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第5話

Auteur: ゴマたれ
晴子が席に着いたばかりのとき、個室のドアがギィと音を立て、再び誰かに押し開けられた。

その瞬間、先ほどまでの冗談まじりの声がぴたりと止んだ。

浅子は堂々とドアを押し開け、愛らしい笑みを浮かべながら、わざと無邪気そうに尋ねた。「さっきは何を話してたの?どうして私が入ってきた途端、みんな黙っちゃったの?」

誰も口を開こうとしなかった。

すると、酒に酔った仲間の一人がふらつきながら笑い出した。「浅子さん、さっきは時男がノロケてたって話してたんだよ!時男とは長い付き合いだけど、あんなに誰かを大事にしてるのを見るのは初めてだ!晴子さんは本当に幸せ者だな!」

その一瞬で、浅子の笑みはすっと消えた。

時男はその様子に気づき、すぐに立ち上がって浅子を迎えに行き、笑顔で話題をそらした。「浅子、どうして来たんだ?」

「どうしたの、私が来ちゃいけないの?お兄さんと晴子さんの仲睦まじいところを邪魔しちゃった?」浅子は顔を曇らせ、恨めしげな口調で言い放った。

時男の笑みはわずかに引きつり、気まずさを和らげるように軽く咳払いをした。

晴子は見ていられず、立ち上がった。「時男、ちょっとお手洗いに行ってくるわ。みんなはゆっくりしてて」

この息が詰まるような空気の中、平然と座っていることはできなかった。

彼女は化粧室に行き、冷たい水をすくって顔を洗い、全身にこもった熱を冷まそうとした。

窓辺でしばらく涼しい風に当たったあと、ようやくゆっくりと個室へ向かった。

個室の入口まで来たとき、半開きの扉越しに、晴子は個室の中の全員が浅子をなだめているのを目にした。

「浅子、さっきのいちゃつきはただの演技だよ。あまり気にしないで」時男は彼女をなだめるように優しく言葉をかけた。

仲間たちも次々と調子を合わせて言い出した。「そうだよ、浅子さん、俺たちも時男に合わせて芝居してただけさ。本当はみんな分かってるんだ、時男が心から愛してるのはお前だって!」

「そうそう、晴子さんも確かに悪くはないけど、浅子さんと比べたら全然かなわないよ」

「お前と時男は心が通じ合ってるのに、世間のしがらみのせいで一緒になれないなんて、俺たちも本当に残念に思ってるんだ!」

「そうだよ、もし賀川おじさんとおばさんが二人のことを認めてくれてたら、今ごろ晴子さんなんて存在してなかったのにな!」

晴子はもう聞いていられず、勢いよく個室の扉を押し開けた。

その瞬間、場にいた全員の表情が一変した。

さっきまで調子を合わせていた仲間たちは、たちまち口をつぐみ、息をひそめた。

晴子は何も知らないふりをして、時男のそばへ歩み寄り、グラスを手に取ってお酒を飲み始めた。

その間ずっと、時男の視線は浅子に注がれており、晴子がどれほど酒を飲んでいるかには気づかなかった。

晴子は一杯、また一杯と飲み重ね、お酒が喉を通って胸の奥を焼くように熱くした。

浅子は時おり挑発するように彼女を見やったが、彼女はまるで気づかないかのように無視した。

飲み続けていると、突然、個室の外から騒ぎ声が聞こえてきた。

「大変だ、火事だ!早く逃げろ……」

その直後、濃い煙がドアや窓の隙間から個室の中へと流れ込んできた。

個室の中はたちまち混乱に包まれ、皆が我先にと外へ逃げ出し始めた。

時男は慌てて立ち上がり、そばの晴子の手を取って逃げようとしたが、向かい側の浅子は二歩ほど走ったところで、突然倒れ込んでしまった。「お兄ちゃん、足をくじいちゃった、どうしよう、怖いよ!」

「怖がるな、浅子……」時男はすぐに晴子の手を放し、焦りながら浅子のもとへ駆け寄って抱き上げた。「俺が守るから、絶対に大丈夫だ!」

時男は浅子を抱えたまま走り去った。

晴子は呆然とその背中を見つめ、胸の奥に鈍い痛みが広がった。

晴子は人波に流されるように非常口へと走った。しかし、階段際でハイヒールの踵がぐらつき、足を取られて転倒。倒れかかってきた荷物棚に足を挟まれて動けなくなった。

「時男、待って……」

晴子はまだ一抹の望みを捨てきれずにいた。時男が一目でもいいから振り返り、自分を助けに来てくれることを願っていた。しかし、煙が立ち込める中、時男は浅子を抱きかかえ、一度も振り返ることなくその場を離れた。

晴子の心は完全に崩れ落ちた。

私はいったいまだ何を期待しているのだろう。

彼は結局、自分を愛してなどいないのに。

晴子は足にのしかかる荷棚を力を振り絞って押しのけ、必死に身を起こし、足を引きずりながら非常口へと向かった。

顔は濃い煙で真っ黒になり、激しく咳き込み、全身がみじめなほど乱れていた。

外へ飛び出したときには、すでに全員の避難は終わっていた。

彼女は最後に逃げ出した一人だった。

生死の境をさまよう瞬間、誰一人として彼女を助けに来る者はいなかった。

深い悲しみと、もの凄い虚しさが、彼女の胸を満たした。

時男は晴子の方へ大股で歩み寄ってきたが、近づいたとき、彼女の悲しげな眼差しに思わず息をのんだ。

彼は思わず胸がざわつき、どうしていいかわからないまま弁解した。「ごめん、晴子。さっきはあまりにも緊張していて、お前がまだ後ろにいるのを忘れていたんだ……本当はお前を探しに戻るつもりだったけど、まさか自分で出てくるとは思わなかった」

晴子は心が氷のように冷え切り、もう彼の言い訳など聞きたくない。ただ首を振って言った。「大丈夫よ、私は何の怪我もしていないわ。浅子さんが足をくじいたの、先に彼女を病院へ連れて行ってあげて」

「晴子……本当に大丈夫なのか?」と時男はなおも心配そうに尋ねた。

晴子が口を開く前に、背後の浅子が突然悲鳴を上げた。「お兄ちゃん、足がすごく痛いの!」

時男はたちまち我を忘れ、浅子のもとへ駆け寄った。「晴子、俺は先に浅子を病院へ連れて行く。お前は先に帰っていてくれ!」

そう言い残すと、彼は再び一度も振り返らずに立ち去った。

晴子は二人の去っていく背中をただ見つめるしかなかった。心の痛みは、もはや感覚のない重りと化していた。

ふと、かつて時男と海外旅行したときのことを思い出した。突然の地震で瓦礫の下に閉じ込められた彼女を、時男は危険を顧みず、迷わず瓦礫に飛び込んで救い出してくれたのだ。

なるほど、命を懸けて助けてくれたことも、また偽りだったのか。

何もかも偽りだったのか。

まさか、嘘だけは、本当だった。
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