Se connecter春の午後の光が、中庭いっぱいに降り注いでいた。花壇に植えられた薔薇が淡い桃色の花弁を開き、甘い香りを風に乗せている。芝生の上には、剣を持った二人の青年が立っていた。兄と、兄の親友であるダリウス。
二人とも汗で額を光らせながら、剣の稽古に励んでいた。金属がぶつかり合う音が、規則的に響いている。私はベンチに座り、膝の上で人形を抱きしめながら、二人の動きを眺めていた。
九歳の私にとって、兄の剣の稽古を見学するのは何よりも楽しい時間だった。兄は優雅に剣を振るい、ダリウスは力強く踏み込む。二人の動きは美しく、まるで踊っているようにさえ見えた。特に、ダリウスの剣捌きは見事だった。黒に近い濃紺の髪が汗で額に張り付き、灰青色の瞳が鋭く光る。彼の真剣な表情を見ているだけで、胸が高鳴った。
「休憩にしよう」
兄が剣を下ろし、額の汗を拭った。ダリウスも頷き、二人は芝生に腰を下ろした。メイドが運んできた冷たい水を、二人は喉を鳴らして飲み干す。私は人形を抱えたまま、二人の元へと駆け寄った。
「兄様、ダリウスお兄様、すごく格好良かったわ」
兄が笑いながら私の頭を撫でた。大きな手が、優しく髪を撫でていく。
「ありがとう、アリア。今日も見ていてくれたのか」
「もちろんよ。二人とも、本物の騎士様みたい」
ダリウスが私を見た。無表情な顔のまま、小さく頷く。彼はいつも無口で、あまり笑わなかった。兄とは対照的に、言葉少なで、何を考えているのか分かりにくい。けれど私は、ダリウスが嫌いではなかった。むしろ、彼の静かな佇まいに惹かれていた。
「ねえ、お姫様ごっこをしましょう」
私は膝の上の人形を高く掲げた。兄が苦笑する。
「またか。アリアは本当にお姫様ごっこが好きだな」
「だって楽しいんですもの。ねえ、今日は特別よ。二人で勝負して、勝った方がお姫様に結婚を誓うの」
兄の顔が、少し困ったように歪んだ。
「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」
「いいじゃない。私、ずっと楽しみにしていたのよ」
私は頬を膨らませた。兄は溜息をつきながらも、立ち上がった。
「分かった、分かった。ダリウス、付き合ってやってくれ」
ダリウスが無言で立ち上がる。彼は剣を拾い上げると、兄と向かい合った。二人の間に、緊張した空気が流れる。私は胸を高鳴らせながら、ベンチに座り直した。人形を膝の上に置き、両手を握りしめる。
「始めるぞ」
兄の声と同時に、二人が動いた。剣がぶつかり合い、火花が散る。さっきまでの稽古とは違い、二人の動きには本気の迫力があった。兄が素早く剣を繰り出し、ダリウスがそれを受け止める。金属音が、中庭に響き渡った。
私は息を呑んで見守った。兄の剣が弧を描き、ダリウスの脇腹を狙う。ダリウスは半歩下がり、剣でそれを弾いた。次の瞬間、ダリウスの剣が兄の喉元に迫る。兄は慌てて身を引いたが、ダリウスの剣先が兄の胸元に触れていた。
「勝負あり」
ダリウスの低い声が響いた。兄は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに笑顔を作った。
「参ったな。やられたよ」
私は立ち上がり、拍手をした。
「ダリウスお兄様の勝ち!」
ダリウスが私の方を向いた。灰青色の瞳が、じっと私を見つめる。私は人形を抱きしめたまま、彼の前に立った。
「姫に誓って」
私が言うと、兄が慌てて口を挟んだ。
「お兄様がしてやるから。こんな茶番にダリウスを巻き込むな」
「じゃあ兄様が勝てば良かったじゃない」
私が言い返すと、ダリウスが静かに笑った。彼が笑うのを見るのは、珍しかった。
「ごもっともな意見だな」
兄がダリウスの袖を引いた。
「お前まで、妹のごっこ遊びに付き合う必要はないんだ」
「約束だから」
ダリウスは兄の手を振り払い、私の前に膝をついた。彼の顔が、私と同じ高さになる。至近距離で見る彼の顔は、汗で濡れて艶やかだった。整った顔立ちに、鋭い眉。無表情だった顔に、わずかな笑みが浮かんでいた。
ダリウスが私の手を取った。大きな手が、私の小さな手を包み込む。温かい手だった。彼の手は剣の稽古で硬くなっており、ところどころに豆ができていた。私は心臓が早鐘を打つのを感じた。
「憎きライバルに勝ちました」
ダリウスの声が、静かに響いた。低く、落ち着いた声。
「姫、どうか俺と一生を添い遂げてください」
彼の唇が、私の手の甲に触れた。柔らかく、温かい感触。私は息が止まりそうになった。彼の唇が手の甲から離れると、熱が残っていた。私は顔が熱くなるのを感じた。
ダリウスの灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。無表情な顔のまま、けれど瞳の奥には何かが燃えているように見えた。私は、彼の視線から目を逸らせなかった。ごっこ遊びのはずなのに、彼の目はあまりにも真剣だった。まるで本当に、私に求愛しているかのような——。
「もういいだろ。邪魔するな」
兄の声が、私たちの間に割り込んできた。兄はダリウスの肩を掴み、立ち上がらせた。
「部屋に戻るぞ、アリア」
兄の声は、いつもより低かった。私は頷き、ダリウスからゆっくりと離れた。振り返ると、ダリウスはまだ私を見ていた。彼の表情は、また無表情に戻っていた。
◇◇◇
あの日以来、ダリウスは屋敷に来なくなった。
兄が彼を連れてこなくなり、私のごっこ遊びに付き合ってくれるのは兄だけになった。兄に理由を尋ねても、はぐらかされるばかりだった。
私は、自分のせいだと思った。ごっこ遊びで無理を言ったから、ダリウスは来なくなったのだと。
(私はダリウスお兄様に嫌われてしまったのね)
数ヶ月後、隣国との戦が激化した。兄も、ダリウスも、戦場へ向かった。屋敷の門の前で、私は兄に抱きついた。
「必ず帰ってきてね、兄様」
「ああ、約束する」
兄が私の頭を撫でた。私は涙をこらえながら、兄の後ろに立つダリウスを見た。彼は馬にまたがり、じっと前を見つめていた。
(私を見ている?)
私は彼に嫌われたわけじゃない?
灰青色の瞳が、私を捉えて離さない。
「戦場から必ず帰ってくる」
ダリウスの声が、静かに響いた。彼の視線は、真っすぐ——私に向けられていた。私が小さく頷くと彼の唇が、わずかに動いて微笑んでくれた。
馬が歩き出し、二人の姿が遠ざかっていく。私は手を振り続けた。涙が頬を伝い、止まらなかった。
◇◇◇
あれから八年の歳月が過ぎた。長い戦争に、ようやく終止符が打たれた。我が国の勝利だった。兄もダリウスも、戦の英雄として名を馳せた。二人が帰ってくる。兄から手紙が届いた時、私は涙が溢れて止まらなかった。
九歳だった私は、十七歳になった。兄とダリウスは、二十六歳。
鏡に映る自分を見つめると、幼かった頃の面影は残っているものの、少しは大人びた顔になっていた。淡い金髪は腰まで伸び、身体つきも丸みを帯びてきた。けれど、心の中にはまだ——あの日の記憶が、鮮明に残っていた。
ダリウスの手の甲に落としたキス。
彼の真剣な眼差し。
「一生を添い遂げてください」
あれは、ごっこ遊び。けれど私は、あの日からずっと——ダリウスを想い続けていた。胸の奥に仕舞い込んだ、淡い恋心だ。八年経っても、色褪せることはなかった。
窓の外を眺めながら、私は胸に手を当てた。心臓が、静かに鼓動を打っている。明日、兄とダリウスが帰ってくる。彼は、私を覚えているだろうか。
窓の外で、鳥が囀っている。春の風が、レースのカーテンを揺らしていた。
春の午後、エリオット伯爵家の中庭で剣の稽古をしていた。カレルと木剣を交え、基本の型を確認する。日差しは柔らかく、風が心地よく頬を撫でていく。「もう一本行くか」 カレルが木剣を構え直した。俺も構えを取る。互いに視線を交わし、間合いを測る。「お兄様、ダリウスお兄様!」 甲高い声が聞こえた。振り返ると、アリアが中庭に駆け込んできた。淡い金髪が風に揺れ、大きな淡緑色の瞳が輝いている。白いドレスの裾を翻し、息を切らしながら俺たちに近づいてくる。 九歳になったアリアはとても可愛い。心臓が、不規則に跳ねた。「お姫様ごっこしましょう!」 アリアが無邪気に笑う。俺とカレルを交互に見上げ、期待に満ちた瞳を向けてくる。「アリア、今は剣の稽古中なんだ」 カレルが苦笑しながら妹の頭を撫でた。アリアは頬を膨らませる。「いいじゃない。少しだけ」「仕方ないな」 カレルが俺を見た。俺は頷く。アリアの願いを断ることなど、できるはずがなかった。「それじゃあ、お姫様に結婚を誓うのは、勝った方よ!」 アリアが無邪気に提案した内容に俺の心臓が激しく打った。結婚を誓う。「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」 カレルが笑いながら言った。ごっこ遊び。子どもの戯れ。カレルにとっては、妹を喜ばせるための遊びでしかない。 だが俺は違う。 木剣を構え直した。視線をカレルに向ける。今日は負けられない。絶対に勝つ。アリアに誓いを立てる権利を、手に入れる。 いつもなら、ぎりぎりのところでカレルに勝利を譲っていた。友人の面子を潰さないように。兄として妹の前で格好をつけさせてやるために。俺が本気を出せば勝てる相手だと分かっていたが、それを表に出すことはなかった。 でも今日は違う。 カレルが剣を振るってくる。俺はそれを受け流し、反撃に転じる。速い。いつもより速い動き。カレルの目が見開かれた。「おい、ダリウス」 カレルが驚いた声を上げる。俺は答えない。ただ剣を振るい続ける。カレルの剣を弾き、隙を作る。 剣先が、カレルの首元に触れた。 勝った。「やったぁ! ダリウスお兄様が勝った!」 アリアの歓声が響く。俺は木剣を下ろし、膝をついた。アリアの前で、片膝をつく。 小さな手を取った。柔らかく、温かい手だった。華奢で、儚い。 手の甲に、唇を寄せた。「憎きライバルに
教会の扉が開く音がした。重厚な木の扉が、ゆっくりと左右に開いていく。中からオルガンの音色が聞こえてきた。荘厳で、美しい旋律。胸が高鳴り、心臓が激しく打ち始める。「緊張してるか?」 兄様が小声で聞いてきた。私の左腕に、兄様の右腕が添えられている。礼服姿の兄様は、いつもより凛々しく見えた。「――はい」 私は震える声で答えた。手が冷たく、膝が震えている。深呼吸をしても、緊張は解けなかった。「大丈夫。アリアは綺麗だ」 兄様が優しく微笑んだ。温かい眼差しが、私を包み込む。その笑顔に、少しだけ緊張が和らいだ。 バージンロードが、視界に広がった。真っ白な絨毯が、祭壇まで続いている。両脇には花が飾られ、甘い香りが漂っていた。参列者たちが座席に座り、私たちを見ている。 オルガンの音色が大きくなる。入場の合図だった。私は兄様と共に、一歩踏み出した。 白いウェディングドレスが揺れる。裾が床に触れ、レースが柔らかく広がる。胸元には小さな真珠が縫い付けられ、光を反射してきらきらと輝いていた。長いベールが背中から流れ、歩くたびに揺れる。 一歩、また一歩。ゆっくりと前に進む。参列者たちの視線が注がれているのを感じたが、私の目は祭壇だけを見ていた。 祭壇の前に、ダリウスが立っていた。 漆黒の礼服に身を包んだ姿は、圧倒的だった。濃紺の髪は丁寧に整えられ、鋭く整った横顔が浮かび上がる。胸には勲章がつけられ、侯爵としての威厳が漂っていた。 ダリウスの灰青色の瞳が、私を捉えていた。じっと、真っ直ぐに。私だけを見つめている。愛情が溢れている瞳。優しさと、喜びと、切なさが混ざり合った眼差し。 胸が熱くなった。涙が溢れそうになって、強く瞬きをする。 祭壇の前にたどり着いた。兄様が立ち止まり、私の手を取る。そして、ダリウスに手渡してくれた。「頼んだぞ」 兄様が小声で言った。ダリウスは頷き、私の手を握る。大きく温かい手。安心感が広がった。 兄様が席に戻り、私とダリウスだけが祭壇の前に残された。司祭が前に立ち、聖書を開く。「本日、ここに集いし皆様の前で、この二人は永遠の誓いを交わします」 司祭の声が、教会中に響いた。私は緊張で身体が強張っていたが、ダリウスの手が優しく握り返してくれる。「ダリウス・オルフェイン、あなたは、アリア・エリオットを妻とし、良き時も悪き時も、富める
朝日が眩しかった。窓から差し込む光が、目を刺すように感じられる。私は身体を起こし、ベッドから降りた。全身が痛い。昨夜、何度も激しく求められた痕が、身体のあちこちに残っていた。 ドレスに着替える。首元が広く開いていて、キスマークが隠しきれない。 ダリウスが寝室に入ってきた。整った身なりで、昨夜の激しさが嘘のように落ち着いた様子だった。「帰るのか」 低い声で聞いてくる。私は頷いた。「帰らないと、お兄様が心配します」 今まで、朝帰りをするのは兄様だった。舞踏会やパーティから帰らず、翌朝に上機嫌で戻ってくる。私はいつも、呆れながら出迎えていた。 今日は違う。私が朝帰りをする。初めての朝帰り――。 馬車が用意され、私たちは屋敷を出た。揺れる馬車の中で、ダリウスが私の手を握ってくれる。大きく温かい手。安心感が広がった。 私の屋敷に近づいてくると、胸が騒いだ。兄様に何と言えばいいのか。朝帰りを叱られるのは分かっている。「屋敷の前で大丈夫です」 私はダリウスに告げた。玄関まで一緒だと、兄様に見られてしまう。ダリウスは首を横に振った。「玄関ホールまで送る」 彼の声は決然としていた。「でも、兄様がいたら」「構わない」 ダリウスの灰青色の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。迷いのない瞳に私はドキリと胸が高鳴る。「もしかしたらお兄様も朝帰りでいないかもしれません」 兄様は昨夜の舞踏会で、綺麗な貴婦人と一緒だった。私よりも帰りが遅い可能性はある。 馬車が屋敷の前に止まった。御者が扉を開け、私は馬車から降りる。玄関に向かおうとして、足が止まった。 玄関前に、我が家の馬車が停まっていた。 心臓が冷たくなった。兄様が帰っている。今日に限って、早く帰ってきている。「まずい……かもしれない」 小さく呟いた。ダリウスが私の肩に手を置く。「大丈夫だ」 彼の声が、背中を押してくれる。私は深く息を吸い、玄関の扉に手をかけた。 扉を開けると、玄関ホールに兄様が立っていた。 腕を組み、仁王立ちしている。意外と髪は整っており、礼服姿のままだった。顔は怒りで紅潮し、眉間には深い皺が刻まれている。(ええ? もしかして昨日に限って真っ直ぐ帰ってきていたの?) しかも怒っている。すごく怒っている。「兄様、ただいま帰りました」 私は震える声で挨拶した。兄様はじっと私を
馬車が止まった。ダリウスの屋敷に到着したのだ。窓の外には、見慣れた石造りの壁と、立派な門が見える。 身体がぐったりとして、力が入らなかった。馬車の中で一度頂点を迎え、全身の力が抜けてしまっている。ダリウスの胸にもたれかかったまま、私は浅い息をついていた。 ダリウスが自分の外套を取り、私の身体にかけてくれた。乱れたドレスを隠すように、丁寧に外套で包み込んでくれる。彼の匂いがして、安心感が広がった。 御者が扉を開ける。ダリウスは私を横抱きにしたまま、馬車から降りた。外套に包まれた私を、しっかりと抱きしめている。「ダリウス様、お帰りなさいませ」 使用人たちが玄関に並んでいた。皆、驚いた顔をしている。侯爵様が女性を抱いて帰ってきたのだから、当然だった。 ダリウスは何も言わずに、屋敷の中に入っていった。階段を上り、廊下を進む。使用人たちが後ろで囁き合う声が聞こえたが、ダリウスは気にする様子もなかった。 寝室の扉を開け、中に入る。扉が閉まると、外の音が遮断された。静かな部屋。大きなベッドと、暖炉の火だけが灯る空間。 ダリウスが私をベッドに降ろした。柔らかい感触が背中に伝わり、天蓋が視界を覆う。ダリウスが私の上に覆いかぶさってきた。「ダリウス」「アリア」 彼の瞳が、熱を帯びていた。灰青色の瞳が、月明かりを受けて鋼色に見える。欲望と愛情が混ざり合った、熱い眼差し。 外套が脱がされた。次にドレスの紐が解かれ、布が肌から剥がされていく。冷たい空気が肌に触れ、鳥肌が立った。ダリウスの手が、私の肌を撫でる。肩から腕へ、腕から腰へ。大きく温かい手が、私の身体をゆっくりとなぞっていく。「綺麗だ」 ダリウスが囁いた。低く、甘い声。「今日、会ったときから、このドレスを俺が脱がすって決めてた」 頬が熱くなった。会ったときって――。「会ったときって、授与式の前」 私が言いかけると、ダリウスが頷いた。「ああ、侯爵になれば、アリアを自由に抱ける。妻にもできる」 彼の手が私の頬を撫でる。「あのときの約束が叶えられると、喜びで震えた」 あのときの約束。九歳の時の、ごっこ遊びでの誓い。 忘れられていたかと思ったが、ダリウスは覚えていてくれた? キスの雨が降ってきた。首筋に、鎖骨に、胸元に。ダリウスの唇が、私の身体のあちこちにキスを落としていく。熱く、甘いキス。
中庭は静かだった。噴水の水音と、風に揺れる木々の葉擦れの音だけが聞こえる。月明かりが石畳を照らし、庭園の花々に淡い光を落としていた。人気はなく、私たち二人だけの空間だった。 ダリウスが私の手を離し、振り返った。月光に照らされた彼の顔は、険しかった。さっき廊下でキスをした時、少しだけ緩んでいた表情が、また元の厳しさに戻っている。「お話とはなんでしょうか」 私から先に口を開いた。沈黙が怖かった。彼が何を言うのか、怖かった。ダリウスの灰青色の瞳が、じっと私を見つめている。「さっき、楽しそうに男たちと話していた」 ダリウスの声は低く、抑制が効いていなかった。怒りが滲んでいる。私は息を呑んだ。「アリアが他の男のところに行くのは、許さない」 一歩近づいてきた。私は後ずさりしたが、背中が壁に当たった。逃げ場がない。ダリウスの手が伸びてきて、私の肩を掴んだ。大きく、力強い手。逃がさないと言わんばかりに、しっかりと掴まれている。 壁に背中を押し付けられる形になった。ダリウスの大きな身体が、私を覆う。月明かりが遮られ、彼の影の中に私がいた。 ダリウスの手が、私の身体を撫で始めた。肩から腕へ。腕から腰へ。ドレスの上から、彼の手が私の身体をなぞっていく。熱が伝わってきて、肌が粟立った。「っ」 声が漏れそうになって、唇を噛んだ。ダリウスの手が腰に留まり、強く掴まれる。「アリアは、俺のものだ」 低く、獣じみた声だった。普段の落ち着いた声とは違う。抑えきれない感情が滲み出ている声。 俺のもの。 その言葉が、胸に響いた。嬉しかった。彼にそう言ってもらえることが、嬉しかった。彼に求められていることが、幸せだった。 でも。 彼の新しい人生を、邪魔しくはない。「ごめんなさい」 私は震える声で言った。ダリウスの手が止まり、彼の瞳が鋭く私を見た。「でも、立場をわきまえないといけないって感じたんです」 涙が溢れそうになるのを堪えながら、言葉を続けた。ダリウスの眉間の皺が深くなる。「立場ってなに?」 彼の声がさらに低くなった。不機嫌さが増している。ダリウスの手が再び動き出し、執拗に私の身体を撫でていく。肩、腕、腰、背中。触れられるたびに、身体が熱くなる。「侯爵様に、伯爵家の娘が交流するなんてできません」 私はダリウスの胸を押した。広く硬い胸板。筋肉が盛り上が
柱の影で息を整えていると、足音が近づいてきた。「アリア、すごく可愛かったよ」 兄様の声だった。振り返ると、兄様が笑顔で立っていた。上機嫌な様子で、グラスを片手に持っている。「まさかあいつが、最初に踊るのがお前だとは思わなかった」 兄様は驚いた様子で首を傾げた。私は慌てて笑顔を作った。涙が溢れそうになるのを必死で堪え、何でもないふりをする。「見知った顔がいたから、誘っただけじゃないかしら」 誤魔化すように言った。兄様は顎に手を当て、少し考え込む様子を見せた。「そうか? けっこう親密な関係に見えたけどなあ」 兄様がにやりと笑う。心臓が跳ねた。親密。兄様にそう見えていたのだろうか。顔が熱くなり、視線を逸らした。「あいつの手、こう、腰と尻の間の微妙なところに触れててイヤらしかったぞ」 兄様が手で位置を示しながら言う。顔が一気に熱くなった。確かに、ダリウスの手は通常よりも低い位置にあったのは確かだ。腰と臀部の境目あたりを、大きな手で掴まれていた。 それを兄様に見られていたのは恥ずかしい。「お兄様の脳内がおかしいです! ただのダンスですよ。イヤらしいだなんて……」 私は顔を真っ赤にして言い返した。兄様は笑いながら、肩をすくめる。「でもなあ、アリアは本当に可愛いから、変な男に声をかけられないように、もう一人の兄として牽制をかけてくれたのかなあ」 兄様が会場のダリウスの方を見て、微笑ましそうに呟いた。「あいつらしいなあ」 もう一人の兄として。 その言葉が、胸に突き刺さった。痛い。息が苦しくなる。「あいつの家、男ばっかりで妹がいないから、アリアのことは本当に可愛がってたんだよな」 兄様が懐かしそうに笑う。幼い頃の思い出を振り返るような、穏やかな笑顔だった。私は苦笑するしかできなかった。 綺麗な女性が兄様に声をかけてきた。豊かな金髪を編み上げた、妖艶な笑みを浮かべる貴婦人。兄様は私に軽く手を振ると、貴婦人の腰に手を回してその場を離れていった。 会場の隅で、兄様が貴婦人を抱き寄せる姿が見えた。人目も憚らず、キスをしている。貴婦人も嬉しそうに兄様の胸に顔を埋めていた。(やっぱり兄様は軽い人だ) 妻になる女性を本気で探す気があるのだろうか。 呆れながらも、少しだけ羨ましかった。堂々と愛情を示せる関係。隠す必要のない、正当な関係。私とダリウ