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【第三章】タトゥー女顔美容師・ルカ 16

Auteur: すずかん
last update Dernière mise à jour: 2026-02-27 22:43:44

その日は、カフェで一日ぼんやりと過ごしていた。

午後三時を過ぎても、店内は静かだった。

窓際の席に座り、雨粒がガラスを伝って落ちていくのを、ただ目で追っている。

コーヒーはとっくに冷めている。

何度か口をつけたけれど、味はほとんど覚えていない。

こんなふうに、予定も入れず、誰とも会わず、ただ時間をやり過ごすのは久しぶりだった。

本当はずっと、忙しくしていた。

予定を詰め込んで、人に会って、原稿を書いて、スマホを見て、音楽を流して。

考えなくて済むように、立ち止まらなくて済むように。

傷ついた気持ちに、きちんと触れないために。

でも、静かな雨の日は逃げ場がない。

店内に流れる小さなジャズの音も、隣の席のカップが触れ合う音も、やけに遠く感じる。

世界が少しだけ、自分から切り離されたみたいだ。

気づけば、胸の奥に押し込めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。

ああ、私はずっと傷ついていたんだな。

みおんのときから、たぶん。

あのときも、信じていた。

裏切られるなんて思わなかった。

それでも、また誰かを好きになって、同じように信じた。

「好きだよ」と言われるたびに、胸が温かくなって。

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    スマホの画面に映る「ルカ」の名前を、しばらく見つめていた。着信音が、やけに大きく部屋に響く。静まり返ったワンルームの空気が、その音でわずかに震える。窓の外では、夜の街がしんと息を潜めていた。遠くを走る車の音だけが、時折かすかに聞こえる。さっきまで抱えていた不安が、胸の奥で重たい石のように沈んでいる。出るべきか、出ないべきか。親指が通話ボタンの上で止まったまま、動かない。——逃げたい。でも、逃げたらきっとまた後悔する。小さく息を吸い込んで、私は通話ボタンを押した。「……もしもし」自分でも驚くほど、声がかすれていた。「おつかれさま!」受話口の向こうから、明るい声が弾む。その優しい声に、胸の奥がきゅっと縮む。未読無視をしていた罪悪感が、じわりと滲む。けれど、彼の声に責める色はなく、ただあたたかい。「す、すみません。ライン返してなくて……」声が少し上ずる。指先が冷たくなっているのに気づく。スマホを持つ手が、わずかに震えていた。「うん? なんかあった?」やわらかい問いかけ。責めるでも、詮索するでもない。ただ、隣に腰を下ろすような声。その優しさが、逆に怖い。「……」言葉が、喉の奥でつかえる。何から話せばいいのかわからない。うまく説明できない。自分でも整理できていない感情を、どうやって渡せばいいのだろう。沈黙が数秒流れる。耳元で、彼の呼吸音がかすかに聞こえる。急かさない。黙って、待ってくれている。その静けさに、胸の奥の蓋が、少しずつ緩んでいく。「……やっぱり怖いんです。人を信じるのが」気づけば、ぽつりとこぼれていた。自分でも驚くほど、まっすぐな本音だった。窓ガラスに映る自分の顔が、どこか頼りない。ぎゅっと唇を噛む。「だって、信じては裏切られて、また信じようとして裏切られて……」過去の記憶が、胸の奥でざわつく。優しい言葉。甘い約束。「好きだよ」と囁いた声。それらが、最後には全部、刃物みたいに変わった瞬間。心が削られていく感覚を、何度も味わった。「また私のこと好きって言ってくれるルカさんにまで裏切られたら、私どうしたらいいのか……」声が震える。涙は出ていないのに、喉の奥が熱い。本当は、好きになりかけている。だから怖い。信じたい。でも、信じた先で壊れる未来を、先に想像してしまう。そう、

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    その日は、カフェで一日ぼんやりと過ごしていた。午後三時を過ぎても、店内は静かだった。窓際の席に座り、雨粒がガラスを伝って落ちていくのを、ただ目で追っている。コーヒーはとっくに冷めている。何度か口をつけたけれど、味はほとんど覚えていない。こんなふうに、予定も入れず、誰とも会わず、ただ時間をやり過ごすのは久しぶりだった。本当はずっと、忙しくしていた。予定を詰め込んで、人に会って、原稿を書いて、スマホを見て、音楽を流して。考えなくて済むように、立ち止まらなくて済むように。傷ついた気持ちに、きちんと触れないために。でも、静かな雨の日は逃げ場がない。店内に流れる小さなジャズの音も、隣の席のカップが触れ合う音も、やけに遠く感じる。世界が少しだけ、自分から切り離されたみたいだ。気づけば、胸の奥に押し込めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。ああ、私はずっと傷ついていたんだな。みおんのときから、たぶん。あのときも、信じていた。裏切られるなんて思わなかった。それでも、また誰かを好きになって、同じように信じた。「好きだよ」と言われるたびに、胸が温かくなって。その温度を疑いたくなくて。疑う自分になりたくなくて。そして、またどこかで温度差に気づく。返信の間隔。言葉の軽さ。優しさの裏にある曖昧さ。気づいているのに、気づかないふりをして。嫌われたくなくて、重いと思われたくなくて、笑ってしまう。そうやって、少しずつ自分を削ってきた。何度も。何度も。胸の奥が、じんわりと痛む。もう、疲れたな。誰かに裏切られるのが怖い。「好き」と言われて、それを信じた自分ごと否定されるのが、いちばん怖い。雨は強くなっていた。ガラスに当たる水音が、一定のリズムで続く。灰色の空。滲んだ街灯。濡れたアスファルトに映るぼんやりとした光。まるで、今の自分の心みたいだと思った。外の世界はちゃんと動いているのに、自分だけが取り残されているみたい。そのとき、テーブルの上のスマホが小さく震えた。静まり返った空間に、その振動音だけが妙に生々しい。画面に目を落とす。――ルカ。心臓が、ひとつ大きく跳ねる。出るべき?出ないほうがいい?期待と警戒が、同時に胸の奥でぶつかり合う。温かくなりたい気持ちと、もう傷つきたくない気持ち。指先が

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    朝、目が覚めると――昨日まであんなに高鳴っていたはずの心が、まるで別人のものみたいに静まり返っていた。あんなにドキドキして、帰り道も、布団の中でも思い出してはにやけていたのに。どうして朝になると、こんなにも冷静になれるのだろう。……いや、冷静というより、警戒心かもしれない。よく考えてみれば、つい最近まで私は散々男性で痛い目を見てきた。傷ついて、疑って、やっと少し落ち着いたばかりだ。そんなタイミングで、突然急接近してきた美容師。しかも、あんなイケメン。「私のことが好き?」そんな都合のいい話、ある?裏があるとしか思えない。お金? 体目的? 営業?それともマルチ? 何かの勧誘?考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨らんでいく。疑う自分が嫌になるのに、ブレーキはかからない。スマホを見ると、ルカさんからのLINEが表示されていた。《俺もめちゃ楽しかった!また行こうね♪》送信時刻は、昨夜の0時過ぎ。昨日の私だったら、間違いなく枕に顔をうずめて悶えていたはずなのに。今はただ、静かに画面を見つめている。本心なのか。それとも、誰にでも言っている言葉なのか。胸の奥が、きゅっと縮こまる。――少し距離を置こう。そう思った瞬間、ほんの少しだけ寂しさが混ざった。でも、それでもいい。これ以上、簡単に期待して傷つくのは怖いから。そうして私は、しばらくルカさんとの連絡を控えることにしたのだった。

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    「はああ……ルカさん、かっこよかったなあ」玄関のドアを閉めた瞬間、今日一日の余韻がふわりと胸の奥に流れ込んできた。上着を脱ぐのも忘れたまま、その場に立ち尽くす。頭の中では、さっきまで向かいに座っていた彼の姿が、何度も何度も再生されている。——「本気だよ」あのときの、少し低くなった声。冗談の色が一切混じっていない、まっすぐな目。笑っていないのに、どこか優しい表情。思い出しただけで、胸の奥がじわっと熱くなる。しかも、最後。駅前の人通りが少なくなった瞬間、何の前触れもなく、ふっと包み込まれた右手。あたたかかった。大きくて、しっかりしていて、でも強引じゃない手。——え、うそ。あのときの心臓の音が、今も耳の奥で響いている気がする。ソファに倒れ込むと、天井を見つめながら足をばたばたさせてしまう。「やばい……ほんとにやばい……」頬が勝手に緩む。にやにやが止まらない。クッションに顔をうずめて、声にならない悲鳴をあげる。こんなふうに、誰かのことで胸がいっぱいになるの、いつぶりだろう。最近はどこか冷静で、「もう、絶対に恋愛なんかしないぞ」くらいに思っていたはずなのに。会っているあいだ、ずっと心がふわふわしていた。帰ってきた今も、その余韻はまだ消えないまま。「ルカさんに会いたいなあ……」ぽつりと呟く。今日会ったばかりなのに。さっきまで隣にいたのに。もう恋しいなんて、どうかしている。でも、また会いたい。またあの声を聞きたい。あの目で、あんなふうに見つめられたい。テーブルの上に置いたスマホが、やけに存在感を放っている。——「今日はありがとうございました!カフェとっても楽しかったです♪」送信ボタンを押したときは、少しだけ余裕を装っていた。でも今は違う。まだ五分。たった五分。なのに、どうしてこんなに長く感じるんだろう。画面を開いては閉じ、開いては閉じる。既読、ついたかな。いや、まだ。通知音が鳴った気がして、慌てて確認する。違うアプリだった。「こんな自分、重いかな……」不安が、ほんの少しだけ胸をかすめる。でもすぐに、手を繋いだときの感触がそれをかき消す。あれは、勘違いじゃない。あの真剣な顔も、きっと。スマホを胸の上に置いて、目を閉じる。まぶたの裏に、彼の笑顔が浮かぶ。ドキドキと、ほんのり甘い高揚感

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    「美味しかったね」店を出たとき、夕方の空気はほんのり甘い匂いを含んでいた。カフェの扉が閉まる音がやけに軽やかに響く。気づけば、ルカさんは私がトイレに立っている間にさりげなく会計を済ませていたらしい。「でよっか」何気ない一言なのに、余裕があって、自然で、スマートで。私は一瞬言葉を失ってから、慌てて頭を下げた。「え、え……? あの、ありがとうございます。ご馳走さまでした」「ぜーんぜん。紗月ちゃんが喜んでくれてたら、それでいいよ」さらっと言う。その声音には見返りを求める気配がまるでない。そのことが、かえって胸をきゅっと締めつけた。――どうして、こんなに優しいの。まるでお姫様みたいに扱われる。ドアを先に開けてくれて、車道側を歩いてくれて、さりげなく段差を教えてくれる。一緒にいるだけで、心の奥に溜まっていた冷たい部分が、ゆっくり溶けていくみたいだった。胸の奥が、じんわりとあたたかい。外に出ると、街は夕暮れ色に染まり始めていた。オレンジと紫が混ざった空。人の話し声。信号待ちのざわめき。並んで歩き出すと、ルカさんが少し私の顔をのぞき込む。「大丈夫? 俺、歩幅早くない?」「え? あ、大丈夫です」本当は少し早い。でも、それを気にしてくれることが嬉しくて、胸がふわっとなる。腕に入った和彫りの刺青が、シャツの袖からちらりと見える。第一印象は正直、ちょっと怖かった。でも――こんなに紳士で、優しくて、話も自然に合って。笑うタイミングも、冗談のセンスも、なんだか心地いい。怖いはずのその刺青が、今はなぜか頼もしく見えるから不思議だ。――いいなあ。そう思った瞬間だった。ふいに、左手があたたかいものに包まれる。「え……?」反射的に顔を上げると、ルカさんが何でもない顔で私の手を握っていた。大きくて、少しごつごつした手。でも、包み込む力はやわらかい。指と指の間に、じんわりと体温が伝わってくる。さっきまで温かかった胸の奥が、今度は一気に熱を帯びる。心臓の音が、やけに大きい。ドクン、ドクン、と自分の耳の奥で鳴っているみたいだ。手を振りほどく理由なんて、どこにも見つからない。でも、このまま素直に握られていていいのか、理性が小さくささやく。横を見ると、ルカさんは少しだけ目を細めて、優しく笑っていた。まるで――私が驚くのを、わか

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