LOGIN戦争終結の知らせが届いたのは、初夏の朝だった。
使用人が興奮した様子で駆け込んできて、兄からの手紙を持ってきた。私は震える手で封を開け、几帳面な兄の文字を目で追った。
戦が終わった。我が国の勝利。兄は無事で、近日中に帰還する。そう書かれた文面を読み終えると、涙が溢れて止まらなくなった。
八年間、ずっと待っていた。毎晩祈り続けた。兄とダリウスが無事に帰ってきますように、と。
戦場からの便りは少なく、時折届く手紙だけが、二人の生存を知らせる唯一の証だった。夜、ベッドの中で兄からの手紙を読み返しながら、涙を流した日々が何度もあった。
手紙を胸に抱きしめると、心臓が激しく鼓動を打った。兄が帰ってくる。ダリウスも——帰ってくる。
八年ぶりに、彼に会える。幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。灰青色の瞳。低い声。「一生を添い遂げてください」と囁いた、あの日。
私は窓辺に立ち、庭を眺めた。薔薇が満開に咲き誇り、甘い香りを放っている。
八年前、あの日は春だった。中庭で剣の稽古をする兄とダリウスを、私は夢中で眺めていた。ダリウスが私の手の甲にキスをした時、心臓が壊れそうなほど鳴っていた。あの感覚は、今でも鮮明に覚えている。
鏡の前に立ち、自分の姿を映してみた。十七歳になった私は、いくらか大人になっている――と思いたい。
背は伸び、身体つきも丸みを帯びてきた。淡い金髪は腰まで伸び、緩やかなウェーブを描いている。淑女のような妖艶な魅力はまだないが、そこそこ女性らしくなってはいるはず……。
瞳の色は、淡い緑色に金が混じっていた。明るい光を吸い込むような色だと、兄はよく言っていた。
鏡に映る顔を見つめながら、不安が込み上げてきた。
私は頬を両手で挟んだ。顔が熱い。会いたい。ダリウスに会いたい。八年間、ずっと心の中で想い続けていた人。初恋の人。
幼い頃の淡い恋心は、時が経っても消えることはなかった。むしろ、会えない時間が長くなるほど、想いは強くなっていった気がする。
ダリウスに会った時、恥ずかしくないようにしなくちゃね。
◇◇◇
兄の帰還予定日の朝、屋敷中が慌ただしく動き回っていた。メイドたちは床を磨き、窓を拭き、花を飾り、料理の準備に追われていた。執事は玄関ホールの掃除を監督し、庭師は庭の手入れを念入りに行っていた。屋敷全体が、兄の帰還を祝う準備で賑わっていた。
「アリア様、お召し物はこちらでよろしいでしょうか」
侍女が、淡いアイボリーのドレスを持ってきた。袖は七分丈で、胸元には繊細なレースがあしらわれている。裾は床すれすれまであり、歩くたびにふわりと揺れる。私は頷き、侍女に着替えを手伝ってもらった。
髪は侍女が丁寧に梳いてくれて、緩やかなカールを作ってくれた。淡い桃色のリボンで、サイドの髪を留める。少しだけ頬紅を塗り、唇には薄く色を乗せた。
鏡に映る自分を見つめた。これで八年前よりも、ずっと大人びて見えるはず。
八年振りに見る親友の妹を見て、ダリウスは大人の女性として少しでもドキッとしてくれるだろうか。
(あ――でも、兄と一緒にダリウスが来るとは限らないのよね)
ダリウスにだって、家で待つ家族はいるのだ。無事を祈り待っている家族のもとへ、いち早く顔を見せに帰っているかも。
そうなれば、兄とは一緒に来ない。
(この姿はお兄様のためにやったの――)
気持ちを切り替えようと、胸に言い聞かせる。
きっと八年前の幼い姿のままで、兄の記憶に残っているはずだ。大人の女性になっていると知ったら、きっと驚いてくれる。
窓の外から、馬車の音が聞こえてきた。心臓が跳ねる。来た。兄が帰ってきた。私は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。ドレスの裾を掴み、転ばないように気をつけながら、玄関ホールへ向かった。
「ただいま、アリア!」
玄関の扉が開くと同時に、懐かしい声が響いた。兄の声。八年ぶりに聞く、温かい声だった。私は駆け出した。
「お兄様!」
兄は両腕を広げて立っていた。私はそのまま飛びつき、兄の胸に顔を埋めた。
兄の腕が私を抱きしめ、くるりと回った。足が地面から離れ、宙に浮く感覚。幼い頃、いつも帰宅した兄は私を抱っこしてくれた。今日あったことをひとしきり、玄関ホールで抱っこした状態で話すのが我が家のいつもの光景だった。
早くに両親を亡くし、家督を引き継いだ兄。いつも寂しく家で、兄の帰りを待つ妹の寂しさを取り除くために始めた抱っこは、いつしか当たり前になっていた。
「八年でこんなに可愛くなって——本当に、お前は俺の自慢の妹だ」
兄の声が、頭上から降ってくる。私は顔を上げ、兄の顔を見た。日に焼けた肌。精悍な顔つき。戦場で鍛えられた、たくましい身体にアリアは驚いた。
「お兄様。ご無事で——本当に、本当に良かった」
涙が溢れてきた。兄の胸に顔を埋めたまま、声を震わせる。兄の手が、優しく私の背中を撫でてくれた。
「泣くな、アリア。もう大丈夫だ。兄様は帰ってきた」
兄の声が、耳元で響いた。温かく、安心感に満ちた声。私は涙を拭い、顔を上げると兄の肩越しに——見えた。
玄関の影に立つ、長身の男性を。黒に近い濃紺の髪が、光を反射して鈍く光っている。鋭く整った顔立ちは、八年前よりもさらに精悍になっていた。兄と同様に日に焼けた肌に、引き締まった身体つきは八年前よりもずっと大人の男性になっていた。
礼服に身を包んだ姿は、圧倒的な存在感を放っていた。
灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。
(ダリウス――)
心臓が、激しく跳ねた。呼吸が止まりそうになる。八年ぶりに見るダリウスは、記憶の中の彼よりも、ずっと——ずっと格好良くなっていた。
「なあ? 兄様が帰ってきたんだが?」
兄の声が聞こえたが、私はダリウスから視線を外せなかった。彼の瞳に惹きつけられて、私を捉えて離さない。八年前と同じ……いや、もっと——熱い視線だった。まるで、私の中を見透かすような、鋭い眼差しで胸が高鳴った。
「アリア」
兄の声に、私ははっと我に返った。兄は不機嫌そうな顔をしながら、私を地面に下ろした。
「おかえりなさい、兄様」
慌てて視線を兄に戻し、笑顔を作る。頬が熱い。きっと顔が真っ赤になっていた。兄は私の顔を覗き込み、首を傾げた。
「顔が赤いぞ? 興奮しすぎたか?」
「少し、はしゃぎすぎてしまいました」
私は視線を逸らした。心臓の鼓動が、うるさいほど響いている。ダリウスの視線を、まだ背中に感じた。
「覚えているか? よくうちに来ていたダリウスだぞ」
兄が振り返り、ダリウスを手招きした。ダリウスが一歩前に出る。私は深々とお辞儀をした。
「ご無事で何よりです、ダリウス」
私の声は、震えていた。ダリウス、と呼ぶのは初めてだった。幼い頃は、ダリウスお兄様、と呼んでいた。もう、そんな風に呼べる関係ではないのはわかっている。
「久しぶりだな、アリア様」
ダリウスの低い声が、耳に届いた。心臓が、また激しく跳ねる。彼の声は、八年前よりも低く、落ち着いていた。大人の男性の声。私は顔を上げ、彼を見た。
灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。無表情な顔のまま、けれど瞳の奥には何かが燻っているように見えた。
私は視線を逸らせなかった。まるで、彼の瞳に吸い込まれていくような感覚だ。
「お転婆な妹が、慎ましやかなレディになっている……!」
兄が目頭を押さえた。私ははっとして、兄を見た。兄の目には、涙が浮かんでいた。
「ちょっとお兄様!」
私は兄の腕を小突いた。兄が大袈裟に痛がる仕草をする。私は笑ってしまった。八年経っても、兄は変わっていなかった。
ふと視線を感じて、ダリウスを見た。彼の口元が、わずかに緩んでいた。
笑っている——ダリウスが、笑っている。寡黙で無表情だった彼が、小さく微笑んでいた。私の胸が、じんわりと温かくなった。
「兄様たちは少し難しい話をするから、メイドにお茶の用意をしてほしいと伝えておくれ」
兄が私の頭を撫でた。私は頷き、二人を見送った。兄とダリウスは、奥の部屋へ向かって歩いていく。
ダリウスの背中は、八年前よりもずっと大きく、頼もしかった。戦場で鍛えられた、戦士の背中。肩幅は広く、姿勢は真っ直ぐで、歩く姿には威厳があった。
胸が、きゅっと締め付けられた。苦しい。会いたかったのに、会えて嬉しいはずなのに、胸が痛かった。
二人の姿が廊下の奥に消えても、私はその場に立ち尽くした。メイドに指示を出さなければならないのに、足が動かない。心臓が痛いほど鳴っていて、呼吸が浅くなっていた。
なんと身体を動かすと、メイドにお茶の用意を指示をして、自室に戻った。
私はベッドに座ると両手で顔を覆い、深く息を吸い込む。落ち着かなければ、心臓の鼓動が収まりそうにない。
「ダリウス……」
名前を呟くと、胸の奥が熱くなった。
彼の灰青色の瞳。鋭い眉。日に焼けた肌。引き締まった身体。低い声。
八年の歳月が、彼をさらに魅力的な男性していた。戦場で名を馳せた英雄は、圧倒的な存在感を放っていた。
鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。淡いアイボリーのドレスを着た、十七歳の私。確かに成長した。幼い頃よりも、ずっと大人びた顔つきになったが、彼の隣に立つのに相応しいかと問われたら――相応しいとは言えない。
ダリウスが見ている世界には、もっと美しく、洗練された女性たちがたくさんいるはずだった。私なんかよりも、ずっと彼にふさわしい人たちが、たくさんいる。
「あの日の誓いが、ごっこ遊びじゃなければいいのに」
思わず願望が声になって口から漏れ出てしまう。
ダリウスに告白され、プロポーズされたい――でも、年が離れてる私は、ダリウスに女性として見てもらえるのだろうか。
窓の外を眺めると青空が広がり、雲が流れている。庭の薔薇が、風に揺れていた。
私はベッドに横になり、枕に顔を埋めた。ダリウスの顔が、瞼の裏に浮かんでくる。灰青色の瞳。真剣な眼差し。私を見つめる、熱い視線。
心臓が、また激しく鳴り始めた。苦しくて、切なくて、愛おしくて——。
「ダリウス……」
もう一度、名前を呟いて私は瞼を閉じた。
戦争終結の知らせが届いたのは、初夏の朝だった。 使用人が興奮した様子で駆け込んできて、兄からの手紙を持ってきた。私は震える手で封を開け、几帳面な兄の文字を目で追った。 戦が終わった。我が国の勝利。兄は無事で、近日中に帰還する。そう書かれた文面を読み終えると、涙が溢れて止まらなくなった。 八年間、ずっと待っていた。毎晩祈り続けた。兄とダリウスが無事に帰ってきますように、と。 戦場からの便りは少なく、時折届く手紙だけが、二人の生存を知らせる唯一の証だった。夜、ベッドの中で兄からの手紙を読み返しながら、涙を流した日々が何度もあった。 手紙を胸に抱きしめると、心臓が激しく鼓動を打った。兄が帰ってくる。ダリウスも——帰ってくる。 八年ぶりに、彼に会える。幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。灰青色の瞳。低い声。「一生を添い遂げてください」と囁いた、あの日。 私は窓辺に立ち、庭を眺めた。薔薇が満開に咲き誇り、甘い香りを放っている。 八年前、あの日は春だった。中庭で剣の稽古をする兄とダリウスを、私は夢中で眺めていた。ダリウスが私の手の甲にキスをした時、心臓が壊れそうなほど鳴っていた。あの感覚は、今でも鮮明に覚えている。 鏡の前に立ち、自分の姿を映してみた。十七歳になった私は、いくらか大人になっている――と思いたい。 背は伸び、身体つきも丸みを帯びてきた。淡い金髪は腰まで伸び、緩やかなウェーブを描いている。淑女のような妖艶な魅力はまだないが、そこそこ女性らしくなってはいるはず……。 瞳の色は、淡い緑色に金が混じっていた。明るい光を吸い込むような色だと、兄はよく言っていた。 鏡に映る顔を見つめながら、不安が込み上げてきた。 私は頬を両手で挟んだ。顔が熱い。会いたい。ダリウスに会いたい。八年間、ずっと心の中で想い続けていた人。初恋の人。 幼い頃の淡い恋心は、時が経っても消えることはなかった。むしろ、会えない時間が長くなるほど、想いは強くなっていった気がする。 ダリウスに会った時、恥ずかしくないようにしなくちゃね。 ◇◇◇ 兄の帰還予定日の朝、屋敷中が慌ただしく動き回っていた。メイドたちは床を磨き、窓を拭き、花を飾り、料理の準備に追われていた。執事は玄関ホールの掃除を監督し、庭師は庭の手入れを念入りに行っていた。屋敷全体が、兄の帰還を祝う準備で
春の午後の光が、中庭いっぱいに降り注いでいた。花壇に植えられた薔薇が淡い桃色の花弁を開き、甘い香りを風に乗せている。芝生の上には、剣を持った二人の青年が立っていた。兄と、兄の親友であるダリウス。 二人とも汗で額を光らせながら、剣の稽古に励んでいた。金属がぶつかり合う音が、規則的に響いている。私はベンチに座り、膝の上で人形を抱きしめながら、二人の動きを眺めていた。 九歳の私にとって、兄の剣の稽古を見学するのは何よりも楽しい時間だった。兄は優雅に剣を振るい、ダリウスは力強く踏み込む。二人の動きは美しく、まるで踊っているようにさえ見えた。特に、ダリウスの剣捌きは見事だった。黒に近い濃紺の髪が汗で額に張り付き、灰青色の瞳が鋭く光る。彼の真剣な表情を見ているだけで、胸が高鳴った。「休憩にしよう」 兄が剣を下ろし、額の汗を拭った。ダリウスも頷き、二人は芝生に腰を下ろした。メイドが運んできた冷たい水を、二人は喉を鳴らして飲み干す。私は人形を抱えたまま、二人の元へと駆け寄った。「兄様、ダリウスお兄様、すごく格好良かったわ」 兄が笑いながら私の頭を撫でた。大きな手が、優しく髪を撫でていく。「ありがとう、アリア。今日も見ていてくれたのか」「もちろんよ。二人とも、本物の騎士様みたい」 ダリウスが私を見た。無表情な顔のまま、小さく頷く。彼はいつも無口で、あまり笑わなかった。兄とは対照的に、言葉少なで、何を考えているのか分かりにくい。けれど私は、ダリウスが嫌いではなかった。むしろ、彼の静かな佇まいに惹かれていた。「ねえ、お姫様ごっこをしましょう」 私は膝の上の人形を高く掲げた。兄が苦笑する。「またか。アリアは本当にお姫様ごっこが好きだな」「だって楽しいんですもの。ねえ、今日は特別よ。二人で勝負して、勝った方がお姫様に結婚を誓うの」 兄の顔が、少し困ったように歪んだ。「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」「いいじゃない。私、ずっと楽しみにしていたのよ」 私は頬を膨らませた。兄は溜息をつきながらも、立ち上がった。「分かった、分かった。ダリウス、付き合ってやってくれ」 ダリウスが無言で立ち上がる。彼は剣を拾い上げると、兄と向かい合った。二人の間に、緊張した空気が流れる。私は胸を高鳴らせながら、ベンチに座り直した。人形を膝の上に置き、両手を
「あのときの求愛の言葉は、有効かしら」 ベッドにいる私は、小さく呟いた。部屋を出て行こうとしているダリウスの足が止まる。 窓の外で光る月で照らされているダリウスの目が泳いだ。「あのとき……求愛?」 ダリウスの声が、僅かに戸惑っているように聞こえた。 ああ、彼は覚えてない――。 あれは、ごっこ遊びに過ぎない。記憶に残っている方がおかしい。 わがままな友人の妹に、付き合ってくれただけ。あの後、ダリウスは屋敷に来なくなったのが何よりもの証拠だ。 私のせいで、兄とダリウスの時間を奪ってしまった。「一生添い遂げるって、言ってくれた」 私は顔を上げて、ダリウスを見つめた。彼の瞳が、僅かに見開かれる。そして——私は、彼の唇に自分の唇を重ねた。 触れるだけの、軽いキス。ダリウスの唇は、温かかった。柔らかく、優しい感触。心臓が破裂しそうなくらい、激しく打っている。顔が熱く身体中が、火照っていた。 我に返った私は、顔を真っ赤にして布団に潜り込んだ。(なってことを! 私はしてしまったんだ) 嫉妬に狂って、こんなことをしてしまった。恥ずかしさと、後悔と、どうしようもない感情が、胸の中で渦巻いている。 布団の中で、私は身体を丸めた。このまま、消えてしまいたい。心臓が早鐘を打ち、息が荒くなる。 布団の中に隠れたはずなのに、あっという間に布が剥がれた。ダリウスの手が、私の手を掴む。「アリア……その気にさせておいて、逃げるのはずるい」 低い声が、耳元で響いた。 ダリウスの指が、私の指と絡み合う。手が繋がれた。温かい手。大きな手。彼の手が、私の手を包み込んだと思ったら、両手をベッドに押し付けられて、身動きを封じられる。(――え?) ダリウスの顔が、近づいてきた。彼の唇が、再び私の唇に重ねられる。今度は、触れるだけではなかった。深く、濃厚なキス。舌が唇をなぞり、口を開けるように促してくる。 口を開くと、舌が中へと侵入してきた。舌が絡み合い、甘い吐息が漏れる。息が苦しい。頭の中が、真っ白になっていった。 だんだんとキスが深まっていく。ダリウスが私の口の中を探るように、舌を動かしてきた。 吸われて舐められ、身体が熱くなる。彼の唾液が、私の口の中に流れ込んでくる。濃密で、甘い味がした。 ダリウスの手が、繋いでいた手を離して、私の身体を撫で始めた。ドレスの