LOGIN視察団の専用車に乗り込むと、贅を尽くした広い車内にいるのは、なぜか夕凪ただ一人だった。夕凪は落ち着かず、座っていてもどうにも居心地が悪かった。これから峻に顔を合わせた時、どんな態度をとればいいのかわからない。夕凪は深く息を吸い込んだ。駄目だ。自分から取り乱してはいけない!今回は造園デザイナーとして、峻の率いる視察団へ参加するだけだ。あくまで仕事上の関係にすぎない。二人が元夫婦であることは事実だが、それもすべてはもう終わった過去のことなのだ!ところが集合場所へ着くと、夕凪を悩ませたのは峻ではなく、全く別の男だった。「夕凪!昨夜、何度も電話したのに、どうして出なかった!?姉貴に家に閉じ込められて……君に会いに行くなと止められてたんだ!さっき、ようやく隙を見つけて抜け出してきた!夕凪、出張へ行くのか?いつ戻るんだ?」突然現れた司は、夕凪の手を強くつかみ、焦燥に駆られた声でまくし立てた。その司の姿を一目見た夕凪は、驚かずにはいられなかった。確かに司は、しばらく「軟禁」でもされていたかのようなひどい有様だった。口の周りには、青黒い無精髭まで伸びている。それだけではない。これほどまでに緊張し、不安に苛まれている司の表情を、夕凪は今まで一度も見たことがなかった。いつもふざけたような笑みを浮かべ、自由奔放に振る舞っていた以前の桐生家の御曹司とは、まるで別人のようだった。夕凪は自分をつかむ司の手を静かに振りほどき、ぎこちなく答えた。「……日程は一週間です」「一週間!?」司は眉をひそめ、あからさまに不満を口にした。「どうして、そんなに長いんだ!?夕凪、行かないでくれないか。心配しなくていい。姉貴は俺が絶対に説得する。必ず俺たちの結婚を認めさせてみせる!結婚したら、君は妻として家にいて、家庭を守り、子供を育ててくれればいい。もう外に出て働く必要なんてないんだ!」必死で訴えかける司をじっと見つめているうちに、夕凪の脳裏に、かつて峻と結婚していた頃のある記憶が不意に蘇ってきた。ある日、帰宅した峻は、夕凪がソファに寝転がり、くだらないネットドラマを見ながら何の悩みもなさそうに笑い転げている姿を目にした。その時、峻は眉間に深く皺を寄せ、整った顔を険しくしてこう言い放ったのだ。「夕凪。俺には君を養っていく力がある。だが、君
「ええっ?夕凪さんって、どんだけ運がいいのよ!」ほかの女性社員たちは、揃って心底がっかりした様子だった。茜は冷たく言い放った。「夢を見るのはやめなさい。佐藤会長が全社員の経歴書を提出して、御堂グループから返ってきた答えが、条件に合うのは夕凪一人だけ、というものだったの。文句があるなら、御堂グループへ乗り込んで、御堂社長本人に問いただしてきなさい」誰も言葉を返せなかった。その瞬間、全員が一斉に口を閉ざした。誰も文句を言わないことを確かめてから、茜は顔面蒼白になっている夕凪へ向き直った。「今すぐ帰って、荷物をまとめてきなさい。あとでプロジェクトの連絡用チャットの招待QRコードを送るわ。出発時刻と集合場所は、管理者からそっちで通知されるから」茜はいったん言葉を切ると、念を押すように言った。「夕凪。今回の連絡用チャットには、私でさえ入る資格がないのよ。普段は外見を気にしなくても構わないけれど、今回の出張では、あなたの言葉も振る舞いも非常に重要になってくるわ。会社の代表として見られるのだから、身だしなみには常に気を配りなさい」借りている部屋へ戻り、荷物をまとめていた夕凪は、茜のあの意味ありげな言葉をふと思い出していた。自分だって馬鹿ではない。茜が言いたかったのは、自分がひどく垢抜けない、ということだと痛いほどわかっていた。ただ、茜が気遣って遠回しに言ってくれただけだ。自分は、いったいどれほど垢抜けないのだろう。夕凪は思わず姿見の前まで行き、頭の先から足元まで、鏡に映る自分の姿をじっと見つめ直した。身につけているのは、グレーのロングコート。その内側から白いパーカーのフードを覗かせている。ボトムスは濃い色のジーンズで、足元は白いスニーカー。長く黒い髪は、バンスクリップで後ろに無造作にまとめただけだった。夕凪は近視ではないが、生まれつき乱視があり、眼鏡を手放せなかった。透き通るほど白い肌に、墨のように黒い髪。黒縁眼鏡のせいで顔の白さが一層際立ち、どこまでも地味で飾り気のない印象を与えている。以前の夕凪は、フレーム眼鏡など絶対に使わず、常にコンタクトレンズをつけていた。峻には、少しでも美しい自分を見てもらいたかったからだ。刑務所に入ってから眼鏡を使うようになり、出所後もすっかりそれに慣れてしまっていたのだ。ただし
峻は言葉を失った。謝罪一つに、これほど多くの作法と駆け引きがあるとは、思いもよらなかった。企業を買収したり、株式市場で防衛戦を指揮したりするよりも、はるかに複雑じゃないか。考えるだけで頭が痛くなる!だが、どれほど頭が痛くても、峻は知景の言った内容を一つ残らず胸に刻み込んだ。翌日、夕凪が出社すると、茜が彼女の席まで歩いてきて、指の関節でコンコンと机を叩いた。「夕凪、あなたには瀬戸グループの案件から外れてもらうわ」夕凪は目を丸くした。そばにいた同僚たちも、驚いて動きを止めた。どうして?どうして彼女だけ、あんな激務から抜け出せるの?同僚たちから羨望と嫉妬と恨めしさが入り交じった視線を浴びる中、夕凪は表面上こそ平静を装っていたが、胸の内では飛び上がりたいほど喜んでいた。昨夜は不安のあまり、何度寝返りを打っても眠れなかったのだ。今回の案件を通じて志織と顔を合わせれば、志織は必ず自分の本当の身分を暴露するだろう。それだけではない。自分を陥れるために、あらゆる手を使い、会社へ圧力をかけて解雇させることさえ考えられる。今の自分には何の後ろ盾もなく、志織と争える資格も力もなかった。そもそも、争う気すらない。自分はこれからの人生を、誰とも関わらず穏やかに生きたいだけだった。夕凪が心の中で快哉を叫んでいると、茜は言葉を継いだ。「明日、御堂グループの御堂峻社長が自ら視察団を率いて、南嶺県朝峰町で進めている文化観光プロジェクトの視察に向かう。参加するのは、技術会社、建築設計会社、造園設計会社、企画運営会社の各代表。そのうち、当社の造園設計代表として、あなたに行ってもらうわ」夕凪は言葉を失った。目の前が真っ暗になり、そのまま気を失いそうになった。み……御堂峻!?お願い、嘘だと言って!「一難去ってまた一難」とはまさにこのことだと、夕凪は身をもって思い知らされた。夕凪は小声で懇願した。「森本主任、私のような経験不足の者では、それほど重要な大役は務まらないと思います……私は残って瀬戸グループの案件をやりますので、視察はどうか別の方にお願いできませんか?」それを聞いた同僚たちは、夕凪は頭がおかしくなったのではないかと疑った。隣の女性社員はすぐさま勢いよく手を挙げ、興奮した声で叫んだ。「私が行きます!森本主任
全部、昔の同級生である峻のせいだ。あの男に、まんまと嵌められたのだ!昨夜、十年以上会っていなかった小学校の同級生・峻から突然電話があり、知景はある頼み事を持ちかけられた。もちろん、ただの頼みではない。その見返りとして、峻は桐生グループと三年間の提携契約を結ぶと約束してきたのだ。知景は最初、内心で小躍りするほど喜んでいた。だが今は、引き受けたことを死ぬほど後悔している。知景と司は、幼い頃からとても仲のいい姉弟だ。弟が心から大切にしている女に、姉が裏で嫌がらせをしていたと知られでもしたら、どれほどの修羅場になるかわからない。ところが峻は、頭を抱える知景の苦情などまるで意に介さず、さっさと一方的に電話を切ってしまったのである。通話を終えたあとも、峻の胸の昂りは少しも収まっていなかった。わざわざ知景を巻き込んでまで仕掛けた今回の探りは、ようやく彼に望みどおりの結果をもたらした。夕凪と司の間には、本当に何もないのだ!御堂グループの次期総裁たる峻は、今や自宅のソファから弾かれたように立ち上がっていた。家に使用人たちがいなければ、喜びのあまり大声で叫んでいたに違いない!そう、峻は心の底から歓喜していた。夕凪を取り戻す機会がまだ自分に残されていると、ようやく確信できたからだ。ところが、その時また知景から電話がかかってきた。電話に出るなり、知景が怒りに満ちた声でまくし立てた。「ちょっと御堂峻、用済みになったらポイ捨てってわけ!?人の話を最後まで聞かずに、勝手に電話を切るなんて!」峻は淡々と言った。「提携の契約書を用意して、来週俺のところへ持ってこい」知景は一瞬、言葉を失った。そして、さらに腹を立てて声を荒らげた。「御堂峻!私たち、いちおう小学校の同級生でしょう!私がそんなに、金と利益でしか動かない女に見えるわけ!?私が言いたいのは別のことよ。瀬戸夕凪はあなたの前妻じゃない?彼女の性格くらい、よくわかってるでしょう!一度は夫婦になった仲なんだから、こそこそ探るより、直接会ってきちんと謝れば済む話じゃないの!」峻は、仮にも御堂グループの次期総裁だ。世間では「冷徹無比な帝王」と恐れられている男でもある。それなのに今回は、人目を忍んでコソコソと嗅ぎ回り、まるで泥棒みたいな真似をしている。こんな姿が世間
自己防衛のために録音の習慣をつけて以来、この手は何度試しても役に立った。「本当に私に何かするつもりなら、この録音を公開します」夕凪は淡々と言った。知景は桐生グループの副社長にまで登り詰めたが、その野心はグループの掌握にとどまらず、さらに上を目指している。だからこそ、彼女が何より気にするのは自身のパブリックイメージだ。信用や評判に傷がつけば、これ以上キャリアを築くことは難しくなるからだ。「この……っ!」知景は怒りのあまり体を震わせたが、夕凪をどうすることもできなかった。夕凪は静かな口調のまま続けた。「先ほど申し上げたとおり、私と司さんがどうにかなることはありません。私は約束を守ります。そして、これからも涼崎に残り、働いて暮らしていきます。知景さんが私に干渉しない限り、私も何もしません。でも、私の仕事や生活を脅かすような真似をするなら、この録音をSNSで公開し、マスコミにも送ります。私から申し上げることは、これだけです」知景は夕凪を見つめたまま、不意に胸の奥を強く突かれたような感覚を覚えた。ほんの少し前まで、知景は夕凪のことを、平凡な顔立ちに地味な服をまとい、髪も低い位置で無造作にひとつに結んだだけの、ひどく野暮ったい女だと思っていた。頭の先から足元まで気品の欠片もなく、司にはまるで釣り合わないと見下していたのだ。ところが今、知景は言い知れぬ奇妙な感覚に襲われていた。目の前にいる夕凪は、容姿にも装いにも華がなく、どこにでもいるような目立たない女だ。それなのに、彼女が淡々と口にした言葉の端々には、不思議な重みが宿っているように感じられた。この女は、口にしたことを必ず実行する。そう確信させられる何かがあった。それどころか、生まれながらに人を従わせるような、声を荒らげずとも相手を圧倒する気迫さえ漂っていた。知景の胸がざわついた。だが、知景は事前に夕凪について調べ尽くしていた。夕凪は、涼崎で一番の愚か者と言っても過言ではない女だ。しかも、飛び抜けて。そんな女が、どうしてこれほど底知れぬ気迫を秘めているのだろうか。夕凪は静かに立ち上がった。「ほかにお話がないようでしたら、私はこれで失礼します。それから、先ほど手が滑って、うっかりこの録音を司さんへ送ってしまいました。今頃は、こちらへ向かっていると思います」知景は激
メッセージを打とうとしていた夕凪の手が、空中でピタリと止まった。夕凪が真っ先に思ったのは、知景の言葉がどれほど失礼かということではなかった。司が電話で、「いいか、俺以外の誰が来ても、絶対についていくなよ!」と念を押していたことを思い出したのだ。あの時、司が指しているのは峻のことだと思っていた。だが、今になってわかった。司が警戒していたのは、実の姉である知景だったのだ。しかも電話口の司は、今まで聞いたことがないほど真剣な声だった。夕凪はその時、深く考えなかったが、今ならわかる。司は実の姉の手強さを、誰よりもよく知っていたのだ。「私の話を聞いているの?」知景は眉間に皺を寄せ、ますます不機嫌そうに顔を曇らせた。夕凪が自分の眼鏡にかなわないだけでなく、躾も礼儀もなっていないと責めているようだった。夕凪は、深く納得したような表情でうなずいた。「知景さんのおっしゃるとおりです。私と司さんは、確かにまったく釣り合いません。ですから、どうかご安心ください。私と司さんは以前も何の関係もありませんでしたし、今もありません。これから先も、何もありませんから」夕凪は怒るどころか、むしろ肩の荷が下りた思いだった。以前は、桐生会長と奥さんが司を止め、彼に結婚を諦めさせてくれないかと期待していた。ところが実際に会ってみると、あの夫婦は息子以上に常識が通用しなかったのだ。そこへ、知景が立ちはだかってくれた。夕凪はすっかり安心し、桐生家にもようやく一人、「まともな人」がいたのだと心から胸を撫で下ろした。だが知景は、赤い唇を軽蔑するように歪めた。「わざと身を引いて、気を引くつもり?そういう駆け引きなら、もう嫌というほど見てきたわ。そんなことをしても、私の考えが変わることはない。それどころか、わざとらしい女だと思って、あなたをもっと嫌いになるだけよ」その美しい瞳に、鋭い光が走った。夕凪は小さくため息をついた。「では、どうすれば信じていただけますか?」知景は、冷ややかに言い放った。「涼崎市を出ていきなさい」本当は「涼崎から失せろ」と言いたいのだろうと、夕凪には痛いほどわかった。夕凪は知景をまっすぐに見つめ返した。「でも、私はようやく納得のいく仕事を見つけたんです。少なくとも、その仕事があれば食べていけます。それに、涼崎は私
「ふざけんな!たかが掃除のおばちゃんの分際で、俺に楯突こうってのか。ただで済むと思うなよ……!」惟人が激昂して腕を振り上げ、力任せに打ち下ろしてきた。夕凪の背後は壁だった。逃げ場などどこにもない。迫ってくるその手を、目を見開いたまま見つめることしかできなかった。「唐沢さん、相手はただの清掃員ですよ。そこまで熱くなることはないでしょう」ちょうどその時、ドアを押し開けて司が入ってきた。にやにやと笑いながら。司の姿を見て、惟人の腕が宙で止まった。彼は忌々しげに舌打ちして、手を下ろした。司が、早く行けとばかりに夕凪へ目配せをした。夕凪ははっと我に返った。顔面は蒼白だった
「はい、間違いありません」夕凪が力強く頷いた。若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」圭吾は厳しい顔で深く頷いた。「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」「了解しました」……涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した
それにしても、なぜ峻はあんなことを言ったのだろう。「正式に娶った妻」だと?夕凪はすでに離婚協議書を置いてきた。峻が判を押しさえすれば、所定の手続きを経て二人の婚姻は終わる。晴れて自由の身になれるはずだ。それこそ、峻がずっと望んでいたことではないのか。――ふいに、背後でVIPルームの重い扉が内側から引き開けられた。夕凪はびくりと身を竦め、我に返るや否や逃げ出そうとした。「待て」呼び止められた。しかも、この低く冷たい声はまさか……?聞き間違えるはずがない。あの人、峻だ!夕凪の頭の中が真っ白になり、足が凍りついた。一歩も動けない。背筋が棒のように硬直し、指先から急速に
夕凪は静かに首を横に振った。多恵はほっと息をついた。「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」夕凪の胸が、また小さく震えた。そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。夕凪はたまらず目頭が熱