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桜の小学校入学を前に引っ越しする事が決まり3月に入った頃からゆっくりと荷物の整理をはじめていた。そして18日の日曜日に慣れ親しんだアパートの部屋から春陽、桜、ゆり子の3人は慶司のマンションへ移り住んだ。
数日後、残してきた家具の排出を見守る為に再びアパートの部屋へ春陽だけがやってきた。テキパキと慣れた業者は2時間もかからず帰っていった。
春陽は雑巾を濡らし床を丁寧に拭いていった。ゆり子の部屋、春陽と桜の部屋、キッチン。そしてリビング。
リビングの窓辺に立つと道伝いに公園が見える。
遊具はブランコと小さな滑り台があるだけの小さな公園だった。
だがそこには樹齢がいった見事な桜の木があった。
関東地方がやっと開花宣言されたばかりの今日、この桜の木も点々と花を咲かせているだけで蕾みがほとんどだった。この桜の木を初めて観た日もこの程度の開花だったと思い出す。
それから毎年この桜の木を観てきた。人生で一番長い時間眺めた桜の木だろう。
これから頻繁に観れなくなる事が淋しく感じる。
しばしの時間、春陽はぼんやりと窓越しに桜の木を眺めていた。
まだ籍は入れていなかったが先の事を考え4月から名字は九条を名乗っていた。小学校にも事情を伝え桜も入学からの呼名を九条桜としていた。九条の義母は急にできた6歳の孫娘を無条件で受け入れかわいがってくれたが、早くキチンと家族になりたいのだと慶司と春陽に入籍を迫った。しかし入籍の日は2人で決めていた事もあり、ならば!とその矛先を結婚式に向けたのだ。
嫁と可愛い孫娘を早く表舞台に立たせてしまおうと。
しかしどんなに早く式を挙げさせたくても式場や来賓客などなどの事もあり、何より慶司の時間を作るにはそれなりの準備が必要で。結婚式は半年も先の10月となった。
10月30日。「ママ可愛い!」
ヘーゼル色の丸い瞳を輝かせて言う桜の方が余程可愛いと思う春陽だが「ありがとう」と娘をハグした。
「春陽も桜ちゃんも可愛いに決まっているでしょ!私が自ら選んだお揃いのドレスデザインだし、何よりも着ているのが2人なんだから!」
舞は得意そうに言う。
「今日の主役はママなんだからママが可愛いければ私はいいの!舞姉、私はもっと普通のドレスでもよかったんだよ?」
そう言う桜に春陽と舞はお互いを見合って苦笑いを浮かべる。
「今日の主役はママだけじゃなく桜もだからいいんだよ」
フワリと桜の身体が宙に浮かぶ。
腕に抱きかかえたのは慶司だった。
「パパ!」
桜は慶司の首に手を回すとギュッと抱きしめた。
「でもパパ、結婚式は花嫁が主役なのよ?」
「今日は桜の誕生日でしょう?それに今日は私達3人が家族になった事を紹介する為のものだから私達3人が主役なの」
春陽が言う。
「だから式の時は私と並んで歩いてくれるでしょう?」
「ママと歩くの?」
「そうよ、パパの所までママと並んで歩くの」
「私、ママと一緒に歩く!」笑顔で桜は言った。
「それより、ねぇ!」
そこに舞が不機嫌に口を挟んできた。
「何で式前の花嫁のところへ貴方がくるの⁈邪魔なんだけど!」
「……」
「舞ちゃん……」
慶司は眉根を寄せ、春陽は困ったように舞の手を握る。
「舞姉は本当にパパが嫌いだよね、でもね、パパは桜のパパだから少しだけでも甘くみてほしいの」
桜だけが6歳とはいえぬ落ち着きで舞をなだめる。
トントン。ノック音の後式場のスタッフが入ってきて「神父様もいらっしゃいましたので式が始まります。来賓の方は教会の席へ、新郎新婦とお嬢様は準備をお願いいたします」と伝えた。
式がはじまり扉が開くと春陽は左手にブーケ、右手に桜の左手を握ってゆっくりと赤い絨毯の上を慶司の待つ場所まで歩いていく。
左右の席には本当に大事な人達だけに座ってもらった。
ゆり子、舞、義母、義父、義妹、廉、誠、柚、直樹、翔、大塚店長夫婦。
皆の顔を見られて春陽は本当に幸せだった。
慶司の元に着くと、慶司は桜の高さまで屈みその額に軽いキスをした。
「ママを連れてきてくれてありがとう、桜はゆり子おばあちゃんのところへ行って少し待っててくれるかい?」
コクンと頭を下げると桜は「ママ、頑張ってね」と春陽に小声で伝え握られていた左手を離し最前列のゆり子の横へ座った。
誓いの言葉を宣誓し、指輪がお互いの指にはめられると。
「春陽、愛している……」
慶司は指輪のはめられた春陽の手を包むように握った。
「私も」
春陽は慶司の綺麗なヘーゼル色の瞳を見つめ、目をつぶった。慶司はゆっくりと春陽の小さな唇にキスをおとす。春陽の頬に一筋、涙が流れた。
最後に春陽がブーケを舞にあげようとしたのだが受け取ってはもらえず、欲しがる桜には慶司が渡すなと首を横に振るものだから義妹の彩佳にもらってもらった。彩佳も来年には結婚が決まっているから順番として間違ってはいないと皆思ったが義父だけは複雑な顔をしていた。
式を無事に終えるとすぐに披露宴が始まった。
春陽はスタッフに手伝ってもらい急いで着替える。披露宴用に舞が選んでくれたドレスはモズグリーンのドレスだった。きっと慶司の瞳にあわせてくれたのだろう。
白のタキシードから黒のタキシードに着替えた慶司と一緒に会場に入ると沢山の招待客が一斉に拍手で出迎えた。
披露宴では義母関係や会社関係の芸能人もきており余興は飽きる事なく続いていた。
しかし、芸能人を押し除けてこの日1番の余興は桜だった。
「パパ、ママ、結婚おめでとう。ずっとママとゆり子おばあちゃんと3人だったから桜にもパパやおじいちゃん、おばあちゃん、彩佳叔母さんていう家族がいると知って嬉しかったです。今はパパもママも毎日一瞬にいてくれてとても楽しいし嬉しいです。今日はパパとママの結婚式だけど実は桜の誕生日でもあります!皆んなが誕生日プレゼントは何がいいかときいてくれました。私が今1番欲しいプレゼントは弟か妹です!パパ、ママ!私はもう大きいからいっぱい弟か妹の面倒をみてあげられるよ?だからどうかプレゼントは弟か妹にして下さい!」
桜の手紙は大拍手をもらった。
その中で春陽だけは真っ赤になって俯いてしまった。
12月6日。春陽の26回目の誕生日がやってきた。桜に朝食を食べさせ学校の準備をさせると「行こうか」
と慶司が車のキーをとり春陽と桜に言った。
「じゃあ、おばあちゃん少し出てくるね。お昼前には帰るから帰ってきたら一緒にお昼を食べようね」
春陽はゆり子に言った。
「ゆっくり行って来なさい」
ゆり子は3人を優しく見送った。
慶司の車はまず役所に停まった。
戸籍住民課へ行き婚姻届へ慶司と春陽はそれぞれサインをする。そして入籍届に慶司がサインをし、桜の項目は春陽が記入した。
2人で決めていた春陽の誕生日に入籍する事が今叶う。
「お願いします」
身分証明書と届出書を係の人へ渡すと「ご結婚ですね、おめでとうございます」と言ってくれた。
役所での手続きを済ませ車に戻ると桜は嬉々として「これで桜はパパとママ2人の子になったの?」とたずねた。
「これでもう俺たちは間違いなく家族になったよ」慶司がこたえた。
次は学校の門前に停まる。後部座席に座っていた春陽と桜が車外に降りた。
「いってらっしゃい」と、春陽が桜を見送る。
「いってきます」と、桜は大きく手を振った。
車の窓ガラスが開くと慶司が車内から桜へ手を振った。
それを見た桜はブンブンと回す勢いで手を振った。
校舎に桜の姿が消えると春陽は今度は助手席へ座りシートベルトをしめた。
道中で花屋に寄り花束を受け取る、そしてしばらく走ると市営墓地に着いた。入口の水道で水を用意し墓場の中を歩いて行く。ある区画の墓に着くと2人は足を止めた。
墓石には渡辺家と書かれ、横に建つ墓碑には渡辺達史、渡辺真紀子、渡辺敦、渡辺香織と4人の名が彫られていた。春陽の産まれたその日に亡くなった祖父母と父、そして春陽が高校生の時に亡くなった母の墓だった。
春陽は古く枯れた花を花瓶から取り出し新しい水を注ぐと持ってきた花をいける。慶司は線香に火をつけ半分を春陽に渡す。
先ずは春陽が墓前で手を合わせた。
「お母さん、私は今日結婚したよ。今はとても幸せ。お父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、心配しないでね」そう語りかける。
続いて慶司が墓前で手を合わせた。
慶司に関しては母香織に合ったのもたった一度だけだった。慶司の中で微かに優しい人だったと記憶に残っている。「春陽と桜を幸せにします」慶司はそう春陽の両親達に誓った。
「また来るね、今度は桜も一緒に」
そう話して2人は墓地をあとにした。
12月24日。「……うっ」朝から夕飯用の鶏肉調理をはじめた春陽は鶏肉の臭いに吐き気をもよおした。
普段鶏肉を平気で調理しているのに、と考える。
「……?」たまに狂うのであまり気にしていなかったのだが。「あれ?もう2か月はきていない?」生理が大分遅れている事に気づく。
今日は土曜日、それも年末が近い。時計を確認すると現在10時30分を回ったところだった。
とりあえずスマホで近くの病院を探し診察が大丈夫か確認をとる。「今から来てもらえれば大丈夫ですよ」受付の回答に春陽は慌てて準備を始めた。
「おばあちゃん、私ちょっと出かけてくるからお昼は先に食べてね。桜は町内のクリスマス会に友達と行ったからお昼はいらないらしいの」ゆり子の部屋へ行き告げると「大丈夫よ。お昼くらいかってに食べられるわ」と編み物をしている手はそのままに言った。
「じゃあ行ってきます」とマンションから徒歩15分程にあったミナミレディースクリニックへ向かった。
診察室に入ると医師は「おめでとうございます」と言った。「2か月ですね、予定日は……だいたい8月30日頃かな?真夏の出産ですね」そうして小さすぎる子が映るエコー写真を渡してくれた。
--赤ちゃん……、2人目……。
桜の時はただ呆然となるしかなかった告知に今回はこんなにも心にあたたかさが広がっていく。
下腹部をゆっくり撫でる。この中にまた再び慶司との子供がいるのだ。
桜は、誕生日プレゼントに弟か妹をお願いしていたから聞いたら大喜びする事だろう。
ゆり子は、桜の時は事情があっての猛反対だっただけで桜の事はとても愛してくれている。この子のことも、きっと喜んでくれるだろう。
慶司は……。
慶司が桜の事を知ったのは桜が4歳の時だった。それまでの成長を慶司はみれていないのだ。今度はずっと一緒に育てる事ができる、きっと喜んでくれるだろう。
どうか皆んなに祝福される子でありますように。春陽はそれだけを願った。
その夜。
楽しみにしていた春陽特製鶏の丸焼きが無い事に嘆いた桜だったが大好きな廉の店で作ってもらったというチキンソテーにすぐに機嫌を戻した。具合が優れないから丸焼きが作れそうに無い、桜の為に廉の店の料理をテイクアウトできないか?と春陽は早い段階で慶司に連絡しておいた。連絡を受け春陽の「具合が優れない」に半日心配していたが桜の為に廉にはすぐ連絡をして料理をお願いしたのだ。早めに仕事を切り上げ、帰り際に店へ寄り料理を受け取るとすぐに帰宅した。
「あれ?早かったね?」心配していた春陽は予想外に普通に出迎えて料理を受け取ったのだ。
4人で食事をしていて、とうとう慶司が口にした。
「春陽、具合はもう大丈夫なの?」
春陽は一瞬キョトンとしたが、あの言葉に慶司が心底心配してくれていたのを感じる。
「え、ママ具合悪いの?」桜が春陽を見る。
「そう言えば午前にどこかへ行っていたけど……病院にでも行ったの?」ゆり子が言った。
春陽は食後に見せようとしていたエコー写真をズボンのポケットから取り出して慶司に渡した。
「これは……」
驚きを隠せない慶司に春陽は「2か月だって……」と応えた。
「まぁまぁ、めでたい事!」ゆり子は笑顔で言った。
「え、何?どういう事?」桜にはまだ理解できていなかった。
「桜ちゃんにね、弟か妹ができるのよ」ゆり子が桜に伝わるとブワッとその大きな目からポロポロと涙を流し「ママ本当⁉︎私、お姉ちゃんになれるの?」と聞いた。
「8月の終わり頃にはね」
桜は嬉しさに大泣きをした。
寝入った桜の枕元へ2人でプレゼントを置くと寝室に戻った。「もう遅い、寝よう」
慶司は先にベッドへ入り春陽を呼んだ。
「うん」
春陽もベッドへ入ると慶司が抱きしめてきた。
仄かにオークモスの独特な香りが鼻を掠める。
慶司の香りに包まれて春陽は眠りにおちていった。
「ちょっと、瑠夏!お手伝いしてよ!」
少し大きな桜が怒っていた。
「僕は桜姉ちゃんの為にわざと手伝わないんだよ?」
男の子がウンウンと言いながらゲーム機で遊びながら
「今なら廉おじさんと2人で準備できるよ」
と桜を揶揄う。
「もう!後でパパとママに言ってやるから!」
そう言いながらもBBQの具材の下拵えをする廉の横に桜はピタリとくっついた。
「オレ達の方がカッコいいし有名人なのに桜ちゃんはなんでいまだに廉がいいんだ?」柚が不思議そうに聞く。
「お前だけはないだろな」翔の言葉に直樹が頷く。
「そのうち廉がパパって呼ぶかもな」直樹の言葉に。
「本当にその冗談だけはやめてくれ!」と慶司が頭を振った。
「独身同士なら舞ちゃんとでもくっついてもらうか?」誠は真面目な顔で言った。
「ふざけないで!私には春陽がいるの!それに桜ちゃんに刺されたくないわ!」舞が断固拒否をして春陽に抱きついた。
何て幸せなんだろう、夢かな?あんなに辛かった事がいっぱいあったから……。
今までずっとずっと、辛かったから……。こんな幸せな日々が本当に手にできたの?
久々に大きなスクリーンでの映画を楽しみながらも。「……」先程、誰かに呼ばれた気がしたことを思う。気のせいに違いない。渡辺という名字は多く、休日じゃなくてもこのシネコンには多くの人がいるのだ。だけど。懐かしい声だった気がして仕方がない。ここに来る前にコンビニへ行った。いつの何時から入って週何日働くのかを話す為に。仕事は先ずは火曜日から金曜日の週4日、朝6時から10時までという話しになった。少しだけ他愛ない話しをして、帰る間際に。「桜ちゃんの父親は慶司君?」店長が言った。「何も答えなくてもいいよ、僕は詮索はしないから」そう言っても店長の中では確信しているのだろう。なので固定の返事はあえてしないが春陽は静かに微笑んでみせた。「少し前にね、慶司君から電話をもらったんだ」「!」「渡辺さんに連絡とりたいけれど連絡取るのに僕しか頼れる人がいないってね」「斉藤さんが……」まさかの事に驚く。「日本を離れる時にそれまで使っていたスマホを失くしたらしくて、店にしか連絡できなかったそうなんだよ」「そう、だったんですか」「渡辺さんの事を話していいのかわからなかったから」「……」「その時はバイト辞めていたしね。だから慶司君には渡辺さんはお母さん亡くなった後引越ししたからここも辞めてしまったとだけ話したんだ」春陽は慶司と連絡取れなかった事を残念とも感じたが店長の対応にホッとした。「よかったかな?」店長は心配気に春陽に聞いた。「それでよかったです」慶司に会いたいけれど、勝手に彼の娘を産んだ事を彼にしれてしまうのが怖かった。慶司にとって春陽は一夜慰めで抱いた相手にしかすぎないから。桜の存在がきっと重荷になってしまうだろう。店長にはもしまた連絡があってもまた同じ対応をして下さいとお願いした。--斉藤さん、店長に私の事をたずねてくれたんだ……。そんな事を考えていたら2時間の映画が終わってしまった。内容をろくに覚えていなかった。ハァ。せっかく観に来てこれではとため息を吐いた。シネコンを後にしてショッピングモールへと移動する。まず足を運んだのはベビー服売り場だ。日に日に成長する為着る回数は少ないが、可愛い今の桜をめいいっぱい更に可愛くしたい。だからといって高い服は流石に買えない。--でもたまになら。少し位。と入った店で気に
大丈夫。服は乱れて、胸元には跡があるけれど。大丈夫。下半身に違和感は無いから……。だから、大丈夫。微かに残る記憶の中。誰かに押し乗られて胸を触られ首筋や胸に口付けられていた。知らない男に。信じたくなくて首を横に振る。あの後、服を整え部屋を見回しメモ書きをみつけた。横には春陽のバッグも置いてあり、スマホも財布も無事入っていた。バッグを手にして部屋を出た。車が店に置きっぱなしなのかわからずホテルの駐車場へ行き一回りしてみると無事車をみつけることができた。運転席へ乗り込むと椅子の位置が後ろへずらされていた。席を前に戻してバックミラーを調整する。カーナビで現在地を確認し自宅までルート検索をすると車を発進させた。連絡もなく翌朝帰宅した春陽にゆり子が心配の声をかけた。「二次会まで付き合う事になって、そこで間違えてお酒飲んじゃったらしいの。気づいたら隅で寝ていたからそのまま車の中に行って寝ちゃった」苦笑いしながら連絡もしないでごめんなさいと謝る春陽にゆり子はため息をついた。「何かあったのかと思って心配したのよ、次からは連絡してね」「本当にごめんなさい」「服がシワシワよ、シャワーでも浴びたら?」「そうする」部屋で着替えを用意して浴室へ。熱いシャワーを浴びると身体の緊張が抜けていく。安心した為か、ポロッと目から涙が溢れた。「……」一度溢れはじめたら次から次へとこぼれ落ちる。「うっ、……うぅ」身体を震わせながらうずくまりその場でしばらく泣いた。シャワーから出るとゆり子が温かいお茶を淹れてくれた。「昨日食べられなかったから、少し炙ったの。朝ごはんはこれでいい?」--車の中にももらった柏餅があったな。そんな事を思い出したけれどまぁいいか、とゆり子の炙ってくれた柏餅を手に取った。パクっと一口頬張る。あんこと少しの焦げた餅がいい塩梅だった。温かいお茶と甘い柏餅をお腹に入れて気分がやっと落ち着いた、かと思ったのだが。ウワーン。桜の泣き声が部屋に響いた。「朝ミルク飲ませたから、オムツかしら」ゆり子が棚からオムツとおしり拭きを取り出して桜の元へ寄る。「おばあちゃん、私がやるから」ソファから立ちあがろうとした春陽をゆり子が止めた。「ゆっくり食べていて」ゆり子の言葉に甘え春陽は2個目の柏餅を手にする。「春陽は今日は予
ニューヨークで再会した慶司は愛美のことなどまったく覚えていなかった。愛美が5歳の時だから慶司は9歳だっただろうか。九条グループの新年パーティーへ両親に連れられて行き、そこで一目惚れをした。愛美のその初恋がかわることはなかった。だから母からお見合いの話しを聞いた時は胸が高鳴った。慶司が帰国したら場を設けるという話しだったが無理にニューヨーク旅行をくみ、慶司と会えるようにセッティングしてもらった。ニューヨークでの慶司の態度は冷たく、愛美の期待とは大きくかけ離れたものだった。しかし、慶司がこの時買収合併の大詰めでかなり忙しい事はわかっていたので無理に時間を取らせた自分の否もあると思い冷静に待つことにした。慶司の帰国が決まり、その数日後改めてと両母親を伴い食事の場が設けられた。ただ黙々と食事をする慶司に、いつもチヤホヤしかされない愛美は不満を覚えた。茉莉花の問いかけにたまに短く返事をする程度しか口を開くこともしてくれず、またも予定があるからと途中で退席してしまった。慶司が去った席で茉莉花がボソッと言った。「あの子ってば、そんなに大事なコがいるのかしら」その声は愛美の耳に入ってしまった。その後茉莉花はそんな事を口にしたとは思えない程愛美を褒め称えた。ずっと。ずっとずっと、慶司だけを好きでいたのに。突然アイドルになって、周りにもKEIのファンだと名乗る人もいて。いい気分ではなかったけれど、アイドルのKEIしか知らない人達の声など気にしないようにしたのに。全てに釣り合うことができる人は私くらいなのだと、その為に努力もしてきた筈なのに。やっと見合い話しが出てチャンスが訪れたのに。慶司に好きな女ができたかもしれないなんて。--誰?そんな女を許せる訳がなかった。慶司は私のモノになるべき人なのだから。「調べて」興信所に依頼したのは4月に入ってすぐの頃だった。1週間程で最初の調査書類が手元に届いた。慶司が大学を変えた間に接した異性達の名前が並ぶ。「……」愛美の視線が留まる。渡辺春陽、コンビニの同僚。「わたなべ、はるひ……」聞き馴染みのある名前だった。慶司が通った大学は愛美も高校時代まで過ごした花塚。慶司が大学時代働いたと書かれたコンビニの住所には覚えもある。コンビニのすぐ近くには小学生の時に愛美が側においた子の家がある
「今赤ちゃんいるって事は高校で妊娠したの?」「結婚していないって事は相手も高校生?」「否、高校生ては限らないだろ?」「親もシングルだったヤツだぜ?」「やり過ぎて父親がわからないとか?」「ひでぇ事言うな、おまえ」「まあ、でも」「あぁ、あいつ可愛くはあるからな」「相手位いてもおかしくないな」クスクス、ザワザワと。周囲の好奇な声が春陽の耳に届くが。「……」黙って耐える事しかできない。立ち上がって店を飛び出して帰ってしまいたい。「結婚してないだけで変な噂話になってしまうなんて嫌ね。大丈夫?渡辺さん」言う愛美の声音は優しいのに、その目だけはまったく優しさを宿してはいない。冷たく、どちらかと言えば憎悪が入り混じっている風に春陽には感じた。冷たく蔑む様な目を向けられた事があったのは事実だが、そこに憎悪などはなかった。だが今の愛美からは春陽に対しての憎悪が感じられる。--どうして?あの時からかかわった事も無かったのに。「赤ちゃん位でうるさいよね」小春が珍しく発言する。「高校教師とできちゃった婚している瀬奈の方が余程世間の目は冷たいとおもうけど?ねぇ、瀬奈」「私は自分の純愛を貫いただけよ。誰にも文句なんて言わせない」小春と瀬奈の会話に春陽がわずかに違和感を覚える。瀬奈の事情を知っている高橋小春。今日、高橋小春は愛美、麻里、由宇と共に来ている。--でも、まさか。あんな偶然的に遭遇するなんて事無いはず……。同窓会当日に春陽の家付近でたまたま旦那が乗せて行けなくなったと免許を取得して車を買ったばかりなのに同乗を頼み愛美達との同席に何も言わず受け入れて小春と親しげに話をしている、そんな偶然が。--ある筈無い。「井上さんは高橋さんと昔から親しかったの?」疑問を自分の中だけで燻らせているのはここでは不用、春陽は瀬奈にストレートに聞いた。「親しいっていうか、私と小春は従姉妹なんだよね」「私のお父さんは瀬奈のお父さんの弟だから」瀬奈の旧姓が高橋だったことを思い出す。「そうだったの」「……」ならば、今日の事は偶然なんかではなく必然的なものだったのだろうか。わざわざ春陽を同窓会に来させる為に。しかし何故そうしたかがわからない。同窓会に春陽が来て今のような誹謗中傷に晒したかったのだろうか?「ねぇ、せっかくなのにこの雰囲気は
タンスの中の衣服をいくつか出したがどれも着古したものばかりで春陽はため息をついた。元々あまり服を買う方ではなかったが最近は桜の面倒をみるのに余計こだわりなく着古した服を着ていた為だ。これしかないか、と。もう2年も前に買った黒のワンピース、アイロンをかけシワを伸ばしておく。靴は更に悩む。車の運転もできる物でないといけない事めあり下駄箱の中の少ない靴をじっと見つめる。「これしかないか」手にとった靴は激安通販で知られるヒラタの680円で購入した黒のバレエシューズ。脱ぎ履きが楽で底もフラットなので桜の散歩にも重宝している靴だった。ワンピースに着替え、ゆり子の化粧品を少し借りて薄く化粧しカーディガンを羽織り重い腰をあげると必要最低限の物だけ入れたバッグを手にして靴を履く。「それじゃあ、遅くならずに帰ってくるから」本当ならばゆり子と柏餅を食べてゆっくり過ごすはずだった午後の時間を惜しみながら春陽は玄関を出た。駅の自家用車用ロータリー乗降口に立つ瀬奈を見かけてその前で停車する。「渡辺さん、ありがとう」助手席に乗り込んだ瀬奈が「これ、後で食べて」と渡してきたのは柏餅だった。「わざわざありがとう」断るわけにもいかず受け取ると後部座席へ置く。「渡辺さんて綺麗に車乗るねー。ウチの車なんて中は荷物がごちゃごちゃだよ」車内をキョロキョロと見回して言う。「今日の午前中に納車だったから綺麗なだけだよ」「えっ」驚いて目を丸くして春陽を見た。「本当に?納車されたばかりだったの?私、あんな頼み方したけどもしかして迷惑だった?」「大丈夫だよ」苦笑いを浮かべた春陽に「ごめんね〜」と謝る瀬奈に悪気があったわけではない。「本当に大丈夫だから」気にしないで、と伝えた。「でも……」春陽は横目で瀬奈を見て口にしてしまう。本当に中学までのイメージはまったくなくなってしまっていた。真っ黒で常に後ろで一つに束ねられていた髪はレッドブラウンに染められ化粧も「今時」といえる仕上がり、サーモンピンクのシフォン生地のチェニックに花柄模様のフレアスカート。見違える位に綺麗になっている。「変わりすぎてビックリ?」春陽の言いたい事を先に瀬奈自身が言う。「うん」「渡辺さんもだけど私もぼっち組だったからね。イメージだと暗いとか、良くて真面目しか皆にはなかったからねー」ハハハと
なんとか卒検も無事に受かり。本検もGW直前で受けに行け無事に合格し免許証を手にできた。写真を撮る事を頭に入れていなかった春陽は日常通りの姿で行った為中途半端にのびてしまったおさまりの悪い髪とすっぴんの顔が証明写真となってしまい免許証は誰にも見せたくないと後悔した。そんな免許証を財布にしまう。午前はMBOXの納車予定。100万円を超えるはじめての買い物であるMBOX、春陽は車好きではないけれど意外にも気持ちはワクワクしていた。「それじゃあ、行ってくるね」「行ってらっしゃい、きをつけてね」桜を抱きあげながら少しばかり心配そうにゆり子が見送った。契約の時も隣にいてくれた舞だったが、大学のサークルで行うファッションショー準備から抜けられなかった為納車は1人で行くことになってしまった。最寄りのバス停までバスに乗り店まで行くと舞の母が出迎えてくれた。「どうぞ」2人が座るテーブルに女性店員がコーヒーを置いてくれる。「それじゃあ」いくつかの書類をテーブルに置くとそれぞれの説明をしていく。車検証、自賠責保険、などなど。「任意保険の方には前に車検証のコピーも送ってあるし、納車日も伝えてあるから今日からもう効くはずよ」車にまったく縁がなかった為任意保険も全て舞達に頼って契約をしていた。「色々とありがとうございます」春陽は頭を下げお礼をしたが。「いいのよ、私には車も保険も自分の販売成績になるんだから!」アハハと笑ってみせる。釣られて春陽もクスっと笑みが漏れてしまった。「車の準備もできたみたいだから行きましょうか」入口の方へ視線を向けると外には黒のMBOXが既に止まっている。「ナンバーは桜ちゃんの誕生日にしたの、これは私からのプレゼント」特にこだわりもなく希望がなかった春陽はナンバーは前のままでいいと思っていたが、些細なプレゼントだがとても嬉しいプレゼントだった。「1030」「1番覚えやすいでしょ」「はい」車を一周、傷などがないかを確認する。運転席のドアを開けてもらうと運転席へ乗り込む。「鍵はここにあるから」と言われたドアポケットから鍵をとりバッグにしまう。座席の高さと位置を調整してバックミラーを調整する。「大丈夫?」「大丈夫です」 一通りの調整を終えてハンドル周りを確認するとエンジンスタートのボタンを押す。ドアが閉められ