LOGIN「久しぶり~! 葵~!」
親友の日向菜摘は高校時代と何も変わらない笑顔を浮かべ、カフェのテラス席に座っていた葵の元に駆け寄ってきた。 彼女は葵とは違って高校の時から既に服飾関連の仕事に就きたいと言って、美大に入った後なぜかネイリストになった不思議な人だ。 「菜摘! 本当に久しぶり! それに相変わらず凄いネイルだね!」 葵は菜摘の爪を見て目を丸くした。彼女の爪の上は最早キャンバスなのだろう。世界の名画がその小さな爪の上で異彩を放っている。 「はは! そりゃプロだから! 最近はね、渉君の足の爪も借りて練習してる!」 「渉君嫌がってない?」 「ぜ~んぜん! あの人は基本的に私が何をしても放任だから。それに会社で皆に自慢してくれてるんだって」 「そっか。相変わらず仲良さそうで安心した!」 瀬戸渉は菜摘の彼氏だ。高校の時に葵が蓮に熱を上げているのを知った菜摘は身辺調査と称して蓮が通っていた大学に学生の振りをして潜り込み、そこで出会った渉と付き合い出した。 「当然じゃん! で、どしたの? 急に。コンペで優勝した~ってあんなに喜んでたじゃん!」 「うん、そうなんだけどね……ほら、あのQラボと組まされたって話覚えてる?」 「ああ、あの落ちこぼれ集団って言われてるとこ?」 「そう。そこのね、責任者がね、桐生先生だったの……」 「はあ⁉ えっ⁉ ど、どういう事⁉ 私何にも聞いてない!」 そう言って菜摘は困惑したような顔をして葵を見つめてくる。 「うん、だって言ってなかったから。何か今さら言いづらくって」 「あ、うん。それはそうなんだけど……で、それがどうしたの? もしかしてまた当時の気持ちが蘇ったとか?」 何だか煮えきらない菜摘の言動を不思議に思いながらも、葵は今の蓮の事を菜摘に全て話した。 すると、少しだけ心の中がスッキリして気持ちが徐々に整理され始めていく。 「——と、言うわけなの。それから何か毎晩悪夢みたいなのを見るようになっちゃって」 「悪夢? 当時の夢は葵にとって悪夢なの? あんだけ楽しそうだったのに」 「だって思い出すのは苦い思い出ばっかなんだもん」 蓮に言われて傷ついた事ばかりが葵の記憶から離れない。 そんな葵とは打って変わって、菜摘は何故か首を傾げている。 「私の記憶では桐生先生は葵の事を良くも悪くも目をかけてたと思うんだけどなぁ」 「どういう事?」 「いや~……これは私の勝手な見解だよ? 例えば先生って普段は絶対に定時に上がってたじゃん。でも葵が体育祭で旗作るのに居残ってた日はさ、先生絶対に学校に居たんだよね」 「そうなの?」 「うん。あの頃は渉君が毎日迎えに来てくれてたから駐車場によく居たんだけど、いっつも先生の車あったもん。それに卒業式の時とかもさ、葵とだけだよ、先生と写真撮らなかったの」 「そりゃ、拒否されたからね」 「拒否なのかな? 私は違うと思うんだけどなぁ」 何か思う所があるのか菜摘は何かを思い出すように視線を彷徨わせ、葵の肩をポンと叩く。 「それにさ、葵もそういうの気づいてたから先生の事好きだって思ってたんでしょ? 多分忘れてるだけで、何かしら甘い記憶もあったんじゃない?」 「それは……そうなんだけど」 確かに菜摘の言う通り、ほんの少しぐらいは良い思い出もある。 けれどそれはほんの少しだ。時間が経てば蘇るのは圧倒的に苦い思い出の方が多い。 菜摘との思い出に少し齟齬を感じながらも、葵は話題を切り替えた。 「まぁ先生の事はとりあえず置いておいて、私が相談したかったのは研究所の方なの」 「研究所の事? 研究の事なんて聞かれても私には何にも分かんないけどいいの?」 「もちろん! 話を聞いてくれるだけでも多分大分違うと思うから」 そう言って葵は落ちこぼれ集団の話を菜摘に話すと、それを聞いていた菜摘の顔がみるみる間に険しくなっていく。 「なんか……嫌な感じだね」 「やっぱりそう思う⁉ 私、今回のコンペはずっと自分の実力で取ったんだって思ってたんだけど、何かその話聞いたら急に不安になってきちゃって」 自分では実力で勝ち取ったコンペだとずっと思っていた。 けれど、あんな噂を聞いてしまうと、もしかしたら自分は体よく選ばれただけでQラボを押し付けられたのではないだろうかと不安になってきたのだ。 そこで居ても経ってもいられなくて菜摘に泣きついた訳だが、菜摘は思った以上に深刻な顔をして葵の話を聞いてくれている。 「葵がコンペに優勝したのは間違いなく実力だって! そこは安心していいと思うけど——」 「けど?」 「Qラボと桐生先生、それからシード枠の人が何か嫌な感じだなって思って。私は職業柄、一般的な職業とか研究の事ってよく分からないんだけど、桐生先生には本当に色んな噂があるからさ。ちょっとだけ心配」 そう言って菜摘は葵の紅茶におかわりを注いでくれる。 「先生の噂って、あの天才っていう奴?」 菜摘が蓮が在籍していた大学に潜り込み持ち帰ってきてくれた噂の中に一番多かったのは、天才桐生蓮の噂だった。 もちろん教師としての蓮の授業はとても分かりやすく、他の教師に指摘する時も的確でその噂を疑ったりした事は無かったが、何せ噂だ。 実際の蓮の実力など知らないので葵はどこか半信半疑で聞いていた。 長年そう思ってきたのだが、この菜摘の口ぶりではもしかしたらそう思っていたのはもしかしたら葵だけだったのかもしれない。 「うん。桐生先生って本当にその界隈では凄く有名な人だったらしいんだよね。それを知ってから私は凄く不思議で。どうしてそんな人が、非常勤講師なんてしてるんだろうって」「久しぶり~! 葵~!」 親友の日向菜摘は高校時代と何も変わらない笑顔を浮かべ、カフェのテラス席に座っていた葵の元に駆け寄ってきた。 彼女は葵とは違って高校の時から既に服飾関連の仕事に就きたいと言って、美大に入った後なぜかネイリストになった不思議な人だ。 「菜摘! 本当に久しぶり! それに相変わらず凄いネイルだね!」 葵は菜摘の爪を見て目を丸くした。彼女の爪の上は最早キャンバスなのだろう。世界の名画がその小さな爪の上で異彩を放っている。 「はは! そりゃプロだから! 最近はね、渉君の足の爪も借りて練習してる!」 「渉君嫌がってない?」 「ぜ~んぜん! あの人は基本的に私が何をしても放任だから。それに会社で皆に自慢してくれてるんだって」 「そっか。相変わらず仲良さそうで安心した!」 瀬戸渉は菜摘の彼氏だ。高校の時に葵が蓮に熱を上げているのを知った菜摘は身辺調査と称して蓮が通っていた大学に学生の振りをして潜り込み、そこで出会った渉と付き合い出した。 「当然じゃん! で、どしたの? 急に。コンペで優勝した~ってあんなに喜んでたじゃん!」 「うん、そうなんだけどね……ほら、あのQラボと組まされたって話覚えてる?」 「ああ、あの落ちこぼれ集団って言われてるとこ?」 「そう。そこのね、責任者がね、桐生先生だったの……」 「はあ⁉ えっ⁉ ど、どういう事⁉ 私何にも聞いてない!」 そう言って菜摘は困惑したような顔をして葵を見つめてくる。 「うん、だって言ってなかったから。何か今さら言いづらくって」 「あ、うん。それはそうなんだけど……で、それがどうしたの? もしかしてまた当時の気持ちが蘇ったとか?」 何だか煮えきらない菜摘の言動を不思議に思いながらも、葵は今の蓮の事を菜摘に全て話した。 すると、少しだけ心の中がスッキリして気持ちが徐々に整理され始めていく。 「——と、言うわけなの。それから何か毎晩悪夢みたいなのを見るようになっちゃって」 「悪夢? 当時の夢は葵にとって悪夢なの? あんだけ楽しそうだったのに」 「だって思い出すのは苦い思い出ばっか
「コンペの勝利者は桐生蓮の教え子ですかぁ」 大手研究所で責任者をしている御堂悠は、会議室で最近台頭してきている飲料会社の専務と打ち合わせしていた。 悠はTVや雑誌でも引っ張りだこの若き天才研究者として名を馳せている。 薬科学においての第一人者、新城真の元で研究をしていた分、周りからの期待も熱い。 そんな悠の研究所に持ち込まれた商品は、今まで必ず大きな成功を収めていた。「そうなんだよ。まさかの事態にこちらも驚いていてね」「おたくはそういう詰めが甘いんですよねぇ。でもまだ新人なんでしょ?」「新人というほどでもないけれど、優秀な子ではあるよ」「それはそれは、勿体ない事をしましたねぇ」 悠は髪を無造作にかきあげると、足を組み直して笑みを浮かべて役員を見る。「今回のコンペの特別枠を受け入れてくれた事には感謝していますよ。その代わりうちからは多大な功績をそちらに残すとお約束もします。ですがねぇ……社員の手綱はしっかり取っておいてくださいねぇ?」 笑みを深めて圧をかけるように忠告すると、役員は分かっているのかいないのか、何故かニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。「送り込んだのは若い女性だ。もし何かあったらすぐに何かしらの理由をつけて下がらせればいい。若い女に言う事を聞かせるなんて簡単な事だよ」「なるほど。だからその子を送り込んだんですか?」「もちろん優秀だからだよ。けれど、何か不祥事を起こした時に見返りを頂くには若い女性の方がそりゃ良いからね」 どうやらこの男は下心があってその女を蓮の元へと送り込んだらしい。優秀なのも事実なのだろうが、恐らくこの男の好みだったのだろう。 男が身を滅ぼす原因の大抵がプライドか金か女だ。そのどれも踏襲しようとしている男に呆れ返りながらも、悠は資料と資料に隠した万札の束を差し出した。「仕方ないですねぇ。それじゃあ次の資料はこれです。頼みましたよ」「ああ。ではまた月末に」 男は書類の束を嬉々として受け取り会議室を出て行く。 悠は男が出て行った事を確認すると、舌打ちをして控えめに怒鳴った。
「だったら今の蓮さん見て驚いたでしょ?」 須藤の言葉に葵は間髪入れずに頷いた。そんな葵を見て須藤が困ったように笑う。 「蓮さんにも色々あったんだよ。まぁでも言動が冷たくてキツイのは今もだから安心して」 「……そこは少しは丸くなってて欲しかったですね」 「言えてる」 須藤はあえて深くは尋ねてはこなかった。きっとそれほど葵の表情が酷かったのだろう。 あれほど雲の上の人物だと思っていた人が、 今は葵に使われる立場に居るだなんて、ここに来るまでは考えもしなかった。 研究所にもランクがあり、権威の高い研究所ほど研究者としての立場も高い人たちが揃う。そんな所にプロジェクトを頼む時は企業側もへりくだるような態度を取るが、 そうではない研究所に対しては辛辣だ。 葵には自負があった。新進気鋭で倍率の高い飲料メーカーに内定が決まり、努力に努力を重ねてコンペを勝ち取るまでの実力をつけた事を誇 りに思っていた。 その自負があるからこそ、余計に自分の気持ちに折 り合いをつける事が出来ない。 おまけに葵の人生の道しるべになっていた人は、今や葵よりも下の立場で訳の分からない計算式を組み立てて遊んでいる。 それでも心の何処かで未だに蓮と過ごしたあの高校生活に縋るような気持ちもあった。 だからだろうか。こんな蓮を見て、もしかしたら蓮の人生にも何かがあったのではないだろうか、などと理由を探してしまうのは。 とはいえそれとこれとは話が別だ。蓮に同情をしたり過去の気持ちに振り回されていては、また葵は自分の人生の主導権を握れなくなってしまう。 ここまで築き上げてきたキャリアや頑張りは葵が自分で積み重ねてきたもので、それは蓮にも言える事である。 蓮がここでどんな振る舞いをしようと蓮の勝手だが、そんな蓮に足を引っ張られる事は絶対にしたくない。 「私、決めました。 絶対に諦めません。このプロジェクト」 夢中になってキーボードを打つ蓮にも聞こえるように言うと、葵は フンと息を吐いて資料をパソコンに取り込み始めた。◇ 蓮は今日も計算式を組み立てながら、葵の決意を背中で聞いていた。 本当は葵の存在を覚えているし、蓮自身も葵に投げつけた言葉を忘れた事はない。 けれど蓮には葵の存在を忘れた振りをする
ただでさえお荷物研究所に配属されてショック を受けていたというのに、そこに来てまさか、かつての恩師であり初恋の相手がこうも見て分かるぐらいに落ちぶれているなどとは思ってもいなかった。 あの雲の上に居た桐生蓮が、今や葵よりもはるか下の方に居るように思えた。それと同時にほんの少しの安心感が湧いてくる。 当時は一生かかっても追いつけないと思っていた蓮が、今は葵のすぐ側に居るような気がして。 この短期間の間に蓮の人生に一体何があったのかは分からないが、蓮と再会した事であの時の気持ちが今もありありと蘇ってくる。 とっくに精算出来たと思っていた感情は、どうやら月日がどうにかしてくれた訳ではなかったようだ。 『俺は、お前のその主体性の無さが嫌いだ』 最後に蓮に言われたこの言葉は良くも悪くも葵の人生を大きく変えた。 嫌がりながらも卒業写真を皆と撮 っている蓮を見て声をかけると、蓮は葵を見下ろしてそう言 ったのだ。 結局、葵だけが蓮と写真を撮ることが出来ず、親友の日向 菜摘に朝まで慰めてもらったのは苦い 思 い 出である。 葵はそんな事を考えながらチラリと視線を蓮に向けた。 蓮はまだスマホを見ているが、 突然何か思い 出したかのようにパソコンの電源を入れたかと思うと、おもむろにキーボードを打ち始める。 「あの、先生急にどうしたんですか?」 何気なく隣に座っていた研究所のメンバーである芝浦タケルに話しかけると、芝浦は肩を竦めて笑った。 「蓮さんの日課。ああやっていっつも俺達には理解出来ないような数式考えてんの」 「数式?」 「そ。あの人天才だからさ、何か考えてないとバグるんじゃない? ここめっちゃ暇だからさ」 そう言って芝浦はデスクの引き出しを開けると、中から漫画を取 り 出して読み始めてしまう。 周りを見渡すと芝浦だけでなく、須藤も紅一点の真中瞳すら各々好きな事に興じていた。 「……流石Qラボ」 絶望にも近い気持ちで呟いた葵は、今回のコンペで勝ち取った物の虚しさを噛みしめる。 こんな調子で本当にプロジェクトは成功するのだろうか? それともコンペに出場すらしなかったチームが結局全てを持っていってしまうのだろうか。 葵はため息をついて席につくと、 皆で話し合おうと思って
「誰だっけ? お前」 初恋の男、桐生蓮は確かにそう言 った。 その一言に葵は凍りつき、すっかり落ちぶれてしまった蓮を見下ろす。 「……臨時講師だったとは言え、たったの数年でもう生徒の顔と名前すら忘れてしまいましたか? 先生」 冷たい声でそれだけ言うと、 説明しようの無い苛立たしい気持ちを押し殺した。 高校三年の時、葵のクラスに臨時講師としてやってきた蓮の所作はいつだって洗練されていて、理知的な瞳の奥には常に知的な光が灯っており、誰も、校長すらも蓮にまるで平伏すかのように接していたのを今でも思い 出す。 ところが今はどうだ。見るからにボサボサの頭、無精髭、更には ヨレヨレのシャツを着ている。 蓮の今の姿を見て葵は酷く傷ついた。 勝手な話だとはおもうけれど、蓮にはいつまでも憧れのままで居てほしかった。いつまでも孤高のような存在のままで居てほしかった。 高校時代にどれほど冷たくされても、ほとんどの思い 出が苦いものだったとしても、たまに見せてくれた甘い記憶だけで十分だったのに。 ◇ 大手飲料企業に入社した葵は、同期の中でも群を抜いて良い評価を得ていた。 けれどそれは別に葵に特別な能力があった訳ではない。地道な努力を重ね、ここまでコツコツと積み上げてきた評価がようやく実を結んだだけの事だ。 そして勝ち取ったのは社内を上げての一大プロジェクトのコンペの出場権だった。 「今回の大型プロジェクトのコンペには、うちの部署からは橘さんに出場してもらう事になった。彼女の成績を見た上層部からの人選だ。橘さん、頑張ってね」 「は……はい!」 葵が舞い上がりそうなほど嬉しい気持ちをどうにか押し込めて返事をすると、部長はにこやかに頷いてデスクに戻っていく。 これをやり遂げれば、もしかしたら誰かに必要とされるような存在になる事が出来るかも知れない。 それを聞いて部署の皆はそれぞれ葵にお祝いの言葉をかけてくれる。 「橘さん、すご~い! 同期の期待の星だよ!」 「頑張ってね! 応援してるから!」 「うん! ありがとう!」 素直にお礼を言った所で休憩時間になりお手洗いに行 くと、少 ししてさっきの同期達がやってきた。 それに気づいて慌てて個室から出