Masuk戦争終結の知らせが届いたのは、初夏の朝だった。
使用人が興奮した様子で駆け込んできて、兄からの手紙を持ってきた。私は震える手で封を開け、几帳面な兄の文字を目で追った。
戦が終わった。我が国の勝利。兄は無事で、近日中に帰還する。そう書かれた文面を読み終えると、涙が溢れて止まらなくなった。
八年間、ずっと待っていた。毎晩祈り続けた。兄とダリウスが無事に帰ってきますように、と。
戦場からの便りは少なく、時折届く手紙だけが、二人の生存を知らせる唯一の証だった。夜、ベッドの中で兄からの手紙を読み返しながら、涙を流した日々が何度もあった。
手紙を胸に抱きしめると、心臓が激しく鼓動を打った。兄が帰ってくる。ダリウスも——帰ってくる。
八年ぶりに、彼に会える。幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。灰青色の瞳。低い声。「一生を添い遂げてください」と囁いた、あの日。
私は窓辺に立ち、庭を眺めた。薔薇が満開に咲き誇り、甘い香りを放っている。
八年前、あの日は春だった。中庭で剣の稽古をする兄とダリウスを、私は夢中で眺めていた。ダリウスが私の手の甲にキスをした時、心臓が壊れそうなほど鳴っていた。あの感覚は、今でも鮮明に覚えている。
鏡の前に立ち、自分の姿を映してみた。十七歳になった私は、いくらか大人になっている――と思いたい。
背は伸び、身体つきも丸みを帯びてきた。淡い金髪は腰まで伸び、緩やかなウェーブを描いている。淑女のような妖艶な魅力はまだないが、そこそこ女性らしくなってはいるはず……。
瞳の色は、淡い緑色に金が混じっていた。明るい光を吸い込むような色だと、兄はよく言っていた。
鏡に映る顔を見つめながら、不安が込み上げてきた。
私は頬を両手で挟んだ。顔が熱い。会いたい。ダリウスに会いたい。八年間、ずっと心の中で想い続けていた人。初恋の人。
幼い頃の淡い恋心は、時が経っても消えることはなかった。むしろ、会えない時間が長くなるほど、想いは強くなっていった気がする。
ダリウスに会った時、恥ずかしくないようにしなくちゃね。
◇◇◇
兄の帰還予定日の朝、屋敷中が慌ただしく動き回っていた。メイドたちは床を磨き、窓を拭き、花を飾り、料理の準備に追われていた。執事は玄関ホールの掃除を監督し、庭師は庭の手入れを念入りに行っていた。屋敷全体が、兄の帰還を祝う準備で賑わっていた。
「アリア様、お召し物はこちらでよろしいでしょうか」
侍女が、淡いアイボリーのドレスを持ってきた。袖は七分丈で、胸元には繊細なレースがあしらわれている。裾は床すれすれまであり、歩くたびにふわりと揺れる。私は頷き、侍女に着替えを手伝ってもらった。
髪は侍女が丁寧に梳いてくれて、緩やかなカールを作ってくれた。淡い桃色のリボンで、サイドの髪を留める。少しだけ頬紅を塗り、唇には薄く色を乗せた。
鏡に映る自分を見つめた。これで八年前よりも、ずっと大人びて見えるはず。
八年振りに見る親友の妹を見て、ダリウスは大人の女性として少しでもドキッとしてくれるだろうか。
(あ――でも、兄と一緒にダリウスが来るとは限らないのよね)
ダリウスにだって、家で待つ家族はいるのだ。無事を祈り待っている家族のもとへ、いち早く顔を見せに帰っているかも。
そうなれば、兄とは一緒に来ない。
(この姿はお兄様のためにやったの――)
気持ちを切り替えようと、胸に言い聞かせる。
きっと八年前の幼い姿のままで、兄の記憶に残っているはずだ。大人の女性になっていると知ったら、きっと驚いてくれる。
窓の外から、馬車の音が聞こえてきた。心臓が跳ねる。来た。兄が帰ってきた。私は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。ドレスの裾を掴み、転ばないように気をつけながら、玄関ホールへ向かった。
「ただいま、アリア!」
玄関の扉が開くと同時に、懐かしい声が響いた。兄の声。八年ぶりに聞く、温かい声だった。私は駆け出した。
「お兄様!」
兄は両腕を広げて立っていた。私はそのまま飛びつき、兄の胸に顔を埋めた。
兄の腕が私を抱きしめ、くるりと回った。足が地面から離れ、宙に浮く感覚。幼い頃、いつも帰宅した兄は私を抱っこしてくれた。今日あったことをひとしきり、玄関ホールで抱っこした状態で話すのが我が家のいつもの光景だった。
早くに両親を亡くし、家督を引き継いだ兄。いつも寂しく家で、兄の帰りを待つ妹の寂しさを取り除くために始めた抱っこは、いつしか当たり前になっていた。
「八年でこんなに可愛くなって——本当に、お前は俺の自慢の妹だ」
兄の声が、頭上から降ってくる。私は顔を上げ、兄の顔を見た。日に焼けた肌。精悍な顔つき。戦場で鍛えられた、たくましい身体にアリアは驚いた。
「お兄様。ご無事で——本当に、本当に良かった」
涙が溢れてきた。兄の胸に顔を埋めたまま、声を震わせる。兄の手が、優しく私の背中を撫でてくれた。
「泣くな、アリア。もう大丈夫だ。兄様は帰ってきた」
兄の声が、耳元で響いた。温かく、安心感に満ちた声。私は涙を拭い、顔を上げると兄の肩越しに——見えた。
玄関の影に立つ、長身の男性を。黒に近い濃紺の髪が、光を反射して鈍く光っている。鋭く整った顔立ちは、八年前よりもさらに精悍になっていた。兄と同様に日に焼けた肌に、引き締まった身体つきは八年前よりもずっと大人の男性になっていた。
礼服に身を包んだ姿は、圧倒的な存在感を放っていた。
灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。
(ダリウス――)
心臓が、激しく跳ねた。呼吸が止まりそうになる。八年ぶりに見るダリウスは、記憶の中の彼よりも、ずっと——ずっと格好良くなっていた。
「なあ? 兄様が帰ってきたんだが?」
兄の声が聞こえたが、私はダリウスから視線を外せなかった。彼の瞳に惹きつけられて、私を捉えて離さない。八年前と同じ……いや、もっと——熱い視線だった。まるで、私の中を見透かすような、鋭い眼差しで胸が高鳴った。
「アリア」
兄の声に、私ははっと我に返った。兄は不機嫌そうな顔をしながら、私を地面に下ろした。
「おかえりなさい、兄様」
慌てて視線を兄に戻し、笑顔を作る。頬が熱い。きっと顔が真っ赤になっていた。兄は私の顔を覗き込み、首を傾げた。
「顔が赤いぞ? 興奮しすぎたか?」
「少し、はしゃぎすぎてしまいました」
私は視線を逸らした。心臓の鼓動が、うるさいほど響いている。ダリウスの視線を、まだ背中に感じた。
「覚えているか? よくうちに来ていたダリウスだぞ」
兄が振り返り、ダリウスを手招きした。ダリウスが一歩前に出る。私は深々とお辞儀をした。
「ご無事で何よりです、ダリウス」
私の声は、震えていた。ダリウス、と呼ぶのは初めてだった。幼い頃は、ダリウスお兄様、と呼んでいた。もう、そんな風に呼べる関係ではないのはわかっている。
「久しぶりだな、アリア様」
ダリウスの低い声が、耳に届いた。心臓が、また激しく跳ねる。彼の声は、八年前よりも低く、落ち着いていた。大人の男性の声。私は顔を上げ、彼を見た。
灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。無表情な顔のまま、けれど瞳の奥には何かが燻っているように見えた。
私は視線を逸らせなかった。まるで、彼の瞳に吸い込まれていくような感覚だ。
「お転婆な妹が、慎ましやかなレディになっている……!」
兄が目頭を押さえた。私ははっとして、兄を見た。兄の目には、涙が浮かんでいた。
「ちょっとお兄様!」
私は兄の腕を小突いた。兄が大袈裟に痛がる仕草をする。私は笑ってしまった。八年経っても、兄は変わっていなかった。
ふと視線を感じて、ダリウスを見た。彼の口元が、わずかに緩んでいた。
笑っている——ダリウスが、笑っている。寡黙で無表情だった彼が、小さく微笑んでいた。私の胸が、じんわりと温かくなった。
「兄様たちは少し難しい話をするから、メイドにお茶の用意をしてほしいと伝えておくれ」
兄が私の頭を撫でた。私は頷き、二人を見送った。兄とダリウスは、奥の部屋へ向かって歩いていく。
ダリウスの背中は、八年前よりもずっと大きく、頼もしかった。戦場で鍛えられた、戦士の背中。肩幅は広く、姿勢は真っ直ぐで、歩く姿には威厳があった。
胸が、きゅっと締め付けられた。苦しい。会いたかったのに、会えて嬉しいはずなのに、胸が痛かった。
二人の姿が廊下の奥に消えても、私はその場に立ち尽くした。メイドに指示を出さなければならないのに、足が動かない。心臓が痛いほど鳴っていて、呼吸が浅くなっていた。
なんと身体を動かすと、メイドにお茶の用意を指示をして、自室に戻った。
私はベッドに座ると両手で顔を覆い、深く息を吸い込む。落ち着かなければ、心臓の鼓動が収まりそうにない。
「ダリウス……」
名前を呟くと、胸の奥が熱くなった。
彼の灰青色の瞳。鋭い眉。日に焼けた肌。引き締まった身体。低い声。
八年の歳月が、彼をさらに魅力的な男性していた。戦場で名を馳せた英雄は、圧倒的な存在感を放っていた。
鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。淡いアイボリーのドレスを着た、十七歳の私。確かに成長した。幼い頃よりも、ずっと大人びた顔つきになったが、彼の隣に立つのに相応しいかと問われたら――相応しいとは言えない。
ダリウスが見ている世界には、もっと美しく、洗練された女性たちがたくさんいるはずだった。私なんかよりも、ずっと彼にふさわしい人たちが、たくさんいる。
「あの日の誓いが、ごっこ遊びじゃなければいいのに」
思わず願望が声になって口から漏れ出てしまう。
ダリウスに告白され、プロポーズされたい――でも、年が離れてる私は、ダリウスに女性として見てもらえるのだろうか。
窓の外を眺めると青空が広がり、雲が流れている。庭の薔薇が、風に揺れていた。
私はベッドに横になり、枕に顔を埋めた。ダリウスの顔が、瞼の裏に浮かんでくる。灰青色の瞳。真剣な眼差し。私を見つめる、熱い視線。
心臓が、また激しく鳴り始めた。苦しくて、切なくて、愛おしくて——。
「ダリウス……」
もう一度、名前を呟いて私は瞼を閉じた。
春の午後、エリオット伯爵家の中庭で剣の稽古をしていた。カレルと木剣を交え、基本の型を確認する。日差しは柔らかく、風が心地よく頬を撫でていく。「もう一本行くか」 カレルが木剣を構え直した。俺も構えを取る。互いに視線を交わし、間合いを測る。「お兄様、ダリウスお兄様!」 甲高い声が聞こえた。振り返ると、アリアが中庭に駆け込んできた。淡い金髪が風に揺れ、大きな淡緑色の瞳が輝いている。白いドレスの裾を翻し、息を切らしながら俺たちに近づいてくる。 九歳になったアリアはとても可愛い。心臓が、不規則に跳ねた。「お姫様ごっこしましょう!」 アリアが無邪気に笑う。俺とカレルを交互に見上げ、期待に満ちた瞳を向けてくる。「アリア、今は剣の稽古中なんだ」 カレルが苦笑しながら妹の頭を撫でた。アリアは頬を膨らませる。「いいじゃない。少しだけ」「仕方ないな」 カレルが俺を見た。俺は頷く。アリアの願いを断ることなど、できるはずがなかった。「それじゃあ、お姫様に結婚を誓うのは、勝った方よ!」 アリアが無邪気に提案した内容に俺の心臓が激しく打った。結婚を誓う。「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」 カレルが笑いながら言った。ごっこ遊び。子どもの戯れ。カレルにとっては、妹を喜ばせるための遊びでしかない。 だが俺は違う。 木剣を構え直した。視線をカレルに向ける。今日は負けられない。絶対に勝つ。アリアに誓いを立てる権利を、手に入れる。 いつもなら、ぎりぎりのところでカレルに勝利を譲っていた。友人の面子を潰さないように。兄として妹の前で格好をつけさせてやるために。俺が本気を出せば勝てる相手だと分かっていたが、それを表に出すことはなかった。 でも今日は違う。 カレルが剣を振るってくる。俺はそれを受け流し、反撃に転じる。速い。いつもより速い動き。カレルの目が見開かれた。「おい、ダリウス」 カレルが驚いた声を上げる。俺は答えない。ただ剣を振るい続ける。カレルの剣を弾き、隙を作る。 剣先が、カレルの首元に触れた。 勝った。「やったぁ! ダリウスお兄様が勝った!」 アリアの歓声が響く。俺は木剣を下ろし、膝をついた。アリアの前で、片膝をつく。 小さな手を取った。柔らかく、温かい手だった。華奢で、儚い。 手の甲に、唇を寄せた。「憎きライバルに
教会の扉が開く音がした。重厚な木の扉が、ゆっくりと左右に開いていく。中からオルガンの音色が聞こえてきた。荘厳で、美しい旋律。胸が高鳴り、心臓が激しく打ち始める。「緊張してるか?」 兄様が小声で聞いてきた。私の左腕に、兄様の右腕が添えられている。礼服姿の兄様は、いつもより凛々しく見えた。「――はい」 私は震える声で答えた。手が冷たく、膝が震えている。深呼吸をしても、緊張は解けなかった。「大丈夫。アリアは綺麗だ」 兄様が優しく微笑んだ。温かい眼差しが、私を包み込む。その笑顔に、少しだけ緊張が和らいだ。 バージンロードが、視界に広がった。真っ白な絨毯が、祭壇まで続いている。両脇には花が飾られ、甘い香りが漂っていた。参列者たちが座席に座り、私たちを見ている。 オルガンの音色が大きくなる。入場の合図だった。私は兄様と共に、一歩踏み出した。 白いウェディングドレスが揺れる。裾が床に触れ、レースが柔らかく広がる。胸元には小さな真珠が縫い付けられ、光を反射してきらきらと輝いていた。長いベールが背中から流れ、歩くたびに揺れる。 一歩、また一歩。ゆっくりと前に進む。参列者たちの視線が注がれているのを感じたが、私の目は祭壇だけを見ていた。 祭壇の前に、ダリウスが立っていた。 漆黒の礼服に身を包んだ姿は、圧倒的だった。濃紺の髪は丁寧に整えられ、鋭く整った横顔が浮かび上がる。胸には勲章がつけられ、侯爵としての威厳が漂っていた。 ダリウスの灰青色の瞳が、私を捉えていた。じっと、真っ直ぐに。私だけを見つめている。愛情が溢れている瞳。優しさと、喜びと、切なさが混ざり合った眼差し。 胸が熱くなった。涙が溢れそうになって、強く瞬きをする。 祭壇の前にたどり着いた。兄様が立ち止まり、私の手を取る。そして、ダリウスに手渡してくれた。「頼んだぞ」 兄様が小声で言った。ダリウスは頷き、私の手を握る。大きく温かい手。安心感が広がった。 兄様が席に戻り、私とダリウスだけが祭壇の前に残された。司祭が前に立ち、聖書を開く。「本日、ここに集いし皆様の前で、この二人は永遠の誓いを交わします」 司祭の声が、教会中に響いた。私は緊張で身体が強張っていたが、ダリウスの手が優しく握り返してくれる。「ダリウス・オルフェイン、あなたは、アリア・エリオットを妻とし、良き時も悪き時も、富める
朝日が眩しかった。窓から差し込む光が、目を刺すように感じられる。私は身体を起こし、ベッドから降りた。全身が痛い。昨夜、何度も激しく求められた痕が、身体のあちこちに残っていた。 ドレスに着替える。首元が広く開いていて、キスマークが隠しきれない。 ダリウスが寝室に入ってきた。整った身なりで、昨夜の激しさが嘘のように落ち着いた様子だった。「帰るのか」 低い声で聞いてくる。私は頷いた。「帰らないと、お兄様が心配します」 今まで、朝帰りをするのは兄様だった。舞踏会やパーティから帰らず、翌朝に上機嫌で戻ってくる。私はいつも、呆れながら出迎えていた。 今日は違う。私が朝帰りをする。初めての朝帰り――。 馬車が用意され、私たちは屋敷を出た。揺れる馬車の中で、ダリウスが私の手を握ってくれる。大きく温かい手。安心感が広がった。 私の屋敷に近づいてくると、胸が騒いだ。兄様に何と言えばいいのか。朝帰りを叱られるのは分かっている。「屋敷の前で大丈夫です」 私はダリウスに告げた。玄関まで一緒だと、兄様に見られてしまう。ダリウスは首を横に振った。「玄関ホールまで送る」 彼の声は決然としていた。「でも、兄様がいたら」「構わない」 ダリウスの灰青色の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。迷いのない瞳に私はドキリと胸が高鳴る。「もしかしたらお兄様も朝帰りでいないかもしれません」 兄様は昨夜の舞踏会で、綺麗な貴婦人と一緒だった。私よりも帰りが遅い可能性はある。 馬車が屋敷の前に止まった。御者が扉を開け、私は馬車から降りる。玄関に向かおうとして、足が止まった。 玄関前に、我が家の馬車が停まっていた。 心臓が冷たくなった。兄様が帰っている。今日に限って、早く帰ってきている。「まずい……かもしれない」 小さく呟いた。ダリウスが私の肩に手を置く。「大丈夫だ」 彼の声が、背中を押してくれる。私は深く息を吸い、玄関の扉に手をかけた。 扉を開けると、玄関ホールに兄様が立っていた。 腕を組み、仁王立ちしている。意外と髪は整っており、礼服姿のままだった。顔は怒りで紅潮し、眉間には深い皺が刻まれている。(ええ? もしかして昨日に限って真っ直ぐ帰ってきていたの?) しかも怒っている。すごく怒っている。「兄様、ただいま帰りました」 私は震える声で挨拶した。兄様はじっと私を
馬車が止まった。ダリウスの屋敷に到着したのだ。窓の外には、見慣れた石造りの壁と、立派な門が見える。 身体がぐったりとして、力が入らなかった。馬車の中で一度頂点を迎え、全身の力が抜けてしまっている。ダリウスの胸にもたれかかったまま、私は浅い息をついていた。 ダリウスが自分の外套を取り、私の身体にかけてくれた。乱れたドレスを隠すように、丁寧に外套で包み込んでくれる。彼の匂いがして、安心感が広がった。 御者が扉を開ける。ダリウスは私を横抱きにしたまま、馬車から降りた。外套に包まれた私を、しっかりと抱きしめている。「ダリウス様、お帰りなさいませ」 使用人たちが玄関に並んでいた。皆、驚いた顔をしている。侯爵様が女性を抱いて帰ってきたのだから、当然だった。 ダリウスは何も言わずに、屋敷の中に入っていった。階段を上り、廊下を進む。使用人たちが後ろで囁き合う声が聞こえたが、ダリウスは気にする様子もなかった。 寝室の扉を開け、中に入る。扉が閉まると、外の音が遮断された。静かな部屋。大きなベッドと、暖炉の火だけが灯る空間。 ダリウスが私をベッドに降ろした。柔らかい感触が背中に伝わり、天蓋が視界を覆う。ダリウスが私の上に覆いかぶさってきた。「ダリウス」「アリア」 彼の瞳が、熱を帯びていた。灰青色の瞳が、月明かりを受けて鋼色に見える。欲望と愛情が混ざり合った、熱い眼差し。 外套が脱がされた。次にドレスの紐が解かれ、布が肌から剥がされていく。冷たい空気が肌に触れ、鳥肌が立った。ダリウスの手が、私の肌を撫でる。肩から腕へ、腕から腰へ。大きく温かい手が、私の身体をゆっくりとなぞっていく。「綺麗だ」 ダリウスが囁いた。低く、甘い声。「今日、会ったときから、このドレスを俺が脱がすって決めてた」 頬が熱くなった。会ったときって――。「会ったときって、授与式の前」 私が言いかけると、ダリウスが頷いた。「ああ、侯爵になれば、アリアを自由に抱ける。妻にもできる」 彼の手が私の頬を撫でる。「あのときの約束が叶えられると、喜びで震えた」 あのときの約束。九歳の時の、ごっこ遊びでの誓い。 忘れられていたかと思ったが、ダリウスは覚えていてくれた? キスの雨が降ってきた。首筋に、鎖骨に、胸元に。ダリウスの唇が、私の身体のあちこちにキスを落としていく。熱く、甘いキス。
中庭は静かだった。噴水の水音と、風に揺れる木々の葉擦れの音だけが聞こえる。月明かりが石畳を照らし、庭園の花々に淡い光を落としていた。人気はなく、私たち二人だけの空間だった。 ダリウスが私の手を離し、振り返った。月光に照らされた彼の顔は、険しかった。さっき廊下でキスをした時、少しだけ緩んでいた表情が、また元の厳しさに戻っている。「お話とはなんでしょうか」 私から先に口を開いた。沈黙が怖かった。彼が何を言うのか、怖かった。ダリウスの灰青色の瞳が、じっと私を見つめている。「さっき、楽しそうに男たちと話していた」 ダリウスの声は低く、抑制が効いていなかった。怒りが滲んでいる。私は息を呑んだ。「アリアが他の男のところに行くのは、許さない」 一歩近づいてきた。私は後ずさりしたが、背中が壁に当たった。逃げ場がない。ダリウスの手が伸びてきて、私の肩を掴んだ。大きく、力強い手。逃がさないと言わんばかりに、しっかりと掴まれている。 壁に背中を押し付けられる形になった。ダリウスの大きな身体が、私を覆う。月明かりが遮られ、彼の影の中に私がいた。 ダリウスの手が、私の身体を撫で始めた。肩から腕へ。腕から腰へ。ドレスの上から、彼の手が私の身体をなぞっていく。熱が伝わってきて、肌が粟立った。「っ」 声が漏れそうになって、唇を噛んだ。ダリウスの手が腰に留まり、強く掴まれる。「アリアは、俺のものだ」 低く、獣じみた声だった。普段の落ち着いた声とは違う。抑えきれない感情が滲み出ている声。 俺のもの。 その言葉が、胸に響いた。嬉しかった。彼にそう言ってもらえることが、嬉しかった。彼に求められていることが、幸せだった。 でも。 彼の新しい人生を、邪魔しくはない。「ごめんなさい」 私は震える声で言った。ダリウスの手が止まり、彼の瞳が鋭く私を見た。「でも、立場をわきまえないといけないって感じたんです」 涙が溢れそうになるのを堪えながら、言葉を続けた。ダリウスの眉間の皺が深くなる。「立場ってなに?」 彼の声がさらに低くなった。不機嫌さが増している。ダリウスの手が再び動き出し、執拗に私の身体を撫でていく。肩、腕、腰、背中。触れられるたびに、身体が熱くなる。「侯爵様に、伯爵家の娘が交流するなんてできません」 私はダリウスの胸を押した。広く硬い胸板。筋肉が盛り上が
柱の影で息を整えていると、足音が近づいてきた。「アリア、すごく可愛かったよ」 兄様の声だった。振り返ると、兄様が笑顔で立っていた。上機嫌な様子で、グラスを片手に持っている。「まさかあいつが、最初に踊るのがお前だとは思わなかった」 兄様は驚いた様子で首を傾げた。私は慌てて笑顔を作った。涙が溢れそうになるのを必死で堪え、何でもないふりをする。「見知った顔がいたから、誘っただけじゃないかしら」 誤魔化すように言った。兄様は顎に手を当て、少し考え込む様子を見せた。「そうか? けっこう親密な関係に見えたけどなあ」 兄様がにやりと笑う。心臓が跳ねた。親密。兄様にそう見えていたのだろうか。顔が熱くなり、視線を逸らした。「あいつの手、こう、腰と尻の間の微妙なところに触れててイヤらしかったぞ」 兄様が手で位置を示しながら言う。顔が一気に熱くなった。確かに、ダリウスの手は通常よりも低い位置にあったのは確かだ。腰と臀部の境目あたりを、大きな手で掴まれていた。 それを兄様に見られていたのは恥ずかしい。「お兄様の脳内がおかしいです! ただのダンスですよ。イヤらしいだなんて……」 私は顔を真っ赤にして言い返した。兄様は笑いながら、肩をすくめる。「でもなあ、アリアは本当に可愛いから、変な男に声をかけられないように、もう一人の兄として牽制をかけてくれたのかなあ」 兄様が会場のダリウスの方を見て、微笑ましそうに呟いた。「あいつらしいなあ」 もう一人の兄として。 その言葉が、胸に突き刺さった。痛い。息が苦しくなる。「あいつの家、男ばっかりで妹がいないから、アリアのことは本当に可愛がってたんだよな」 兄様が懐かしそうに笑う。幼い頃の思い出を振り返るような、穏やかな笑顔だった。私は苦笑するしかできなかった。 綺麗な女性が兄様に声をかけてきた。豊かな金髪を編み上げた、妖艶な笑みを浮かべる貴婦人。兄様は私に軽く手を振ると、貴婦人の腰に手を回してその場を離れていった。 会場の隅で、兄様が貴婦人を抱き寄せる姿が見えた。人目も憚らず、キスをしている。貴婦人も嬉しそうに兄様の胸に顔を埋めていた。(やっぱり兄様は軽い人だ) 妻になる女性を本気で探す気があるのだろうか。 呆れながらも、少しだけ羨ましかった。堂々と愛情を示せる関係。隠す必要のない、正当な関係。私とダリウ