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第4話

Author: 笹しぐれ
嫁ぎ先には怖くて戻れない。実家にも帰れない。

――行き場が、どこにもない。

夕凪はあてもなく、身を切るような寒風の中を歩き続けていた。鼻先は真っ赤で、体の震えが止まらない。

ふと、子どもの頃に読んだ「マッチ売りの少女」を思い出した。寒くて、腹が減って、一文無しで――今の自分は、まさにあの少女そのものだ。

足が止まった。目の前に、二十四時間営業の看板を掲げたファストフード店がある。窓越しに見える店内には、夜を明かすホームレスたちの姿があった。

もう、ここしかない。

夕凪は歯を食いしばり、迷惑を承知で店に入った。隅の席を見つけ、テーブルに突っ伏す。

外で凍え死ぬよりはマシだ。

けれど一睡もできなかった。硬いテーブルと椅子、地鳴りのようなホームレスのいびき、ひっきりなしに開閉するドア――針のむしろに座らされているようで、一分一分が永遠に感じられた。

でも、あそこよりはずっといい。

テーブルに顔を伏せたまま、夕凪は静かにそう思った。

どんな形であれ、自由の身になれたのだ。

経験した者にしか分からない。「自由」がどれほど尊いものか。

自由でさえあれば、未来にはまだ希望がある。

――ふいに、足元に何かが触れた。

体がびくりと跳ね、意識が一気に覚醒する。

彼女は反射的に立ち上がり、背筋を伸ばして声を張った。「はい、六二八番、報告願います!」

店内の視線が一斉に集まった。

数秒の沈黙……そこでようやく、夕凪は我に返った。

ここは刑務所ではない。もう出所したのだ。

眠りの中で看守に点呼だと思い込んで、つい――

顔が一瞬で熱くなり、首筋まで真っ赤に染まった。恥ずかしさで、今すぐ消えてしまいたかった。

のろのろと腰を下ろし、うつむいたまま顔を上げられない。火の出るように熱くなった顔は、いつまでも冷めなかった。

そのとき初めて、外がすっかり明るくなっていることに気がついた。足に当たったのは、早朝の清掃を始めた店員のモップだった。

――清掃員。

その言葉に、はっとした。

住む場所もなければ、金もない。とにかく仕事を見つけなければ。住み込みで働けて、その日食べていける仕事なら、なんでもいい。

名の知れた大学を出てはいるが、前科者の自分をまともな企業が雇うはずがない。

だから、身元を問われない仕事。真面目に働きさえすれば、雇ってもらえる仕事。

――清掃員なら、いけるかもしれない。

すぐにカウンターへ向かい、清掃員の募集はないかと丁寧に尋ねた。

だが、席を占領するホームレスたちにうんざりしていた若い店員は、顔も上げずに「もう埋まってます」と素っ気なく返した。

他の店も回った。けれど、募集が終わっているか、住み込みの条件がないか、どれも合わなかった。

ついに、夕凪は荷物を手に、あるきらびやかな門の前に立っていた。

胸の中は、複雑な思いでいっぱいだった。

クラブ「クラウド」。涼崎でも指折りの高級会員制クラブだ。

かつて街一番の令嬢と呼ばれていた頃、名前だけは聞いたことがある。だが足を踏み入れたことは一度もなかった――こういう場所で働く女性は、男たちの遊び相手だ。あの頃の自分には、縁も興味もない世界だったからだ。

けれど今は、何もかもが変わってしまった。

入口の脇に、【清掃員 三名募集】と書かれた紙が貼ってある。

冷たい風に吹かれながら、しばらくその場に立ち尽くした。

やがて意を決し、荷物を握りしめて中へ踏み入れた。

「ちょっと、何の用だ」

若い警備員が行く手を遮った。

客の外見で判断しないよう教育されているはずだが、色の褪せたジーンズにくたびれたダウンジャケット姿の夕凪は、どう見てもこの場にそぐわない。

制服姿の男を前にした瞬間、体が勝手にこわばった。服役経験者の、抜けない癖だ。

「あ、あの……清掃員の……募集を見て……」

「清掃員?」

警備員が夕凪を上から下まで眺める。追い返されると覚悟したが、彼はくるりと振り返った。

「理紗さん、清掃の応募が来てますよ!」

夕凪が顔を上げると、四十がらみの女、須藤理紗(すどう りさ)が目に入った。水色のタイトドレスにヒールを履き、泣きじゃくる若い女を叱りつけている最中だった。

その若い女の頬には、くっきりと五本の指の跡が残っている。

声に反応して、理紗がこちらを一瞥した。

だが視線を戻すなり、吐き捨てるように言った。「華がないわね。ここには合わない」

夕凪はその意味を即座に理解し、慌てて口を開いた。「あの、私が希望しているのは清掃員です」

理紗が怪訝そうに振り返る。「こんな若いのが、清掃員?」

夕凪は一歩前に出た。この仕事を逃すわけにはいかない。

「はい。ぜひ、お願いします」

理紗の視線が、夕凪の手に握られた荷物へと下りた。一瞬で何かを察したようだった。

「事情があるのは分かるけど」理紗は気のない声で続けた。「うちみたいな高級店は、清掃員だって小綺麗な身なりじゃないと雇えないのよ」

胸の奥がずしりと沈んだ。何か言い返そうとしたその時、理紗の表情がぱっと華やいだ。

「あら、オーナー!今日はどういう風の吹き回しですか?」

彼女は小走りに夕凪の背後へ駆けていた。

警備員が夕凪の腕を引いた。小声で囁く。「聞いただろ?合わないんだから、早く帰りな」

絶望が一気に押し寄せた。顔から血の気が引き、膝から力が抜ける。よろめくように二歩、後ずさった。

――また今夜も、あのテーブルで夜を明かすのか。

理紗を付き従えて歩いてきた男が、何気なく夕凪に目をやった。

「……御堂の奥さん?」

男の足がぴたりと止まった。目が見開かれている。

夕凪も凍りついた。

理紗が驚いて声を上げた。「オーナー、お知り合いで?」

男は口の端を持ち上げ、面白がるように目を細めた。「ああ、もちろん」

夕凪は呆然とその顔を見つめ――ようやく思い出した。桐生司(きりゅう つかさ)。桐生家の御曹司だ。

桐生家と御堂家は、代々の宿敵だ。もっとも近年、桐生家は夕凪の実家、瀬戸家と同じように力を失い、御堂家の相手にすらならなくなっていた。

先ほどの理紗の態度からして、このクラブの真のオーナーは司――ということか。

終わった。この仕事は、もう絶対に無理だ。

司が興味深げに夕凪を眺め回した。「奥さん、三年前にたしか……おっと。それがどうしてこんな所に?」

理紗がすかさず口を挟んだ。「オーナー、この方、清掃員に応募されたんですが」

「清掃員?」

司の目がもう一度大きく見開かれた。御堂グループ総帥の妻が、よりによって清掃員の面接に来ている。信じられない、という顔だった。

夕凪はもう全身の感覚が麻痺していた。うつむいたまま、力のない声を絞り出す。「……お邪魔しました」

彼女は背を向けた。

「待ちなよ」

司の声が、背中を射抜いた。

理紗も夕凪も、動きを止めた。

夕凪がおそるおそる振り返る。「……なに、か……」

司はスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、にやりと笑った。

「その仕事なら、俺が雇ってやってもいい」
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