Mag-log in
桜の小学校入学を前に引っ越しする事が決まり3月に入った頃からゆっくりと荷物の整理をはじめていた。そして18日の日曜日に慣れ親しんだアパートの部屋から春陽、桜、ゆり子の3人は慶司のマンションへ移り住んだ。
数日後、残してきた家具の排出を見守る為に再びアパートの部屋へ春陽だけがやってきた。テキパキと慣れた業者は2時間もかからず帰っていった。
春陽は雑巾を濡らし床を丁寧に拭いていった。ゆり子の部屋、春陽と桜の部屋、キッチン。そしてリビング。
リビングの窓辺に立つと道伝いに公園が見える。
遊具はブランコと小さな滑り台があるだけの小さな公園だった。
だがそこには樹齢がいった見事な桜の木があった。
関東地方がやっと開花宣言されたばかりの今日、この桜の木も点々と花を咲かせているだけで蕾みがほとんどだった。この桜の木を初めて観た日もこの程度の開花だったと思い出す。
それから毎年この桜の木を観てきた。人生で一番長い時間眺めた桜の木だろう。
これから頻繁に観れなくなる事が淋しく感じる。
しばしの時間、春陽はぼんやりと窓越しに桜の木を眺めていた。
まだ籍は入れていなかったが先の事を考え4月から名字は九条を名乗っていた。小学校にも事情を伝え桜も入学からの呼名を九条桜としていた。九条の義母は急にできた6歳の孫娘を無条件で受け入れかわいがってくれたが、早くキチンと家族になりたいのだと慶司と春陽に入籍を迫った。しかし入籍の日は2人で決めていた事もあり、ならば!とその矛先を結婚式に向けたのだ。
嫁と可愛い孫娘を早く表舞台に立たせてしまおうと。
しかしどんなに早く式を挙げさせたくても式場や来賓客などなどの事もあり、何より慶司の時間を作るにはそれなりの準備が必要で。結婚式は半年も先の10月となった。
10月30日。「ママ可愛い!」
ヘーゼル色の丸い瞳を輝かせて言う桜の方が余程可愛いと思う春陽だが「ありがとう」と娘をハグした。
「春陽も桜ちゃんも可愛いに決まっているでしょ!私が自ら選んだお揃いのドレスデザインだし、何よりも着ているのが2人なんだから!」
舞は得意そうに言う。
「今日の主役はママなんだからママが可愛いければ私はいいの!舞姉、私はもっと普通のドレスでもよかったんだよ?」
そう言う桜に春陽と舞はお互いを見合って苦笑いを浮かべる。
「今日の主役はママだけじゃなく桜もだからいいんだよ」
フワリと桜の身体が宙に浮かぶ。
腕に抱きかかえたのは慶司だった。
「パパ!」
桜は慶司の首に手を回すとギュッと抱きしめた。
「でもパパ、結婚式は花嫁が主役なのよ?」
「今日は桜の誕生日でしょう?それに今日は私達3人が家族になった事を紹介する為のものだから私達3人が主役なの」
春陽が言う。
「だから式の時は私と並んで歩いてくれるでしょう?」
「ママと歩くの?」
「そうよ、パパの所までママと並んで歩くの」
「私、ママと一緒に歩く!」笑顔で桜は言った。
「それより、ねぇ!」
そこに舞が不機嫌に口を挟んできた。
「何で式前の花嫁のところへ貴方がくるの⁈邪魔なんだけど!」
「……」
「舞ちゃん……」
慶司は眉根を寄せ、春陽は困ったように舞の手を握る。
「舞姉は本当にパパが嫌いだよね、でもね、パパは桜のパパだから少しだけでも甘くみてほしいの」
桜だけが6歳とはいえぬ落ち着きで舞をなだめる。
トントン。ノック音の後式場のスタッフが入ってきて「神父様もいらっしゃいましたので式が始まります。来賓の方は教会の席へ、新郎新婦とお嬢様は準備をお願いいたします」と伝えた。
式がはじまり扉が開くと春陽は左手にブーケ、右手に桜の左手を握ってゆっくりと赤い絨毯の上を慶司の待つ場所まで歩いていく。
左右の席には本当に大事な人達だけに座ってもらった。
ゆり子、舞、義母、義父、義妹、廉、誠、柚、直樹、翔、大塚店長夫婦。
皆の顔を見られて春陽は本当に幸せだった。
慶司の元に着くと、慶司は桜の高さまで屈みその額に軽いキスをした。
「ママを連れてきてくれてありがとう、桜はゆり子おばあちゃんのところへ行って少し待っててくれるかい?」
コクンと頭を下げると桜は「ママ、頑張ってね」と春陽に小声で伝え握られていた左手を離し最前列のゆり子の横へ座った。
誓いの言葉を宣誓し、指輪がお互いの指にはめられると。
「春陽、愛している……」
慶司は指輪のはめられた春陽の手を包むように握った。
「私も」
春陽は慶司の綺麗なヘーゼル色の瞳を見つめ、目をつぶった。慶司はゆっくりと春陽の小さな唇にキスをおとす。春陽の頬に一筋、涙が流れた。
最後に春陽がブーケを舞にあげようとしたのだが受け取ってはもらえず、欲しがる桜には慶司が渡すなと首を横に振るものだから義妹の彩佳にもらってもらった。彩佳も来年には結婚が決まっているから順番として間違ってはいないと皆思ったが義父だけは複雑な顔をしていた。
式を無事に終えるとすぐに披露宴が始まった。
春陽はスタッフに手伝ってもらい急いで着替える。披露宴用に舞が選んでくれたドレスはモズグリーンのドレスだった。きっと慶司の瞳にあわせてくれたのだろう。
白のタキシードから黒のタキシードに着替えた慶司と一緒に会場に入ると沢山の招待客が一斉に拍手で出迎えた。
披露宴では義母関係や会社関係の芸能人もきており余興は飽きる事なく続いていた。
しかし、芸能人を押し除けてこの日1番の余興は桜だった。
「パパ、ママ、結婚おめでとう。ずっとママとゆり子おばあちゃんと3人だったから桜にもパパやおじいちゃん、おばあちゃん、彩佳叔母さんていう家族がいると知って嬉しかったです。今はパパもママも毎日一瞬にいてくれてとても楽しいし嬉しいです。今日はパパとママの結婚式だけど実は桜の誕生日でもあります!皆んなが誕生日プレゼントは何がいいかときいてくれました。私が今1番欲しいプレゼントは弟か妹です!パパ、ママ!私はもう大きいからいっぱい弟か妹の面倒をみてあげられるよ?だからどうかプレゼントは弟か妹にして下さい!」
桜の手紙は大拍手をもらった。
その中で春陽だけは真っ赤になって俯いてしまった。
12月6日。春陽の26回目の誕生日がやってきた。桜に朝食を食べさせ学校の準備をさせると「行こうか」
と慶司が車のキーをとり春陽と桜に言った。
「じゃあ、おばあちゃん少し出てくるね。お昼前には帰るから帰ってきたら一緒にお昼を食べようね」
春陽はゆり子に言った。
「ゆっくり行って来なさい」
ゆり子は3人を優しく見送った。
慶司の車はまず役所に停まった。
戸籍住民課へ行き婚姻届へ慶司と春陽はそれぞれサインをする。そして入籍届に慶司がサインをし、桜の項目は春陽が記入した。
2人で決めていた春陽の誕生日に入籍する事が今叶う。
「お願いします」
身分証明書と届出書を係の人へ渡すと「ご結婚ですね、おめでとうございます」と言ってくれた。
役所での手続きを済ませ車に戻ると桜は嬉々として「これで桜はパパとママ2人の子になったの?」とたずねた。
「これでもう俺たちは間違いなく家族になったよ」慶司がこたえた。
次は学校の門前に停まる。後部座席に座っていた春陽と桜が車外に降りた。
「いってらっしゃい」と、春陽が桜を見送る。
「いってきます」と、桜は大きく手を振った。
車の窓ガラスが開くと慶司が車内から桜へ手を振った。
それを見た桜はブンブンと回す勢いで手を振った。
校舎に桜の姿が消えると春陽は今度は助手席へ座りシートベルトをしめた。
道中で花屋に寄り花束を受け取る、そしてしばらく走ると市営墓地に着いた。入口の水道で水を用意し墓場の中を歩いて行く。ある区画の墓に着くと2人は足を止めた。
墓石には渡辺家と書かれ、横に建つ墓碑には渡辺達史、渡辺真紀子、渡辺敦、渡辺香織と4人の名が彫られていた。春陽の産まれたその日に亡くなった祖父母と父、そして春陽が高校生の時に亡くなった母の墓だった。
春陽は古く枯れた花を花瓶から取り出し新しい水を注ぐと持ってきた花をいける。慶司は線香に火をつけ半分を春陽に渡す。
先ずは春陽が墓前で手を合わせた。
「お母さん、私は今日結婚したよ。今はとても幸せ。お父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、心配しないでね」そう語りかける。
続いて慶司が墓前で手を合わせた。
慶司に関しては母香織に合ったのもたった一度だけだった。慶司の中で微かに優しい人だったと記憶に残っている。「春陽と桜を幸せにします」慶司はそう春陽の両親達に誓った。
「また来るね、今度は桜も一緒に」
そう話して2人は墓地をあとにした。
12月24日。「……うっ」朝から夕飯用の鶏肉調理をはじめた春陽は鶏肉の臭いに吐き気をもよおした。
普段鶏肉を平気で調理しているのに、と考える。
「……?」たまに狂うのであまり気にしていなかったのだが。「あれ?もう2か月はきていない?」生理が大分遅れている事に気づく。
今日は土曜日、それも年末が近い。時計を確認すると現在10時30分を回ったところだった。
とりあえずスマホで近くの病院を探し診察が大丈夫か確認をとる。「今から来てもらえれば大丈夫ですよ」受付の回答に春陽は慌てて準備を始めた。
「おばあちゃん、私ちょっと出かけてくるからお昼は先に食べてね。桜は町内のクリスマス会に友達と行ったからお昼はいらないらしいの」ゆり子の部屋へ行き告げると「大丈夫よ。お昼くらいかってに食べられるわ」と編み物をしている手はそのままに言った。
「じゃあ行ってきます」とマンションから徒歩15分程にあったミナミレディースクリニックへ向かった。
診察室に入ると医師は「おめでとうございます」と言った。「2か月ですね、予定日は……だいたい8月30日頃かな?真夏の出産ですね」そうして小さすぎる子が映るエコー写真を渡してくれた。
--赤ちゃん……、2人目……。
桜の時はただ呆然となるしかなかった告知に今回はこんなにも心にあたたかさが広がっていく。
下腹部をゆっくり撫でる。この中にまた再び慶司との子供がいるのだ。
桜は、誕生日プレゼントに弟か妹をお願いしていたから聞いたら大喜びする事だろう。
ゆり子は、桜の時は事情があっての猛反対だっただけで桜の事はとても愛してくれている。この子のことも、きっと喜んでくれるだろう。
慶司は……。
慶司が桜の事を知ったのは桜が4歳の時だった。それまでの成長を慶司はみれていないのだ。今度はずっと一緒に育てる事ができる、きっと喜んでくれるだろう。
どうか皆んなに祝福される子でありますように。春陽はそれだけを願った。
その夜。
楽しみにしていた春陽特製鶏の丸焼きが無い事に嘆いた桜だったが大好きな廉の店で作ってもらったというチキンソテーにすぐに機嫌を戻した。具合が優れないから丸焼きが作れそうに無い、桜の為に廉の店の料理をテイクアウトできないか?と春陽は早い段階で慶司に連絡しておいた。連絡を受け春陽の「具合が優れない」に半日心配していたが桜の為に廉にはすぐ連絡をして料理をお願いしたのだ。早めに仕事を切り上げ、帰り際に店へ寄り料理を受け取るとすぐに帰宅した。
「あれ?早かったね?」心配していた春陽は予想外に普通に出迎えて料理を受け取ったのだ。
4人で食事をしていて、とうとう慶司が口にした。
「春陽、具合はもう大丈夫なの?」
春陽は一瞬キョトンとしたが、あの言葉に慶司が心底心配してくれていたのを感じる。
「え、ママ具合悪いの?」桜が春陽を見る。
「そう言えば午前にどこかへ行っていたけど……病院にでも行ったの?」ゆり子が言った。
春陽は食後に見せようとしていたエコー写真をズボンのポケットから取り出して慶司に渡した。
「これは……」
驚きを隠せない慶司に春陽は「2か月だって……」と応えた。
「まぁまぁ、めでたい事!」ゆり子は笑顔で言った。
「え、何?どういう事?」桜にはまだ理解できていなかった。
「桜ちゃんにね、弟か妹ができるのよ」ゆり子が桜に伝わるとブワッとその大きな目からポロポロと涙を流し「ママ本当⁉︎私、お姉ちゃんになれるの?」と聞いた。
「8月の終わり頃にはね」
桜は嬉しさに大泣きをした。
寝入った桜の枕元へ2人でプレゼントを置くと寝室に戻った。「もう遅い、寝よう」
慶司は先にベッドへ入り春陽を呼んだ。
「うん」
春陽もベッドへ入ると慶司が抱きしめてきた。
仄かにオークモスの独特な香りが鼻を掠める。
慶司の香りに包まれて春陽は眠りにおちていった。
「ちょっと、瑠夏!お手伝いしてよ!」
少し大きな桜が怒っていた。
「僕は桜姉ちゃんの為にわざと手伝わないんだよ?」
男の子がウンウンと言いながらゲーム機で遊びながら
「今なら廉おじさんと2人で準備できるよ」
と桜を揶揄う。
「もう!後でパパとママに言ってやるから!」
そう言いながらもBBQの具材の下拵えをする廉の横に桜はピタリとくっついた。
「オレ達の方がカッコいいし有名人なのに桜ちゃんはなんでいまだに廉がいいんだ?」柚が不思議そうに聞く。
「お前だけはないだろな」翔の言葉に直樹が頷く。
「そのうち廉がパパって呼ぶかもな」直樹の言葉に。
「本当にその冗談だけはやめてくれ!」と慶司が頭を振った。
「独身同士なら舞ちゃんとでもくっついてもらうか?」誠は真面目な顔で言った。
「ふざけないで!私には春陽がいるの!それに桜ちゃんに刺されたくないわ!」舞が断固拒否をして春陽に抱きついた。
何て幸せなんだろう、夢かな?あんなに辛かった事がいっぱいあったから……。
今までずっとずっと、辛かったから……。こんな幸せな日々が本当に手にできたの?
ウィルモットで働くミユキこと黒田深雪(クロダミユキ)21歳はパシオンエンターテイメントに所属するモデルだ。175センチの長身がコンプレックスだった高校時代。修学旅行ではじめて行った原宿で事務所の人に声をかけられた。両親は賛成をしてくれたわけではないが反対もしなかった。自分で決めればいい、とだけ言われた。進学予定だった専門学校をやめて卒業と同時に事務所と契約、寮に住みながら事務所の育成カリキュラムを受けた。1年経ってモデルとしていくつか仕事がくるようになって寮も出ようかと思った時に事務所の野村から声をかけられた。「寮を出るなら少し離れるけど事務所所有の花塚のマンションにいかない?時間がわりと自由なバイト先も付けるよ。都内来るまで乗り換えなしで70分しかかからないし、いい話だと思うんだけど」花塚からなら上野へも新宿へも電車一本で70分しかかからない。都心より物価もだいぶ安いと聞く。事務所所有のマンション家賃は相場の7割程度で寮より自由が効く。更に時間がわりと自由なバイト先まで紹介してくれるなど、深雪が断る理由はなかった。そして紹介されたバイト先がオープンして間近のウィルモットだった。2つ年上の正木廉さん。野村がマネージャーをしていたアイドルグループエアネストのメンバーのひとりだった人。中学時代に好きだという友達がいて名前は知っている程度のアイドルグループ。1番人気のグループの顔的存在KEI、身長も高くてかっこいいTANI、ヤンチャで明るいYUZU、ツンデレ王子のHIROの4人に比べてイマイチパッとしなかったメンバーがMAKIだったと記憶していた。花塚駅前に建つ事務所所有のマンションへ引っ越しを終えると一応の面接の為に開店前の店へ足を運んだ。「すみません、面接に来た黒田です」店のドアを開けて声をかけると奥から男性が1人近寄ってきた。「黒田深雪さん、ですね。その手間のテーブルにかけて下さい。飲み物はコーヒー、紅茶どちらがよいですか?」自分より少しばかり背が高いだろうか。見上げるほどではないから180弱程度か。短めにカットされた硬質の黒髪は軽く流す様にワックスで固められている。あらわになた額から鼻筋の美しさが際立つ。整えられた髪と同じく硬質の眉と切れ長気味の目。--実物、めちゃくちゃカッコいいじゃん!深雪は心の中で叫び声をあげた。「
舞がコーディネートした服を持って試着室で着替える。「フェミニンスタイルは本当はショートよりもセミロング位がいいんだけど…。春陽、切っちゃうし!」そこは舞にはかなり気に入らない部分だったらしい。天然パーマの春陽には短い方が楽ではあるのだが。これから湿度が上がってくる時期になれば尚更に。でも、さすがファッション学部 ファッションデザイン専攻で学んでいるだけはあって舞のセンスの良さは間違いない。舞が選んだ服を着た鏡の中の姿は別人に見える。カーキの薄手ニットセーターに若草色のシアーブラウス。下は8部丈のダークグレーのシフォンパンツ。「着れた?」試着室の外側から舞が声をかける。「着れた」試着室のドアを少し開き春陽が顔だけ出した。「着れたなら見せてよ、改善もできないでしょ」「そうなんだけど……」普段、お洒落をすると言っても持っている服の中でする程度だった。1番まともなお洒落でも先日着たワンピース程度なのだ。大人可愛いフェミニンスタイルなどハードルが高かった。「ほら!」舞が力まかせにドアを開ける。「……」「……」「やっぱり可愛いじゃない!」「に、似合わないよね!やっぱり!」「……」「……」「え?」結果、舞のコーディネートした服を購入、さらにそれに合わせたライトブラウンのショートブーツを購入した。「せっかくなら全部買ったモノに着替えてしまえばよかったのに」ランチ時の混雑回避の為13時を回ってからウィルモットへと向かった車内で舞が残念そうに言った。「きっとあの男も驚くと思うけど」「男って……正木さんのこと?」「だって、春陽に絶対気があるでしょ?あの男」ズバっと言った舞は自分の言葉に不機嫌になる。しかし、春陽が付き合う事を決めるならばあの男よりは正木廉の方が百倍位応援できると考える。春陽は苦笑いしながら気のせいだよ、と話を流す。「それに、やっぱり私は男の人はいい」「……」「嬉しい事に子供はもう桜がいるし。おばあちゃんも舞ちゃんもいるから今更誰かと付き合うとか考えなくてもいいの」ハンドルを握る手に僅かに力が入るのを舞が気づく。「何かあった?」「特に無いよ」笑って答える春陽だが、それが嘘だと言うことは舞にはすぐにわかることだった。「ほとんどの男を馬鹿だと思っている私ならまだしも、可愛くて性格もよくて、子連れだ
舞との久々の電話から数日。『やっと時間空いた!明日のランチ一緒に食べよ!』舞から早々に連絡があった。「あら、久々に出かけてくるの?」「うん、明日のランチにウィルモットに行ってくるけど。おばあちゃんも一緒に行く?」「あら、誘ってくれるの?」ゆり子はでも今回はいいわ、と断ってさらに桜も置いていっていいわよ、と付け足した。金曜日なので朝はバイトに行ってしまう為早朝から昼過ぎまで桜を頼む事になる。「おばあちゃんが休めなくなっちゃうよ」春陽は心配で言ったが。「桜の面倒みている位がいいのよ。TVみてボーっとしていたら私がぼけちゃうわ。久々だからゆっくり話もしたいでしょ?」確かに、舞と話ができるのは久々なのでゆっくりとしたかった。「でも、次は私も連れて行ってね。彼の店なんでしょう?」「近いうちに絶対連れていく!」「なら、明日はゆっくりしてきなさい」何時も何時も、ゆり子の優しさに春陽は感謝する。10時少し過ぎた時間で退勤をおしてコンビニから舞のマンションへ向かう。来客用の駐車スペースに駐車してエレベーターで上がる。ピンポンを押すとすぐに玄関ドアが開けられる。「おつかれさま」一働きしてきた春陽に舞が労いの一言を言う。「言ってもらえるほどは働いてないよ」春陽は苦笑いを浮かべる。「働く気持ちが大事よ。それに朝のコンビニは大変でしょう?」朝のコンビニは確かに1番大変なのかもしれない。店舗によって時間が変わるがお弁当配達が1日3回ある内で1番大量の品が搬入される。その他パンの搬入も早朝だ。レジ横に並ぶチキンなども早朝が最初の準備となる。他10時迄に発注作業と精算作業がある中で接客があり、出勤時のピークはレジから中々離れる事はできない。「まあ、大変だけど短い時間だから」「少し休んでから出る?」気づかって聞いた舞に首を振る。「ランチの前に久々に舞ちゃんと買い物もしたいし」「そうだよね、春陽ってば会わない間にまた髪切っちゃうし……。お洒落から離れちゃっているから私が服をみてあげないと!」「髪はこの方が楽なんだけど」激安カット店で注文が「ただ短く」の髪型は舞には不評のようだった。「楽を優先しすぎて20歳の女盛りを捨てちゃダメ!春陽の可愛さがもったいない!」美人の舞にならわかるけれど、背が低めでパッとしない自分がそこまでお洒落にこだわ
「あれ?廉さん、これは?」夕方のバイトにきてくれたスズカとニイナがレジに置かれていたブラウンのウサギのぬいぐるみに気づき可愛いと話しはじめる。「あ〜、昼前に甥っ子連れて動物園行った時にUFOキャッチャーやらされた」「え〜かわいい」「景品はこれだけなんですか?」「もう1つのウサギは知人にあげたし他は全部甥っ子がもって帰ったから」「えー、誰にあげちゃったんですか。欲しかったなぁ」「あ、でもウサギのぬいぐるみって事はその知人て女性ですか?」「……あぁ」「え〜、なんかありそうな返事ですよぉ」「もしかしたら彼女ができちゃったんですか?!」「マユやミユキさんとか絶対にショックだね!」「だよね、本気で廉さん狙っていたし」「でも廉さんまったくそんな気配なかったのに……」「ちょっと2人とも、俺に彼女なんていないから」「えー」「じゃあ知人って男の人?子供じゃ知人なんて言わないし」「……」「いや、女の子だけど……」「「ほら!」」「でも彼女じゃないから!」「まさか、廉さんが、片思い?!」「どんなヒトかな?」「廉さんのタイプなら美人かな?」「……」「ねぇ、廉さん!どんなヒトですか?」興味津々の2人の瞳が期待いっぱいで廉を見つめる。「……あ〜」2人の勢いにおされて少しばかり身を退く。視界の端にブラウンのウサギが入る。廉の脳裏にウサギのぬいぐるみを手にした春陽の笑顔が浮かんだ。「「……!」」一瞬、廉の口元が僅かに綻んでその瞳ははじめてみた優しさと色気がまざり合い、目にしたスズカとニイナは顔を赤く染めた。ドキドキ、ドキドキ。2人の鼓動がはやまる。「何、何、何!?今の廉さん!」「廉さんがマジで恋?!」「「っていうか!私が廉さんに恋する!」」2人は同時に心の中で叫んだ。「そろそろ店開けるからもうこの話は終わりだ。ちゃんと仕事してくれよ」廉が時計を確認するとすでに17時まであと5分をきっていた。2人に注意する。「はーい」2人は素直に返事をした。17時、この日もウィルモットは普段と変わらない夜の営業をはじめた。お風呂からあがり髪を乾かすと桜を抱っこして自室に戻る。と、ちょうどスマホが鳴る。発信者をチラッと確認するとスマホの画面に「舞ちゃん」と発信者の名が出ていた。桜をベビーベッドへ寝かせて通話ボタンを押した。
光瑠に連れられてペンギンやカピバラ、猛禽類もみてまわる。たどたどしくも一生懸命に説明してくれる光瑠が可愛くて春陽とゆり子はその話をきちんと聞いていた。「水族館も行こう」と言うので春陽は頭に魚が泳ぐ水槽を思い描いた。「中は暗そうだから桜とここで待っているわね」と言いベンチに腰をおろしたゆり子を残して3人で水族館の中へ入った。「……!」春陽はすぐさま心の中で悲鳴をあげた。「キオビヤドクガエルって言うんだよ」光瑠が指差した先には鮮やかな黄色と黒の蛙がいた。「光瑠くんは蛙も好きなの?」気力で笑顔を作ってみせる。「5歳の誕生日に図鑑を買ってあげたら何故か爬虫類両生類図鑑が気に入って凄い速さで覚えちゃったんだよね。この水族館も何度か来たみたいだからここにいるモノは覚えたみたいでさ」「ここにはねワニもいるよ」「……ワニ」「みに行こう」引っ張る光瑠に抵抗もできず、なされるがままに春陽は足を進め続ける。「大丈夫?」「大丈夫ですよぉ」数種類のトカゲ達に囲まれながらも必死にカチカチの笑顔を保っている。「こんなに丁寧に説明してくれているからちゃんと聞いてあげないと」「お姉ちゃんも嫌いなの?」春陽の様子に光瑠が気づく。「ママもあーちゃんも、女の子はみんな蛙や蛇が嫌いでキャーキャー叫ぶんだ」「き、嫌いではないよ。苦手ではあるけど……」「お姉ちゃんは嫌いじゃないの?」光瑠は不安そうに聞いた。「渡辺さん、無理しなくていいよ」廉は心配して言った。「大丈夫、触れって言われたら流石に悲鳴あげるかもしれないけど。見てれば可愛いコもいるし……」 実際、色にはビックリしたけれど蛙は中々可愛い顔をしている。光瑠は無理に引っ張る事をやめ「あっちの水槽にはカクレクマノミがいるよ」と春陽の様子をうかがう様に手を握って言った。「カクレクマノミって映画になった魚ね。オレンジ色の」「僕も映画観たよ」「本物がいるの?」「いるよ、あっちに」春陽も繋いだ手に力を入れる。「正木さん、カクレクマノミ観に行きましょう」「あぁ」今度は3人並び歩いてカクレクマノミのいる水槽へ向かった。広さはないが満足度の高い水族館を堪能して外に出る。ベンチではゆり子が桜に飲み物を与えていた。「やっと戻ってきたのね、楽しかった?」「だいぶ待たせてしまってすみません」廉が慌
「何、このサル」駆け寄り、蓮の足にしがみ付いた男の子は桜を見て言い放った。「こら、そんな言い方しちゃダメだろ」廉が男の子の頭を軽くポンと叩きながら注意する。「……だって、サルみたいじゃん」それでもボソッと言った言葉に廉はため息をついた。「ごめんね、最近反抗ばかりなんだコイツ」「コイツじゃない!正木光瑠(まさきひかる)だよ!」男の子が名乗る。「光瑠は兄の子なんだ。今日の午後までこの子の面倒をみるために店は休みにしてあるんだ」「そうだったんですか。……それにしても、こんな場所で会うなんて凄い偶然ですね」花塚の何処かでならば買い物中など偶然会う事もあるだろうけど、まさか遠くないとは言え県外の動物園で会うとは思わなかった。「兄の家がこの近くなんだ。家に戻る前に動物園へ行きたいって言うから連れて来たんだけど、渡辺さんは?」「私は車がきたので祖母を誘ってドライブに来たんです。祖母がこの動物園をリクエストしたので」「渡辺さんが運転してきたの?」「はい、初めてのドライブでドキドキでしたけど」「無事に免許はとれたんだね」春陽が舞と共にウィルモットへ行ったのはまだ教習所へ通っている時だった。「はい、やっと自分でも自由に動けそうでワクワクしてます。今日はその1日目ですね」「確かに、車がないと不便だからな」駅周辺に住んでいるとはいえ、花塚では電車で何処かへ行けるとかバス路線が沢山ありバスが頻繁に走っているわけではない。したがって花塚辺りに住む人は高校卒業と共に免許を取り車を買うという車社会だった。「そうですね、桜がいて不便だと実感しました」ハハっと笑いながら話をしていると。「ねー、早くライオンの所に行こうよ!」飽きてきた光瑠が廉のズボンを引っ張り催促した。光瑠の邪魔をしないように「それじゃあ」と春陽はゆり子と桜の元へ足を向けたが。「あ」廉の手が春陽の手首を掴んだ。「よかったら、少し一緒に回らない?」「……」まさかの申し出に春陽は困惑してゆり子の方を向いた。「私は別に構わないわよ、賑やかになるのは歓迎よ。光瑠くんさえよければ」大人達を見上げている光瑠にゆり子は「一緒にいてもいい?」と聞いた。「おばちゃん達と観るの?」「光瑠くんがよかったらね」光瑠はゆり子と春陽を交互に見上げベビーカーの桜を覗き込むと少しばかり考え。「