった。誰かに見られるのも、期待されるのも、それに応えられない自分を想像するのも、全部。だから私は、ただ黙って箱を抱えたまま、俯いた。箱の角が、指の腹に食い込んでいる。俯いたままの視界に、彼の足元が見える。動かず、ただそこに立っている。「ごめんね。昨日、見えちゃって」湊さんの声は、少しだけ申し訳なさそうだった。でも、その中には、どこかあたたかいものが混じっていた。「このドレスは…昔、パーティーで着ようと思って買ったもので、」
その日の晩、私はなかなか寝付けなかった。 布団に入ってから何度も寝返りを打ったけれど、まぶたは一向に重くならない。 目を閉じれば、明日のことばかりが頭をよぎる。 お義母様のこと、パーティーのこと、あのドレスのこと。 考えまいとしても、思考は勝手にそこへ戻ってしまう。 胸の奥がざわざわして、呼吸が浅くなる。 こんなふうに不安で眠れない夜は、久しぶりだった。 「眠れない?」 ふいに、低くやわらかな声が闇の中から届いた。 その声が聞こえた瞬間、私ははっとして、身じろぎを止めた。 暗がりの中、隣にいる湊さんがこちらを向いているのが分かる。 「ごめん、起こしちゃった?」 私は小さな声でそう言った。 湊さんは、枕に頬を預けたまま私の方を見つめていた。 その目はまだ眠たげで、まぶたが少し重そうだった。 「明日のこと考えてた?」 私はすぐには答えられず、ただ小さくうなずいた。 言葉にしてしまえば、不安が現実になってしまいそうで、喉の奥で言葉がつかえてしまう。 「パーティーって、美味しい食べ物沢山食べれるんでしょ?」 ふいに、湊さんの声が少しだけ明るくなる。 「え、うん。そうだけど」 私は少し戸惑いながらも、素直に答えた。 不安でいっぱいだった心に、ほんの少しだけ余白ができた気がした。 パーティーの話題が、急に現実味を帯びてくる。 それは怖さでもあるけれど、同時に、誰かと共有できる安心でもあった。 「彩花ちゃんは何が好き?」 私は少しだけ考えてから、ふと浮かんだ料理の名前を口にした。 「鯛のカルパッチョかな。薄くて透けるくらいの切り方で、柚子の香りがふわってして、口に入れるとすっと溶けるの」 言葉にしながら、私はあのときの記憶をたぐり寄せていた。 白い皿の上に、まるで花びら
やっぱり見たんだ。 このドレスに込めた気持ちも、着られなかった夜のことも。 できることなら誰にも知られずにそっと胸の奥にしまっておきたかった。 けれど、湊さんは見てしまった。 まるで、秘密を暴かれたような気がした。 どうしよう。 何を言えばいいのか分からない。 今さら、あの夜のことをどう説明すればいい? あのとき、どんな気持ちでこのドレスをしまったのか。 どれだけ期待して、どれだけ傷ついたのか。 言葉にしようとするたびに、喉の奥がきゅっと締めつけられる。 だから私は、何もなかったふうを装うしかなかった。 「これは、何でもないの。気にしないで。それより、なにか用だった?」 声が震えないように、少しだけ明るく軽やかに。 まるで、ただの雑談のように聞こえるように。 その動作が、まるで話題を閉じるための無言の合図のように思えたかもしれない。 でも、それでよかった。 今はまだ、開けたくなかった。 この箱も、この気持ちも。 湊さんは何も言わなかった。 私の震える声にも、ぎこちない仕草にも、あえて触れようとはしなかった。 「明日のパーティーのことで話があって」 湊さんの声は、いつも通り穏やかだった。 けれど、その言葉の選び方に、どこか慎重さがにじんでいた。 「何かあったの?」 私は、できるだけ平静を装って問い返す。 「明日、あの人も、僕の母親も来るってこと、ちゃんと伝えておかなきゃって」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮こまる。 息を吸うのも忘れてしまいそうになる。 お義母様。 その名前を聞くだけで、あの夜の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。 冷たい視線、突き刺すような言葉、何も言い返せなかった自分の情けなさ。 「お義母様が…」
あれから、お義母様が来ることはなかった。その静けさは、むしろ不気味だった。あの人が何もしてこないはずがない。そう思っていたからこそ、何も起きない日々が続くほどに、私は逆に落ち着かなくなっていった。何かが迫っている気配だけが、背後にずっと張りついていた。けれど、湊さんは変わらず穏やかだった。私の不安に気づいているのかいないのか、いつも通りに笑ってくれる。そして何も起きないまま、パーティーの前日を迎えることになった。「…ふぅ、」クローゼットの前で、ひとつ息を吐く。胸の奥に溜まっていたものを、そっと外に逃がすように。それでも、心のざわめきは消えなかった。ゆっくりと手を伸ばし、取っ手に触れる。冷たい金属の感触が、指先にじんわりと伝わってくる。扉をそっと開けると、上の奥の方に隠しておいた箱がある。手を伸ばして取り出すと、指先にうっすらと埃がついた。私はそれを軽く払って、箱の蓋に手をかける。中には、淡いピンクのドレス。柔らかなチュールに、繊細なレース、胸元にあしらわれた小さな花の刺繍。どれも、あのときの私が選んだものだった。初めてのパーティー。湊さんの隣に立つ自分を想像して、鏡の前で何度も合わせてみた。少し背伸びした色だったけど、それでも、着てみたかった。けれど、あの夜…私はこのドレスに袖を通すことなく、ただ箱の中に戻すしかなかった。私が、湊さんに見合う人間だったら、このドレスを着て、笑えていたのだろうか。それ以来、このドレスは箱の中でずっと眠っていた。まるで、私の期待や喜びごと、封じ込められていたかのように。
「母親のことだけどさ…」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまった。母親というたった一言が、私の中の警報を鳴らす。無意識に背筋がこわばって、手のひらにじんわりと汗がにじんだ。あの人の顔が、声が、玄関のドア越しに響いたあの音が、一瞬で脳裏に蘇る。「ん?」私は、なるべく平静を装って返事をした。でも、声が少しだけ上ずっていたのを、自分でも分かっていた。湊さんは、そんな私の変化に気づいたのか、一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。「今日のところは引き下がったけど、また絶対来ると思うんだよね」あの人が、また来る。その現実が、じわじわと体の内側に染み込んでくる。指先が冷たくなっていく。心臓の鼓動が、少しずつ速くなる。呼吸が浅くなって、喉の奥がきゅっと詰まる。また来る。その予感は、私の中でもずっとあった。今日の訪問は、ただの始まりに過ぎない。むしろ、拒まれれば拒まれるほど、執着を強めてくる。あの人は、諦めない。私がどれだけ拒んでも、どれだけ距離を取っても、家族という言葉を盾にするだろう。私は、唇を噛みしめた。怖い。でも、湊さんの前では、その言葉を簡単には口に出せなかった。「あー、うん。パーティーの前に、必ず来るから。多分また…」言いながら、胸の奥がじわりと重くなる。私が傷つく言葉を、笑顔のまま投げかけてくる。私の準備も、努力も、存在そのものも、すべて間違いだと告げるような口ぶりで。「あの人が来ても、もう中には入れさせない。僕がちゃんと断るから」湊さんの声は、静かだった。それは、私を守るための言葉だと分かっている。でも、同時に、あの人を敵として扱うことでもある。「え、」思わず声が漏れた。それはいい案とは思えない。否定したいわけじゃない。でも、現実はそんなに簡単じゃない。 あの人は、理屈が通じる相手じゃない。むしろ、もっと強引な手に出るはずだ。「嫌?」湊さんの声は、少しだけ不安げだった。その視線に、私は小さく首を振った。「嫌というか…そんな事しても、お義母様が黙って諦めるような人じゃないのは知ってるから。だから、なにかされそうで、怖い」その言葉を口にした瞬間、胸の奥に沈んでいた恐怖が、じわじわと浮かび上がってきた。どんな手を使ってでも、この家に入ってこようとするだろう。私の不安は、ただの思
「今回は…いや、今回も、私が悪いんだよ」 その言葉は、喉の奥から絞り出すようにして出た。今回も。という言葉が、自分の中で妙に響いた。「そんなことないよ」湊さんの声は、驚くほど優しかった。でも、私の話を聞いても、同じことを言ってくれるだろうか。「湊さんが記憶喪失になった日、私が、私が…」言葉が、喉の奥で詰まった。それでも、どうしても言わなければならない気がした。あの日のことを、ずっと胸の奥にしまってきた。でも、湊さんの記憶が戻らないまま、私だけがあの日のことを抱えて生きていくのは、間違ってると思うから。言わないからと言って、私の過ちがなくなるわけじゃない。呼吸が浅くなって、視界が滲んだ。「彩花、無理に話そうとしなくてもいいんだよ」湊さんだって知りたいはずなのに、それでも私の心を優先してくれる。今更だけど、でも、湊さんは私のために尽くしてくれるのに、私も正直であるべきだと思った。「湊さんが、話したくないなら話さなくてもいいって言ってくれたけど、湊さんにも知る権利があると思う」声が震えた。でも、言葉は止まらなかった。「僕のことなら──────」その言葉の続きを、私は聞かなくても分かった気がした。僕のことなら気にしなくていい。今の湊さんなら、きっとそう言うだろう。私の痛みを、私以上に大切にしてくれて、私が言葉に詰まれば、無理に聞き出そうとはしない。私が黙っていれば、その沈黙ごと受け止めてくれる。今の私には、その優しさは甘すぎた。「それに、もう逃げちゃだめだから」その言葉は、自分自身に向けたものだった。湊さんの優しさに、私は何度も救われてきた。







