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第2話

Author: 笹しぐれ
刑務所を出た夕凪が真っ先にしたことは、銭湯へ行って湯につかることだった。まずはこの身にまとわりついた穢れを、きれいさっぱり洗い流したかったのだ。

浴槽に足を踏み入れ、熱い湯の中にゆっくりと体を沈めていく……ああ、気持ちいい。

思わず目を閉じて、浴槽の縁に頭をもたせかけた。

あまりにも穏やかで、あまりにも安らかで――ずっと張り詰めていた糸がふっとほどけた途端、記憶の底に沈めていたものが、ひとりでに浮かび上がってきた。

六年前、御堂グループは突如として経営危機に陥った。窮地を脱するため、峻は自ら夕凪のもとを訪れ、プロポーズした。瀬戸グループに支援させるための政略結婚だった。

父は反対していた。峻の心に別の女性がいることを、とうに見抜いていたからだ。

けれど、どうするかと問われた夕凪は、二つ返事で承諾してしまった。

世界的なデザイナーが一針一針縫い上げたウェディングドレスに身を包み、一歩、また一歩と峻のもとへ歩み寄ったあの日。その先に待っているのは確かな幸せだと、疑いもしなかった。

――まさかそれが、終わりの見えない地獄の入り口だったとは。

刑務所の門を出たあの瞬間は、まだどこか茫然としていた。

けれど今、湯の温もりに体がほぐれるにつれて頭が冴えてゆき、胸の奥に一本の芯が通るのを感じた。

峻がわざわざ迎えに来た理由が何であれ、ろくなことであるはずがない。

だから――あの男にはもう近づかない。二度と、傷つけられる隙を与えない。

今の自分がやるべきことは、二つだけ。離婚すること。そして、無実を証明すること。

ただ、峻を避けながら離婚を進めるには、どう立ち回ればいいのか?

温かい湯の中に体を沈めたまま目を閉じて、立ちのぼる湯気の中で、夕凪は静かに思いを巡らせた。

――身を清めてから、夕凪は御堂本家へ向かった。

実家には戻らなかった。四年前のあの一件以来、父との間に見えない壁ができてしまっている。父の顔を見たくなかった。後妻の百合子(ゆりこ)と、その娘の志織(しおり)の顔は、なおさらだ。

けれど、峻の祖母である御堂静江(みどう しずえ)だけは、昔も今も変わらず、本当の孫のように夕凪を慈しんでくれていた。

峻の叔母・御堂雅子(みどう まさこ)と、その娘の御堂千鶴(みどう ちづる)が、買ったばかりのブランドバッグを広げてはしゃいでいた。夕凪の姿を認めた途端、雅子の動きがピタリと止まった。口がぽかんと開いて、卵が一つ入りそうなほどだった。

「あ、あんた……!夕凪!人殺しが……刑務所にいるはずでしょう、なんで出てきたの!?」

甲高い声に、隠しきれない動揺と、かすかな怯えがにじんでいた。

夕凪の口元に、薄い自嘲が浮かんだ。

――そう。出所しようが何だろうが、「人殺し」の烙印は一生消えない。

千鶴がぽんと手を打った。

「あ、思い出したわ。おばあさまが言ってた、今日がこの女の出所日だって。お母様は昨日帰国したばかりだからご存じなかっただけよ」

「夕凪が帰ってきたんだよ。何をぼうっと突っ立っているんだい、早くお清めの塩を用意しなさい」

凛とした、しかし有無を言わさぬ声が響いた。

古くからの習わしで、厄を払い、穢れを落とすためのお清めだ。

夕凪ははっと顔を上げた。静江が手すりにつかまりながら、おぼつかない足取りで階段を下りてくる。

「おばあさま……!」

「夕凪、よく帰ってきたね。よく、頑張ったね……」

静江は足早に歩み寄ると、夕凪をしっかりと胸に抱きしめた。

二人とも、もう言葉にならなかった。ただ声を詰まらせながら、互いの温もりを確かめ合った。

ひとしきり落ち着いてから、夕凪はお清めの塩はいらないと伝えた。銭湯でもう身を清めてきたからだ。

静江はそこで思い出したように言った。「そういえば、どうして一人なんだい?峻に迎えに行かせたはずなのに」

その一言で、夕凪はすべてを理解した。峻が刑務所に現れたのは、自分の意思ではなく静江の指示だったのだ。

「……すれ違いになってしまったみたいで。たぶん、時間を間違えたんだと思います」

精一杯取り繕って、そうごまかすしかなかった。

静江はむっと顔をしかめた。

「あの馬鹿が……」

そこへ、ようやく状況を飲み込んだ雅子が割って入った。露骨に眉をひそめ、鼻先を手で覆いながら言う。「お義母様、うちの智也(ともや)の嫁は今、お腹に赤ちゃんがいるんですよ?刑務所帰りの人を家に上げるなんて、もし妙な厄でも持ち込まれたらどうするんです。縁起が悪すぎます」

静江の目がすっと細くなった。

「黙りなさい。夕凪は峻の妻であり、この家の人間だ。今日からここに住まわせるわ」

夕凪は慌てて口を開いた。「おばあさま、雅子おば様のおっしゃることにも一理あります。気にされる方がいるのは当然のことですし……それに、私はこれからはここには住みません」

静江も雅子も、我が耳を疑った。

あの意地っ張りで、わがまま放題だった夕凪が、こんな物わかりのいいことを言うなんて。

けれど夕凪は見逃さなかった。静江の目にほんの一瞬よぎった、躊躇いの色を。

そうだ。年を重ねた人ほど、「縁起」の二文字は重い。おばあさまはただ、自分を傷つけまいと無理をしてくれているだけなのだ。

だからこそ、こちらが身を引かなければ。おばあさまを板挟みにさせてはいけない。

本当に、変わったものだ。自分でもそう思う。

静江が心配そうに覗き込んできた。

「でも……ここに住まないなら、どこへ行くんだい?汐見台の家かい?」

夕凪の体がわずかにこわばった。

汐見台の家――峻との婚姻生活を送った、かつての家だ。

けれど今の自分にとって、あそこは家などではない。魔窟であり、地獄だ。戻るつもりは毛頭なかった。

黙り込んだ夕凪を、静江は肯定と受け取ったらしい。心配そうに眉を曇らせた。

「でも、あんたと峻は……」

清音の死を夕凪のせいだと信じて憎んでいる峻のことを、静江は知っている。だからこそ、あの家に帰ればまた虐げられるのではないかと気が気でないのだ。

「おばあさま、この件は心配しないでください。私と峻の問題ですから、ちゃんと話し合いますから」

夕凪は静江の腕にぎゅっとしがみつき、甘えるように笑ってみせた。

もちろん、家を出て一人で暮らすつもりだなんて言えるはずがない。おばあさまを余計に心配させるだけだ。

いずれ完全に別れることになる。でもそれは少しずつ、段階を踏んで受け入れてもらえばいい。今はまだ、刺激が強すぎる。

静江は長いため息をついた。

「……わかった。あんたがそう決めたなら、もう何も言わないよ。ただね、くれぐれも……体だけは大事にするんだよ」

「……ありがとう、おばあさま」

静江のあたたかい胸に顔を埋めて、夕凪はまた目頭が熱くなった。

この温もりとの別れが惜しくて、けれどこの先の未来は何も見えなくて……

夕凪が本家を去った後、静江はすぐさま峻に電話をかけた。

「おばあさま……」

出るなり、静江は怒声を叩きつけた。

「おばあさまと呼ぶんじゃないよ!一人前のつもりかい?私の言うことすら聞けなくなったのかね!

夕凪を迎えに行けと言ったのに、あの子は一人で帰ってきたよ。どういうことだい!」

峻は何も答えなかった。

「今どこにいるんだ」

「……会議中です」

「嫁をほったらかしにしておいて会議だと?いいからすぐに戻ってきなさい、今すぐだよ!」

返事を待たず、静江は電話を叩き切った。

てっきり家で夕凪を待っているものと思っていた。迎えに行って、そのまま家で食事でもさせていればよかったのに。

それがまだ会社にいるとは、まったくもってのほかだ。あの馬鹿を呼び戻して、きっちり灸を据えてやらなければ気が済まない。

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