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第二話「幼い日の誓い」

Auteur: ひなた翠
last update Dernière mise à jour: 2026-01-16 15:53:16

 春の午後の光が、中庭いっぱいに降り注いでいた。花壇に植えられた薔薇が淡い桃色の花弁を開き、甘い香りを風に乗せている。芝生の上には、剣を持った二人の青年が立っていた。兄と、兄の親友であるダリウス。

 二人とも汗で額を光らせながら、剣の稽古に励んでいた。金属がぶつかり合う音が、規則的に響いている。私はベンチに座り、膝の上で人形を抱きしめながら、二人の動きを眺めていた。

 九歳の私にとって、兄の剣の稽古を見学するのは何よりも楽しい時間だった。兄は優雅に剣を振るい、ダリウスは力強く踏み込む。二人の動きは美しく、まるで踊っているようにさえ見えた。特に、ダリウスの剣捌きは見事だった。黒に近い濃紺の髪が汗で額に張り付き、灰青色の瞳が鋭く光る。彼の真剣な表情を見ているだけで、胸が高鳴った。

「休憩にしよう」

 兄が剣を下ろし、額の汗を拭った。ダリウスも頷き、二人は芝生に腰を下ろした。メイドが運んできた冷たい水を、二人は喉を鳴らして飲み干す。私は人形を抱えたまま、二人の元へと駆け寄った。

「兄様、ダリウスお兄様、すごく格好良かったわ」

 兄が笑いながら私の頭を撫でた。大きな手が、優しく髪を撫でていく。

「ありがとう、アリア。今日も見ていてくれたのか」

「もちろんよ。二人とも、本物の騎士様みたい」

 ダリウスが私を見た。無表情な顔のまま、小さく頷く。彼はいつも無口で、あまり笑わなかった。兄とは対照的に、言葉少なで、何を考えているのか分かりにくい。けれど私は、ダリウスが嫌いではなかった。むしろ、彼の静かな佇まいに惹かれていた。

「ねえ、お姫様ごっこをしましょう」

 私は膝の上の人形を高く掲げた。兄が苦笑する。

「またか。アリアは本当にお姫様ごっこが好きだな」

「だって楽しいんですもの。ねえ、今日は特別よ。二人で勝負して、勝った方がお姫様に結婚を誓うの」

 兄の顔が、少し困ったように歪んだ。

「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」

「いいじゃない。私、ずっと楽しみにしていたのよ」

 私は頬を膨らませた。兄は溜息をつきながらも、立ち上がった。

「分かった、分かった。ダリウス、付き合ってやってくれ」

 ダリウスが無言で立ち上がる。彼は剣を拾い上げると、兄と向かい合った。二人の間に、緊張した空気が流れる。私は胸を高鳴らせながら、ベンチに座り直した。人形を膝の上に置き、両手を握りしめる。

「始めるぞ」

 兄の声と同時に、二人が動いた。剣がぶつかり合い、火花が散る。さっきまでの稽古とは違い、二人の動きには本気の迫力があった。兄が素早く剣を繰り出し、ダリウスがそれを受け止める。金属音が、中庭に響き渡った。

 私は息を呑んで見守った。兄の剣が弧を描き、ダリウスの脇腹を狙う。ダリウスは半歩下がり、剣でそれを弾いた。次の瞬間、ダリウスの剣が兄の喉元に迫る。兄は慌てて身を引いたが、ダリウスの剣先が兄の胸元に触れていた。

「勝負あり」

 ダリウスの低い声が響いた。兄は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに笑顔を作った。

「参ったな。やられたよ」

 私は立ち上がり、拍手をした。

「ダリウスお兄様の勝ち!」

 ダリウスが私の方を向いた。灰青色の瞳が、じっと私を見つめる。私は人形を抱きしめたまま、彼の前に立った。

「姫に誓って」

 私が言うと、兄が慌てて口を挟んだ。

「お兄様がしてやるから。こんな茶番にダリウスを巻き込むな」

「じゃあ兄様が勝てば良かったじゃない」

 私が言い返すと、ダリウスが静かに笑った。彼が笑うのを見るのは、珍しかった。

「ごもっともな意見だな」

 兄がダリウスの袖を引いた。

「お前まで、妹のごっこ遊びに付き合う必要はないんだ」

「約束だから」

 ダリウスは兄の手を振り払い、私の前に膝をついた。彼の顔が、私と同じ高さになる。至近距離で見る彼の顔は、汗で濡れて艶やかだった。整った顔立ちに、鋭い眉。無表情だった顔に、わずかな笑みが浮かんでいた。

 ダリウスが私の手を取った。大きな手が、私の小さな手を包み込む。温かい手だった。彼の手は剣の稽古で硬くなっており、ところどころに豆ができていた。私は心臓が早鐘を打つのを感じた。

「憎きライバルに勝ちました」

 ダリウスの声が、静かに響いた。低く、落ち着いた声。

「姫、どうか俺と一生を添い遂げてください」

 彼の唇が、私の手の甲に触れた。柔らかく、温かい感触。私は息が止まりそうになった。彼の唇が手の甲から離れると、熱が残っていた。私は顔が熱くなるのを感じた。

 ダリウスの灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。無表情な顔のまま、けれど瞳の奥には何かが燃えているように見えた。私は、彼の視線から目を逸らせなかった。ごっこ遊びのはずなのに、彼の目はあまりにも真剣だった。まるで本当に、私に求愛しているかのような——。

「もういいだろ。邪魔するな」

 兄の声が、私たちの間に割り込んできた。兄はダリウスの肩を掴み、立ち上がらせた。

「部屋に戻るぞ、アリア」

 兄の声は、いつもより低かった。私は頷き、ダリウスからゆっくりと離れた。振り返ると、ダリウスはまだ私を見ていた。彼の表情は、また無表情に戻っていた。

     ◇◇◇

 あの日以来、ダリウスは屋敷に来なくなった。

 兄が彼を連れてこなくなり、私のごっこ遊びに付き合ってくれるのは兄だけになった。兄に理由を尋ねても、はぐらかされるばかりだった。

 私は、自分のせいだと思った。ごっこ遊びで無理を言ったから、ダリウスは来なくなったのだと。

(私はダリウスお兄様に嫌われてしまったのね)

 数ヶ月後、隣国との戦が激化した。兄も、ダリウスも、戦場へ向かった。屋敷の門の前で、私は兄に抱きついた。

「必ず帰ってきてね、兄様」

「ああ、約束する」

 兄が私の頭を撫でた。私は涙をこらえながら、兄の後ろに立つダリウスを見た。彼は馬にまたがり、じっと前を見つめていた。

(私を見ている?)

 私は彼に嫌われたわけじゃない?

 灰青色の瞳が、私を捉えて離さない。

「戦場から必ず帰ってくる」

 ダリウスの声が、静かに響いた。彼の視線は、真っすぐ——私に向けられていた。私が小さく頷くと彼の唇が、わずかに動いて微笑んでくれた。

 馬が歩き出し、二人の姿が遠ざかっていく。私は手を振り続けた。涙が頬を伝い、止まらなかった。

     ◇◇◇

 あれから八年の歳月が過ぎた。長い戦争に、ようやく終止符が打たれた。我が国の勝利だった。兄もダリウスも、戦の英雄として名を馳せた。二人が帰ってくる。兄から手紙が届いた時、私は涙が溢れて止まらなかった。

 九歳だった私は、十七歳になった。兄とダリウスは、二十六歳。

 鏡に映る自分を見つめると、幼かった頃の面影は残っているものの、少しは大人びた顔になっていた。淡い金髪は腰まで伸び、身体つきも丸みを帯びてきた。けれど、心の中にはまだ——あの日の記憶が、鮮明に残っていた。

 ダリウスの手の甲に落としたキス。

 彼の真剣な眼差し。

 「一生を添い遂げてください」

 あれは、ごっこ遊び。けれど私は、あの日からずっと——ダリウスを想い続けていた。胸の奥に仕舞い込んだ、淡い恋心だ。八年経っても、色褪せることはなかった。

 窓の外を眺めながら、私は胸に手を当てた。心臓が、静かに鼓動を打っている。明日、兄とダリウスが帰ってくる。彼は、私を覚えているだろうか。

 窓の外で、鳥が囀っている。春の風が、レースのカーテンを揺らしていた。

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