LOGIN戦が終わり、王都の夜は再び華やかさを取り戻していた。あちこちで舞踏会が開かれ、若い貴族たちは伴侶探しに夢中になっている。
友人に誘われて、私も舞踏会に参加することにした。
部屋で支度を整える。侍女が選んでくれた淡い桜色のドレスに身を包み、髪を結い上げてもらう。
鏡台の前に座り、映る自分の姿を見つめた。
侍女が真珠の髪飾りを挿し、首元に細い銀の鎖をかけてくれる。
準備が整うと、私は馬車に乗って舞踏会の会場になっている友人の屋敷に急いだ。
馬車に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。夜空には月が浮かび、街は祝祭の明かりで輝いている。
八年ぶりの平和。長い戦が終わり、人々は再び笑顔を取り戻していた。馬車が会場に到着し、扉が開けられる。音楽が流れてくる。弦楽器の音色が、夜の空気に溶けていた。
友人の屋敷は既に大勢の人で賑わっていた。天井から下がる巨大なシャンデリアが、無数のクリスタルを煌めかせている。光が乱反射し、会場全体がまるで星空の下にあるかのように輝いていた。
華やかなドレスを纏った貴族の女性たちが、あちこちで談笑している。
宝石をちりばめた髪飾り、煌びやかなネックレス、色とりどりのドレス。男性たちは礼服に身を包み、女性たちに声をかけていた。
祝祭の空気が、会場を満たしている。笑い声、音楽、グラスが触れ合う音。全てが、戦の終わりを祝っているかのようだった。
友人が手を振っているのが見えた。彼女の隣には、何人かの知り合いもいる。私は彼女たちの元へと向かい、挨拶を交わした。
久しぶりに会う友人たちとの会話は弾んだが、私の心はどこか上の空だった。視線が、自然と会場を彷徨う。ついダリウスを探してしまう。
兄が舞踏会に出席すると話していたから、きっとダリウスも一緒に来ているとは思うが――。
すぐに兄の姿を見つけた。いつものように女性たちに囲まれて、笑顔で会話をしている。兄は昔から人気があるらしい。話し上手で、リップサービスも得意な兄は、女性たちの扱いが上手い。
歳の離れた妹にまで、お世辞を言ってくるくらいだから、他の女性たちには尚更だろう。
兄の周りには、常に笑い声が絶えない。女性たちが兄の腕に触れ、兄が微笑みながら何かを囁く。親しげな雰囲気が遠目から見てもわかった。
少し横に視線を動かすと、ダリウスの姿が目に入った。心臓が、大きく跳ねる。
彼もまたやはり女性たちに囲まれていた。黒い礼服に身を包んだ姿は、圧倒的に目を引いていた。鍛え抜かれた身体のラインが、礼服越しにも分かる。
濃紺の髪が、シャンデリアの光を反射して艶やかに輝いていた。整った顔立ち。精悍な顎のライン。灰青色の瞳は、光の角度によって鋼色に見える。無表情のまま、女性たちの質問に答えているようだった。
ダリウスは口下手で、寡黙で、あまり笑わないことで有名だった。
女性たちからの噂は、「何を考えているか分からない小難しい人」というものだった。顔立ちは整っていて精悍で、格好いい。
だから女性たちにモテるのだが、声がかけにくいらしい。兄と一緒にいることが多かったから、私は友人の姉たちからよく質問された。「どんな人なの? 好きな人はいるのかしら?」と。
幼い私が、ダリウスの恋愛事情など知る由もなく、苦笑するだけだった。
でも今は兄よりも、群がる女性の数が多い気がする。相変わらず無表情だが、女性たちの質問にはきちんと答えて会話が成り立っているように見えた。
時折、僅かに頷く姿が見える。戦での活躍が、今の彼の人気を後押ししているのだろう。
前線で怯まずに指揮を執り、国を勝利へと導いた男として、彼は有名になっていた。女性たちの憧れの的になるのも、当然だ。
魅惑的な女性たちに囲まれているダリウスを見ていると、胸が苦しくなった。息が詰まるような感覚が私を襲う。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。彼の周りにいる女性たちは、どの女性も美しく、洗練されていた。上流貴族の令嬢たちだ。
(私のような下流伯爵家の娘では太刀打ちできない)
豪華なドレスを纏い、宝石を身につけ、優雅な立ち振る舞いをしている。私などよりも、ずっと彼に相応しいお相手だろう。
ダリウスの隣に立つ女性が、彼の腕に触れた。親しげに微笑みながら、何かを話している。ダリウスは無表情のまま、彼女の方を向いた。何かを答えているようだった。女性が楽しそうに笑う。
胸が、締め付けられた。
友人が何かを話しかけてきたが、言葉が耳に入ってこなかった。笑顔で頷いたが、何を言われたのか理解していない。視線は、ダリウスに釘付けだった。
また別の女性が、ダリウスに話しかける。彼は丁寧に応対している。女性たちは、彼との会話を楽しんでいるようだった。
ダリウスは、あの女性たちの誰かに、あの日と同じような言葉を言うのだろうか。「どうか俺と一生を添い遂げてください」と、誰かの手にキスをするのだろうか。想像するだけで、胸が締め付けられる。
もう……見ているのが辛い。
見たくないのなら、視界に入れなければいいとはわかっているが――意図しなくても視線がダリウスにいってしまうのだ。
ここにいてもただ苦しいだけ。
友人に具合が悪いと告げて、私は会場を出た。冷たい夜の空気が、火照った顔を冷やしてくれる。馬車に乗り込み、屋敷へと戻った。
◇◇◇
屋敷に戻っても、どうしてか自分の部屋に入る気になれなかった。
ドレスを着たまま、私は中庭へ向かう。少し散歩して、気分を晴らそう。身体が疲れれば、もしかしたら部屋に戻りたいという気持ちが芽生えるかもしれない。
夜の庭は静かで、月明かりだけが庭を照らしている。木々の影が、地面に長く伸びていた。薔薇の香りが、かすかに漂ってくる。冷たい風が頬を撫で、ドレスの裾を揺らした。
ベンチに座ると、全身の力が抜けていった。膝に手を置き、顔を伏せる。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
『憎きライバルに勝ちました。姫、どうか俺と一生を添い遂げてください』
あの日の声が、脳裏に蘇ってきた。ダリウスの低い声。真剣な眼差し。手の甲に触れた、温かな唇の感触。
あの日から、ずっと——私は、ダリウスが好き。ごっこ遊びだとわかっていも、いつか本当に私を迎えに来てくれたらいいのにと心から願った。
「……ダリウス」
呟いた途端、涙が溢れた。堪えていたものが、一気に溢れ出してくる。声を出して泣きたかったが、使用人に聞かれるかもしれないと思うと声は出せなかた。
唇を噛み、必死で声を殺した。涙だけが、止まらずに流れ続ける。頬を伝い、顎を伝い、首筋へと流れていく。冷たい涙が、肌を濡らしていった。
ダリウスは、会場にいた女性の誰かに、いつかは結婚をするのだろう。想像するだけで、胸が締め付けられる。
(できるなら、私と結婚してほしい)
あの誓いは、幼い私を喜ばせるための、ごっこ遊びの一コマ。わかっているのに――。
なんだか身体が重く、だるくてベンチに横になった。
冷たい石の感触が、頬に伝わってくる。胸の苦しさを抱えたまま、私は目を閉じた。
月明かりが瞼越しに感じられる。風が木々を揺らし、葉擦れの音が聞こえてくる。薔薇の香りに包まれながら、私は深く息を吐いた。
「——アリア」
遠くから、名前を呼ばれているような気がした。誰かが、私を呼んでいる。低い声。聞き覚えのある声だ。
夢を見ているのだろうか。ダリウスの声に似ている。重い瞼を持ち上げると、視界いっぱいにダリウスの顔があった。
「——え?」
心臓が、激しく跳ねた。
夢を見ているのだろうか。ダリウスが、至近距離にいる。灰青色の瞳が、じっと私を見つめていた。
(……夢?)
月明かりを反射した瞳は、鋼色に光っている。整った顔立ちだが、僅かに眉が寄せられていた。心配しているようだ。
「起きたか」
ダリウスの低い声が、耳に届いた。夢ではないようだ。
私は慌てて身体を起こそうとしたが、身体が冷えていて思うように動けなかった。手足に力が入らない。
ふわりと、何かが肩にかけられた。温かい布地。ダリウスの外套だった。
彼の匂いが、私を包み込んだ。森を思わせる深い香り。木の匂いに、わずかな石鹸の香りが混じっている。身体の奥が、じんわりと熱くなった。心臓が、早鐘を打ち始める。
「どうしてここに?」
私が問うと、ダリウスは無表情のまま答えた。
「具合が悪くなって退出したと聞いた」
彼は——心配で来てくれたのだろうか。大勢の女性たちとの会話を中断して、舞踏会を抜け出してきた。そう思うと、嬉しくて胸が熱くなった。
「こんなところで寝ていたら、余計具合が悪くなるだろ」
ダリウスは何の躊躇もなく、私を横抱きにした。
「あっ——」
身体が宙に浮く。彼の腕が、私の背中と膝の裏に回されている。
硬い胸板に、顔が押し付けられた。心臓の音が聞こえる。規則正しく、力強い鼓動。私の乱れた心臓とは対照的に、落ち着いた音だった。
彼の体温が、冷えた身体に伝わってくる。
(温かい)
彼の腕の中は、どうしてこんなにも心地よいのだろう。
「寝室に連れていく」
ダリウスの声が、頭上から降ってきた。私は彼の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。
恥ずかしさと、嬉しさと、申し訳なさが、胸の中で渦巻いている。彼の外套に顔を埋めると、彼の匂いが鼻腔を満たした。この匂いを、私は一生忘れたくない。
外套から伝わる彼の体温が、冷えた身体を温めてくれる。彼の匂いに包まれて、私は目を閉じた。このまま、時間が止まってくれたら——いいのに。
「自分で歩けます、から」
ようやく、声を絞り出した。ダリウスは歩みを止めずに、私を見下ろした。
「部屋にたどり着けずに、庭先で気を失うくらい具合が良くないのだろ?」
心配するような口調だった。顔は相変わらず無表情だが、声には僅かな温かさがあった。私を気遣ってくれている。
「朝から具合が良くなかったのか? あいつに無理やり出席するように言われたのか?」
ダリウスが問う。私は首を横に振った。
「いいえ、朝は具合が悪くありませんでした」
「じゃあ、会場で変なことをされたのか? 君はずっと他の男から話しかけられていたから」
ダリウスの声が、少し低くなった気がした。
私は驚いて、彼を見上げた。私が他の男性に話しかけられていたところを、彼は見ていたのだろうか。
異性からずっと話しかけられていたのは、ダリウスの方だった。私は、話しかけられた記憶などほとんどない。友人たちと話していただけだ。
もしかしたら話しかけられていたかもしれないが、ダリウスばかり見ていたからよく覚えていない。
「変なこともされていません」
私が答えると、ダリウスはそれ以上何も聞いてこなかった。屋敷の中を進み、階段を上る。使用人たちが驚いた顔をしていたが、ダリウスは気にせず歩き続けた。
廊下を進み、私の部屋の前で立ち止まる。扉を開け、部屋の中へと入っていく。月明かりが窓から差し込み、部屋をほのかに照らしていた。
春の午後、エリオット伯爵家の中庭で剣の稽古をしていた。カレルと木剣を交え、基本の型を確認する。日差しは柔らかく、風が心地よく頬を撫でていく。「もう一本行くか」 カレルが木剣を構え直した。俺も構えを取る。互いに視線を交わし、間合いを測る。「お兄様、ダリウスお兄様!」 甲高い声が聞こえた。振り返ると、アリアが中庭に駆け込んできた。淡い金髪が風に揺れ、大きな淡緑色の瞳が輝いている。白いドレスの裾を翻し、息を切らしながら俺たちに近づいてくる。 九歳になったアリアはとても可愛い。心臓が、不規則に跳ねた。「お姫様ごっこしましょう!」 アリアが無邪気に笑う。俺とカレルを交互に見上げ、期待に満ちた瞳を向けてくる。「アリア、今は剣の稽古中なんだ」 カレルが苦笑しながら妹の頭を撫でた。アリアは頬を膨らませる。「いいじゃない。少しだけ」「仕方ないな」 カレルが俺を見た。俺は頷く。アリアの願いを断ることなど、できるはずがなかった。「それじゃあ、お姫様に結婚を誓うのは、勝った方よ!」 アリアが無邪気に提案した内容に俺の心臓が激しく打った。結婚を誓う。「妹のごっこ遊びに、そこまで本気になる必要はないだろう」 カレルが笑いながら言った。ごっこ遊び。子どもの戯れ。カレルにとっては、妹を喜ばせるための遊びでしかない。 だが俺は違う。 木剣を構え直した。視線をカレルに向ける。今日は負けられない。絶対に勝つ。アリアに誓いを立てる権利を、手に入れる。 いつもなら、ぎりぎりのところでカレルに勝利を譲っていた。友人の面子を潰さないように。兄として妹の前で格好をつけさせてやるために。俺が本気を出せば勝てる相手だと分かっていたが、それを表に出すことはなかった。 でも今日は違う。 カレルが剣を振るってくる。俺はそれを受け流し、反撃に転じる。速い。いつもより速い動き。カレルの目が見開かれた。「おい、ダリウス」 カレルが驚いた声を上げる。俺は答えない。ただ剣を振るい続ける。カレルの剣を弾き、隙を作る。 剣先が、カレルの首元に触れた。 勝った。「やったぁ! ダリウスお兄様が勝った!」 アリアの歓声が響く。俺は木剣を下ろし、膝をついた。アリアの前で、片膝をつく。 小さな手を取った。柔らかく、温かい手だった。華奢で、儚い。 手の甲に、唇を寄せた。「憎きライバルに
教会の扉が開く音がした。重厚な木の扉が、ゆっくりと左右に開いていく。中からオルガンの音色が聞こえてきた。荘厳で、美しい旋律。胸が高鳴り、心臓が激しく打ち始める。「緊張してるか?」 兄様が小声で聞いてきた。私の左腕に、兄様の右腕が添えられている。礼服姿の兄様は、いつもより凛々しく見えた。「――はい」 私は震える声で答えた。手が冷たく、膝が震えている。深呼吸をしても、緊張は解けなかった。「大丈夫。アリアは綺麗だ」 兄様が優しく微笑んだ。温かい眼差しが、私を包み込む。その笑顔に、少しだけ緊張が和らいだ。 バージンロードが、視界に広がった。真っ白な絨毯が、祭壇まで続いている。両脇には花が飾られ、甘い香りが漂っていた。参列者たちが座席に座り、私たちを見ている。 オルガンの音色が大きくなる。入場の合図だった。私は兄様と共に、一歩踏み出した。 白いウェディングドレスが揺れる。裾が床に触れ、レースが柔らかく広がる。胸元には小さな真珠が縫い付けられ、光を反射してきらきらと輝いていた。長いベールが背中から流れ、歩くたびに揺れる。 一歩、また一歩。ゆっくりと前に進む。参列者たちの視線が注がれているのを感じたが、私の目は祭壇だけを見ていた。 祭壇の前に、ダリウスが立っていた。 漆黒の礼服に身を包んだ姿は、圧倒的だった。濃紺の髪は丁寧に整えられ、鋭く整った横顔が浮かび上がる。胸には勲章がつけられ、侯爵としての威厳が漂っていた。 ダリウスの灰青色の瞳が、私を捉えていた。じっと、真っ直ぐに。私だけを見つめている。愛情が溢れている瞳。優しさと、喜びと、切なさが混ざり合った眼差し。 胸が熱くなった。涙が溢れそうになって、強く瞬きをする。 祭壇の前にたどり着いた。兄様が立ち止まり、私の手を取る。そして、ダリウスに手渡してくれた。「頼んだぞ」 兄様が小声で言った。ダリウスは頷き、私の手を握る。大きく温かい手。安心感が広がった。 兄様が席に戻り、私とダリウスだけが祭壇の前に残された。司祭が前に立ち、聖書を開く。「本日、ここに集いし皆様の前で、この二人は永遠の誓いを交わします」 司祭の声が、教会中に響いた。私は緊張で身体が強張っていたが、ダリウスの手が優しく握り返してくれる。「ダリウス・オルフェイン、あなたは、アリア・エリオットを妻とし、良き時も悪き時も、富める
朝日が眩しかった。窓から差し込む光が、目を刺すように感じられる。私は身体を起こし、ベッドから降りた。全身が痛い。昨夜、何度も激しく求められた痕が、身体のあちこちに残っていた。 ドレスに着替える。首元が広く開いていて、キスマークが隠しきれない。 ダリウスが寝室に入ってきた。整った身なりで、昨夜の激しさが嘘のように落ち着いた様子だった。「帰るのか」 低い声で聞いてくる。私は頷いた。「帰らないと、お兄様が心配します」 今まで、朝帰りをするのは兄様だった。舞踏会やパーティから帰らず、翌朝に上機嫌で戻ってくる。私はいつも、呆れながら出迎えていた。 今日は違う。私が朝帰りをする。初めての朝帰り――。 馬車が用意され、私たちは屋敷を出た。揺れる馬車の中で、ダリウスが私の手を握ってくれる。大きく温かい手。安心感が広がった。 私の屋敷に近づいてくると、胸が騒いだ。兄様に何と言えばいいのか。朝帰りを叱られるのは分かっている。「屋敷の前で大丈夫です」 私はダリウスに告げた。玄関まで一緒だと、兄様に見られてしまう。ダリウスは首を横に振った。「玄関ホールまで送る」 彼の声は決然としていた。「でも、兄様がいたら」「構わない」 ダリウスの灰青色の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。迷いのない瞳に私はドキリと胸が高鳴る。「もしかしたらお兄様も朝帰りでいないかもしれません」 兄様は昨夜の舞踏会で、綺麗な貴婦人と一緒だった。私よりも帰りが遅い可能性はある。 馬車が屋敷の前に止まった。御者が扉を開け、私は馬車から降りる。玄関に向かおうとして、足が止まった。 玄関前に、我が家の馬車が停まっていた。 心臓が冷たくなった。兄様が帰っている。今日に限って、早く帰ってきている。「まずい……かもしれない」 小さく呟いた。ダリウスが私の肩に手を置く。「大丈夫だ」 彼の声が、背中を押してくれる。私は深く息を吸い、玄関の扉に手をかけた。 扉を開けると、玄関ホールに兄様が立っていた。 腕を組み、仁王立ちしている。意外と髪は整っており、礼服姿のままだった。顔は怒りで紅潮し、眉間には深い皺が刻まれている。(ええ? もしかして昨日に限って真っ直ぐ帰ってきていたの?) しかも怒っている。すごく怒っている。「兄様、ただいま帰りました」 私は震える声で挨拶した。兄様はじっと私を
馬車が止まった。ダリウスの屋敷に到着したのだ。窓の外には、見慣れた石造りの壁と、立派な門が見える。 身体がぐったりとして、力が入らなかった。馬車の中で一度頂点を迎え、全身の力が抜けてしまっている。ダリウスの胸にもたれかかったまま、私は浅い息をついていた。 ダリウスが自分の外套を取り、私の身体にかけてくれた。乱れたドレスを隠すように、丁寧に外套で包み込んでくれる。彼の匂いがして、安心感が広がった。 御者が扉を開ける。ダリウスは私を横抱きにしたまま、馬車から降りた。外套に包まれた私を、しっかりと抱きしめている。「ダリウス様、お帰りなさいませ」 使用人たちが玄関に並んでいた。皆、驚いた顔をしている。侯爵様が女性を抱いて帰ってきたのだから、当然だった。 ダリウスは何も言わずに、屋敷の中に入っていった。階段を上り、廊下を進む。使用人たちが後ろで囁き合う声が聞こえたが、ダリウスは気にする様子もなかった。 寝室の扉を開け、中に入る。扉が閉まると、外の音が遮断された。静かな部屋。大きなベッドと、暖炉の火だけが灯る空間。 ダリウスが私をベッドに降ろした。柔らかい感触が背中に伝わり、天蓋が視界を覆う。ダリウスが私の上に覆いかぶさってきた。「ダリウス」「アリア」 彼の瞳が、熱を帯びていた。灰青色の瞳が、月明かりを受けて鋼色に見える。欲望と愛情が混ざり合った、熱い眼差し。 外套が脱がされた。次にドレスの紐が解かれ、布が肌から剥がされていく。冷たい空気が肌に触れ、鳥肌が立った。ダリウスの手が、私の肌を撫でる。肩から腕へ、腕から腰へ。大きく温かい手が、私の身体をゆっくりとなぞっていく。「綺麗だ」 ダリウスが囁いた。低く、甘い声。「今日、会ったときから、このドレスを俺が脱がすって決めてた」 頬が熱くなった。会ったときって――。「会ったときって、授与式の前」 私が言いかけると、ダリウスが頷いた。「ああ、侯爵になれば、アリアを自由に抱ける。妻にもできる」 彼の手が私の頬を撫でる。「あのときの約束が叶えられると、喜びで震えた」 あのときの約束。九歳の時の、ごっこ遊びでの誓い。 忘れられていたかと思ったが、ダリウスは覚えていてくれた? キスの雨が降ってきた。首筋に、鎖骨に、胸元に。ダリウスの唇が、私の身体のあちこちにキスを落としていく。熱く、甘いキス。
中庭は静かだった。噴水の水音と、風に揺れる木々の葉擦れの音だけが聞こえる。月明かりが石畳を照らし、庭園の花々に淡い光を落としていた。人気はなく、私たち二人だけの空間だった。 ダリウスが私の手を離し、振り返った。月光に照らされた彼の顔は、険しかった。さっき廊下でキスをした時、少しだけ緩んでいた表情が、また元の厳しさに戻っている。「お話とはなんでしょうか」 私から先に口を開いた。沈黙が怖かった。彼が何を言うのか、怖かった。ダリウスの灰青色の瞳が、じっと私を見つめている。「さっき、楽しそうに男たちと話していた」 ダリウスの声は低く、抑制が効いていなかった。怒りが滲んでいる。私は息を呑んだ。「アリアが他の男のところに行くのは、許さない」 一歩近づいてきた。私は後ずさりしたが、背中が壁に当たった。逃げ場がない。ダリウスの手が伸びてきて、私の肩を掴んだ。大きく、力強い手。逃がさないと言わんばかりに、しっかりと掴まれている。 壁に背中を押し付けられる形になった。ダリウスの大きな身体が、私を覆う。月明かりが遮られ、彼の影の中に私がいた。 ダリウスの手が、私の身体を撫で始めた。肩から腕へ。腕から腰へ。ドレスの上から、彼の手が私の身体をなぞっていく。熱が伝わってきて、肌が粟立った。「っ」 声が漏れそうになって、唇を噛んだ。ダリウスの手が腰に留まり、強く掴まれる。「アリアは、俺のものだ」 低く、獣じみた声だった。普段の落ち着いた声とは違う。抑えきれない感情が滲み出ている声。 俺のもの。 その言葉が、胸に響いた。嬉しかった。彼にそう言ってもらえることが、嬉しかった。彼に求められていることが、幸せだった。 でも。 彼の新しい人生を、邪魔しくはない。「ごめんなさい」 私は震える声で言った。ダリウスの手が止まり、彼の瞳が鋭く私を見た。「でも、立場をわきまえないといけないって感じたんです」 涙が溢れそうになるのを堪えながら、言葉を続けた。ダリウスの眉間の皺が深くなる。「立場ってなに?」 彼の声がさらに低くなった。不機嫌さが増している。ダリウスの手が再び動き出し、執拗に私の身体を撫でていく。肩、腕、腰、背中。触れられるたびに、身体が熱くなる。「侯爵様に、伯爵家の娘が交流するなんてできません」 私はダリウスの胸を押した。広く硬い胸板。筋肉が盛り上が
柱の影で息を整えていると、足音が近づいてきた。「アリア、すごく可愛かったよ」 兄様の声だった。振り返ると、兄様が笑顔で立っていた。上機嫌な様子で、グラスを片手に持っている。「まさかあいつが、最初に踊るのがお前だとは思わなかった」 兄様は驚いた様子で首を傾げた。私は慌てて笑顔を作った。涙が溢れそうになるのを必死で堪え、何でもないふりをする。「見知った顔がいたから、誘っただけじゃないかしら」 誤魔化すように言った。兄様は顎に手を当て、少し考え込む様子を見せた。「そうか? けっこう親密な関係に見えたけどなあ」 兄様がにやりと笑う。心臓が跳ねた。親密。兄様にそう見えていたのだろうか。顔が熱くなり、視線を逸らした。「あいつの手、こう、腰と尻の間の微妙なところに触れててイヤらしかったぞ」 兄様が手で位置を示しながら言う。顔が一気に熱くなった。確かに、ダリウスの手は通常よりも低い位置にあったのは確かだ。腰と臀部の境目あたりを、大きな手で掴まれていた。 それを兄様に見られていたのは恥ずかしい。「お兄様の脳内がおかしいです! ただのダンスですよ。イヤらしいだなんて……」 私は顔を真っ赤にして言い返した。兄様は笑いながら、肩をすくめる。「でもなあ、アリアは本当に可愛いから、変な男に声をかけられないように、もう一人の兄として牽制をかけてくれたのかなあ」 兄様が会場のダリウスの方を見て、微笑ましそうに呟いた。「あいつらしいなあ」 もう一人の兄として。 その言葉が、胸に突き刺さった。痛い。息が苦しくなる。「あいつの家、男ばっかりで妹がいないから、アリアのことは本当に可愛がってたんだよな」 兄様が懐かしそうに笑う。幼い頃の思い出を振り返るような、穏やかな笑顔だった。私は苦笑するしかできなかった。 綺麗な女性が兄様に声をかけてきた。豊かな金髪を編み上げた、妖艶な笑みを浮かべる貴婦人。兄様は私に軽く手を振ると、貴婦人の腰に手を回してその場を離れていった。 会場の隅で、兄様が貴婦人を抱き寄せる姿が見えた。人目も憚らず、キスをしている。貴婦人も嬉しそうに兄様の胸に顔を埋めていた。(やっぱり兄様は軽い人だ) 妻になる女性を本気で探す気があるのだろうか。 呆れながらも、少しだけ羨ましかった。堂々と愛情を示せる関係。隠す必要のない、正当な関係。私とダリウ







