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第3話

Author: 笹しぐれ
二十分後。忠はアクセルを踏み抜かんばかりの勢いで車を飛ばし、ようやく最短時間で峻を本家へ送り届けた。

玄関をくぐるなり、御堂グループの次期総帥ともあろう峻が、またしても祖母にこっぴどく叱り飛ばされた。

峻は一言も言い返さず、黙って叱責を浴びていた。が、頭の中では別のことを考えていた。

御堂家の先代当主と夕凪の外祖父――瀬戸グループの創業者は、血の繋がりこそないが義兄弟の契りを結んだ仲だ。夕凪は幼い頃からしょっちゅう本家に遊びに来ていた。

静江には三人の息子と一人の娘がいて、孫も五、六人、さらに外孫娘もいる。けれど昔から誰よりも可愛がっていたのは、血の繋がりのない夕凪だった。

御堂家の子や孫たちは皆それを妬んでいたし、峻自身も理由がわからなかった。

そして夕凪が出所後、別荘ではなくまっすぐ本家の祖母を訪ねたという事実――それだけは、少しだけ意外だった。

静江はひとしきり怒鳴り散らした後、今度はくどくどと説教を始めた。峻は一言も耳に入っていなかった。頭にあるのは、さっきの会議で議論していた案件のことだけだ。

「……今すぐ別荘に帰りなさい。夕凪にちゃんと頭を下げるんだよ。今夜は田島さんにあの子の好きな料理を作らせて……いや、やっぱり外で食べなさい。洋食のいい店を予約して、雰囲気のいいところにするんだよ……」

静江の小言が続くほどに、峻の顔は険しさを増していった。

それでも最後には、不承不承「……ああ」とだけ返した。

汐見台の別荘に戻ると、田島峰子(たじま みねこ)が足早に出迎えた。

「若様、若奥様がお戻りになったのですが……」

言い終わらぬうちに、峻は冷ややかに「ああ」と応じた。

――これからまた、あの女のまとわりつくような顔を見なければならないのか。そう思うだけで、眉間に苛立ちが滲んだ。

だが、峰子の次の言葉は予想を裏切るものだった。

「それが……また出て行かれてしまいまして」

出て行った?

どういう意味だ。

「その……」峰子はおそるおそる切り出した。峻の顔をまともに見ることすらできない。

「一時間ほど前にお戻りになって、お荷物をまとめると……そのまま出て行かれました」

上着を脱ぎかけ、ネクタイを緩めかけていた峻の手が止まった。

大股で階段を上がり、ゲストルームのクローゼットを開ける。

――やはり、中できちんと並んでいたはずの夕凪の衣類が、すべて消えていた。

三年前、夕凪が収監された直後に、彼女の私物はすべて主寝室からこのゲストルームに移させていた。目障りだったからだ。

そして、彼女名義のキャッシュカードも、すべて持ち出されていた。

峻の眉間の皺が、さらに深くなった。

もともと、あの女のことなど興味はなかった。今日が出所日だと知ったのも、静江から電話があったからだ。迎えに行ったのだって、祖母の静江に命じられたにすぎない。

なのに今、得体の知れない引っかかりが胸の内にある。

――あの女、いったい何を企んでいる……いいだろう、見届けてやろうじゃないか。

階段を下り、リビングに戻った峻の目が、テーブルの上に置かれた書類を捉えた。

先ほどは階段を上がることしか頭になく、気づかなかった。

手に取った瞬間――瞳孔が、すっと収縮した。

表紙に大きく記されていたのは、「離婚協議書」という文字。

夕凪の署名入りだった。財産分与も慰謝料もいっさい求めず、身ひとつで出て行く。ただ離婚に同意してくれさえすればいい――そういう内容だった。

峻は、呆れたように鼻で笑った。

離婚だと?

望むところだ。何度だって判を押してやる。

――だが、過ちを犯したのはあちらだ。離婚を言い出すなら、本来は俺の側のはずだ。まるで、俺に愛想を尽かしたかのような言い草じゃないか。

冷たく長い指が、ゆっくりと紙を握りしめた。

――そして、離婚協議書を無残に引き裂いた。

峻はアシスタントの橘柊吾(たちばな しゅうご)に電話をかけた。

「今すぐ手配しろ、あいつの居場所を――」

だが、途中でふっと言葉を切った。

「社長?どなたをお探しですか?」

峻は電話を持ったまま、その目にうっすらと嗜虐的な光を浮かべた。

「いや――探す必要はない。俺の名義で銀行に申請しろ。瀬戸夕凪名義の口座を、すべて凍結させろ」

本来なら、女一人を追い詰めるためにこんな手を使う気はなかった。

だが、こちらより先に離婚を突きつけたうえ、荷物をまとめてさっさと出て行くとは。

駆け引きのつもりか、本気で縁を切るつもりかは知らない。どちらにせよ、思い通りにはさせない。

「承知いたしました」

事情はわからずとも柊吾は問い返さず、すぐさま動いた。

峻はスラックスのポケットに両手を突っ込み、フロアウィンドウの前に立った。庭では清掃員が、散り積もったイチョウの葉を懸命に掃いている。

彼の薄い唇に、冷たい笑みが刻まれた。

――かつて涼崎一の令嬢と謳われた女が、今や前科者の身だ。口座を凍結され、一文無しで放り出されて、どうやって生きていくつもりだ?見ものじゃないか。

三日。長くて三日だ。必ず泣きついて戻ってくる。

夕闇が街を染め始めた頃、夕凪はキャッシュカードを握りしめ、キャリーケースを引きずりながらホテルを探していた。今夜だけどこかに泊まって、明日にでも部屋を借りるつもりだった。

三年の空白は大きかった。世の中はすっかり様変わりしていて、ホテルの予約ひとつとってもネットが当たり前になっている。

フロントでカードを差し出す夕凪。大手銀行のゴールドカードを見た途端、受付スタッフの態度がガラリと変わった。顔中に愛想笑いを貼り付け、露骨にへりくだった態度に出るスタッフに、夕凪はひどく居心地が悪くなった。

ところが、カードを通した瞬間――

ピッ。

【こちらの口座は、現在凍結されております】

フロントの笑顔がぴたりと凍り、夕凪も固まった。

「こ、こっちのカードで……!こっちを試してください!」

慌てて別のカードを差し出したが、返ってきたのは同じ無情な通知音だった。

【こちらの口座は、現在凍結されております】

夕凪はその場に立ち尽くした。

このカードに入っているのは、外祖父が嫁入りの際に持たせてくれた資金だ。なぜ――

――待って。三年前に収監されてから、私の財産はすべて峻の管理下に移されている。このカードも。

「残高不足」ではなく「凍結」。つまり峻は中の金には一円も手をつけていない。そして口座の凍結を銀行に申請できるのは、夫である峻――ただ一人。

あの男の性格からして、こうと決めたら手加減はしない。自力で凍結を解除する手立てはないだろう。

顔から血の気が引いた。カードを握りしめる指先が白くなる。足元から、冷気がじわじわとせり上がってくるようだった。

どうしよう。

今夜は本当に、橋の下で夜を明かすしかないのか。

「……申し訳ありません、お騒がせしました」

赤くなったり青くなったりする顔のまま頭を下げる夕凪を、フロントのスタッフが値踏みするような目で見ている。

――穴があったら入りたかった。

キャリーケースを引きずり、逃げるようにホテルを出た。

行き交う車のヘッドライトが眩しい夜の通りで、夕凪は途方に暮れて立ち尽くした。どちらへ歩けばいいのかも、わからなかった。

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