INICIAR SESIÓN
桜の小学校入学を前に引っ越しする事が決まり3月に入った頃からゆっくりと荷物の整理をはじめていた。そして18日の日曜日に慣れ親しんだアパートの部屋から春陽、桜、ゆり子の3人は慶司のマンションへ移り住んだ。
数日後、残してきた家具の排出を見守る為に再びアパートの部屋へ春陽だけがやってきた。テキパキと慣れた業者は2時間もかからず帰っていった。
春陽は雑巾を濡らし床を丁寧に拭いていった。ゆり子の部屋、春陽と桜の部屋、キッチン。そしてリビング。
リビングの窓辺に立つと道伝いに公園が見える。
遊具はブランコと小さな滑り台があるだけの小さな公園だった。
だがそこには樹齢がいった見事な桜の木があった。
関東地方がやっと開花宣言されたばかりの今日、この桜の木も点々と花を咲かせているだけで蕾みがほとんどだった。この桜の木を初めて観た日もこの程度の開花だったと思い出す。
それから毎年この桜の木を観てきた。人生で一番長い時間眺めた桜の木だろう。
これから頻繁に観れなくなる事が淋しく感じる。
しばしの時間、春陽はぼんやりと窓越しに桜の木を眺めていた。
まだ籍は入れていなかったが先の事を考え4月から名字は九条を名乗っていた。小学校にも事情を伝え桜も入学からの呼名を九条桜としていた。九条の義母は急にできた6歳の孫娘を無条件で受け入れかわいがってくれたが、早くキチンと家族になりたいのだと慶司と春陽に入籍を迫った。しかし入籍の日は2人で決めていた事もあり、ならば!とその矛先を結婚式に向けたのだ。
嫁と可愛い孫娘を早く表舞台に立たせてしまおうと。
しかしどんなに早く式を挙げさせたくても式場や来賓客などなどの事もあり、何より慶司の時間を作るにはそれなりの準備が必要で。結婚式は半年も先の10月となった。
10月30日。「ママ可愛い!」
ヘーゼル色の丸い瞳を輝かせて言う桜の方が余程可愛いと思う春陽だが「ありがとう」と娘をハグした。
「春陽も桜ちゃんも可愛いに決まっているでしょ!私が自ら選んだお揃いのドレスデザインだし、何よりも着ているのが2人なんだから!」
舞は得意そうに言う。
「今日の主役はママなんだからママが可愛いければ私はいいの!舞姉、私はもっと普通のドレスでもよかったんだよ?」
そう言う桜に春陽と舞はお互いを見合って苦笑いを浮かべる。
「今日の主役はママだけじゃなく桜もだからいいんだよ」
フワリと桜の身体が宙に浮かぶ。
腕に抱きかかえたのは慶司だった。
「パパ!」
桜は慶司の首に手を回すとギュッと抱きしめた。
「でもパパ、結婚式は花嫁が主役なのよ?」
「今日は桜の誕生日でしょう?それに今日は私達3人が家族になった事を紹介する為のものだから私達3人が主役なの」
春陽が言う。
「だから式の時は私と並んで歩いてくれるでしょう?」
「ママと歩くの?」
「そうよ、パパの所までママと並んで歩くの」
「私、ママと一緒に歩く!」笑顔で桜は言った。
「それより、ねぇ!」
そこに舞が不機嫌に口を挟んできた。
「何で式前の花嫁のところへ貴方がくるの⁈邪魔なんだけど!」
「……」
「舞ちゃん……」
慶司は眉根を寄せ、春陽は困ったように舞の手を握る。
「舞姉は本当にパパが嫌いだよね、でもね、パパは桜のパパだから少しだけでも甘くみてほしいの」
桜だけが6歳とはいえぬ落ち着きで舞をなだめる。
トントン。ノック音の後式場のスタッフが入ってきて「神父様もいらっしゃいましたので式が始まります。来賓の方は教会の席へ、新郎新婦とお嬢様は準備をお願いいたします」と伝えた。
式がはじまり扉が開くと春陽は左手にブーケ、右手に桜の左手を握ってゆっくりと赤い絨毯の上を慶司の待つ場所まで歩いていく。
左右の席には本当に大事な人達だけに座ってもらった。
ゆり子、舞、義母、義父、義妹、廉、誠、柚、直樹、翔、大塚店長夫婦。
皆の顔を見られて春陽は本当に幸せだった。
慶司の元に着くと、慶司は桜の高さまで屈みその額に軽いキスをした。
「ママを連れてきてくれてありがとう、桜はゆり子おばあちゃんのところへ行って少し待っててくれるかい?」
コクンと頭を下げると桜は「ママ、頑張ってね」と春陽に小声で伝え握られていた左手を離し最前列のゆり子の横へ座った。
誓いの言葉を宣誓し、指輪がお互いの指にはめられると。
「春陽、愛している……」
慶司は指輪のはめられた春陽の手を包むように握った。
「私も」
春陽は慶司の綺麗なヘーゼル色の瞳を見つめ、目をつぶった。慶司はゆっくりと春陽の小さな唇にキスをおとす。春陽の頬に一筋、涙が流れた。
最後に春陽がブーケを舞にあげようとしたのだが受け取ってはもらえず、欲しがる桜には慶司が渡すなと首を横に振るものだから義妹の彩佳にもらってもらった。彩佳も来年には結婚が決まっているから順番として間違ってはいないと皆思ったが義父だけは複雑な顔をしていた。
式を無事に終えるとすぐに披露宴が始まった。
春陽はスタッフに手伝ってもらい急いで着替える。披露宴用に舞が選んでくれたドレスはモズグリーンのドレスだった。きっと慶司の瞳にあわせてくれたのだろう。
白のタキシードから黒のタキシードに着替えた慶司と一緒に会場に入ると沢山の招待客が一斉に拍手で出迎えた。
披露宴では義母関係や会社関係の芸能人もきており余興は飽きる事なく続いていた。
しかし、芸能人を押し除けてこの日1番の余興は桜だった。
「パパ、ママ、結婚おめでとう。ずっとママとゆり子おばあちゃんと3人だったから桜にもパパやおじいちゃん、おばあちゃん、彩佳叔母さんていう家族がいると知って嬉しかったです。今はパパもママも毎日一瞬にいてくれてとても楽しいし嬉しいです。今日はパパとママの結婚式だけど実は桜の誕生日でもあります!皆んなが誕生日プレゼントは何がいいかときいてくれました。私が今1番欲しいプレゼントは弟か妹です!パパ、ママ!私はもう大きいからいっぱい弟か妹の面倒をみてあげられるよ?だからどうかプレゼントは弟か妹にして下さい!」
桜の手紙は大拍手をもらった。
その中で春陽だけは真っ赤になって俯いてしまった。
12月6日。春陽の26回目の誕生日がやってきた。桜に朝食を食べさせ学校の準備をさせると「行こうか」
と慶司が車のキーをとり春陽と桜に言った。
「じゃあ、おばあちゃん少し出てくるね。お昼前には帰るから帰ってきたら一緒にお昼を食べようね」
春陽はゆり子に言った。
「ゆっくり行って来なさい」
ゆり子は3人を優しく見送った。
慶司の車はまず役所に停まった。
戸籍住民課へ行き婚姻届へ慶司と春陽はそれぞれサインをする。そして入籍届に慶司がサインをし、桜の項目は春陽が記入した。
2人で決めていた春陽の誕生日に入籍する事が今叶う。
「お願いします」
身分証明書と届出書を係の人へ渡すと「ご結婚ですね、おめでとうございます」と言ってくれた。
役所での手続きを済ませ車に戻ると桜は嬉々として「これで桜はパパとママ2人の子になったの?」とたずねた。
「これでもう俺たちは間違いなく家族になったよ」慶司がこたえた。
次は学校の門前に停まる。後部座席に座っていた春陽と桜が車外に降りた。
「いってらっしゃい」と、春陽が桜を見送る。
「いってきます」と、桜は大きく手を振った。
車の窓ガラスが開くと慶司が車内から桜へ手を振った。
それを見た桜はブンブンと回す勢いで手を振った。
校舎に桜の姿が消えると春陽は今度は助手席へ座りシートベルトをしめた。
道中で花屋に寄り花束を受け取る、そしてしばらく走ると市営墓地に着いた。入口の水道で水を用意し墓場の中を歩いて行く。ある区画の墓に着くと2人は足を止めた。
墓石には渡辺家と書かれ、横に建つ墓碑には渡辺達史、渡辺真紀子、渡辺敦、渡辺香織と4人の名が彫られていた。春陽の産まれたその日に亡くなった祖父母と父、そして春陽が高校生の時に亡くなった母の墓だった。
春陽は古く枯れた花を花瓶から取り出し新しい水を注ぐと持ってきた花をいける。慶司は線香に火をつけ半分を春陽に渡す。
先ずは春陽が墓前で手を合わせた。
「お母さん、私は今日結婚したよ。今はとても幸せ。お父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、心配しないでね」そう語りかける。
続いて慶司が墓前で手を合わせた。
慶司に関しては母香織に合ったのもたった一度だけだった。慶司の中で微かに優しい人だったと記憶に残っている。「春陽と桜を幸せにします」慶司はそう春陽の両親達に誓った。
「また来るね、今度は桜も一緒に」
そう話して2人は墓地をあとにした。
12月24日。「……うっ」朝から夕飯用の鶏肉調理をはじめた春陽は鶏肉の臭いに吐き気をもよおした。
普段鶏肉を平気で調理しているのに、と考える。
「……?」たまに狂うのであまり気にしていなかったのだが。「あれ?もう2か月はきていない?」生理が大分遅れている事に気づく。
今日は土曜日、それも年末が近い。時計を確認すると現在10時30分を回ったところだった。
とりあえずスマホで近くの病院を探し診察が大丈夫か確認をとる。「今から来てもらえれば大丈夫ですよ」受付の回答に春陽は慌てて準備を始めた。
「おばあちゃん、私ちょっと出かけてくるからお昼は先に食べてね。桜は町内のクリスマス会に友達と行ったからお昼はいらないらしいの」ゆり子の部屋へ行き告げると「大丈夫よ。お昼くらいかってに食べられるわ」と編み物をしている手はそのままに言った。
「じゃあ行ってきます」とマンションから徒歩15分程にあったミナミレディースクリニックへ向かった。
診察室に入ると医師は「おめでとうございます」と言った。「2か月ですね、予定日は……だいたい8月30日頃かな?真夏の出産ですね」そうして小さすぎる子が映るエコー写真を渡してくれた。
--赤ちゃん……、2人目……。
桜の時はただ呆然となるしかなかった告知に今回はこんなにも心にあたたかさが広がっていく。
下腹部をゆっくり撫でる。この中にまた再び慶司との子供がいるのだ。
桜は、誕生日プレゼントに弟か妹をお願いしていたから聞いたら大喜びする事だろう。
ゆり子は、桜の時は事情があっての猛反対だっただけで桜の事はとても愛してくれている。この子のことも、きっと喜んでくれるだろう。
慶司は……。
慶司が桜の事を知ったのは桜が4歳の時だった。それまでの成長を慶司はみれていないのだ。今度はずっと一緒に育てる事ができる、きっと喜んでくれるだろう。
どうか皆んなに祝福される子でありますように。春陽はそれだけを願った。
その夜。
楽しみにしていた春陽特製鶏の丸焼きが無い事に嘆いた桜だったが大好きな廉の店で作ってもらったというチキンソテーにすぐに機嫌を戻した。具合が優れないから丸焼きが作れそうに無い、桜の為に廉の店の料理をテイクアウトできないか?と春陽は早い段階で慶司に連絡しておいた。連絡を受け春陽の「具合が優れない」に半日心配していたが桜の為に廉にはすぐ連絡をして料理をお願いしたのだ。早めに仕事を切り上げ、帰り際に店へ寄り料理を受け取るとすぐに帰宅した。
「あれ?早かったね?」心配していた春陽は予想外に普通に出迎えて料理を受け取ったのだ。
4人で食事をしていて、とうとう慶司が口にした。
「春陽、具合はもう大丈夫なの?」
春陽は一瞬キョトンとしたが、あの言葉に慶司が心底心配してくれていたのを感じる。
「え、ママ具合悪いの?」桜が春陽を見る。
「そう言えば午前にどこかへ行っていたけど……病院にでも行ったの?」ゆり子が言った。
春陽は食後に見せようとしていたエコー写真をズボンのポケットから取り出して慶司に渡した。
「これは……」
驚きを隠せない慶司に春陽は「2か月だって……」と応えた。
「まぁまぁ、めでたい事!」ゆり子は笑顔で言った。
「え、何?どういう事?」桜にはまだ理解できていなかった。
「桜ちゃんにね、弟か妹ができるのよ」ゆり子が桜に伝わるとブワッとその大きな目からポロポロと涙を流し「ママ本当⁉︎私、お姉ちゃんになれるの?」と聞いた。
「8月の終わり頃にはね」
桜は嬉しさに大泣きをした。
寝入った桜の枕元へ2人でプレゼントを置くと寝室に戻った。「もう遅い、寝よう」
慶司は先にベッドへ入り春陽を呼んだ。
「うん」
春陽もベッドへ入ると慶司が抱きしめてきた。
仄かにオークモスの独特な香りが鼻を掠める。
慶司の香りに包まれて春陽は眠りにおちていった。
「ちょっと、瑠夏!お手伝いしてよ!」
少し大きな桜が怒っていた。
「僕は桜姉ちゃんの為にわざと手伝わないんだよ?」
男の子がウンウンと言いながらゲーム機で遊びながら
「今なら廉おじさんと2人で準備できるよ」
と桜を揶揄う。
「もう!後でパパとママに言ってやるから!」
そう言いながらもBBQの具材の下拵えをする廉の横に桜はピタリとくっついた。
「オレ達の方がカッコいいし有名人なのに桜ちゃんはなんでいまだに廉がいいんだ?」柚が不思議そうに聞く。
「お前だけはないだろな」翔の言葉に直樹が頷く。
「そのうち廉がパパって呼ぶかもな」直樹の言葉に。
「本当にその冗談だけはやめてくれ!」と慶司が頭を振った。
「独身同士なら舞ちゃんとでもくっついてもらうか?」誠は真面目な顔で言った。
「ふざけないで!私には春陽がいるの!それに桜ちゃんに刺されたくないわ!」舞が断固拒否をして春陽に抱きついた。
何て幸せなんだろう、夢かな?あんなに辛かった事がいっぱいあったから……。
今までずっとずっと、辛かったから……。こんな幸せな日々が本当に手にできたの?
ウィルモットでゆっくり食後のドリンクを飲んでいると廉がやってきた。「これ。試作のプリンだけど食べてみて」「プリン、2個ある……」春陽と舞の前にそれぞれ2つのプリンが置かれた。「こっちのプリンは卵と牛乳と砂糖だけで作ったいわゆる昔ながらのプリン。こっちは卵黄と牛乳、生クリームと砂糖で作ったプリン。どちらがいいか決めかねてて。2人の意見聞こうとしているんだ」春陽と舞がそれぞれプリンを口にするのを廉は横で見ている。「もうすぐ春休みだし、公園が賑やかになると子供連れの客が増えるから作ってみたけどどちらがいいかな?」「私ならこっちが好きね」舞はトロっとした生クリームを使ったプリンを選んだ。「渡辺さんは?」ゆっくり味わっている春陽もトロっとした柔らかな生クリーム入りを美味しいと思ったが。「私はこっちが好きかな、コレに生クリームとチェリーがのっていたら最高」まさしく「昔ながら」のプリンだった。子供の頃に母と祖母3人で行ったレストランで食べた懐かしい味がした。食後に出される生クリームと缶詰の真っ赤なチェリーがのったプリンがとても好きだった。「懐かしい味がする」懐かしい風景を思い出して春陽の口元に笑みが溢れた。「そう、よかった」「まあ、私も硬めのプリン好きだからいいんじゃない?」「え、私も生クリームのプリンすきだよ?」舞の言葉に春陽が慌てて言ったが、舞が言った意味を理解して春陽が言ったわけでは無かった。--まだまだまったく眼中に入ってないわね。春陽の反応に舞はニコニコと笑っていた。「それじゃあ、そろそろ出ようか」気分がいいウチにさっさと帰ってしまおうとする。「そうだね」しばらくおとなしくしていた桜もさすがにそろそろぐずりだすかもしれない。ベビーカーを覗き込むと桜はまだスヤスヤと寝息をたてている。「桜ちゃん、まだ寝てるね。ならもう一杯何か飲む?」廉の言葉に断りの言葉を返したかったがプリンのおかげで何か飲みたいのが正直な感想だった。「なら私はコーヒー」遠慮と言う言葉は存在しないとばかりに頼んでいる。ウィルモットによく来店するようになり、廉からたまにサービスをしてもらいながら話しをするようになってこの感じが続いている。「じゃあ私はアイスコーヒーで」空いたコップをトレーにのせて廉は一度奥に戻って行った。「まったく、気があるなら
--眠い。ただただ正直な思いはそれだけだった。生後4ヶ月を過ぎ桜の首もすわるようになり少しばかり離乳食も始めだした3月はじめ。母乳は完全にやめた事もあり春陽は教習所へ通いだしていた。その教習所の学科時間は春陽にはまるで子守唄の流れるベッドの中の様なものだった。眠気に必死にあらがうがまぶたが重い。なんとか耐えぬくと事務室の機械で空きの時間に次の予約を入れる。「あら?なんか見た事ある人がいる」後ろからそんな声が聞こえたので振り返ると2人の人影があった。「本当だ、こんな所で会うなんて」「……あ、浅田さんと石川さん?」中学校卒業ぶりでも誰だかはわかった。浅田麻里と石川由宇の2人だ。「久しぶりだね、渡辺さん」「いつぶりかな、中学?」「渡辺さんて何処の高校に行ったんだっけ?」「今何してるの?大学?」「え、大学?何処?」春陽の答えなどいらないとばかりに2人だけで会話が続いていく。小学生時代のあの事があってから会話を交わした記憶などほとんど無い。中学校に入ってからはクラスも別れた為顔すらほとんど合わせなかった2人だ。見かけたくらいで声などかけなくてもいいのに、と春陽は内心で思った。「渡辺さん?」黙り込みぼうっと2人を見ているだけの反応がつまらなかったようで麻里が呼んだ。「え?」2人の話しを大して聞いていなかった春陽は間の抜けた返事になってしまう。麻里て由宇がイラっとしたのがわかる。それでも春陽は気に留めようとはしなかった。「外に人を待たせているから私は帰るね」この場を去る為についた嘘ではないが、早くこの2人から離れたくて春陽はそう告げると出口に歩きだす。「ちょっと……!」待ちなさいよ、と追いかけてくる。「久しぶりに会えた事だし、いい話しをしてあげようって思ったんだから聞きなさいよ」ならば先に言えばいいのに、と思う。「渡辺さんて、確かエアネストのファンだったよね」春陽が周りに公言していなくてもちょっとした持ち物などでわかっていたのだろう。でも今更そうだった、でどんないい話しになるのだろうか。「愛美がお見合いしたのよ」--愛美ちゃん……。笑顔を絶やす事なく周りに接するけど多分誰よりも人を蔑みている人。春陽は日本人形の様だった愛美を思い出す。「相手は九条グループの跡取り九条慶司さん。渡辺さんにわかる様に言うと元エ
間宮愛美の元に友人などが集まり早めのクリスマス会という名のパーティーを楽しんでいた。「明日は何時に発つ予定なの?」長年の友人浅田麻里が聞いた。「9時発の予定よ」「年明けまでアメリカだなんてさみしくなるわ」豪華なメンバーの中にいても存在感が秀でている愛美の周りには自然と人が集まっていた。「愛美さんはアメリカに行かれるの?」「アメリカのどちらに?」質問がとぶが愛美本人は答えず隣に立つ麻里が皆の質問に答えていく。「明日からニューヨークに行くのよ」「この時期のニューヨークでは寒いのではないですか?」場所を聞いた女性の1人が不思議そうに問う。「愛美は観光に行くわけじゃないもの」「あら、じゃあ今の時期に態々ニューヨークにまで行く理由は?」他の女性が興味深気に聞いた。「お見合い相手に会われるんですよね」何故だか本人よりも勝ち誇ったように麻里が言った。「まぁ!」そんな話しが大好きな年頃の面々が更に興味深く聞く。「お相手は?」「相手は……」名前を言おうとしたところで愛美がそれを遮る。「まだ決まっていない相手の名前を言ってうまくいかなければ私が笑いものになってしまうわよ」ふふっと微笑みを浮かべて制した。「愛美をふるような相手はいないわよ」麻里は断固として言った。「そうだといいけれどね。皆さんには来年紹介できればよいと私も思うわ」ニコリと美しい唇に笑みをつくった。「楽しみにしていますわ」周りはそれ以上相手の追求はしなかった。麻里は相手の名を言えず残念そうだったがすぐに愛美の隣で笑顔を作り橋渡しを続けた。--九条慶司。次にこのメンバーが集まる時は必ず婚約者として隣に立っていてもらうわ。愛美は笑顔の下で獲物を狙う猛獣のような鋭さをその目に宿したが誰かが気づくことはなかった。12月25日17:30。レオナードピクチャーズ社内専務室で1人机にむかっているところへやってきたのは秘書という名のお目付け役、佐々木潤(ささきじゅん)だ。「あと30分で約束の時間になるぞ」その言葉をまったく気にする事なく書類に目を通していく。「慶司、いい加減用意してくれないか」「……」また1枚と書類をめくる。佐々木はハァァとため息をついた。「相手のお嬢さんはわざわざ日本から来ているのに、お前が行かないはないだろ」「ならばお前が行って相手を
店の入口は厨房からわずかに見えるようになっていた。客が来店するとどんな客層か程度に確認をしていた。店を開店させた直後位にベビーカーを押して来店した女性2人組も確認程度に見てそれだけの認識に留まっていたのだが。ふと、1ヶ月程前に大きなお腹を抱えて来店した女性を思い出した。--あの子か?何処かで見かけた事があるように感じたからか記憶していた子だった。髪型はかなり短くなっていたがクルッとカールした髪の感じに丸い瞳が身長の低さと相まって何かの小動物に見える。ウサギかリスか、いやハムスターか?冗談混じりに考えるがすべてにおいて可愛いという印象だった。自分よりいくつか若そうだがもう結婚して子供もいるなんて大変だな、と感じただけで。個人的な意見はそれだけだった。頼んだデザートにアイスとフルーツを加えたのも本当に他意はなく、出産に対してのサービスだったのだ。見た目も真逆と言っていい、彼女の連れがまさかナンパ扱いしてくるとは思いもよらなかった。アイドルをしている時も今もナンパするほど異性に困った事はなかったし、見た目のタイプというならば彼女の連れの方がタイプに近いだろう。しかし、あの子がシングルマザーだとは思いもよらなかった。イメージでは相手に好かれて優しくされて幸せな家庭をもっているのだが……。ランチ営業を終えて賄いの準備をしながらそんな事を考えていた。トゥルル、トゥルル。廉のスマホが鳴る。発信者をみてすぐにスマホを手にした。「もしもし」廉は懐かしい相手に話しかける。「そっちはまだ夜中だろ?」相手はニューヨーク在中。日本で14時をまわった時間ならばあちらは夜中の0時をまわったばかりだろう。『あぁ、0時になったばかりだよ』「珍しいな、忙しくて電話もできなかったんじゃないのか?」『忙しかったよ、早く日本に帰りたい』「……帰って来れそうなのか?」大学卒業式を待たずに父親の命令でアメリカの提携会社へ行かされた友人とは中々連絡もとれないでいた。電話も数ヶ月ぶりの事だ。「年内?」『嫌、それは流石に無理だな。早くても来年春かな』「そんな先じゃないだろ」『俺は今すぐ帰りたいけどな……』「仕事がうまくいってないのか?ずいぶんと弱気な声じゃないか?」『仕事は順調すぎる位だ、じゃなければまだ帰れそうなんて言えない。ただ……』「……ただ?」
「……ン、ギャア」桜の鳴声に反応してウトウトしていた春陽は身体を起こして桜の元へ寄った。桜を抱き上げて胸を除菌ペーパーで一拭きしてお乳をあげると待ってましたと桜は飲みはじめる。出産後一週間の入院だけで無事2人で退院できた。不慣れながらも必死に子育てをはじめたが、3時間毎に与えるお乳とオムツ交換、たまに愚図るのをあやしてと数日で子育ての大変さが身にしみた。それでもやはりこうして桜にお乳を与えている時は幸せだ。必死に飲む桜を見る目は優しく笑んでいる。満足した桜を抱えなおしポンポンと背を軽く叩いて刺激してあげると「ゲフッ」と立派なゲップをはいた。「お腹いっぱいになったからゆっくり寝んねしてね」とスヤスヤ寝息をたてるまで抱っこを続ける。静かに窓越しに敷いた布団に寝かせるとソファに戻る。「ウトウトしてたから少し昼寝でもする?」ゆり子がトレーにティーポットとカップを乗せてきた。「紅茶?」「カモミールとレモンバームのハーブティーよ」独特のスッキリした香りに貰うとこたえる。ゆり子はトレーを置くと2つのカップにハーブティーを注いでくれた。リラックス効果のあるハーブティーをゆっくり口にしていく。「寝ていると本当に天使ね」「よく寝てよく飲んで、たった1ヶ月で1キロ以上重くなるんだもん。腕とかぱんぱんになる時あるもん。凄い速さで大きくなって逞しくてすごいよね、赤ちゃんって」「小さな春陽が抱っこしているとお姉ちゃんが妹を抱っこしてあげてるみたいに見えるからねぇ、」買い物先などで背も低めで割りかし童顔の春陽がママだと言うと驚かれる事は多い。「私、ちゃんとお母さんしてるよ」そう言葉にしたけれど春陽の瞳には褒めて褒めてと甘えの感情があらわになっていた。「そうね、春陽はいいお母さんだわ」フフっと微笑みながら春陽の頭を撫でてあげる。それを気持ちよさげに受けいれながらその時間を楽しんだ。「そうだ」春陽は伝える事を思い出した。「明日は昼間に舞ちゃんと公園に散歩に行くからお昼はいらない」「明日は寒くないの?」「昼頃は風が吹かないみたいだし気温も18度位まで上がるみたいだから公園で少し散歩しようと思って」「そう、気をつけて行ってね」「うん、……それでね、おばあちゃん」「まだ何かあるの?」「私、車の免許を取ろうと思ってるの」ゆり子は目を見開いた。身
出産予定日2週間前となり今日も大きくなったお腹を抱えて石井産婦人科へやってきていた。「とくに異常はなく順調ね」診察が終わり石井医師が言った。「予定日まで2週間をきるからいつ陣痛がきてもおかしくないわ、いつでも入院できるようにそろそろ用意しておく方がいいわよ」「はい」初めてだらけで不安がいっぱいの春陽は全幅の信頼を石井医師にしている。いい医師に会えてよかったと思う。「入院に最低必要なモノと家に買っておいた方がいいモノを書いたパンフレットを渡してあげるから。何もなければまた来週で予約を入れておくけど、心配な事やもし陣痛がきたらすぐに病院にきてね」「ありがとうございます」春陽は頭を下げて診察室を出た。窓口で会計を済ましパンフレットをもらうと病院を後にしようとする。グウウウ……。お腹が勢いよく鳴った。お昼になろうかという時間ではあるが朝ごはんもしっかり食べた春陽は自分のお腹の音が恥ずかしくなる。家に帰ればゆり子が昼ごはんの用意をしてくれているだろうが。--今、何か食べたいよね。妊娠後期になり食欲がかなり旺盛になっていた。花塚公園の周りには飲食店も点在している。どこか一度店に入ろうとスマホで検索をかけた。--かつ屋はがっつりすぎるし、寿司は生物は控えておきたいし、バーガーは塩分取りすぎになるよね。中々決められないな、と思いながら次に出てきた店に目をとめた。花塚公園の駐車場近くにあるイタリアンレストランウィルモットに入ると可愛らしい店員の女の子がすぐに席へ案内してくれて水とメニューを置いていった。さっそくメニューを開き書かれたパスタの種類にワクワクする。軽くサイドメニューでもと考えていたが。「すみません、大根おろしとツナの和風パスタとオレンジジュースをお願いします」普通にパスタを頼んでしまっていた。「少々お待ちください」メニューをメモした店員は裏に消えていった。料理がくるまでとバッグの中から病院でもらったパンフレットを取り出しパラリてめくる。お腹の中にいる赤ちゃんが女の子だという事は事前にわかっていたのでいくつかの服と下着は買っていた。新生児用のオムツに哺乳瓶、哺乳瓶の消毒薬に乳パッドに搾乳機……。--搾乳機?何か色々書いてあり頭がいっぱいになりそうでパンフレットを閉じた。--店に買いに行って一つ一つ確認しよう。早くも