LOGIN篠原の供述は、自分が書いた一行で止まった。
七瀬紗月本人に確認のうえ処理。
紗月に尋ねていないことにも、そう書かれていた。天城総合は、その報告書の写しを提出した。資料を外部へ持ち出した職員が、今は自分の言葉を覆している、という説明が添えられていた。
篠原は紙を受け取るなり、気づいた。
「私が書いた文章です」
彼の代理人が隣に座っていた。捜査官は認めた箇所に印をつけ、次の質問をした。
「そのとき嘘をついたのですか。今、ついているのですか?」
篠原は唾を飲んだ。実際の支払い項目の間に、わからない費用を挟み込んだ報告書だった。
「そのときです」
「なぜ、そう書きましたか?」
朝、紗月は自分のカップを探していて、夫のカップで水を飲んだ。自分のものは、シンクに伏せてあった。洗えば済むことだったが、今日はそのまま、手に取ったものを使った。キッチンへ入ってきた蓮司は、空の戸棚を見てから、紗月の手を見た。「私のものですけど」「今日は、お借りします」「期間は、いつまでですか?」紗月は笑い、水を飲み込んだ。「洗うまでです」彼は別のカップを出した。何かを決めるときには、今でも期間を聞く人だった。紗月はそこが、ときには煩わしく、今日のようにおかしくもあった。2033年4月23日、土曜日だった。数日前に5歳の誕生日を迎えた陽菜は、リビングの床に座って絵を描いていた。誕生日にもらった色鉛筆のうち、黄色から短くなっていた。蓮司は午前中、会社に寄らなければならなかった。紗月にはレッスンがあり、陽菜は父方の祖母と過ごすことになっていた。朝の食卓で、それぞれ出かける時間を話した。「ママ、これ、持っていって」陽菜が紙を差し出した。大きな顔二つの間に、小さな顔が一つ描かれていた。人よりも花のほうが大きかった。「折ってもいい?」紗月が聞いた。「お顔じゃなくて、ここ」娘が紙の端を指した。紗月は言われたところで折り、鞄に入れた。楽譜の間に、折ってもいいと言われた花の部分を挟んだ。* * *練習室のドアの前には、生徒が一人、先に来ていた。紗月は名前を呼び、ドアを開けた。椅子に鞄を置く間に、右手が
箱には、紗月の字ではない表題がついていた。資料返却。橘弁護士に返してほしいと頼んだ、私物だった。箱の中には写真の封筒と手帳、封をした手紙が一通入っていた。2033年4月22日、金曜日。紗月は食卓を片づけ、それらを取り出した。修吾が送ってきた手紙だった。読んで事務所に置いてきてから、もう一度持ち帰ることはなかった。ほかの私的な連絡も受け取らないまま、6年が過ぎた。紗月は封筒を裏返した。昔の筆跡が、まだはっきり残っていた。あのころはこの字で名前を呼ばれると、読む前から、何と答えなければならないかを考えていた。娘の食べ残したパンの隣に、封筒を置いた。蓮司が開いていた本は片づけず、まず写真の封筒を開けた。家族の日常の写真が出てきた。紗月は自分のアルバムから、父が撮ってくれた演奏会の写真を取り出し、その隣に置いた。裏に、冷麺を食べにいったと書いてある写真は、ずっと大切に持っていたものだった。今回の封筒には、父が計算を間違えたらしい、小さな紙も入っていた。数字を直したところに、何度も引き重ねたボールペンの跡が残っていた。蓮司がコーヒーを持ってきた。「一緒に見ましょうか?」「この写真から、お願いします」紗月は手紙ではなく、写真を渡した。蓮司が向かいに座った。何から見るべきだという順番がないので、紗月は古い紙を自分の速さでめくった。* * *母は電話で、写真の場所がすぐにわかった。「そこで、アイスを落としたでしょう」「そうだった?」「新しいのを買ってあげると言っても、泣いたの。落ちたの
「ママ、今日は黄色いの」陽菜がワンピースを持って、リビングへ出てきた。紗月が選んでおいた服は、椅子にそのまま載っていた。娘はその服を見ないふりをして、黄色いワンピースを体に当てた。2032年10月23日、土曜日。近所の子供向け音楽教室の発表会の日だった。4歳半になった陽菜は、数日前から今日着る服ばかり、選び直していた。演奏より靴のほうが大事な日もあった。「袖、邪魔にならない?」紗月が聞いた。陽菜は両腕を大きく振り回した。「ならない」その腕にぶつかりそうになった蓮司が、身をよけた。紗月は笑いをこらえ、ボタンを留めてやった。娘は鏡の前へ駆けていき、一回転した。弓を持って試してみようという言葉は、そのあとになってようやく聞いた。蓮司はカメラを探した。紗月は彼がバッテリーを確かめる様子に笑った。昨夜も、充電器を抜いたり差したりしていた。会社の報告を控えた日より、質問が多かった。「スマホで撮ってもいいのに」「初舞台じゃないですか」彼が答えた。紗月は驚いて彼を見た。「口調まで、せわしなくなっていますよ」蓮司はカメラを下ろした。陽菜が自分の鞄を背負い、二人の間に入ってきた。「パパ、くつ」陽菜は黄色いスカートの裾を、手のひらで伸ばした。「写真、これ、ぜんぶ写る?」蓮司は、写るようにすると答えた。その返事を聞いて、娘は靴を選んだ。靴を履き、玄関の前に立った。
7月15日、美緒が出発する日、紗月は駅へ行かなかった。保護者と一緒に移動し、運営担当者が到着の連絡を受けることになっていた。前日のレッスンのあと、十分に挨拶をした。紗月は家で、スマートフォンを手に取ってはテーブルに置くことを繰り返した。先に、着いたというメッセージが来た。【部屋は二人で使います。私のベッドは窓際じゃありません。】紗月は笑った。しっかり学んできますという宣言より、部屋で最初に見たものを話すのが、美緒らしかった。ベッドの場所は気に入ったかと聞いた。美緒は、コンセントが近いので大丈夫だと答えた。すぐに合奏室を見にいかなければならないと言い、やり取りが終わった。紗月は、たくさん学んできてねと送り、スマートフォンを置いた。スマートフォンを置いて、自分の楽譜を広げた。来月、奏と立つ国内の室内楽公演の新しい曲だった。まだうまく合わない最初のフレーズを、口で歌った。美緒の連絡を待っていた部屋に、先に自分の音が響いた。夕方帰ってきた蓮司が、美緒は無事に着いたのかと聞いた。「はい。私に話すことが、もう減っています」紗月は笑って言った。「忙しいそうです」夫に、来月の曲の最初のフレーズを短く口ずさんでみせた。蓮司はソファに座り、歌い終わるまで聴いていた。* * *2030年7月。それから数日後の夕方だった。楽譜を持っていた蓮司が、腕が痛いと言った。紗月は旋律を口ずさみながら笑った。見やすい角度にしてほしいと少しずつ直しているうちに、彼の腕を宙に浮かせたままにしすぎた。楽譜を受け
紗月の席は、3列目だった。最前列には生徒の家族が座り、通路を空ける必要のある席もあった。美緒は謝ることなく、紗月にチケットを渡した。紗月は番号を見て笑った。「ここからも、よく聴こえる?」「リハーサルのとき、聴いてみました。前よりよかったです」美緒ははっきり答え、ほかのチケットをそろえた。先生の顔を見て、もう一度大丈夫かと尋ねたりはしなかった。2030年7月6日、土曜日。美緒が室内楽の課程へ出発する前に、友達と作った演奏会だった。場所と運営は事務局が、曲目と順番は生徒たちが担当した。悠斗は、受講した講座で知り合った音響担当者と、録音機材を確認していた。接続について質問し、ノートに書き込んだ。紗月はその様子を長く見てから、手提げ鞄を持ち直した。自分の席に座る前に、のぞいてみたい楽譜がたくさんあった。* * *リハーサルのあと、美緒はアンサンブルの最後の部分をめぐって、友達と言い合いになった。「ここで遅くしたら、後ろがつながらないじゃない」別の生徒が言った。美緒は弓で楽譜を指しかけ、下ろした。以前なら、初めからやり直そうと言っただろう。今度は、問題になっている2小節を選んだ。二人で違う速さを試し、録音を聴いた。紗月はドアの外で、その音を聴いていた。どちらがいいか、すぐに言ってあげられそうだった。けれど、美緒は自分を呼ばなかった。そのとき、短く声が荒くなった。「あなたが最後を聴けていないからでしょ」美緒の声だった。ドアの外に立つ紗月の手が、また上がった。中では別の生徒が、自分も
冬の間に日程と支援の条件を詳しく調べた美緒が、申込書を持ってきた。推薦者の欄は空いていた。紗月はその欄を見ても、先に自分の名前を書かなかった。美緒が紙を前へ押した。夏にほかの地域で行われる、6週間の室内楽集中課程だった。宿泊とレッスンの支援範囲が書かれ、保護者の同意が必要だった。「これを、やりたいです」美緒が言った。紗月は日程を見た。自分が準備していた生徒たちの演奏会と、一部が重なっていた。前年の入賞者たちが一緒に舞台に立てば、地域の支援者にも喜んでもらえる公演になると思っていた。美緒に中心の演目を任せたくて、新しい楽譜まで探してあった。「秋にも、こういう課程はないかな?」口にしてから、美緒の顔が見えた。美緒は用意してきた別の紙を出した。「ここの先生に習いたいんです。この時期しか教えないそうです」「どうして、その先生なの?」尋ねてから、紗月はテーブルの上で手を組んだ。どうして自分では駄目なのか、という言葉に聞こえないでほしかった。美緒はしばらく考えた。「この前合わせたとき、自分の音しか聴いていないって言われたんです。初めて会う人たちと、毎週違う合わせ方をしてみたいです」「ここでも合奏はしているでしょう」「わかっています。でも、ここではみんな、私がどこで速くなるか知っています」美緒は言った。「知らない人とも、やってみたいです」紗月はテーブルの下の新しい楽譜を見た。美緒が演奏会の中心に立つ音を、もう思い描いていた曲だった。手を伸ば