LOGINもみじが唖然としていると、処置室にやって来た髙野辺は早足でもみじの傍までやって来ると、女性医師に顔を向けた。 「先生、新島さんの怪我の具合は──」 「出血が多かったので驚いたでしょうけど、縫合の手術はせずに済みましたよ。脳のCTとMRIも撮りましたが、異常はありませんでした。今日は1日安静にしていただいて、様子を見ていただければ大丈夫かと思います」 「──本当ですか、良かった……」 髙野辺は安心したように息を吐き出した。 だが、もみじのこめかみに貼られたガーゼがとても痛々しく見え、髙野辺は悲しそうに眉を下げた。 「痛そうです……大丈夫ですか、新島さん……。いや、大丈夫なんかじゃないですよね。痛いに決まっている」 「だ、大丈夫ですよ髙野辺さん!鎮痛剤も出して貰えましたし、今は痛みを感じませんから!」 「念の為、今日は入院した方がいいと思います。そうですよね、先生?」 髙野辺が女性医師に振り返り、真っ直ぐ目を向けてそう告げる。 髙野辺の正体を知っている女性医師は背筋をすっと伸ばし、頷いた。 「え、ええ……そうですね。万が一、の可能性もありますから……」 「えっ、そ、そんな……」 「先生もそう言っていますし、入院した方がいいですよ新島さん。入院に必要な手続きは俺も手伝いますし」 「ええ、それに──……」 髙野辺の言葉に同意するように女性医師が気まずそうに告げた。 「我々医者は、家庭内暴力があった事を確認しましたので……。警察に報告する義務がございます。……この後、警察が事情を聞きに来ると思いますので、入院された方が対応も楽だと思いますよ」 「──あっ」 そうだった、ともみじは思い出す。 久保田に言われた通り、怪我の経緯を救急隊員に伝えていたのだ。 そして、救急隊は医者に怪我の理由を伝え、報告を受けた医者は警察に報告する義務が発生する。 難しい顔をするもみじに、髙野辺も自らがここに駆け付けた理由を告げた。 「新島さん。俺も、すぐに動けない久保田の代理でここに来たんです。久保田弁護士から詳細を聞いてくれ、と伝えられていて……。俺も警察への話の際、同席して大丈夫ですか?」 「久保田先生から髙野辺さんに連絡があったんですね?」 そう言えば、久保田は髙野辺に紹介してもらった弁護士だったともみじは思い出す。 だからこそ、知り合いの
ガチャン!と鍵の閉まる音が聞こえ、次いで誠司の慌ただしい足音が遠ざかって行くのがもみじの耳に届いた。 「──痛い」 頭を強かにぶつけてしまい、もみじの目の前はぐわんぐわんと回っていた。 何とか痛みをやり過ごし、側頭部に手を持っていったもみじは、自分の手にぬるりとした感触を覚え、驚いたように目を見開いた。 「え……っ、嘘でしょ……?」 ぬるり、とした感触に手のひらを視界に入れる。 するとそこには──。 真っ赤な血が──。 「あ……」 血を認識した瞬間、ぶつけた箇所の痛みが増してくるように感じる。 もみじは痛みに耐えつつ、何とかテーブルまで戻ると上に置いてあった自分のスマホを手に取った。 迷わずにある人物に電話をする。 数回の呼び出し音の後、出たのは──。 〈もしもし新島さん、どうされましたか?〉 「久保田先生──」 久保田弁護士だった。 もみじは痛みに耐えつつ、今あった事を掻い摘んで久保田に報告する。 すると、もみじの説明が終わった途端、久保田は「すぐに救急車を呼んでください」と告げた。 〈夫に振り払われ、頭を強打したんですよね?救急車を呼んで、救急隊員にその事を伝えてください〉 「で、ですが意識もはっきりしていますし……タクシーを呼んだ方が……」 〈いえ、打った箇所が頭なので救急で向かった方がいいです。出血は今も?〉 「は、はい……柔らかい?肌の部分が切れてしまったようで……まだ止まっていません」 〈分かりました。すぐに電話を切りますので、この後すぐに救急車を呼んでください。私はこの後、どうしても外せない客先への訪問がありますので、別の人間を向かわせます。私に搬送先の病院をメールでも結構ですので、連絡をお願いします〉 「わ、分かりました久保田先生」 〈では、失礼しますね〉 久保田と繋がっていた電話が切れ、もみじは言われた通り救急車を呼んだ。 ◇ 救急車で搬送されたもみじは、病院の処置室で手当を受けていた。 「こめかみの辺りは出血が多いのです。ですが、縫う程にはならなくて良かったですね」 「ありがとうございます。出血量が多くて、焦ってしまいました……動転して救急車を呼んでしまって申し訳ございません……」 「何を言いますか!頭を強打しているのですから、救急で来ていただいた方が安心です。幸い、今回は脳に何の異
(心配──?胡桃が?嘘ね。私が誠司と離婚するのを誰よりも、何よりも喜ぶのは胡桃なのに。それなのに心配するなんて……胡桃は私と誠司の離婚を思いとどまって欲しいの……?何のために……?) もみじが考え込んでいる間に、誠司の言葉は続いていた。 何やらずっと喋っているが、もみじの耳には1つも届いていない。 そんなもみじの態度に苛立った誠司は、声を荒らげてもみじの腕を掴んだ。 「──おい!聞いているのか、もみじ!」 「痛っ」 強い力で腕を掴まれたもみじは、痛みに声を漏らした。 その声に反応した誠司が青い顔でもみじの腕からぱっと手を離す。 「わ、悪い──」 誠司が声を発した瞬間。 誠司のスマホの着信音が鳴り、静かな部屋に着信音が軽快に鳴り続ける。 誠司は気まずそうな表情のまま自分のスマホを取り出すと、驚きに目を見開いた。 「──胡桃!?」 「……」 着信は胡桃からのようだった。 誠司は慌てて電話に出る。 「も、もしもし胡桃か!?急にどうしたんだ?」 誠司の声音は、とても優しく甘い。 かつてはもみじに向けられていたそれが、今は胡桃に向いている。 今、誠司は帰国していて胡桃は1人E国に残っている。 その不安が誠司の頭には残っていたのだろう。 胡桃を気遣うような感情が顕著に現れていて、もみじは再び笑ってしまった。 〈誠司……〉 静かな室内だからか、スマホの向こうに居る胡桃の声ももみじには良く聞こえた。 胡桃の声はか細く、誠司に甘えるような響きが現れていた。 「どうした、胡桃?」 〈どうしよう、誠司……凄くお腹が痛いの……〉 「何だって!?」 〈今まで経験した事がないくらい痛くて……心細くて……お仕事で戻ってるのに、こんな事で電話してごめんなさい……〉 胡桃の震える声と、ぐすっと鼻を啜る音がもみじの耳にも届いた。 誠司は胡桃の言葉を受けて顔色を真っ青にすると、電話を続けながら急いで部屋に向かった。 「大丈夫か、胡桃!分かった、今からそっちに戻るから、救急車を呼んでおけ!」 〈でも、海外でお医者様にかかると……〉 「俺が支払うからそんな事を気にするな!いいか、絶対に救急車を呼ぶんだ!搬送された病院が分かったら俺に連絡をするんだぞ!」 誠司はそう叫びながら自分の部屋の扉を開ける。 急いでE国に戻るつもりなのだろう。
タイミングよく鉢合わせてしまったもみじと誠司。 もみじは、誠司に振り向くと離婚届について聞こうと口を開いた。 「誠司、私が昨日渡した離婚届と離婚協議書は?まだサインしてくれていないの?」 「……仕事から帰ってきた夫に対して迎え入れる挨拶もなく、それか。随分と厚かましくなったな、お前も」 誠司は吐き捨てるように言うと、もみじの隣を「退け」と言いながら通り過ぎる。 誠司から軽く手で押されてバランスを崩したもみじは、よろりとふらめきテーブルに軽くぶつかりつつ、それでも誠司に言葉を続ける。 「もうこんな風に生活するのが嫌なのよ。誠司、あなたと一緒に居てもストレスが溜まるばかりで心が休まらないの。だからこんな事は早く終わりにしたいの。私との関係がなくなれば、誠司だって胡桃と一緒になれるからいいじゃない」 「──っ、またお前は胡桃、胡桃と!実の妹に嫉妬するのはやめろ!俺と胡桃はそんな関係じゃないと言っているだろう!」 誠司は叫びながら自分の鞄から昨夜もみじから渡された書類を取り出すと、テーブルに叩き付ける。 「それに、離婚の条件がやはりおかしい!俺には何も望まないなんておかしいだろう!俺と別れたらお前は無一文になるんだぞ!?それなのに、それでもいいから別れたいと言うのはやっぱりおかしい、と胡桃も言って──」 そこまで捲し立てた誠司は、はっとして口を噤む。 誠司の言葉を聞いていたもみじは、険しい表情で口を開いた。 「どうしてそこで胡桃の名前が出てくるの?……まさか、離婚協議書を胡桃にも見せたの?」 「……そうだ。お前の妹なんだし、別に見せても何ら問題は無いだろう」 「専門家に見せて確認してもらうのだったら分かるわ。だけど、それ以外の人間に見せるのは嫌よ。そもそも、胡桃は関係ない人でしょう。どうして胡桃に見せる必要があったの」 まだ、百歩譲ってもみじの両親に確認とアドバイスのために見てもらうのなら分かる。 だが、それだって百歩譲って、だ。 それにも関わらず、何の関係もない自分の妹に大事な公的書類を見せるなんて──。 誠司の対応に、もみじは呆れ果て、開いた口が塞がらない。 「……別に隠す事でも無いだろう」 「ええ、そうね。……それで、胡桃はなんて言ってたのかしら?喜んでた?それとも怪しんでいた?」 「喜ぶ、なんて……!自分の姉が離婚するか
「以前俺が連絡した内容だが……調べはついたのか?」 「どうして私が調べなきゃならないのかしら?それに、万が一私が情報を持っていたとして、どうしてあなたに教えなきゃいけないの?」 「……俺はNEW ISLANDの社長だぞ?お前の蘭デザインより社員数も多く、会社もうちの方が大きい」 だから持っている情報を教えるのは当たり前だろう? そんな不遜な態度でふんぞり返っている誠司に、蘭は呆れたようにため息を吐き出した。 「会社が大きいからってそれが何だと言うの?そんなに情報が欲しいならご自慢の大きな会社の権力を使って情報を取ればいいじゃない」 「──っ、小賢しい言い訳をするな!俺が欲しているのだから、お前は大人しく情報を渡せばいい!」 「新島社長……あんた、いつからそんな傲慢な人間になっちゃったのよ……」 蘭は目を細め、誠司をじっと見つめる。 昔の誠司を知っているからこそ、蘭は今の誠司の変わりように驚いた。 確かに多少なりとも傲慢な部分があったかもしれない。 だが、誠司がもみじと付き合っている当時を知っている蘭は目の前に居る男の変わりようが信じられなかった。 「……男って本当に駄目ね、付き合う女1つで変わってしまうなんて」 「何を意味の分からない事を……!早く教えてくれ!駅舎について何か情報を掴んでいるんだろう!?」 誠司の大きな声に蘭はため息をつくと、きっぱりと口にした。 「知らないわ」 「──は?何だと……?そんなはずは……」 「私の実家の事を知っていて、アポも取らずに無理やりやって来たんでしょうけど……私は今実家とは距離を置いているの。……勘当されているような物だから、何の伝手もないわよ」 「……っ」 蘭のあっさりとした返答に、誠司は信じられないと言うように目を見開いた。 蘭の情報をあてにしていたのだろう。 だが、実家との確執までは調べていなかった誠司は、完全にあてが外れた、た愕然とした。 「──そんな、それじゃあ……今回俺が戻って来たのは……」 「完全な無駄足だったわね。ご苦労さま」 もういい?と言うように蘭は誠司に向けていた顔をパソコンに戻してしまう。 はっきり誠司の存在を排除してしまった蘭には、これ以上話しかけても無駄だろう。 それに、実家と折り合いのよくない蘭は本当に何も情報を持っていないのかもしれない。
──トントン、と書類を纏めた久保田はもみじに向かって口を開く。 「さて……それでは離婚についてはこの流れで進めて行きましょう」 「はい、お願いします久保田先生」 「こちらこそです、新島さん。絶対に新島さんの条件を相手に飲ませましょうね」 ぐっ、と拳を握って笑顔で声をかけてくれる久保田に、もみじも自然と笑みを浮かべた。 「はい!絶対に夫に条件を飲ませます!ありがとうございました、久保田先生」 「ええ、それではお見送りいたしますね」 もみじと久保田は席から立ち上がり話をしながら出入口に向かう。 久保田に見送られたもみじはエレベーターに乗り込み、事務所を後にした。 「さて、これからどうしようかしら」 事務所を出たもみじは、腕時計で時間を確認しつつ歩き出す。 「あまり早く家に帰って、誠司と顔を合わせるのも嫌だし……あ、でも書類にサインをしてくれたかな?」 もしそうだったら、一刻も早く家に帰り書類を役所に提出しに行きたい。 「誠司が会社に行ってくれていればいいんだけど……」 そして、早くE国に帰ってくれればいいのに。 もみじはそう思ってしまった。 ◇ 「──はあ!?また来たって言うの!?」 蘭デザイン、社長室。 社長室には一ノ瀬 蘭の不機嫌な声が響いた。 彼女の秘書である蜂須賀 絢(はちすか あや)は、蘭の声に肩を竦めて困ったように答えた。 「ええ……お断りしているのですが、会ってくれるまで帰らない、と……。どうなさいますか社長?」 「……仕方ないわね。私には協力出来ないって事をきっぱり言って帰ってもらいましょう。いいわ、通して」 「かしこまりました」 蘭の言葉に、蜂須賀は一礼すると部屋を出て行く。 蜂須賀が出て行ってすぐ、再び社長室の扉が開かれた。 開いた扉から入ってきたのは誠司だ。 「……今日はもみじは居ないんだな」 ふん、と鼻を鳴らす誠司の言葉を無視した蘭は、デスクに座ったまま口を開いた。 「新島社長、このようにアポもなく来られては迷惑です。要件をおっしゃってください、そしてすぐにお引き取りください」 「……この会社では、来客にお茶の1つも出さないのか?」 「生憎と新島社長は私がもてなしたいお客様ではございませんので」 冷たい態度の蘭に誠司は鼻を鳴らすと、許可されていないと言うのに、室内にあるソファーに
そして、そんな声はもみじ以外の耳にも、当然入っていた。 それは、近くを歩いていた看護師の耳にも入っていたようで。 「いいなぁ、あそこの個室の奥さん。凄い格好いい旦那さんが、凄く心配して、精密検査やら何やら手配したのよ?」 「ええ?」 「どうやら、奥さん気絶しちゃったみたいで。多分低血圧とか、そう言う類だと思うんだけど、突然気を失ったって血相変えて来たんだから!」 「それ本当!?奥さん、旦那さんに凄く愛されているのね!」 「凄かったわよー、救急車に同乗して、奥さんがストレッチャーで運ばれてる間もぴったり横に寄り添って凄かったんだから!」 きゃいきゃい、と興奮気味に話す看護師の言
「新島さん、降りられそうですか?」 車が病院の駐車場に到着し。 男性──髙野辺 聖が運転席から降りてきて、もみじの乗る助手席のドアを開けてくれた。 「はい、大丈夫です……」 「ゆっくり、ゆっくりで大丈夫ですよ」 「──ぅっ」 ずっと座っていたから忘れていたのだが、もみじの足首の腫れは、悪化していた。 車から降りようと足を動かした途端、鋭い痛みが足首に走り、もみじの顔が痛みに歪む。 そんなもみじの状態を見て、髙野辺は心配そうな表情を浮かべると、痛みに震えるもみじに口を開いた。 「やっぱり無理に動かすと、痛みが酷いですよね。悪化したら大変です。……すみません、また触れますね?
どさり、ともみじの体が倒れ込んだ先は、男性の腕の中だった。 ふわり、と香る男性の香水。 鼻に届いたのは、どこか刺激的だけど爽やかでもあって、もみじは急いで男性から離れようとした。 「すみませ……っ、ありがとうございます」 ぐっ、ともみじが男性の胸を押すと、素直に男性はもみじの体を離した。 だが、離れた事でもみじの顔が良く見えるようになり、そこでもみじの額を流れる血を見て更に慌てたように声を出した。 「額から血も出ていま
「わざわざ会社まで押しかけて、何のつもりだ?」 社長室に向かい、入室したもみじを迎えたのは、誠司のそんな心無い冷たい言葉だった。 呆れたように額を手のひらで抑え、溜息を吐き出す誠司。 そして、誠司の後ろにあるソファには胡桃が当然のように座っていて。 もみじは、まさか開口一番、誠司にそんな言葉を言われるとは思っていなかった。 「何のつもりって……。どうして私が誠司の会社に来ただけで、そんな事を言われなくちゃ……」 「俺は仕事で忙しいのに、どうして俺を煩わせる?話があるなら、帰ってからでもいいだろう?急ぎの用事なんてもみじには無いだろうに……」 はあー、と深い溜息